第一次世界大戦の陸戦では、兵力数も必要ではあるが、それ以上に銃砲数・銃砲弾数がはるかに重要で、歩兵の突撃精神はいくら強固でも機関銃には絶対に勝てないことが明らかになりました。また、軍事力の優位性の維持には、歩兵突撃には銃砲の火力、火力には塹壕、塹壕には戦車、など、兵器のカイゼン・技術革新を進めることの重要性も明らかになりました。そして、軍事力の優位性の基盤として、なによりも工業化の進展度が重要であり、工業化の前提条件が成立していない国は、長期戦になれば敗北することも明らかになりました。(「第一次大戦の総括 3c 兵器と軍事技術のカイゼン」を参照ください。)
ここでは、日本陸軍はこの兵器のカイゼン・技術革新に関する教訓をどこまで活かそうとしたのか、また、何がその活用を阻む要因であったのか、を確認したいと思います。
● このページの内容 と ◎ このページのグラフ等
日露戦争後、日本陸軍は教訓の誤った定式化で、白兵主義に転換
実際には火力で勝ったのに、白兵主義に転換
まずは、第一次世界大戦直前の状況にまでさかのぼりたいと思います。日露戦争は、ドイツ式の火力重視で戦って勝利したのに、日露戦後の操典類の改訂では白兵主義が強調されました。山田朗 『軍備拡張の近代史』 からの要約です。
日露戦争は、火力重視の日本軍と、白兵主義のロシア軍の戦い
1880年代以降、メッケルらを招いてドイツ陸軍に戦略・戦術を学んできた日本陸軍は、日露戦争の開戦当初、火力主義の立場。一方、フランス式白兵主義とは、堅固な築城によって相手の火力をかわし、機を見て火力の支援によって相手に接近し、歩兵の白兵攻撃によって一挙に勝敗を決しようという思想で、ロシア軍はこの立場。歩兵の小銃火力と砲兵の支援射撃が、銃剣や刀による白兵攻撃に対して優越していることは、すでに西南戦争・日清戦争を通じて、旧武士階級出身の日本陸軍の職業軍人も認識。
日露戦後、日本陸軍は白兵主義に転換
日本陸軍の軍事思想は、日露戦争をへて、火力主義から白兵主義へ、歩兵中心主義すなわち砲兵軽視へと転換。日露戦争から火力主義の強化、砲兵の重視を学んだ欧米陸軍とはまったく正反対の総括。
その原因。
第一に、決定的な要因として、砲弾・小銃弾の欠乏により、火力主義が貫徹できなかったこと。
第二、砲兵運用の根本的誤り、平坦地の会戦にも要塞戦にも榴散弾を多用、旅順要塞戦での榴散弾による効果のない砲撃は、砲兵に対する不信感を決定的に。
第三、ロシア陸軍が、しばしば白兵戦を挑んできたこと。
日露戦中・戦後をとおして日本陸軍内では、貫徹できなかった火力主義への不信感、結果として成果を挙げた白兵攻撃への信頼。戦後、外国の軍事思想摂取の積極性は失われ、「皇国独特」の兵学、「日本式戦法」の確立が目指された。操典類の改訂は、1909~12年、『歩兵操典』 『野砲兵操典』 『輜重兵操典』 『騎兵操典』、従来のドイツ式火力主義は一挙に清算され、白兵主義の採用が強調された。
旅順要塞戦での砲撃の効果がなかったといっても、それは203高地を奪取する以前の話、結局は内地から移送した28サンチ榴弾砲が203高地に据え付けられて大活躍したのですから、本当は火力が勝利をもたらしたのです。
適切な要因分析を欠いていた、日露戦後の「白兵主義への転換」
日露戦後の白兵主義への転換は、上述の旅順要塞戦が示しているように、事実関係をきちんと押さえず、勝利の要因分析を適切に行わなかったことによって、生じてしまったように思われます。客観的な分析に基づくカイゼン的なものの見方を、当時の陸軍は出来ていなかった、と言わざるを得ないようです。
一番適切な総括は、
① 火力主義は現に有効
② しかし今の日本の生産力では銃砲弾不足は生じうるので、それを発生させない努力と工夫が必要
③ 現実に銃砲弾不足が生じたときは、白兵主義の組合せも已むを得ない
といったところではなかったでしょうか。
そうしていたなら、議論は、銃砲弾不足を生じさせないための現実的な方策、という方向に進み、さらに予算制約の中で日本の工業化の促進を図る方策、という議論にも進んでいた可能性が高かったと思われるのですが。印象論・情緒論に基づいて白兵主義に転換したことで、銃砲弾不足という課題が放置され、そのカイゼンのための検討がなされなくなってしまった、と言えるように思います。
もうひとつ非常に気になる点は、「外国の軍事思想摂取の積極性」が失われた、という点です。現在のビジネス社会でも、日本の技術は最先端で海外から学ぶ必要はないという類の暴言をはく人がたまにいますが、視野と選択肢を狭めるマイナス効果しかありません。外国から上手く吸収しながら最善のものを作り出す方式こそが、「古代以来の日本式」なのであって、外国に眼を向けないのは「引きこもり式」とでもいうべきものと思います。
日露戦後の誤った定式化の是正チャンスだった第一次世界大戦
第一次世界大戦での戦い方に関する陸軍幹部の見解
「4 日本の第一次世界大戦 4d 青島攻略戦」のページで確認しましたとおり、青島攻略戦は、出先軍とはいえ火力主義の青島ドイツ軍に対し、日本軍も徹底した火力主義を実践、火力と塹壕を上手く組み合わせた作戦で、最小限の人員損失で勝利するという、日本陸軍史上最も合理的な戦いでした。派遣軍の参謀長山梨少将はじめ当時の参謀本部の次長および部長全員がドイツ留学経験者であり、彼らは、実際に自分たちが留学して学んだドイツ火力主義を徹底的に実行した、と言えるようにと思われます。
この青島での実戦経過、そして欧州での実戦経過から、日本軍は、日露戦争後の誤った「白兵主義」の定式を是正する機会が与えられたと言えます。その機会を活かすことができたのかどうか、陸軍内ではどのような議論があったのかを確認したいと思います。前原透 『日本陸軍用兵思想史』 には、当時の陸軍内の代表的な議論が引用されています。以下は、その要約です。当時の文章に対しては、適宜、かな書き・送り仮名の追加などを行っています。
大正5(1916)年、田中義一参謀次長の見解
まずは、第一次世界大戦の開戦後2年ほどの時点の参謀総長見解です。
戦略、戦術上の原則には大なる変化なし、ただ兵器の進歩、兵力の増大、補助材料応用の増加等により局部において多少の変化が生じたに過ぎない。我国情および国民性は今次欧州戦のごとき長期にわたる作戦を不利とするやまた明らかなり。吾人は寡兵をもって衆敵に対し、しかも短時間にこれを撃砕するを要す。これがため、国軍の上下を一貫する攻撃精神の十分なる徹底を図らざるべからず。
第一次世界大戦では、開戦後まもなくから、機関銃への歩兵突撃は単なる集団自殺であることが判明していたのにかかわらず、1916年に参謀次長が攻撃精神の徹底などというコメントをしたことには驚かされます。
大正7(1918)年、津野一輔少将の所感
次は、大戦末期まで進んだ時点での観察結果です。
現戦役は、軍事界に諸般の進歩発達を斉せしこと実に驚嘆に値する。
● 歩兵の兵器、機関銃はこれを各大隊に配属して著しくその数を増加
● 手榴弾は歩兵の総員これを携行、手榴弾兵を設けて突撃部隊に配属
● この両者の威力と価値はますます増大し、今や歩兵用兵器中最も重要なる位置
● また軽砲、軽迫撃砲は敵機関銃撲滅のため陣地攻撃に欠くべからざる兵器として重用。
今日進歩せる各種火器の威力は絶対にこれを承認せざるべからず。
これら時世の進運に鑑みず、現戦役の教訓を顧みず、徒に精神力を信頼して火器の威力を軽視し、あるいはその装備をゆるがせにするものあらんか、必ずや最後の死命を制すべき貴重なる肉弾を、事前において、かつ最も不経済的に消費し、ついに惨憺たる結果をもって報いられるべきこと火を賭けるよりもあきらかなり。
機関銃、手榴弾、軽迫撃砲の重要性を正しく認識し、精神力主義を強く戒めたコメントとなっています。
大正9(1920)年、渡辺錠太郎少将による報告
最後は、第一次大戦の戦後、1919年4月~20年4月の1年間ドイツに駐在し、歴戦のドイツ軍将官から戦闘の状況を聴取・収集した報告です。
● 戦争の末期における歩兵の戦法は、全く開戦当初におけるものと異なり、今や戦前の戦術はほとんどその痕跡を留めざるに至れり。
● 歩兵のごとき、現今その主兵器は機関銃となり、従来の小銃は単に補助兵器となるに過ぎざるに至れり。
● その他、拳銃、手榴弾、歩兵砲等は歩兵必備の武器となれり。
● 今や歩兵は砲兵と協同することなく単独戦闘を遂行し能わざるに至れり。
● 兵器効力の非常に進歩せる結果、防御の正面抵抗力の増大著しく、攻撃は敵の意表に出て奇襲的に優勢なる火力をもって防者を圧倒するにあらずんば、奏功ほとんど望む能わざるに至れり。(以下略)
ドイツ軍将官からの聞き取りに基づいているだけに、第一次世界大戦中に起こった変化がさらに具体的に語られています。大東亜・太平洋戦争で日本の歩兵の大多数は単発の歩兵銃で戦ったわけですが、その開戦の20年も前から、世界の趨勢は、歩兵の主兵器は機関銃、小銃は単に補助兵器と知られていたことが分かります。
最初の田中義一参謀次長の大戦中期時点のいわば公式見解はともかく、津野一輔少将の所感は、事実を客観的に把握していたと言えます。また、渡辺錠太郎少将がドイツ駐在中に、ドイツ軍将官から聞き取りを行って報告書を作成したことからは、日本陸軍として、事実把握を適切に行おうと努力していたこと、また渡辺少将は、第一次世界大戦で生じた変化を適切に理解して、それをできるだけ平易に報告しようとしていたことが良く分かります。渡辺少将の観察は読んでいて非常に面白く価値がありますが、引用は一部に留めておきます。
なお、このように外国から上手く吸収しながら最善のものを作り出す「本来の日本式」をめざした渡辺錠太郎が、後に二・二六事件で、皇道派という「穴ごもり式」に凝り固まった青年将校らに暗殺されてしまったことは、誠に残念なことであった、と思います。
新しい状況に対応しようと、多少の努力は行った日本陸軍
欧州での兵器・戦術の変化を見た日本陸軍は、その変化にそれなりに対応しようとはしたものの、限界もあったようです。再び、前原透 『日本陸軍用兵思想史』 からの要約です。
大正10(1921)年 臨時軍事調査委員報告、白兵主義は時代遅れ
大正10〔1921〕年5月、臨時軍事調査委員会が欧州大戦の戦闘様相を総括した 『欧州戦ノ経験ニ基ク戦術ノ趨勢』 という文書。渡辺少将の報告もこれに盛り込まれ、「総説」の冒頭で白兵主義に対し厳しい言葉で時代遅れのものとして断じている。
しかし、具体的な装備改革は容易には進展せず
この 『趨勢』 にあらわれた戦術的な「攻防」の諸観察には、大筋として各方面に異存はなかったもののようであるが、その 『趨勢』 に応じての具体的な戦闘部隊の編成装備を決定しこれを整備するとなると、国家の財政とからみ容易には進展しないものであった。
大正12(1923)年 『歩兵操典草案』、戦闘群戦法を採用
大正12〔1923〕年1月、再度 『歩兵操典草案』 。山梨軍縮(約5個師団相当の人員、6万2千5百人、馬、1万3千4百頭の削減)の時期で、その浮いた予算で機関銃、重砲、無線器材を大幅に増加、歩兵大隊の各歩兵中隊(4個)の各小隊(3個)に軽機関銃分隊を設け、大隊に機関銃隊が設けられる編成での 『歩兵操典草案』。前年、十一年式機関銃、平射歩兵砲、曲射歩兵砲等が制式化され、戦法の上でも疎開戦闘方式、いわゆる戦闘群戦法に準ずる方式が採用されている。しかし、渡辺少将の報告で指摘・提唱したような形で操典が改訂されているものではない。散兵間隔は依然〔6歩ではなく〕4歩であり、突撃、戦闘射撃指揮の単位は〔分隊長ではなく〕小隊長であった
状況変化に対してはそれなりの認識はしていたものの、いざ対策となると、経済発展がまだ十分ではない国家の予算制約という重大課題にどう対応するか、という問題が生じたわけです。
大戦後不況から軍縮優先に
装備改革の必要性は明らかでしたが、「5a 戦争より非戦が得」のページで確認しました通り、1920年からは戦後恐慌に陥って、厳しい財政状況から、軍縮が優先されることになりました。
以下は、戸部良一『逆説の軍隊(日本の近代9)』 からの要約です。
日本陸軍の装備の遅れは、議会でも問題に
第一次世界大戦中に列国が新兵器を開発し総力戦を戦っている間に、日本陸軍は遅れをとってしまった。政治家も軍備近代化を唱え、1918(大正7)年、議会では、航空機の拡充や火薬の改良などの軍備の改善・拡充を要望する動議が満場一致で可決。
しかし財源がなかった
問題は財源。陸軍は通常軍事費に加えてシベリア出兵の経費、海軍は八・八艦隊の予算化に成功。軍事費は、1918(大正8)年度には国家歳出(一般会計予算)の45%、21年度には50%に届きそうに。
しかし戦後不況。議会や世論は、財源に見合った経済的軍備、つまりは軍縮を要求。原内閣は海軍軍縮に踏み切り、ワシントン会議に全権団。並行して陸軍の軍縮を要求する声も強まる。
軍縮建議案は圧倒的多数で可決、外的脅威もなかった
ワシントン会議〔1921年11月~22年2月〕が始まると、陸軍軍縮への要求は俄然勢い。議会では、在営期間短縮と不要諸機関整理による経費節減を求める軍縮建議案が、圧倒的多数で可決された。
この時期はロシアの脅威が少なくとも一時的に大幅に軽減、海軍軍縮の成功でアメリカとの衝突の可能性も当面ありえず、日本に直接大きな脅威を与える国は見あたらなかった。
1922(大正11)年、山梨軍縮の実施
ついに1922年、加藤友三郎内閣の陸相山梨半造は軍縮に踏み切り、翌年にも小規模の軍縮を実施。この2回の山梨軍縮は、約6万人の将兵、1万3000頭の馬を削減。
近代化という点では、歩兵連隊に歩兵砲隊を編成し飛行大隊を拡充した程度。重点は師団数を減らさないこと。師団数を維持すれば、状況が好転したときに再び人員を元に戻すことが可能。戦時になった場合も、既設師団を戦時編成に移行させることは、新たに師団を編成するよりもずっと容易。
日本陸軍の装備の遅れは認識されていたこと、ロシアの脅威も軽減して外的脅威も減じていたこと、そうした中で日本陸軍も軍縮に向かった、という流れであったことが分かります。当時は、なかなか健全な議論をしていた、と言えるように思われますがいかがでしょうか。
軍縮下の近代化 - 問題は陸軍内部に
陸軍自身の失敗 - シベリア出兵に巨費で、装備近代化の原資なし
問題は陸軍自身にありました。以下は、当時の日本陸軍の装備の遅れについて、伊藤正徳 『軍閥興亡史』 からの要約です。
英仏に出ていた日本陸軍将校は、シベリア出兵打ち切り論
第一次大戦中における各種武器の飛躍的進歩とこれにともなう戦術革命とは、日本の陸軍を、はるか後方に置き去りにしてしまった。当時、筆者〔=伊藤正徳〕が英仏において知り合ったすべての陸軍将校は、例外なく、西伯利出兵を打ち切り、その軍費を以て至急に近代化しなければ、日本の陸軍は三流、四流の弱体に陥落することを浩嘆していた。
日本陸軍は、やる必要がなかったシベリア出兵に巨費を注ぎ込むも目的を果たせず失敗、他方では、やる必要があった装備の近代化ができないという最悪の結果を招いてしまったわけです。シベリアに大規模出兵など行わず、その費用を積極的に装備近代化に注ぎ込んでいたなら、と思わざるを得ません。
陸軍内部には、近代化=機器依存は敗北主義という「反近代化論」も強かった
兵備近代化の原資がなかっただけでなく、陸軍内部には、精神主義に凝り固まった反近代化論の主張も強かったようです。以下は、葛原和三 「帝国陸軍の第一次大戦史研究」からの要約です。
現地を見た砲兵将校は改革論者
小林順一郎中佐は、フランス出征軍に従軍するなど延べ十年にわたり仏陸軍の近代化の過程を直接体験。帰国後の大正12(1923)年、「列国同様、近代戦に応じる戦法及び兵力、編成装備採らない限り、国軍はたちまち落伍するであろう」と痛烈に断じた。小林の建言は受け容れられず、大正13年2月、ついに軍職を退いた。
精神主義からの、改革意見への反発・否定
当時の国力、情勢下で現実の問題として根本的な改革は困難であり、部内多数意見が賛同するには至らなかった。のみならず、精神的要素の軽視、敗戦主義と称され、物力に偏した考え方であり、軍の士気を低下させるといった反発が起こった。
当時、第15師団長であった田中国重中将は、「我が陸軍部内および国民に小林順一郎式の亜流を学ばんとする者輩出するにおいては、我が陸軍に亀裂を生じ、従来の精兵主義は一転して器械万能となり、我が陸軍の精華を毀くに至るべし」とし、このような論調を排斥すべきだとした。
こんなことを言う陸軍中将は、大戦中に西部戦線の連合軍の前線支援に派遣しておけば、その後の日本陸軍も健全性が保たれたのではないか、と思うのですが。
欧州戦を「特異な現象」とみなす見方も存在
この葛原論文はさらに、陸軍内に、欧州戦を「特異な現象」とみなす見方があったことも指摘しています。再び、同論文からの要約です。
臨時軍事調査委員は、欧州戦は陣地戦の「特異な現象」論
臨時軍事調査委員の戦術に関する研究成果は、大正11(1922)年の「欧州戦ノ経験ニ基ク戦術ノ趨勢」において、これまでの教訓を総括する姿勢。「欧州戦の実験は、機械威力に異常の進歩を示し、これを開戦当初のものに比すれば実に隔世の感ありとも、これ長日月の陣地戦より生まれたる特異の現象なるがゆえに、直ちにその全般を是認せしむるとするは一大過失たるを失わず・・」
日本には残念ながら金がないから、欧州大戦中に進化した軍事技術の全てに対応することは困難である、そこで、新技術には選択的に対応して、費用効率の良いやり方を工夫する必要がある、などと総括するのであれば、まことに適切と思います。
そうではなく、「長日月の陣地線より生まれたる特異な現象」だとして、変化への対応の必要性を否定してしまっています。塹壕戦は、日露戦争でも青島攻略戦でも、現に行われているのに関わらず、です。
たとえ西部戦線の塹壕戦は特異な現象であって、東アジアでは普通は起らない、という主張を認めるとしても、第一次世界大戦の結果、現に「機械威力」は進歩してしまったのですから、その進歩した「機械威力」は、東アジアの塹壕戦以外の戦闘でも、使われないはずがありません。
「特異な現象」だから、その「全般を是認」するのは「一大過失」である、というのは、とにかく、世界の趨勢の変化に対応するために金を使わないようにする、近代化しないことを原則的に正当化する、その結論にむりやり導くための主張、と思わざるを得ません。カイゼンの必要な状況の認識と、そのための努力を、真っ向から否定する主張になっています。
日本陸軍は、明治の建軍以来、第一次世界大戦の初期までは、強いカイゼン意欲をもって、世界の軍事技術の進歩に対応して来ました。それゆえに青島攻略戦は、日本陸軍史上最も優れた戦い方となりました。しかし、第一次世界大戦後の戦間期に、日本陸軍は、カイゼンの必要性と意欲を否定する組織に転じてしまったようです。早くも第一次世界大戦期をピークに、日本陸軍は劣化を始めた、と言えるように思われます。
軍縮下の近代化をめぐる陸軍の派閥対立と、現状維持派が生み出した害悪
軍縮と近代化を両立しようとした、1925(大正14)年の「宇垣軍縮」
軍縮と近代化の両立、という合理的な目的を指向したのが、世に言う「宇垣軍縮」、実質的には「宇垣軍縮=近代化」であったようです。再び、戸部良一 『逆説の軍隊』からの要約です。
宇垣軍縮=近代化
政府内外の軍縮要求に応えるかたちで1925年に陸相宇垣一成によって実施に移されたのが、4個師団削減を内容とする軍縮。宇垣軍縮は、4個師団およびその他の機関の廃止によってういた経費のほとんどを、軍備の近代化に回したことに特色。人員3万4000人、馬6000頭が削減されたかわりに、戦車隊、飛行連隊、高射砲連隊、通信学校、自動車学校などが新設。
「宇垣軍縮=近代化」の内容について、以下は、前掲・山田朗 『軍備拡張の近代史』からの補足です。
宇垣軍縮=近代化の限界
現実には、宇垣軍縮を機に軍の機械化・近代化が大いに進展したわけではない。兵器・装備のある程度の更新を行ったもの、といった方が実態に近い。
● 軍縮後も1個師団あたりの砲兵密度(師団砲兵の野砲・山砲の数)は、日露戦争当時よりも低下、しかも依然として安上がりの軽砲主義。
● 第一次世界大戦は、まさに砲兵が戦場の主役。しかし、日露戦争以来の砲兵軽視の傾向は変わらず。
● 戦車、1926(大正15)年に独立1個中隊が設置、28(昭和3)年まではまったく拡大されず、戦車の国内生産数は、32(昭和7)年に至っても年間20両。
● 航空隊も、28年にいたるも軍縮増設時の6個飛行大隊のまま。
近代化を行ったと言っても、残念ながら、世界のレベルに肩を並べるものではなかったようです。近代化が不徹底であったとしたら、その原因を、人員数削減の不徹底に求めるのが適切のように思われます。人員をもっと削減していれば、兵器に回せる資金も増加していた訳で、いざというときに、極東で列強の出先軍と戦って勝てる日本陸軍が作れていた、と言えるように思います。
宇垣軍縮反対派が主張した短期決戦論
軍縮=近代化を巡って、この時期の陸軍には大きな対立があったことは、各書に指摘されています。再び、戸部良一 『逆説の軍隊』 からの要約です。
国防方針に表れた「短期決戦論」
ワシントン会議後の1923(大正12)年、国防方針は改訂され、総力戦的発想が後退し、短期決戦が強調されるようになる。欧米諸国に比べて国防資源が乏しく工業水準も劣る日本にとって、列国と軍備の近代化を競うことには意味はない。むしろ日本は、開戦当初に敵に大打撃を与えるため、精強な部隊を多数常備しておくことが必要である。山梨軍縮は、短期決戦だけを前提とし、できるだけ多数の常備兵力(常設師団)を保持するという国防方針第二次改訂の趣旨につながっていた。
宇垣軍縮は、近代化が目的であった
宇垣の目的が、短期戦だけではなく、長期戦となりかねない総力戦をにらんでの軍備の近代化にあったことは明らかである。予算増額が当面望みえないとすれば、師団削減によって経費を自ら捻り出すよりほかなかった。
宇垣軍縮=近代化に対する、軍内部からの抵抗
〔山梨軍縮と合わせ〕3度の軍縮の結果、日本陸軍は平時戦力の約3分の1を削減。それほど大きな軍縮であったから、軍内部から抵抗を招くことは避けられなかった。宇垣案は、陸軍の軍事参事官会議(陸相、参謀総長、教育総監のほかに、ポストをもたない長老の現役大将数人によって構成される諮問会議)で、5対4の僅差で承認された。それだけ上層部で抵抗が強かった。その後まもなく、宇垣は反対していた軍事参事官のうち3人の大将を予備役に編入した。
師団数の維持を正当化するための短期決戦論派の主張
短期決戦を主張する反宇垣派は、アメリカおよびソ連と結んだ中国と戦うことを想定していたようである。中国だけが相手ならば、短期決戦を前提とする限り、大きな兵力を平時から常備しておく必要があるかどうか疑問。反宇垣派が中国大陸で中米ソ3国と戦うことを想定したのは、そのようにでも想定しなければ、21個師団体制を正当化できなかったからではないだろうか。
短期決戦で片付くためには、局地戦にとどまる必要がありますが、それは中国が米ソとは組まない状況での決着の場合であり、大きな兵力を必要とはしません。中国が米ソと組んでしまったら、長期戦化する可能性が高くなりますし、米ソの優秀な火力への対抗が必要となるので、近代化は必須となります。
短期決戦派は、とにかく師団数維持が目的であったので、それを正当化するために、矛盾した主張を行っていた、とみてよいのではないでしょうか。
陸軍内部の争いは、「近代化路線派」対「現状維持派」の抗争
もう一つ、再び、山田朗『軍備拡張の近代史』からの要約です。
「近代化路線派」対「現状維持派」
陸軍部内の路線対立は、従来からの出身地域にもとづく派閥抗争と重なりあって展開したので、一層激しいものに。一言でまとめれば、近代化路線派と現状維持派の対立。
近代化路線派は、宇垣一成を頂点とする省部中枢の旧長州閥系軍政家と日露戦後形成されつつあった永田鉄山ら―実戦経験をほとんどもたない―陸軍大学出のエリート幕僚たち。「近代化」の度合いについては、平時の少数精鋭・戦時の大動員、ある程度の機械化という点で一致しているのみ。世界の趨勢への一定の追随を考慮していた。
これに対し現状維持派は、常時多兵・速戦即決・白兵突撃万能を説く極端な保守派。人脈的には上原勇作・福田雅太郎ら旧薩摩閥系の作戦家を糾合しつつ、長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍の軍人や参謀本部第二部(情報)・隊付下級将校などを地盤として侮りがたい影響力。
現状維持派は、軍縮による首切りに動揺した下級将校層の不満を利用して、宇垣一成らの中枢部批判を展開、のちの出先軍における「下剋上」の火種をまき散らし、その極端な白兵主義思想は、長く陸軍の作戦思想に多大な影響。
現状維持派の路線は、昭和前期に至って皇道派に引き継がれたようです。
山梨軍縮では、山梨が現状維持派に妥協
黒野耐 『帝国陸軍の<改革と抵抗>』 は、そもそも山梨軍縮時点で、「山梨は、現状維持派が主流を占める参謀本部と妥協して、短期決戦思想を前提とした常備師団数を維持しながら軍備整理を行った」と評しています。
宇垣一成らの近代化路線派は、日本全体の中での日本陸軍、また世界の中での日本陸軍、というマクロな視点を持っていて、第一次世界大戦の教訓をそれなりに学び、予算制約の中で近代的な軍隊への変革を目指す合理性を一応持っていた、と言えるように思います。それに対し、上原勇作らの短期決戦論・現状維持派は、日本陸軍内の派閥争いに勝つことしか頭になく、日本の財政状況も世界の軍備の趨勢も、全く無視していた、と言えるように思います。
第一次世界大戦の経験に全く反した短期決戦論・現状維持派
第一次大戦の教訓を学ぶ気がなかった現状維持派
第一次世界大戦での実際の経験からすれば、上原勇作らの短期決戦・現状維持論はあまりにも無理があった、と言わざるを得ないように思います。
第一に、強固な攻撃精神の大量の歩兵も、機関銃の前には全く無力で、白兵突撃は自殺行為に過ぎないことは、大戦で明確になっていました。もしも中国軍がアメリカやソ連から多少でも最新の火力兵器の援助を受けられたなら、日本が短期決戦を挑んでも、逆に敗北させられてしまう可能性があることは明白でした。昭和前期の戦争末期の中国戦線で、それが現実化しました。
第二に、短期的にいくら勝利が得られても、相手が戦う気を持ち続けていれば戦争は終わらないことも、この大戦で明確になっていました。そして長期戦になると、もともと国力が大きい側、あるいは国際支援を得やすく経済封鎖をされにくい側が最終的に勝利をおさめた、という現実がありました。
欧州では大戦開戦直後からドイツ側の軍事的優勢が明白でしたが、大戦は短期間では終了しませんでした。優勢なドイツの国内は、優勢であるがゆえにさらに多くを望むようになり、他方フランスやイギリスは劣勢でも継戦意欲が衰えず、早期の講和は成立しませんでした。それどころか、連合国はアメリカからの強力な支援も得られたため、大戦末期まで軍事的優勢を誇ったドイツが結局敗北する、という事態を招いてしまいました。
すなわち短期決戦論は、第一次世界大戦での実経験に反した、主観的な願望に過ぎない主張でした。圧倒的に勝っていても相手が引かずに戦争が継続し、結局負けたという状況は、昭和前期の日中戦争や太平洋戦争で、再び現実化しました。
なお、上原勇作について、松下芳男 『日本軍閥興亡史』 は、「かれは工兵科のまれに見る逸材であって、明治年間における工兵技術の発達の上に、かれの残した功績は大きい」としながらも、「一方かれは日本将校の最も悪い面を、最も多量に、最も露骨にもっていた人物である。それは、絶対服従を強いる軍隊の上下の規律を、無法無理に濫用したことである」と評し、昭和前期の日本軍の悪しき体質をつくった原因者の一人に挙げています。
短期決戦論・現状維持派は、反リストラ正当化の内向き主張
短期決戦論・現状維持派が明らかに非現実的な主張を行ったのは、とにかく宇垣一成らの近代化路線派に抵抗する目的であったため、と考えれば、理解できなくもありません。
リストラによって近代化の原資を作りだそうとする近代化路線派への反発で、リストラによる人員削減への反対を無理やりにでも正当化しようとして、無理を承知で短期決戦論を主張した、ということであったと考えられます。
現にリストラが進行していく状況であったので、反リストラを掲げれば、組織内からの支持を集めるのは容易です。首を切られたり、意に沿わぬ配置転換をさせられたり、出世の機会を狭めらたりする側と、そうした身内に同情する人からは、その主張が非現実的・非論理的と分かっていても、心情的に容易に支持を得られます。
昭和戦後の高度成長期の国鉄や郵政での合理化反対の組合運動の主張に類似の話であって、倒産の恐れのない親方日の丸組織でなければ成り立たない話であった、と言えるように思います。
実際のところは、国鉄が良い例で、民営化によるJRへの転換というリストラ策を実施した結果、企業体としての業績も乗客へのサービスもどちらも大いにカイゼンし、時代の変化への中長期的な対応が果たされました。
他方、業績の低迷でリストラの必要性を認識しながら、リストラのもつ短期的な負の影響を気にし過ぎて抜本的なリストラに踏み込めず、結果として長期的な業績低迷に陥っている企業も少なくないと思われます。反リストラは、本質的に反カイゼンになってしまうため、と思われます。このときの日本陸軍が、上原らを予備役に編入して、短期決戦論・現状維持派に力を持たせず、近代化路線でのカイゼン策を徹底していたなら、昭和前期の大失策は避けられていたのではなかろうか、と思うのですが、いかがでしょうか。
近代化を不徹底にした近代化路線派の問題点
宇垣近代化の不徹底は、宇垣自身の個性にも原因あり
宇垣軍縮が不徹底に終わったことについて、以下は、上掲の黒野耐 『帝国陸軍の<改革と抵抗>』 の論評を要約したものです。
宇垣改革は不徹底に終わった
宇垣が断行した軍制改革は、時代の趨勢に即応した方向性は間違っていなかった。常備軍の近代化は国防充実費の削減と繰り延べにより、飛行機、戦車、高射砲などの近代装備を一部導入しただけの中途半端なもの。全体としては、近代化とは程遠いものだった。
宇垣はリーダーとしての資質に問題があり、ビジョンの共有化ができなかった
国家総動員体制の確立と陸軍の近代化には、国家戦略、国防像、改革ビジョンを政府・与党首脳と共有する必要があった。宇垣は、それらを共有するための努力を怠った。自分が総理になってから実行しようとする野心と、自己能力に対する過信、傲慢といった強烈な個性が原因。
宇垣の性格・人柄からは、リーダーとしての資質に限界。案の定、昭和12年1月、宇垣に組閣の大命が降ったとき、陸軍にそっぽを向かれて大命拝辞に追い込まれた。宇垣の有能ではあるが強烈な個性と、彼をとりまく人的構成の悪さが、改革に失敗した最大の原因であったのではなかろうか。
宇垣一成は、発想は優れていても、リーダーシップに欠けていたため、改革の実行に課題を生じたようです。誠に残念なことでした。
宇垣近代化の不徹底が、昭和前期の陸軍の大失敗につながった
大正末から昭和前期にかけての日本陸軍の最大の不幸は、宇垣らの近代化路線を徹底できなかったことにあった、と言えるように思います。この結果、日本陸軍の装備は、世界に遅れたままとなりました。
それにもかかわらず、昭和前期には、世界最大の経済強国で生産・補給・カイゼン力にも優れた米軍に戦いを挑んで、当然の結果として大敗戦をしてしまうという、大失策を犯しました。日本陸軍の現状を世界の主要国の陸軍と客観的に対比して、適切なカイゼンに取り組む姿勢をもてなかったための不幸であった、と言えるように思います。
第一次世界大戦後は、国家として工業化の積極的促進によって日本経済を成長させることを優先課題に位置付け、軍はリストラを積極的に行って装備と組織を近代化していく、絶好の機会であった、と言えます。そうしていれば急がば回れで、工業化がより早く進展し国家の財政力も強化されて、結果として、火力や機動力も充実した高い軍事力を持った日本陸軍がより早く実現できていたであろう、と思われます。
残念ながら、日本陸軍は、将校仲間の首切り反対という内向きの心情が組織内に充満した結果、近代化路線にブレーキがかけられて徹底せず、そのせっかくの機会を活かせなかった、と言わざるを得ません。宇垣ら近代化路線派は、上原らの反宇垣派に抵抗されて、リストラ策=近代化策の実行が不徹底になってしまった、と言えるように思います。
反宇垣派は、日本陸軍は「列国軍と戦う力はない軍隊」であることを認める必要があった
一方、上原ら反宇垣派は、短期決戦論などという現実には成り立たない理屈を振り回したりせず、客観的事実の通りに、「日本陸軍は、首切りしないから将兵数は多数である、しかし、火力が強力な列国軍とは戦えない軍隊」である、と宣言するのが妥当であったように思います。そうしていれば、昭和前期の大失策にはならなかったでしょう。
将兵数は多くても近代兵器は乏しい、列国軍と戦争すれば負ける、ならば列国との対立は徹底的に避けなければならない、国際協調が必須である、という認識を、現状維持派こそ、積極的に軍内部で共有化を図っていく必要があったように思います。
残念ながらそうはせず、「引きこもり」の独善に陥ってしまい、大きな不幸が生まれる原因を作ってしまった、といえるように思いますが、いかがでしょうか。
日本陸軍が、「将兵数は多くても火力の強力な列国軍とは戦えない軍隊である」との事実を宣言できなかったのは、「そんな宣言をすれば予算が削られてしまう」という利己主義・保身主義の結果であり、また、「予算をもらっている以上そんなことは言えない」というメンツ意識の結果であった、と推測します。カイゼンの敵はメンツです。世の中は必ず変化します。カイゼンは変化への対応を果たしますが、メンツは、カイゼンを阻害して変化への対応を果たせなくしてしまいます。
工業化を積極的に推進できなかった永田鉄山の限界
陸軍の頭脳であった永田鉄山が、1927(昭和2)年12月、大佐で陸軍省整備局動員課長であった時に行った「国家総動員」についての大阪での講演は、大阪毎日新聞により出版されています(永田鉄山 『国家総動員』)。この中で永田は、将来の全面戦争への備えとして、日本の工業化は重要な要素であることを指摘しています。以下は、同書からの要約です。
国際連盟の理想は追いつつも、現実に即して国防の充実は当然
国際連盟によって平和的平和を保障するという期待は、達成不能の念願。世界の各国が、世界大戦の惨苦に懲り抜いた今日であるのに拘わらず、一方理想は追いつつも他方現実に即して依然国防の充実に専念しているのは、誠に当然のこと。
戦争が変わった、期間も長引きやすく、軍備だけでは済まなくなった
今日の戦争は、国民的性質を帯びてきた。戦争の形式そのものが変化、工芸化学の進歩に関連して、兵器が変革、それに従って多量の軍需品が必要、交通が著しく発達し、交戦兵力が大きくなり、交戦をする地域が著しく増大、武力戦の規模が格段に大きくなった、
戦争の期間も自然長引きやすい。また武力角逐の外に、科学戦があり、経済戦があり、政治戦があり、思想戦がある。軍備と共に、国家総動員の施設を必要とするに至った。
国家総動員の準備は、極めて多岐広汎なもの
国家総動員とは、有事の際に国家社会の全部を挙げて、国家が利用し得る有形無形、人的物的のあらゆる資源を組織し統合し運用して、最大の国力的戦争力を発揮する事業。国家総動員準備計画は極めて多岐広汎なもので、到底1省1局などで掌るというようなことではない。
総動員の準備計画として必要なこと
総動員の準備計画、第一は資源調査。第二に、不足している資源の保護・助長・培養・開拓、代用品や廃品利用の研究。第三に、戦時国家総動員を円滑に実施できるよう平素から諸種の施設を設置、例えば職業紹介機関、各種の規格・制式・方式の統一単一化、産業大組織、人づくり。第四、総動員計画の策定、不足資源の補填計画、各種資源の配当計画、戦時機関設置計画、警備計画、資源の組織統制運用の計画など。
各自が総動員計画に寄与するには、各自の職務を忠実に果たすこと
我国の物的資源は欧米列強のそれに比して著しく遜色あり。他国民に比して幾倍かの努力を必要とする。それぞれの社会的ないしは職業的の立場に応じ、忠実にその職務に向かって精進することが、取りも直さず国家総動員の準備に寄与する所以。
ここで語られていることは、短期決戦論者の見方とは大違いで、まずは、将来戦争が起これば短期決戦では済まない、長期の総力戦となる、ということです。総動員の準備計画として語られていることは、もっぱら、まずは工業化と経済力を発展させ、次に有事の際にそれを機能的効率的に運営できるように準備する、という課題についてです。そういう論理ですから、軍備そのものについては、宇垣軍縮は実は近代化であったということが一言触れられているだけで、あとは経済・産業の強化・合理化論であると言っても良い講演の内容です。
さすがに、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」とまで言われた人物であったことを良く示している講演であった、と言えるように思います。この講演から8年後の1935(昭和10)年に皇道派の相沢中佐に斬殺されてしまったことは、昭和前期の日本陸軍にとってまことに不幸なことであったと思います。
石井寛治 『帝国主義日本の対外戦略』 も、「永田は、第一次世界大戦における機械戦への移行とそれを実現できない日本工業力の低位性との絶望的なギャップをかなり的確に掴んでいるが、日本陸軍が何を目的にそのギャップを埋めなければならないかを示しておらず、また、ギャップを埋めるべき資源獲得のための対外戦略が「戦時への移行プロセス」そのものを引き寄せることについて無自覚であった」と指摘しています。
総力戦の戦力基盤を強化しようとすれば、日本の工業力・経済力をさらに積極的に拡大する必要があるのは自明ですが、永田鉄山といえども、軍の体制をさらに合理化してでも経済成長に向ける予算を増加すべきである、というところまでは踏み込んでいない点は、残念なところです。
ここまで、日本陸軍について、第一次世界大戦の教訓の活用の程度とその阻害要因を、確認してきました。次は、日本海軍について、同様の確認を行いたいと思います。