大隈内閣は、ドイツの持つ山東利権の獲得を目的に開戦を決定、日本は1914(大正3)年8月15日にドイツに最後通牒を送り、23日に宣戦、ドイツが山東省に持っていた租借地・青島の攻略戦を開始しました。
ここでは、この青島攻略戦が具体的にどのように戦われたのかを確認したいと思います。
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日英共同、青島攻略軍の編制
日本軍は、久留米第18師団を基幹とする独立師団の編制
この戦争では、日本軍はイギリス軍と共同して作戦を実行しました。まずは、日本軍の兵力編制ついて、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。
8月10日 日本の兵力編制案、16日 動員令
参謀本部は、8月10日に、久留米第18師団を基幹とする独立師団の編制案を完成。動員令発令は最後通牒発布の翌16日。「作戦要領」も21日に下令。1日も早い決戦が開戦目的を達成するのに必要だと考えられていた。海軍も第2艦隊は出征準備を10日に完了。
大本営は設置せず
陸軍は、1要塞の攻略に大本営の設置は大仰すぎると考え、参謀本部・軍令部の「各主任者毎日参謀本部ニ於テ合議スル」方式で戦争を遂行していくことにまとまった。
独立師団の編制内容
動員令の内容:久留米第18師団、山砲中隊、野戦重砲兵連隊、同輜重隊、独立攻城重砲兵大隊、攻城廠、築城用工兵大隊、電信隊、無線電信隊、航空隊、電燈隊、架橋縦列、兵站部隊など。後日の追加動員も合わせ、総員 5万1700人。兵站部隊と鉄道警備部隊を除いた前線戦闘員は2万8943人、最前線の歩工兵数は約1万4400人。
日本軍の編制は、青島ドイツ軍の兵備・兵力を考慮
一般的に、攻囲線の突破には攻囲メートル数の3倍の歩工兵数、要塞攻撃には守備側兵数の2、3倍の兵員数、攻城砲門数は守備側の1倍半が目安。日本軍は前線歩工兵数で攻囲線メートル数(6キロ内外)の2.5倍、攻城総員数は守備側兵力(4000~5000名、多ければ7000~8000名の見積)の少なくとも3.6倍となり、まずまずの規模。
投入砲門数、重砲96門・軽砲42門あわせて138門、青島側2倍強と計算。しかしドイツ側の実数、重砲70門・軽砲52門と大差がないことがのちに判明、多少慌てる。しかし日本軍は新式も投入、ドイツ軍が義和団事件や普仏戦争の戦利品を中心にしていたのにくらべると、はるかに日本軍の砲勢の方が有利。
日本軍は最新兵器を多数投入
砲種に関しては、新式加砲を実地に試用。他に試作段階の高射角野砲、重・軽迫撃砲、擲弾銃も投入。銃器でも三八式歩兵銃が実戦使用されたのは青島戦が最初。三年式機関銃もここで試されたのちに12月に制定。他の新兵器としては、飛行機と無線電信。
師団長神尾光臣中将は中国通で実戦経験豊富、参謀長はドイツ通
第18師団長神尾中将は、陸軍将官中三本の指に入る中国通、しかも日清・日露両戦争で実戦経験も豊富。第18師団の参謀長には、ドイツ留学経験者の山梨半造少将、参謀本部総務部長を兼務のまま。これにより、陸軍きっての中国通とドイツ通による一系統編制を実現。さらに、このときの参謀本部の次長および部長全員がドイツ留学経験者。
青島攻略は、攻城戦にふさわしく火力とその運搬力を重視した編制が行われたこと、最新兵器が意欲的に実験投入されたこと、指揮官の人選にも配慮があったこと、が確認できました。昭和前期の日本軍とは大いに異なり、健全な正攻法がとられたことが良く分かります。
イギリス軍の編制
一方、日本と共同作戦を実施することになったイギリス軍は、どのような編制であったのでしょうか。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。
イギリス軍は、大隊1個半の規模
イギリス軍事省は、18日に北中国守備軍部隊に対し、1旅団4大隊編制で出兵を命令。しかし、その後、単に日本と共同作戦をしたことを示せればいい程度に規模を削減。最終的に派遣部隊は北中国守備軍第2大隊872名とインド兵半個大隊463名という編制。
なお、仏露軍については、「余り多数の者が発言権を有することは好ましからず」と加藤外相がイギリスに主張して、不参加が決定したとのことです。
1914年9月、山東半島への上陸と青島への進軍
こうして編成された日英両軍の山東半島への上陸と、青島への進軍はどのようになされたのか、確認します。
山東半島への上陸
まずは山東半島への上陸について、再び斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。
日本軍の龍口への上陸開始は、9月1日、豪雨の中
第2艦隊の護衛のもとに先発した1混成旅団が龍口に到着するのは9月1日。この夏は記録的な猛暑、秋口に入って台風がいくつか襲来。上陸命令が下った2日払暁も、台風の影響による豪雨の中、上陸作業と前進は思うにまかせず。
輜重輸送の人夫確保にも苦労
参謀本部は、上陸作業と輜重輸送の人夫の大半を現地雇用でまかなうつもり。しかし、中国当局の非協力方針もあり、兵站部はその確保にひどく苦労。大連の業者に依頼し、人夫・馬車等を送り込み。
結局上陸結了予定日は9月15日までずれ込み。混成旅団の先頭の即墨入りは19日、予定より4日遅れ。後続の1混成旅団は6日に龍口に上陸、2つの混成旅団が即墨に揃って師団としての陣営を整えるのはようやく24日になってから。
第2期輸送部隊は、9月18日、労山湾に上陸
第2期輸送部隊の上陸、歩兵連隊は18日に労山湾(最寄りの村落は王哥庄)に到着、19日までに仮設駐屯施設を設営、重砲・工兵・鉄道各隊は翌日から本格的な上陸を開始。24日に労山湾上陸の歩兵部隊の前進準備も整う。労山湾でも大連の人夫が送り込まれている。
通信の完備と敵方陣地の全情報の掌握
9月7日より13日にかけて、龍口・大連間に海底電線を敷設、20日ごろに労山湾と龍口からの電線が即墨南方でつながり、前線間の連絡が完全に。15日にイギリス陸軍省より正確な青島防備配置図が軍令部に。青島のドイツ官憲の機密書類を差し押さえたものの写し。
イギリス軍も、9月22日、労山湾に上陸開始
イギリス軍は、9月22日労山湾に到着、翌朝から揚陸作業を開始、日本軍の援助のもとで24日までに完了。揚陸後は8キロ北方の浦里へ。26日には即墨へ出発。
日本軍の上陸には、天候不良と人夫不足という2つの悪条件があったようです。
青島への進軍
即墨および王哥庄に集結した日本軍は、9月26日から、青島に向かって前進を開始します。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。
9月26日 日本軍の青島への進軍、28日 弧山‐浮山ラインまで
9月26日に、即墨の日本軍は前進を開始。師団主力は流亭付近一帯から白沙河を渡河、内陸側から李村に進む左縦隊と、海岸側のドイツ軍第一前進陣地に当たる右縦隊。ドイツ兵は深夜に自主撤退。王哥庄からも一隊が南西方面に山間地を進撃するという、3支隊進撃。
28日午前中の戦闘で、弧山・浮山ラインの丘陵上までを一挙に占領。
火力の活躍
浮山では、第2艦隊がイギリス艦とともにドイツ軍の右翼要塞を砲撃し、側面支援。弧山方面は、青島方面からのドイツ側要塞砲ならびに湾内の敵艦の砲撃に苦戦するも、28日に15センチ榴弾砲を備えた野重砲連隊が到着したことで様相は一変、28日だけで157発を発射、日本陸軍の望んでいた重砲砲撃戦の開始。
海岸沿いは砲撃戦、山間部は銃撃戦。白沙河を渡って前進を開始したのは予定より7日遅れ、しかし第一防御線の占領までわずか2日、参謀本部策定の当初計画の予定日にほぼ見合う期日に、このラインを占領。
航空隊の活躍
陸軍の飛行機3機が27日にはじめて湾内のドイツ軍艦に空爆、ただし命中弾は一つもなし。飛行隊は20日に即墨にでき上がった滑走路へ進出、以後はそこから偵察飛行、敵陣配置の情報をもたらしてその能力を発揮。陸地への空爆は、海軍の飛行隊が9月5日に青島市街上空を飛行して無線電信信号所と兵営に対しておこなったものが最初。
<青島攻撃に参加した日本軍の飛行機 (参謀本部編 『大正三年日独戦史写真帖』 より)>
イギリス軍の進軍
イギリス軍も、27日に流亭へ前進、28日に李村手前へ進み、日本軍総司令部と合流。
ドイツ軍の作戦
参謀本部は、弧山・浮山ラインには堅固な前進陣地が構築されているものと予測。ところがドイツ軍は早々とこのラインを撤収。ドイツ軍は本要塞の堅牢さに自信、被害を最小限にとどめて籠城戦に持ち込む道を選んでいた。もともと勝利のない戦いである以上、少しでも人的被害を抑え、長く持ちこたえることで何らかの発展材料を見いだす以外に方策はなかった。
上陸以来ここまでの日本軍の死傷者は270名。これ以後は1659名が死傷。
日本軍・イギリス軍の上陸後、弧山‐浮山ラインへの進出までは、大した抵抗もなく順調に進軍した、と言えるようです。
10月上旬、山東鉄道の占領
9月28日には弧山‐浮山ラインまで進出した日本軍は、その後の本格攻撃の準備期間中に山東鉄道を占領します。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。
陸軍は山東鉄道全線占領を提案、外務省も同意して、閣議決定
陸軍軍務局長は、9月8日、山東鉄道を軍事占領して戦後に買収すべきという内容の「山東鉄道押収ノ理由」を外務省政務局長に手交。外務・陸軍両省間の協議で、軍事占領実施で閣議提案の方針に。山東省不割譲、専管居留地域設置、山東鉄道買収の3件は、「還付ノ条件トシテ最モ必要ナルモノ」で、確実な既成事実化が必要という認識。
22日の定例閣議で、濰県以西の軍事占領実施提案が決定。
日置公使から、中国の反感を招き目下進行中の懸案も概ね頓挫は必然との強い懸念の上申があったものの、9月30日、軍事占領を10月3日を期して強行すると最終決定、中国当局には10月2日にそれを通告。
10月上旬、日本軍は山東鉄道占領を強行
占領部隊は、120余名が2日から3日に、濰県から西に出発、済南には6日から10日に到着。済南を占領した7日に沿線の炭鉱も占領。
山東鉄道の占領は、山東利権を確保するという目的に対しては、整合性のとれた作戦であったと思います。しかし、当時の日本の最重要課題であった「満州利権の継続」に対しては支障になる、と日置公使が懸念を表明した通りに、実際に中国側が強く反発する事態となったわけです。山東鉄道の占領は、戦略観を欠いた不適切な判断であった、と言わざるを得ないように思います。
ただし、鉄道の占領作戦の実施が閣議の決定によって行われた点は、この当時は、昭和前期とは異なり陸軍が独断専行しておらず、国家組織の運営がはるかに健全であったことを示しているように思います。
10~11月 青島要塞攻略
10月、青島本攻撃のための準備
青島への本格攻撃のために、日本軍は約1ヵ月かけて準備を行います。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。
本攻撃の準備に、10月1ヵ月間をかけた日本軍
9月28日までに弧山・浮山線までの占領を果たした日本軍は、以後の1ヵ月間を攻城重砲の設置とその掩護ならびに前進準備のための散兵壕・交通壕の構築に費やす。10月31日に総攻撃の開始、そこから8日間は前進塹壕を作りつつ敵堡塁に接近する。そして11月7日に最後の白兵銃剣突撃によって青島ドイツ軍を降伏させるにいたる。
日本軍が時間をかけた理由
第一に、欧州はマルヌ会戦後で、1日も早く青島を落とさねばならないという政治的緊急性が消えていた。第二に、来援の望みなき孤軍であるから、強襲して歩兵の死傷者をいたずらに増やす方法をとる必要はない。第三に、日本側はここを新型諸砲の実戦実験場として絶好の機会であると位置づけ。
重砲の輸送には軽便鉄道を建設
労山湾から前線への銃砲の輸送は、主に軽便鉄道で平地づたい。攻城廠の置かれた東李村まで46.7キロ、そこから3線の陣地線が延べ18.4キロ。9月20日から建設開始、10月14日に陣地線までのすべてを完成。その深夜からの豪雨が河川沿いに敷設した部分を破壊、20日になんとか復旧して輸送再開、28センチ砲は28日に王哥庄から移送開始。それが終わると軽便鉄道のすべてを糧秣輸送に専従させることができるようになった。
<1914年 日独青島戦争 軽便鉄道の敷設-小林啓治 『総力戦とデモクラシー』 より引用>
<軽便鉄道による「河南中間廠からの砲弾輸送」 - 毎日新聞社 『日本の戦史 1 日清・日露戦争』 より引用>
部隊配置と攻撃準備
3支隊編制は、10月10日に、右翼隊、第一中央隊、第二中央隊、左翼隊へと改編。第一中央隊はイギリス軍。各部隊は、10月末の総攻撃予定日までの約1ヵ月間を散兵壕・交通壕の構築ならびに攻城重砲の設置に費やす。
ドイツ軍からの砲撃にてこずる
ドイツ軍はこの間に飛行機、気球、偵察員の情報にもとづいて盛んに日本軍に砲撃。その量は1日平均1500発。偵察機への空中戦など、日本軍の偵察封じの努力により、有効着弾数を比較的少なく抑えることに成功。それでも、野戦築城中の死傷者数は414名、総攻撃開始後の死傷者数の3分の1に相当。ドイツからの砲撃には相当てこずった。
攻城戦であるから重砲が必要、その運搬には軽便鉄道の敷設も必要、歩兵は塹壕掘りと、しっかり準備を行ったことが良くわかります。膨大な死傷者を出した日露戦争の旅順要塞攻略への前向きな反省があり、カイゼンの成果が発揮されている、と言えるように思います。
10月末~11月上旬、青島要塞への本攻撃
10月末から、いよいよ青島への本格的な攻撃に移ります。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。
10月31日、総攻撃の開始
総攻撃は10月31日、天皇誕生日(天長節)の朝6時10分開始。日独両軍、海泊河から浮山所までの幅広い低地を挟んだ両側の高台に、相互の砲列が向かい合う形。
ドイツ軍の防禦線、堡塁と鉄条網壕ライン
海岸、台東鎮東、中央、小湛山北、小湛山のドイツの5堡塁は、何れも中心に2メートル厚コンクリート製巨大トーチカ、周囲の三角形断面外壕の壕底には6~10メートル幅の鉄条網。計40挺の機関銃が各堡塁に配備、数多い中間堡塁にも軽火器。膠州湾岸から黄海海浜まで、堡塁の前面を、総延長6キロにおよぶ鉄条網壕ライン。堡塁周辺には約450個の地雷、付近は完全に切り開かれてよい見通し。
日本軍の作戦、中央~左翼に重点、重砲の砲撃、歩兵は塹壕開掘
膠州湾からの敵艦による艦砲射撃と河口付近の防護の堅固さを見て、第二中央隊と左翼隊に主力部隊を配置、重砲の攻撃も、台東鎮-ビスマルク山以南の左翼地域を主とする作戦。
11月3日までに、日本軍の歩兵は塹壕開掘で大きく前進
歩兵は、散兵壕をベースに、10月31日から全隊で前進開掘。11月2日払暁までに敵の堡塁まで500~1000メートル。2日間で約1万8000発の重砲弾をドイツ陣へ撃ち込み。
前進の方法、ジグザグな前進壕を掘り進める。夜間に壕を掘り、昼間は補修や土嚢運搬。底幅2メートル標準の塹壕は、雨や湧水で泥濘状態。同時期のヨーロッパの戦場での典型的な塹壕戦と同様の展開。
2日、3日は暴風雨、しかし塹壕は3日夜までにさらに300~400メートル前進。この2日間の死傷者数は142名。ドイツ軍はキャノン巨砲では難しい近距離になってきたので、イルチス山腹に9センチ砲を配置して砲撃。
これより先は前進のスピードはかなり落ちた。堡塁に向かってわずかな登りになり、これまで以上に機関銃掃射の標的になりやすくなったから。
<ビスマルク山北砲台 (参謀本部編 『大正三年日独戦史写真帖』 より)>
日本軍の砲撃は、堡塁が標的
日本軍の砲撃は、初期総砲撃2日間、中期(作業の進展を待つ)自制砲撃3日間、終期総砲撃2日間。砲撃対象は、初日は敵の砲台、2日目は砲台プラス堡塁、その夜からは主に堡塁中心。軽砲・機関銃のある前線堡塁とその背後の小砲台向け、全重砲弾の76%。巨砲据え付けの要塞向けは、わずか16%。ドイツ軍の要塞巨砲は、日本軍の重砲を狙っても大した損害を与えられず、歩兵塹壕は近すぎて撃てない、あまり意味のないもの。
11月6日夜までに、歩兵はさらに前進して突撃陣地を構築
11月6日夜までに残存距離が、海岸堡塁まで140メートル、台東鎮東堡塁まで250メートル、中央堡塁まで130メートルの地点。散兵の最前塹壕はそれよりさらに先、ほとんど鉄条網堀に近接する所。小湛山堡塁では、鉄条網堀に200メートル。4日から6日までの死傷者数は、646名という多数。銃撃戦の距離内に入ったため。5日に右翼隊で130余名の死傷者、ドイツ軍海岸堡塁に10挺の機関銃が配備されていたため。
<小湛山堡塁に対する我が攻撃作業(参謀本部編 『大正三年日独戦史写真帖』 より)>
※ 塹壕を掘ったことが分かる
11月7日、ドイツ軍全面降伏
ドイツ側の各堡塁はすでに相当の砲弾を受け戦闘能力はひどく減退。ドイツ砲台は5日正午頃までにほぼ所有砲弾を撃ち尽くし、最終段階に来たと判断、5日午後に全弾発射ののちに砲を爆破するよう命令。ドイツ軍の銃火器は、こののち機関銃が主。日本軍は、7日いっぱい砲撃をして、8日に突撃の予定。
そのとき第二中央隊から、中央堡塁が何の抵抗もしなくなったので、本夜奇襲をかけたいとの上申。総司令部はそれを認めて、第二中央隊は7日午前1時に突撃を敢行、ドイツ守備兵はあっけなく降伏。台東鎮東堡塁は5時10分に、小湛山北堡塁もほぼ同じ時刻に降伏。海岸堡塁と小湛山堡塁は抵抗、重砲による集中砲撃で午前7時前後に白旗を掲げる。
堡塁占領後は、イルチスならびにビスマルク山の砲台へ直進、午前6時にはイルチス山、7時前にビスマルク山を占領。7時半ごろ、ドイツ軍は気象台に白旗を掲げて全面降伏。この7日朝の日本軍の死傷者数は363名。
日本軍は、8月23日の宣戦布告から2カ月半後に、10月31日の総攻撃の開始からは8日間で、青島のドイツ軍を降伏させたことになります。
なお、作戦に参加していたイギリス軍ですが、「ドイツ軍はイギリス軍に強い敵意を抱いてとりわけ攻撃を集中」、塹壕掘りではとりわけ激しい湧水、占領目標地手前のドイツ側堡塁の陥落待機の必要などから、「陣地から動かぬまま青島戦争最終段階の白兵戦闘は終了」したとのことです。
名誉を立てたら無用な死傷者を出さぬよう降伏、のドイツ軍
斎藤聖二氏の上掲書で、青島で戦ったドイツ軍の「総督は日本の総攻撃開始の時点で開城を決心していたとのちにドイツ軍将校は語っている。名誉の立つところまで抵抗し、無用な死傷者の出ない段階で降伏するということは、開戦当初からの予定であったようである」と書かれています。
これに対し昭和前期の日本軍は、捕虜とされることを禁忌とし、将校だけでなく兵にも「玉砕」を強制して、膨大な戦死傷者を発生させました。ドイツ軍に多数の留学生を送り込みながら、ドイツ軍から学ばなかった点の一つが、ここにもあった、と言えるようです。
日本軍による青島攻略戦の総括
以上、青島攻略戦の戦闘経過を確認してきました。最後に、この戦争の全体を総括したいと思います。
斎藤聖二氏著書の青島攻略戦の総括 - この戦いは砲・工兵協同による勝利
まずは、斎藤聖二 『日独青島戦争』による総括の要約です。
島戦争での日本軍の戦闘の特色
① 実戦経験者に現役兵を率いさせた多彩で迅速な白兵戦闘
② 最新諸銃砲・飛行機ならびに諸器具の実用実験
③ 山東鉄道の全線軍事占領にあらわれる中国政策としての戦争の位置づけ
④ 歩兵による白兵戦は限られたもの、単に戦争終結のきっかけ、実質的にこの戦いは砲・工兵協同による勝利
⑤ ヨーロッパで大々的に繰り広げられた塹壕陣地戦、最新兵器戦そして物量戦という戦闘形態の雛形を経験。
しかし、後方からの休みない人員・物資の補給という総力戦状況は欠如、日本軍は真の大戦経験を得られず
青島戦争での戦費
2ヵ月間の青島戦争にかかった費用は総額8億8250万円。22ヵ月間の日清戦争と台湾制圧戦が約2億円、日露戦争は20ヵ月で約15億円であったのに比べると桁違いに贅沢な戦争。人件費、運搬費、そして兵器費がかなりの高額に。
青島戦争での戦死傷者数
独立第18師団の死傷者数は、将校-死傷計36(うち死亡6、負傷30)、准士下士卒-死傷計1209(うち死亡267、負傷942)、合計-死傷計1245(うち死亡273、負傷972)。イギリス軍は、死傷70(うち死亡13、負傷57)。ドイツ軍側は死傷計約910(うち戦死約210、負傷約550、病死約150)、俘虜総数は4,689。
「実質的にこの戦いは砲・工兵協同による勝利と言って良いもの」という総括は、この戦争が昭和前期の日本軍による戦争とは大きく異なっていたことを的確に示している、と言えるように思います。
なお、青島攻略戦の戦費について、斎藤上掲書は「8億8250万円」と記していますが、この数字は明らかに勘違いのようです。
小野圭司 「第一次大戦・シベリア出兵の戦費と大正期の軍事支出」によれば、シベリア出兵まで含む1914~25年の期間の臨時軍事費特別会計(=直接戦費)の合計額が8億8166万円なのであり、青島攻略戦だけでいくらの戦費がかかったのかは明らかではありませんが、そのうち第一次世界大戦期(1914~17年)の陸軍省所管の金額は、4482万円であった、としています。
この期間の陸軍は他に大きな作戦を行っていないことから、この4482万円のすべてが青島攻略戦の陸軍の戦費であったとして、海軍の支援行動分は大きな数字ではなかったであろうと思われます。日清戦争に比べれば相当割高であったと言えますが、日露戦争と比べれば、1か月あたりの支出は安く済んだと言えるように思います。
カイゼン視点からの青島攻略戦の総括
① 日本陸軍が史上、最も合理的な戦いを行った戦争
カイゼン視点から見たとき、上記の斎藤聖二氏の総括に付け加えるべきこととして、とりわけ、「機関銃に対する日本軍の死傷者数の少なさ」という点が挙げられるように思います。同じ時期にヨーロッパで戦った連合軍と同様、青島での日本軍も、ドイツの機関銃に対面しました。しかし、日本軍の死傷者数は、1日に数千人以上を数えたヨーロッパのフランス軍やイギリス軍と比べ、断然少なくて済みました。
無謀な前進は一切せず、砲撃と塹壕開掘を徹底して行ったこと、重砲も砲弾もまた塹壕開掘用の道具も、すべて適切な用意がされていたことが非常に効いていたと思われます。昭和前期の日本軍は火力支援の不足した無駄な突撃を行って、いたずらに死傷者を増やしましたが、青島攻略戦での日本軍の作戦遂行は、徹底して合理的でした。その合理性と、その結果としてのこの戦争での死傷者の少なさは、高く評価されてよいのではないでしょうか。
また、この点は、日露戦争での旅順要塞攻略戦を前向きに反省してカイゼンを行った結果でもあり、明治末から大正初めまでの日本軍には適切なカイゼン意識があったことを明確に証明している、と言えるように思います。
松代守弘「青島要塞攻略戦」(『歴史群像アーカイブ20 第一次世界大戦 上』 所収)は、この戦争について、「日本軍があまりにも手際よくかつ当たり前のように、ある意味で 『教科書通り』 に作戦を進めていったため、かえって戦史に残らない作戦となってしまった」、「昭和の陸軍は地味なことを教科書通りにこなす能力を軽んじ、勝つべくして勝てる戦いにおいてすら、苦戦を強いられたり、しまいに敗北さえしてしまうのである」と指摘しています。
明治から昭和前期までの日本軍が行った全ての戦争の中で、この青島攻略戦こそ、日本軍が最も優れた戦い方をした戦争であり、それが可能であったのは、当時の日本軍はカイゼン意識が高かったからである、と言えるように思います。その後の日本陸軍は、この戦争こそを、神尾光臣師団長が率いた独立18師団こそを、日本陸軍が到達した最善の実例として模範にし、さらにカイゼンを重ねて行ってほしかった、と思います。
② 戦闘以外では、大きな課題に適切な対応はなされず
上記の日本軍への評価は、あくまで戦術や戦闘・輜重といった純軍事面に対してのみの評価です。
軍の周辺では、この戦争でも、日本軍(とくに軍属である輜重輸卒など)による、現地中国人に対する殺人・強姦・掠奪・横暴行為が指摘されており、それが中国の反日感情の昂進につながったことが指摘されています(斎藤聖二氏 上掲書)。
そうした日本軍の不法行為の具体的な状況については、藤村道生 「シベリア出兵と日本軍の軍紀」が、シベリア出兵時だけでなく、青島攻略戦についても、日本軍憲兵隊の記録に基づいて、具体的に整理しています。以下は、同論文からの要約です。
神尾司令官は、軍紀順守の指示を出していた
攻囲軍にイギリス軍が協同した関係で、司令官神尾光臣は、国際法規や赤十字規定の尊重、軍人の非違不正の防止にはかなり注意を払い、要塞の総攻撃には7項目にわたる注意を発し、陥落直後にも略奪の防止について指示をだしている。
実際には、略奪等、かなり多かった
しかし、中国上陸以降掠奪は、憲兵隊が記録に残したもののみで、9月5日~21日に5件、実際にはずっと多かったことは報告に 「日本兵が支那商人より卵または饅頭を買求め代金の不払い、かっぱらい等の紛争頻々たりしが、一々説諭にとどめたり」とある。
上陸が終わり総攻撃準備のため宿営に入ると事故はさらに多くなった。憲兵隊は、英語通訳の掛軸掠奪事件、軍医を含めての大規模な掠奪行為を特記のほか、馬一頭に十銭しか支払わない、住民の家屋を破壊して採暖などを報告。「支那人の物を窃取するも犯罪にあらずと思料せるに非ずか」(10月25日師団長訓戒)。
このため、青島陥落後は、一時日本兵の入市を禁じたが、無断入市するものも多く、非違が激増。「青島陥落と同時に第一線部隊の一部は市内に侵入し、家屋を破壊し個人の財産を掠奪せんとしたるものさえあり。その他無頼の邦人または支那人にして、我が歩哨線の間隙より潜入したるもの少なからず。これらは往々にして物品を掠奪し、婦女を脅かすに至り、市民ことに独逸人は恐々として外出する者ほとんどなく」と伝えている。
青島攻略戦では、中国は敵国ではなく中立国であり、しかも戦闘終了後には利権交渉を行う相手でした。ですから、将兵・軍属・邦人が中国人に不法行為を働くなら、交渉をこじらせる恐れがあり、そうした不法行為は断固防止して、治安維持の努力を尽くす必要がありました。
それを徹底できず、一部とはいえ軍関係者による略奪等が発生し、それが反日感情の高まりの原因となってその後の日中交渉では現に苦労することになったわけですから、軍紀不徹底の結果として国益への実害が発生した、と言えるように思います。当時の日本軍が、その点でもカイゼン精神を発揮していたら、と言わざるを得えないように思います。
なお、神尾師団長も、青島占領後に青島守備軍司令官に任命された時、「青島に内地から一攫千金を夢見る商人が押しかけ、『飲食店の経営濫興し醜業婦の流入夥しく、五歩に一楼、十歩に一閣終夜弦歌の声を断たざる状況』」となって、「その粛正が急務なのに、『軍司令官神尾中将は自身の素行上不適任者として評判悪く』」、半年ほどで交代となった(半藤一利ほか 『歴代陸軍大将全覧大正篇』)ようで、戦争の指揮では高い能力を発揮したと言っても、本来の軍務以外では、残念ながら問題があったようです。
前ページで確認しました通り、大隈内閣は、当時の日本の最大の懸案事項であった満州利権の継続確保問題と山東利権の調整を行っていませんでした。本来、大隈内閣は、「山東利権は、満州利権継続確保という大目的達成のために、中国政府との交渉材料として一時的に獲得するだけのもので、結局日本の手には残らない、最も重要なことは中国政府との満州利権交渉を上手く進めることである」、と明確にしているのが適切であったと思います。
そのように明確化して神尾師団長はじめ現地派遣軍の幹部にも周知していたなら、軍も関係者の不法行動を防止するよう動いていたでしょうし、青島に内地から一攫千金を夢見る商人が押しかけることもなかったのではないか、という気がしますが、いかがでしょうか。
「青島攻略戦」のまとめ
青島攻略戦の戦闘の経過を整理しますと、次のようになるかと思います。
● 青島攻略戦は、日本・イギリスの共同作戦として実施。日本側は独立1個師団、イギリス側は大隊1個半。神尾師団長は中国通で実戦経験豊富、山梨参謀長はドイツ通。日本側の兵力は、ドイツ守備側の3.6倍、砲門も2倍強との計算で編成。後に砲門の実数は大差がないことが判明したが、新式も投入した日本側有利。
● 9月2日の上陸開始。龍口上陸部隊は即墨から、労山湾上陸部隊は王哥庄から、9月26日から28日に、弧山‐浮山ラインに進出。ドイツ軍は籠城戦を選びこのラインからは撤収済。
● それから1ヵ月間、軽便鉄道を建設して重砲を輸送するなど、本攻撃の準備。その間、10月上旬には山東鉄道を占領。
● 10月31日より本攻撃、堡塁と鉄条網壕ラインで防御のドイツ軍に対し、塹壕開掘と砲撃で攻撃。11月7日、ドイツ軍降伏。
● 戦死は273名のみと損害少なく、日本軍陸軍が史上最も合理的な戦いを行なった戦争。新兵器、飛行機も活用。ただし、中立国である現地中国人に対する犯罪等については課題があった。
軍事的にはきわめて合理的な戦いぶりであった青島攻略戦でしたが、その参戦目的において青島攻略と満州利権確保との関係整理が明確ではなかった結果、青島攻略戦後の日本は、悪名高い対華21ヵ条要求を行ってしまいました。次は、この対華21ヵ条要求についてです。