1e 開戦前の欧州各国軍

 

第一次世界大戦の具体的な経過に入る前に、この大戦を戦った主要各国の軍隊はどのような規模で、どのような特徴があったのか、という点を確認しておきたいと思います。それを知っておくことが、具体的な経過のより的確な理解に役立つように思われるからです。

 

 

ヨーロッパ主要国の軍の概況

各国の人口と軍隊の規模

大戦の勃発時から戦った主要国としては、連合国 Allies (または協商国 Entente Powers、直訳すれば協商列強) 側にフランス、イギリス、ロシアが、同盟国 (英語ではCentral Powers 直訳すれば中欧列強、または German Alliance ゲルマン連合) 側にドイツ、オーストリアがありました。

まずは、これらの諸国の人口と軍隊の規模の概況について、JMウィンター 『第一次世界大戦』 からの要約です。

開戦時のヨーロッパ主要各国の人口

人口では、ロシアが約1億5000万人で最大、以下、ドイツが約6800万人、オーストリア約5000万人、イギリスは5000万人を下回り、約4000万人。20~49歳の徴兵可能な年齢の人口は、ロシアが4000万人、ドイツは1300万人、フランスは800万人程度。

開戦時に軍事訓練を受けていた兵士の数

ドイツが約550万人で最大、ロシア、オーストリア、フランスは約450万人、イギリスは100万人以下で、有効戦闘人員にしぼれば、ドイツがヨーロッパ最強だった。

独仏の徴兵の規模

独仏両国では開戦にかなり先だって徴兵が行われ、ドイツでは1906年には120万人以上が集まった。フランスの同年の新兵はわずか36万8千人。敵国フランスの3倍の兵力を集めることができたドイツ軍は、最良の兵士のみ選りすぐることができた。

大英帝国の志願兵

開戦後、イギリスでは、軍への志願者が大挙して押しかけた。また、自治領であるカナダやオーストラリア、インドなども志願によって動員に応えた。

軍の強さ

人員だけで軍事力を判断するのは早計。ドイツの卓越した軍事力は、数ではなく、あくまで質的側面に起因する。ドイツの敵国には、ドイツのように洗練された職業軍人の士官集団が存在しなかったし、東西に分かれた前線で戦うために必要な、軍需品補給のための基幹施設や鉄道も、ドイツほど整っていなかった。
兵員数だけでは、イギリス軍の強さも測れない。小規模な義勇軍だけで、ルーマニアとブルガリアの総戦力に匹敵したという。

 

リデル・ハートが指摘した欧州主要国の軍の特質

戦史家のリデル・ハート氏は、欧州主要国の軍隊の特質について、対比して記述しています。以下は、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。

練度高く、予備軍、重砲と機関銃、鉄道を活用したドイツ軍

1914年当時のドイツ陸軍。五体満足な国民はすべて兵役義務。ドイツの制度の特色、多大な予備軍。2~3年の全日制軍務、その後4~5年の正規予備軍、その後12年間の後備軍、最後に国民軍へ繰り入れ。緒戦の攻撃にこの予備軍を投入するだけの勇気。この奇襲がフランス軍の計画を狂わせ、ひいては会戦の計画全体に影響を与えた。
ドイツ国民は自国の軍隊に親近感。専門知識、また技術上でも最高水準に達していた参謀本部。戦術面では、重砲と機関銃の重要性を見抜いた。戦略的にも、他のいかなる敵国よりも敏速に、鉄道輸送の研究と開発に力を注いでいた。

かなり見劣りしたオーストリア軍

オーストリア=ハンガリー軍はドイツ軍をお手本としていたが、かなり見劣り。“精神の同質性”が存在せず。人種混交で地理的にも広大という弱点。軍隊の指導者層はドイツ軍の専門家には及ぶべくもなかった。

攻撃一方槍のフランス軍

フランスの潜在的動員兵力はドイツの60%、人口の劣勢。フランスが開戦当時、約400万の訓練済みの兵員、ドイツのそれは500万。フランスでは予備役兵の戦闘力にはほとんど信頼を置かず、約100万の第一線の半職業部隊だけを当てにしていた。
軍事的な思考方法は論理性に長けている半面、独創性と柔軟性に欠けるきらい。精神的要素を重視しすぎて、不可欠である物質的要素を軽視、どれほど戦意が高揚していても、装備面での劣勢を意欲で補うことは無理というもの。

人数だけのロシア軍

ロシア軍の資産は兵士の体力、弱点は知性と精神面。人的資源は無限、その勇気と忍耐力は抜群。しかし指導者層の間には腐敗と無能がはびこり、兵卒には知性と科学的戦争への積極的姿勢が欠けていた。武器弾薬類の製造能力では、大工業国の水準をはるかに下回っていた。もう一つの根本的な欠陥は、鉄道の不備。

小さくても実戦経験は豊富だったイギリス軍

英国は海洋国。正規軍を、海外の属領 ―ことにインド― を保護管理するために、この目的達成に要する最低限度内で維持。最高の海軍力を維持する一方、陸軍は小規模、しかし英国陸軍は大陸諸国の軍隊では経験したことのなかったほどの多様な実践経験、不利な点は、指揮官が大会戦における大部隊の指揮には慣れていない点。
イギリス軍の総司令官、フレンチ Sir John French と軍団長〔のち総司令官〕ヘイグ Sir Douglas Haig は、騎兵の価値を最高に評価、火砲の威力をみくびった。大戦直前、騎兵優先論が全盛のとき、現実に即した意見を表明した将校が栄達の道をふさがれる傾向。古い手段を不当に強調するあまり、新しい手段開発の機会が奪われてしまった。
1914年には、英国の遠征軍 Expeditionary Force は約16万、これは世界でもっとも高度に訓練された攻撃軍。昔ながらの国民軍を、選抜を目的とする特別予備軍に改組、この第一正規軍の背後に国民義勇軍。英国陸軍は装備類ではずば抜けたものはなにひとつなかったが、世界の軍隊のうちでも独特なライフル射撃の基準〔=小銃で1分間に 『15発速射』 の訓練〕。

イギリス・フランス・ロシアの3国の軍隊とくらべ、ドイツの軍隊は、訓練でも装備でも明らかに優秀だったようです。

 

戦争は無理だったオーストリア軍

皇太子暗殺事件に対し、セルビアへの宣戦布告を行って第一次世界大戦の引き金を引いたオーストリアの軍隊について、リデル・ハートは「かなり見劣り」としているだけで、その内実は詳述されていないので、他書から補足しておきたいと思います。

列強中最弱だったオーストリア軍

まずは予算制約と装備の遅れについて、久保田正志 『ハプスブルク家かく戦えり』 からの要約です。

● オーストリアの軍事予算は列強中最低、ドイツの4分の1、フランスの3分の1で、イタリアにも劣る。
● 人口に比しての兵力も少なく、年間の新規徴兵数は約10万人で人口比0.29%。ドイツの28万人(同0.47%)、ロシアの33万人(同0.35%)と比べ劣勢が明白。
● 装備は列強中最低、歩兵1ケ師団当たりの野砲数42門、ロシアの48門、ドイツの54門に比べて少。小銃も3分の2近くは25年前の旧式のもの。
● オーストリア陸軍は当初からドイツの支援なしでは他の列強とまともに戦えない代物だった。

第1次世界大戦の25年前といえば、1890年ごろ、日清戦争よりも前の時代の装備であった、ということになります。1914年の時点では、内乱鎮圧用の装備としては十分でも、対外戦争の能力には欠ける軍隊であった、と考えるのが妥当のように思われます。

兵役より農作業優先のオーストリア軍

兵士への訓練も、不十分であったようです。フォルカー・ベルクハーン 『第一次世界大戦 1914-1918』 からの要約です。

ハプスブルク帝国の軍隊は装備が悪かったばかりでなく、徴兵可能な初年度兵人口の29%までにしか新兵教育を施したことがなかった。そして1914年に兵役に服した者の中で、主要な部隊の兵士たちは夏休暇を取らせられた。その目的は、自分たちの故郷で穀物の取り入れを手伝うことであった。

見方によっては、人情あふれる軍隊、といえるのかもしれません。ドイツと比べ圧倒的に訓練不足であったことは明白でした。

オーストリアは多民族国家のため、軍内でも多言語を使用

さらに、ドイツ系・ハンガリー系だけでなく、チェコ系・ポーランド系・ウクライナ系・スロヴァニア系・イタリア系・セルビア=クロアチア系・ルーマニア系など、多民族からなっていたオーストリアには、軍隊の運用上でも、他の国とは大きく異なる問題があったようです。大津留厚 『ハプスブルクの実験』 からの要約です。

ハプスブルクの陸軍、軍隊の使用言語を3種に分け、民族の平等と軍隊としての効率性とを確保。
第一の言語、「前へ進め」「撃て」などの指揮語、ドイツ語。
第二の言語、軍務に必要な服務語、これもドイツ語。
第三の言語、連隊内の会話や教練に使われる連隊語、これは連隊を構成する兵士の母語。
普通の兵士、指揮語のドイツ語(約80語)を覚えさえすれば、自分の母語で軍隊生活を送れるはず。1897年の調査では、陸軍歩兵102連隊のうち連隊語が1つだけが55部隊、2言語が44部隊、3言語が3。将校の構成には民族的な偏り、ドイツ系78.7%(人口比では24.5%)、次いでハンガリー系9.3%(同20.6%)、チェコ系4.8%(同12.2%)。1904年の調査では、将校一人当たりドイツ語を含め約2.55言語を理解。
ハプスブルクの軍隊、その内部における民族的均衡の実現に配慮、さまざまなアイデンティティーを持つハプスブルク国民の統合に一定の成果、外に対して戦うのにはあまり向いていなかった。ハプスブルク軍は戦争をしてはならない軍隊だった。

日本でも、明治・大正期、各地域の方言という問題があり、そのため軍隊内共通語となる軍隊用語が作られ、兵はそれで教育された、という経緯があったようです。オーストリア軍は、方言どころか、各地域の言語が全く異なっていたのですから、はるかに大きな苦労があったでしょう。組織の行動を戦況に応じて迅速機敏に変えなければならない軍隊では、言語が異なる人々を集めて高い実力をつくりだすことには、もともと無理があったように思われます。

セルビア軍相手でも、簡単には勝てないオーストリア軍

オーストリア軍は、あっさり負けた普墺戦争以来、まともに戦ったことがない上に、多民族国家特有の事情を抱えていました。一方小国とはいえセルビア軍は、1912~13年のバルカン戦争で勝利し実戦に慣れた軍隊でした。ですから、そもそもセルビアだけを相手にした局地戦に限定できていたとしても、決して楽に勝てるとは言い切れない状況であったように思われます。

その上、もしもロシアも軍事介入する事態になってしまったら、いくらドイツ軍が支援してくれても、オーストリア軍に甚大な損害が発生することは避けられない、したがってロシアとは絶対に戦争にならぬよう、妥協する必要がある、と判断するのが妥当だったように思います。

馬場優 『オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争』 によれば、オーストリアの参謀総長コンラートは、危険を冒してでも帝国の威信を回復することが重要であるとして、常に「断固とした行動」を主張する強硬意見の持ち主であったようです。参謀総長の第一の職務は、自軍の能力を他国軍の能力と客観的に比較して、弱点を強化するのに必要な対策を行い、また現有能力に見合った作戦を立てることにあったと思いますが、コンラートの場合は、参謀総長には、まずは勇ましさが必要だ、と誤解していたようです。オーストリアとしては、参謀総長という重要職務に明らかに不適任な人物を置いていた、と言わざるを得ないように思いますが、いかがでしょうか。

 

新兵器を積極的に採用したドイツ軍と、精神論で攻撃偏重のフランス軍

ドイツ軍の新兵器の導入は、兵員数増員が困難だったため

第一次世界大戦直前のドイツ軍が、機関銃や重砲を積極的に取り入れた理由として、実は、当時のドイツ軍は兵力を増加させることが容易ではなかった、という事情があったようです。以下は、中島浩貴 「ドイツ統一戦争から第一次世界大戦」(三宅正樹ほか編著 『ドイツ史と戦争』 所収)からの要約です。

プロイセン議会での軍事予算審議をめぐる対立から、兵員数が固定化

プロイセン議会内部の自由主義政党は、軍制改革に必要な予算審議権を盾にとって、1861年から1866年までの間、軍事予算審議をめぐって政府と議会が対立。ドイツ統一戦争以後、解決策として、軍事予算は7年に1度だけ審議を行う7年制予算となった。しかし、兵士一人あたり225ターレルが自動的に予算割り当て、予算が兵員数によって固定化し、兵員の増員も困難。大規模な軍拡をともなう軍事予算審議は白熱した議論となる。

ドイツ軍側の対策は、新装備の導入、機関銃や重砲の積極的な導入

このままではドイツ軍は常にフランス、ロシアのいずれに対しても常備兵力で劣勢を強いられる。このため、戦術・戦略上での軍事的能力の向上、新しい装備の導入。新型の小銃、機関銃、歩兵砲や野砲の導入などが積極的に行われた。

政治的に兵力数と予算が大きな制約条件となっている中で、当時のドイツ軍には、その条件の中でのカイゼンへの強い意欲があり、その結果として、機関銃や重砲を多用する新しい戦術が生み出された、と言えるようです。

このドイツ軍のカイゼン実績から大正・昭和期の日本軍がもっと学んでいたなら、という気が強くします。日本では予算の制約に対し、統帥権を振りかざして師団数増加の予算拡大に走るだけ、ドイツ軍とは正反対に、新兵器による強化よりも兵員数の確保を優先してしまい、結局は敗ける軍隊にしてしまった昭和前期の日本軍は、ドイツ軍とは大きな違いがありました。日本軍がドイツ軍を手本にしていた、というのは、一体ドイツ軍の何を手本にしていたのか、かなり研究の余地がありそうです。

 

徴兵対象人口が少なかったから、精神論に走ったフランス軍

兵員数の制約は、実はフランス軍にも共通する課題でした。しかしフランス軍は、ドイツ軍とは、全く別の方向に向かってしまい、精神論と攻撃絶対論に走ったようです。

この時期のフランス軍の「精神主義」について、以下は瀬戸利春 「マルヌの奇跡」(『歴史群像アーカイブ 第一次世界大戦』 所収)からの要約です。

フランス軍は「エラン・ヴィタール」

普仏戦争後、フランスの総人口はドイツに追い抜かれていた。徴兵制の時代、ドイツに対し兵力は劣勢。それを克服するため、フランス軍はベルグソン哲学の「エラン・ヴィタール」を重視して、精神主義に傾斜。エラン・ヴィタールは「すべてを克服する意思」とでもいうべき概念、日本軍にとっての大和魂のような存在。フランス的熱狂をもって攻勢に出ることはドイツ軍の数的優位を覆すと信じられた。

攻撃偏重のフランス軍

精神主義に傾倒したフランス軍のドクトリンは攻撃偏重。1913年の作戦要務令では、「今後は攻撃以外の法則はこれを排す」と宣言。一方で機関銃などの新兵器の威力やカムフラージュの重要性は無視された。

原因は異なっても、この時期のドイツとフランスは、ともに兵員数に制約があったようです。この制約条件への対応として、ドイツ軍は新兵器の積極的な採用による装備の充実を実施、一方フランス軍は精神主義・攻撃絶対論に傾斜と、それぞれ対策を行いました。ドイツ軍の対策の方が、フランス軍よりはるかに優れたカイゼン策であったことは、第一次大戦の開戦後、すぐに実証されました。

 

日本陸軍は、本当にドイツ式に転換できていたのか

日本の陸軍は、明治初年の出発点では、フランスに範をとりましたが、日清戦争前には、ドイツ式に切り替えられました。こうして第一次世界大戦時の各国軍に対する評価という点から見てみると、日本がフランス式からドイツ式に切り替えたことは、適切な選択であった、と言えるように思われます。

日本軍の「大和魂」は、フランス軍の「エラン・ヴィタール」

しかし、フランス軍に対するリデル・ハート氏や瀬戸利春氏の評価の内容を見てみると、日本陸軍は本当にフランス式からドイツ式に転換できていたのか、はなはだ疑問になってきます。以下は、上掲の瀬戸利春氏のコメントの要約です。

フランス軍のこの考えは、日本陸軍に類似。偶然とは言い切れない。日本陸軍はフランス式で発足、ドイツ式に転換した後も、第二次大戦まで依然としてフランス式の影響。ことによると、大和魂という観念すらエラン・ヴィタールの日本陸軍的解釈かもしれない。

ドイツ式に切り替えたに拘わらず、日本軍は、フランス軍の「精神的要素を重視しすぎて、不可欠である物質的要素を軽視」という悪い点を継承してしまいました。しかも、フランス軍は第一次世界大戦の経験の中で精神主義が過ちであることを学び改めたのに対し、日本軍は、その後30年もの長期間にわたって、精神論第一主義を維持し続けました。昭和前期の日本軍は、その結果敗けるべくして敗けた、と言えるように思います。まことに残念なことです。

昭和前期の日本陸軍には、1930(昭和5)年に出版されていたリデル・ハート氏の著作を読んで、そこから学べる時間が十分にあったはずなのです。とりわけ、「どれほど戦意が高揚していても、装備面での劣勢を意欲で補うことは無理というもの」という指摘は、まことにもっともだと思うのですが。

 

 

次からは、いよいよ大戦の戦闘の経過に入っていきます。