前ページでは、大戦の資金面について確認しました。交戦各国は国民所得の1年分から2年分という巨額の戦費を投入して戦い、結果として激しいインフレを招き、結局は、主に国債を買った人に損させることで負債を解消しました。
一方、それだけの巨費と共に、両陣営から大量の人、すなわち兵や将校が、戦場に投入され、相手陣営と戦い続けました。また、戦争の被害は民間人にも及びました。ここでは、第一次世界大戦の人的損害について、その具体的な内容を検討したいと思います。
● このページの内容 と ◎ このページのグラフ等
第一次世界大戦の国別死亡者数
第一次世界大戦の戦死者数データ
このウェブサイトの「はじめに」のページで触れましたとおり、第一次世界大戦は大量殺戮の戦争でした。その人的損害の大きさについて、NHKスペシャル 「映像の世紀」は、「900万人の戦死者と2000万人の戦傷者」との数字を使っていました。
この数字が妥当であるのか、また、戦死傷の直接の原因は何であったのか、兵と将校以外の人命損失はどうであったのか、などを確認することが、このページの目的となります。
リデル・ハート 『第一次世界大戦』 では、戦死者・戦傷者数に関する記述は、それぞれの戦闘について断片的になされているだけで、総括的なものはありません。そこで、この問題については、主にJM ウィンター 『第一次世界大戦』 に頼ります。
第一次世界大戦の戦死者数について、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカなどでは、軍の記録がかなりしっかり管理されていましたが、そうではなかった国もあり、どうしても一部に推定を混じえざるを得ないようです。そのため、各書によって採用されている戦死者総数の数字は異なっています。
国別の死亡者数
まずは、下の表をご覧ください。これは、筆者が作成したもので、JMウィンター氏の著書にあるグラフから読みとった数字と、Wikipedia 英語版の ‘World War I Casualties’ (「第一次世界大戦での死」)の項目にある数字を比較したものです。JMウィンター氏が使っている数字は、Wikipedia の数字の幅の中にほぼ含まれる数字です。
第一次世界大戦の国別戦死者数から読みとれること
日本で第二次世界大戦(大東亜・太平洋戦争)時の人的損害が語られるときは、通常、「戦没者」数が語られています。その中には、軍人兵士の戦死者だけでなく、一般人の死者も含まれています。
第二次世界大戦での日本の「戦没者」総数は、以下のとおりです(1977年の厚生省の数字)
戦没者総数 約310万人
(内訳)
● 軍人・軍属・准軍属 計約230万人
● 外地の一般邦人 約30万人
● 内地の戦災死亡者 約50万人
なお、当時の日本の人口は、7300万人程度(安藤良雄編 『近代日本経済史要覧』)でした。
これも一つの参考として、上の数字を見てみたいと思います。
① 日本流に言うなら、戦没者1700万人の大戦
第一次世界大戦での戦死者総数について、NHKは900万人という数字を使っていましたが、JMウィンター氏の数字では、約1000万人になります。実に大量の死者が発生しました。それに加えて、700万人前後の一般人の死者も発生したようです。
日本流に従軍者と一般人を合わせて「戦没者」と言うなら、Wikipedia英語版に基づけば、第一次世界大戦は、戦没者総数が1600~1800万人の大戦であった、ということになります。このウェブサイトでは、中を取って「戦没者1700万人」としておきます。この数字から、「大量殺戮」という言葉遣いは少しもオーバーな表現ではない、と言えるように思います。
かくも大量の戦没者が発生した戦争の前例は皆無であったので、第一次大戦後に、国際世論が、もう戦争は絶対に繰り返してはいけない、以後は不戦でなければならない、という気分になったのは当然であったように思います。
② 戦死数は、戦争を仕掛けられた連合国側の方が多かった
→ ドイツへの怒りが強くなった
従軍者の戦死数では、戦争を仕掛けた同盟国側よりも、仕掛けられた連合国側の方が明らかに多かったようです。これには、後で触れる、ドイツの戦い方の上手さ、という要因がその大きな理由であったと思います。
戦争を仕掛けられた側からすれば、戦争に引きずり込まれた上に、膨大な数の犠牲者まで出たわけですから、戦争を仕掛けたドイツに強い怒りを持ったのも、当然の結果と言えるように思います。ドイツとの講和に向けて、フランスがラインラントの占領を要求し、また巨額の賠償にこだわり、あるいは休戦後のイギリスの総選挙では、少数の戦争反対者を除いて、全政党がドイツ皇帝を絞首刑にせよと叫んだ(AJP テイラー 『第一次世界大戦』)というようなことが起こったのも、心情的には理解できなくありません。
③ トルコとバルカン諸国は、ヨーロッパ列国より従軍者が高死亡率
← 工業化の低さは死亡率の高さ?
表のJMウィンター氏の「従軍者死亡率」の数字うち、赤丸をつけたところを見ると、トルコとバルカン諸国の従軍者死亡率は20~30%台で、10%台のヨーロッパ列強よりも1割ほど高くなっています。この点は勝手な推測になりますが、防御装備の差、糧食補給の差、医療水準の差、などが、従軍者の死亡率の差となって表れたのではないかと思われます。
言い換えれば、経済成長=工業化の進展度が従軍者死亡率の数字に表れていて、工業化進展度が低い国の方が、従軍者死亡率が高かったわけです。
一方、ドイツ軍の機関銃に対し、あれだけ無理な突撃攻撃を仕掛けたフランス・イギリスの死亡率が、12~17%程度であった、というのは、戦史だけを読んでいると、正直なところ低すぎるのでは、という印象を持ってしまいます。軍隊にはさまざまな職務が存在しており、最前線には配置されなかった兵士の数も多かった、ということなのでしょう。
ロシア・オーストリア・イタリアの従軍者死亡率が11~12%で、ドイツやフランスの16~17%よりも低かったことについては、これも勝手な推測ですが、早めに投降を決断してしまう兵が多かった、という事情が影響していたのかもしれません。
こうした数字からは、将校と兵の損害が最小限となるように、防御装備・糧食補給・医療衛生などについてカイゼンを進めることは、軍の重要課題の一つである、ということが分ります。将兵の損害率を減少できれば、その分、豊富な戦闘経験を積んだベテランの将兵が増加し、自軍が更に強力になる、との期待が持てるからです。
昭和の日本軍が、第一次世界大戦からそういう教訓を得て、カイゼン努力を行ったのかどうか、昭和前期の戦争時の将兵の使い捨て状況からすれば、この点にも大きな疑問があります。
④ 自国内が戦場となった国は、一般人の死亡も多かった
表の Wikipedia 英語版の一般人死亡数のデータに赤丸をつけた箇所を見ますと、一つの傾向が読み取れます。従軍者の戦死者数と、一般人の死亡数とを比較して、両者が同等か一般人の死亡数の方が多かった国は、イタリアとトルコ及びバルカン諸国でした。ロシアは、一般人の死亡数が従軍者の戦死数より少なかったとはいえ、一般人の死亡数が100万人を超えました。イタリア・トルコ・バルカン諸国・ロシアに共通しているのは、自国内が戦場になったことでした。
自国内が戦場になったのに、一般人の死亡数が従軍者の戦死数を下回っていたのは、フランスとドイツ・オーストリアの3国だけでした。戦場となった自国内の領域が限定的であったため、と考えられます。自国内はほとんど戦場にはならなかったドイツの一般人の死亡数は、タンネンベルク戦によるものではなく、「カブラの冬」の影響でしょう。
第一次世界大戦では、第二次世界大戦時と比べて、空襲の規模がきわめて小さかったため、実際に戦場になることがなければ一般人の死亡は限定的であった、と言えます。
ここから言えることは、自国内が戦場になってしまうと、一般人の死亡が急増する、ということです。攻め込まれた側は、国土も人的資源も疲弊します。すなわち、軍事的に劣勢となって攻め込まれる可能性のある戦争は、あるいは勝てるかどうかわからない戦争も、避ける努力を惜しんではならない、ということであろうと思います。
では、必ず勝てる戦争ならやって良いか、と言えばそうでもありません。攻め込まれた側は、国土も人的資源も疲弊してしまうのですから、攻めこむ側に対し、深い恨みを持つことになります。すると、戦後の関係に必ずネガティブな影響を及ぼし、しかもその恨みが消えるまでに長年月を要することになりがちです。勝つ側には、短期的な利得はあっても、長期的にはかえって大きな国益の毀損を招く可能性が高い、と言えるように思われます。
第一次世界大戦の戦没者の教訓に反していた、昭和前期の日本軍
上記に整理した第一次世界大戦の戦没者に関する教訓から見てみると、昭和前期の戦争での日本軍は、きわめて下手くそな戦争のやり方をしたと思います。まずは、前段で戦争を仕掛け他国に攻め込んで、相手国から深い恨みを買いました。
その恨みは、戦後半世紀以上経った現世代の日本人に対してすら、ネガティブな影響を与えていて、日本の経済活動上で損をしている部分があります。16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の恨みは、300年後の19世紀末の朝鮮にしっかり残っていましたから、日本の敗戦から75年程の年数はまだ短期間すぎる、と言えるかもしれません。
昭和前期の戦争で日本軍は、その後段でも、やり方が下手くそでした。戦争の長期化で、日本は強力な反撃を受けて敗戦が必至となったのですが、それでも降伏せずに戦争を継続したため、日本国内の一般人も大量死亡し、国土も疲弊してしまいました。
第二次世界大戦時の日本の戦没者のうちには、外地の一般邦人約30万人と、内地の戦災死亡者約50万人が含まれています。外地の一般邦人にある程度の戦没が生じたのはやむを得ないところがあるとしても、内地の50万人、すなわち本土への空襲と沖縄戦とによる一般人死亡者の大多数は、日本がサイパン陥落後に早めに降伏していたなら、死なずに済んだ人たちであったことは間違いありません。
第一次世界大戦の主要戦闘別の戦死傷者数比率
JMウィンター氏の著書には、主要戦闘での死傷者数の比率のデータが掲載されています。このデータも加えて、さらに何が言えそうなのかを、次に考えてみたいと思います。下の表は、このデータを、筆者が時系列順に並べてみたものです。死傷者比率が50%を超えた側の数字には色を付けました。
このデータには、主要戦闘のすべてが網羅されているわけではありません。たとえば、1914年8月の電撃戦や、1917年11月のカンブレーが抜けています。その点は残念なのですが、一定の傾向は読み取れるように思います。
主要戦闘別の死傷者数比率データから分かる、独仏英3国の特徴
このデータから、ドイツ、フランス、イギリスの3か国の軍について、実際に何が読み取れるか、以下に考えてみました。
① ドイツは戦争の仕方が上手かった
前出の国別の戦死者数の表をみると、戦死者数はドイツが200万人で最多でした。しかし、ドイツは東西両戦線で戦っています。東部戦線だけで戦ったロシアが180万人、ほぼ西部戦線だけで戦ったフランスが150万人、という数字と比べてみると、ドイツは戦争の仕方が上手かった、という証明になっているように思われます。
さらに、この主要戦闘での死傷者数比率データを見てみると、西部戦線でのドイツは、1915年以後はどの戦闘でも、相手がフランスでもイギリスでもアメリカでも、連合国側よりも死傷者数比率が低かったことが分ります。
1915年以降は西部戦線ではドイツが守勢に回ったから、攻勢側の方が死傷者比率は高くなるものだから、とも言えません。ドイツが攻勢を取った1916年のヴェルダン戦や1918年の春季攻勢でも、また、ドイツが一貫して攻勢を取っていた東部戦線でも、ドイツ側の死傷者数比率が低いためです。ドイツの戦争の上手さは、この死傷者数比率のデータに明確に示されているように思います。
② イギリスはソコソコだったが、フランスは戦争が下手だった
次に、イギリスとフランスとを比較してみましょう。フランスの数字で特徴的なことは、シャンパーニュやシェミン=デ=ダムなど、死傷者比率が70%を超える、つまり「ボロ敗け」の戦闘があった、という点です。機関銃と重砲相手の近代戦では、突撃精神一本やりではボロ敗けになって人命を損傷するだけ、ということが証明されています。
それに対し、イギリスは60%前後でおさまっています。ここから、この2国のうちでは、フランスの方が戦争が下手、まだしもイギリスの方がマシだった、と言えそうです。
JMウィンター氏の著書は、イギリス軍とフランス軍のそれぞれの死傷者比率を比較したデータも掲載しています。それによると、
イギリス軍は、全従軍者中、死亡13%、捕虜3%、負傷31%
したがって、無事生還が53%
(海軍を除外した陸軍だけの数字)
フランス軍は、死亡14%、行方不明4%、負傷53%
したがって、無事生還はわずか29%
すなわち、イギリス軍とフランス軍では、従軍者の死亡率は同程度であっても、負傷率に大差があり、その結果。イギリスは、出征した10人のうち無事に帰れたのが5~6人と半数を超えていたのに、フランスでは10人中3人しかいなかった、というわけです。無事に帰れるのがたった3割、という状況であれば、1917年のフランス軍に深刻な反乱事件が発生して機能不全に陥ったというのは、数字の上からもよく理解できます。
「1 第一次世界大戦の開戦 1e 開戦前の欧州各国軍」のページで確認しました通り、もともとフランス軍は「エラン・ヴィタール」で精神主義・攻撃偏重の国、兵に無理な作戦を行わせて高い死傷率となった可能性が高そうです。
一方、イギリスは、戦死率は独仏英の3国中では最低の12%、負傷率もフランスよりはるかに低く、3国中で相対的に一番成績が良かった、と言えます。しかし、リデル・ハート氏によって批判されていた通り、1917年の第3次イープル戦までは、長期間にわたって死傷者比率が高すぎるのにカイゼンが不足していた、ということも事実でした。
戦死傷の原因についての分析
JMウィンター氏の著書には、イギリス軍についてだけですが、従軍者の死傷の原因についても記されています。
砲撃が死傷の最大原因、銃撃が次
イギリス軍では大砲による死傷者は全体の58%を占め、機関銃・小銃による死傷者は39%であった。
これは、イギリス軍についてはそうだった、というだけであって、他の国の軍隊についても全く同様の傾向であったとは言い切れませんが、第一次世界大戦の、とりわけ西部戦線では、他の国も同様であったのではないかと推定します。(全く別の戦争、たとえば、日清戦争時の日本軍では、当時の衛生水準が原因の「病死」が大きな比率を占めていて、傾向が全く異なっていました。)
機関銃が戦争の仕方を大きく変えた第一次世界大戦ではありましたが、大戦中の大砲の発達も著しく、加えて砲は銃より圧倒的に破壊力が大きい分、砲撃による殺傷被害が大きかったと分かります。重火器と弾薬を多数保有しその使い方が上手い側が、より多くの相手を殺傷して優位に立った戦争であった、と言えるように思います。
重火器と弾薬の十分な量を保有できるためには、自国の工業化がそれだけ進展している必要があります。敵国よりも優位な戦力を持つためには、まずは、敵国と同等かそれ以上に工業化を進める必要があり、次にはその使い方を上手くするために、将校と兵に適切で十分な訓練を施すことが重要になる、という順序です。
ドイツ・イギリス・フランスという3か国については、工業化の進展度に大差はなかったため、将校と兵の訓練の差が死傷の数字に表れ、他の国では工業化の進展度の差が数字に表れた、と推定できるのではないかと思います。
「大量殺戮の戦争」の特徴を整理すると
ここまで、第一次世界大戦が大量殺戮の戦争と言われた内容を整理してきました。ここでの整理から分かったことを改めて並べて見ますと、次のようになります。
● 第一次世界大戦では総計で約1700万人の戦没者が生じた。「大量殺戮の戦争」という言葉は少しもオーバーではない。この大戦の結果、世界の世論が「不戦」に向かって進んで行ったのも当然と言える。
● 戦争を仕掛けた同盟国側よりも、仕掛けられた連合国側の方に戦死者が多かった。仕掛けられた側で多数の戦死者を出さざるを得なかったことが、ドイツに対する休戦条件が厳しくなった理由の一つと思われる。
● 経済成長=工業化の段階がより後進的な国の方が戦死者の比率が高かった。将校と兵の損害を最小限とするように、防御装備・糧食補給・医療衛生などについてカイゼンを進めることは、軍の重要課題となった。
● 国内が戦場となった国では一般人の死者が従軍者の戦死者よりも多くなる傾向があった。
● 従軍者死傷率の数字は、ドイツは戦争の仕方が上手く、フランスは下手だったことを明らかに示している。イギリスとフランスでは、イギリスの方が、戦争が上手かった。
●従軍者の死傷については大砲の砲撃がその最大原因、次は機関銃・小銃による銃撃であった。まさに、強大な火力と弾丸を豊富に持っていてそれを上手く使う側が、戦闘を優位に進められる戦争であり、工業化の進展度が重大要因であった。
次は、この大戦中の軍事上のカイゼンについて総括いたします。