戦争が始まってから4年目となる1917年について、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 は、この年の状況を表す言葉として「緊張 The Strain」という言葉を使っています。JMウィンター 『第一次世界大戦』 は、1916年と1917年を一括して「大量殺戮 The Great Slaughter」と表現しています
すでに見たように、1916年は、この1年間だけで数百万人規模の戦死傷者が発生し、まさに大量殺戮の年となりましたが、ルーマニアが同盟国側に占領されることになったことを除いては領土的には大きな変化はなく、同盟国側が若干優位を維持したまま、膠着状態になっていました。1916年末から17年初めには、ドイツの銃後は「カブラの冬」を迎え食糧状況が厳しくなっているものの、軍事的に優勢だけに、講和への前進は起こりませんでした。
まずは、1917年前半の西部戦線についてです。
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1917年前半の西部戦線、カイゼンのない連合軍、カイゼンのあったドイツ軍
連合軍の4月攻撃の前に、ドイツ軍はヒンデンブルク線に撤退
1917年の西部戦線について、まずは、前年の末、ジョッフルから司令官職を引き継いだニヴェルがどのような作戦を立てたのか、リデル・ハートの著書からの要約です。
ニヴェルは積極策
ニヴェルの作戦、レンス=ノワヨン=ランスの一大突出部の両側面、ソンム川の北と南に対する英仏軍の攻撃によって、敵の注意と軍備をそちらへ引きつけておいて、すぐさまシャンパーニュ地方においてフランス軍が主要攻撃を行うという作戦。ソンム川南のロア Roye までイギリス軍に引き継いでもらって、フランス軍の余分な兵力をすべてシャンパーニュの主要攻撃に結集し、ここで決定的な突破を達成したいと念願。
フランス軍は、例によって大したカイゼン策の実施もないまま、また大攻勢の計画を立てたようです。
ニヴェル対ヘイグ、仏英両軍間の対立
イギリス軍ヘイグは、英軍が引き受ける戦線の拡大には強く反対。フランダースにおける攻勢計画に必要となる英国軍兵力を削減されては困る。1月半ばの調整結果、ヘイグは8個師団の追加を手に入れることで、作戦の4月1日以前の実施が決定。しかし、ニヴェルとヘイグの個人的感情問題は解消されず、英仏両軍総司令部の間の緊張が高まる。
3月、ドイツ軍は防衛強化のため、ヒンデンブルク線に撤退
この攻勢が始まらないうちに、ドイツ軍がこれを狂わせてしまった。ルーデンドルフのとった第一手は、ドイツ軍の兵員、軍需品、兵糧の再編成のための一貫した統帥機関を発足させること。この進行中にはあえて守勢に立つ。連合軍によるソンム川攻勢に備えて、新たに強力な防衛布陣を、レンス=ノワヨン=ランスの弧の弦に設定。2月23日、バポーム Bapaume 前面の不便な突出部から局地的退却。3月12日早朝、再び局地的退却、次いで16日、主要撤収が始まった。
ドイツ軍が≪ジークフリート Siegfried≫と呼び、連合軍からは≪ヒンデンブルク・ライン Hindenburg Line≫と呼ばれた新布陣へ、急がずに後退。完璧な戦術的展開であって、ルーデンドルフが戦況上必要とあらば占領地を放棄するだけの精神的余裕をもっていることを示していた。
4月の連合軍の総攻撃は失敗
4月9日、英国軍は戦況に変化のないアラス付近の戦区だけで春季攻勢を開始。フランス軍のソンム川とオアーズ川 the Oise 中間への突入も、ドイツ軍の退却のために無意味なものに。ランスの東と西における4月16日の主要攻撃はそれ以上の大失敗、危険な結果を伴った。ニヴェル、戦略計画の基本条件が決定的に変化してもなおそれに固執したという点では、愚挙。最初の期待が大きかっただけにその反動もひどかった。
カイゼンの乏しい連合軍側に対し、ドイツ軍は再び思い切ったカイゼン策を実行しました。先手を打ってヒンデンブルク線まで撤退して、防衛布陣をより強固にすることで、連合軍の攻勢を失敗させました。この時点まで、ドイツ側のカイゼンへの取り組みは、連合国側の努力を、ほぼ一貫して上回っていました。
このヒンデンブルク線の事例からも、昭和前期の日本軍は何ら学習をしていなかったとしか思えません。昭和前期の日本軍は攻撃第一主義を捨てず、戦略的撤退という柔軟な発想を欠いていたために、例えば中国など、戦線を広げるだけとなり、かえって兵站線を容易に遮断され、損害を増加させて、失敗し続けました。ルーデンドルフの爪の垢でも煎じて飲め、といいたくなるところです。
4月の攻勢では、連合軍側にまたも大量の死傷者
上記の連合軍総攻撃に関する補足です。AJPテイラー 『第一次世界大戦』 からの要約です。
アラス戦では、イギリスに15万人の死傷者
4月9日、イギリス軍は他の地点での準備をドイツ軍に気付かせないために、アラースで攻勢を開始。一度は成功したが、ドイツ軍は予備軍を投入、戦線は以前よりも厚くなり強固になって停止。イギリス15万人、ドイツ10万人の死傷者。すべて、ニヴェルのエーヌ川攻撃という主要作戦への準備行動であった。
フランス軍ニヴェル作戦は、ドイツに漏れていた
ドイツ軍は、フランス軍捕虜からニヴェル作戦の明細を書いた文書を手に入れていて、作戦の予定日までに、前線にフランスと同数の師団を配置。ニヴェルの砲撃は、ドイツの機関銃に打撃を与えることができず、フランスの歩兵隊は前進したが、そこで待ち受けたのは御他聞にもれぬ大虐殺。ニヴェルは、失敗を認める気にはなれず、攻撃は死傷が増える中でもう2週間続けられた。
例によって、連合軍側の死傷者数は、ドイツ軍側をはるかに上回りました。新たな工夫・カイゼンが無いのに大攻勢を行い、成果を上げるどころか、おそらくはメンツのために作戦を早く打ち切ることもせず、大量の死傷者を出し続けたわけです。このときのフランス軍の虚しい失敗の教訓を、昭和前期の日本軍はぜひ学んでいてほしかった、と思います。
5月、フランス軍内の各所で兵士の反乱
フランス軍内の反乱は、工夫のない指揮への不服従
この状況で、フランス軍内では、兵士による反乱が発生し、軍が機能しなくなる、というきわめて異例の事態に至りました。再びリデル・ハート氏の著書からの要約です。
フランス軍内各所に不服従の発生、ペタン将軍が鎮静化
各部隊は、眼に見えた戦果もなしに有刺鉄線と機関銃の前に身を投げ出すことにうんざり。待遇に対する不満も手伝って、フランス軍内に不服従の気運がみなぎり、16個師団がその被害。反乱の火の手は5月3日。「塹壕は守るが、攻撃には出ない!」、「無傷の機関銃陣めがけて突込むほどお人よしじゃない!」。反乱の真の原因は、指揮統率に対する不満。
この急場を救ったのはペタン将軍、第一線兵士の心理を読み取ったうえでの方針転換。政府は5月15日、賢明かつ率直な措置として、ニヴェルを解任してペタンをその後任に。ひと月の間ペタンは前線を歴訪、ほとんどの師団を訪問して将校と兵士も集めてその訴えに耳を傾けた。事態はわずか23名の処刑者を出しただけで、ひと月足らずのうちに平穏に。
この反乱については、他書からも補足しておきたいと思います。まずは、AJPテイラー 『第一次世界大戦』 からの要約です。
4月16日のニヴェル作戦の大失敗が反乱の引き金
ニヴェルは、我慢の限度を超えて疲れ切ったフランス軍を動かした。広汎な反抗が続いて起きた。やがて54個師団が命令に従うのを拒否、数千人が脱走。
ペタンは苦心の末、軍の規律を回復した。10万をこえる兵士が、軍法会議にかけられた。432人だけが死刑宣告、55人だけが公式に射殺。それより多くの人々が判決なしに射殺。休暇は2倍になり、軍の食糧は改善された。とりわけペタンは、今後大攻勢を行わないという確約を与えた。次第にフランス軍は、再び有能な防衛軍となった。
ニヴェルの後任、ペタンは、米軍と戦車を待つ方針に大転換
ニヴェルの短い時間は終わった。かれは防禦戦の主唱者であるペタンにとって代わられた。ペタンのスローガンは、「われわれは、アメリカ軍と戦車をまたなければならない」。
もう一つは、JMウィンター 『第一次世界大戦』 からの要約です。
反乱で一番よく見られたパターンは、前線への復帰の拒否
1917年のフランス軍内部に生じた反乱。反乱を起こしたのは、ニヴェルの攻勢で十分に戦い、非常に苦しい目にあった兵士たち。17年の4月から6月にかけて、規律を乱す集団行動250件、68師団、フランス軍の3分の2に及んだ。
組織化されてはいなかったし、政治的目的をもっていたわけでもない、フランスのあらゆる階層、いろいろな地域の出身。暴挙にでることはめったになかった。これ以上戦いたくなかったにすぎない。一番よく見られた反乱は、前線への復帰の拒否。
5月16日、ニヴェル将軍の後任にペタン将軍が任命され、この新しい指揮官は死傷者数を減らすことに努めた。休暇計画は改善され、前線後方の糧食も改善された。
リデル・ハート氏、AJPテイラー氏、JMウィンター氏の3書を比べると、書かれた時期が新しいほど、すなわち資料発掘が進むほど、反乱規模の認識は大きくなっています。ニヴェル攻勢が直接の原因となって反乱が始まったこと、フランス軍の死傷率が相変わらず著しく高かったことが背景にあったとみられる点では共通しています。
なお、フランス軍の死傷率が、ドイツ軍やイギリス軍と比べ、実際はるかに高かったというデータについては、「3 第一次世界大戦の総括 3b 大量殺戮の実態」のページで詳しく確認しています。
カイゼンを行わないメンツへの反乱
現代のビジネス社会でも、客観的に見て成果を出せるはずがない業務を押し付けられ、しかもそれでも成果を出すよう強い圧力をかけ続けられたら、社員の多くは辞めていくでしょう。あるいは、努力する素振りだけ見せて実質的には働かず、給料さえもらえればよいという姿勢になるでしょう。そういうビジネス組織は、間違いなく劣化していき、業績の向上も困難でしょう。
徴兵された兵士は、企業の社員と異なり、辞めるという選択肢を与えられておらず、しかも文字通り生きるか死ぬかを迫られていましたから、指示がどうみても不条理なら、反乱という選択肢しかなかった、と言えるように思います。
非常時なのだから我慢しろ、は、カイゼンをさぼっているトップの身勝手な言い分であり、短期間しか通用しません。反乱がフランス軍だけに発生し、イギリス軍・ドイツ軍には発生しなかったという事実は、開戦から3年近くの長期間にわたり、フランス軍は最もカイゼン努力が乏しかったことの必然的な結果であったように思います。
兵の反乱は、将の反省・方針転換を引出しました。ペタンは、実際にカイゼンを実施し、また「アメリカ軍と戦車を待つ」と方針転換を明確にしました。新方針は、戦争の状況に対して適切なカイゼン策であったと思いますし、兵士の側も納得して反乱もおさまりました。
それまでのフランス軍指導者たちが、メンツにこだわらず、事態を客観的に直視してカイゼンを心がけていたなら、死傷者もここまでは増えず、反乱も起こらず、したがって反乱で処刑される兵士も発生していなかったでしょう。不幸な事件であったと思います。
次は、1917年後半の西部戦線、第3次イープル戦とカンブレー戦についてです。