2c4 1916年 カブラの冬 講和の模索とドイツ国内食糧事情

 

開戦から丸2年が経過し、陸上では、西部戦線では双方とも大量の犠牲者を出し続けているばかりで膠着状態、その他の戦線ではドイツが徐々に優位を拡大、海上では大海戦が起こっても決着せず、という状態にありました。また、英独間の海上封鎖競争も続いていました。

その中で、休戦・講和の動きがあっても不思議ないところです。そういう展開あったのか、また、海上封鎖の影響は現れていなかったのか、確認します。

 

 

1916年末には、講和への動きがないわけではなかった

ドイツの平和交渉提案・アメリカの仲介努力

この時期の休戦・講和の動きについて、以下はリデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。

1916年の戦況に、連合国では失望と不満、イギリスでは内閣交代

1916年は連合国側の失意のうちに暮れた。各前線における一斉同時攻勢は不発、フランス軍は停滞、ロシア軍の停滞はなおひどい。ユトランド沖海戦の冴えない結果。連合国の国民とその政治的指導者たちの間に失望が高まりつつあった。戦争指導のやり方に対する不満がまず爆発。ロンドンにおいて、12月11日、アスキス内閣の退陣、ロイド・ジョージを首班とする内閣の登場。

講和への動きはあったが、誰もそれに乗らなかった

〔ルーマニアの〕ブカレスト陥落のあと、講和会議開催を呼びかけた12月12日のドイツの動き。この提案は連合諸国によって誠意なしとしてしりぞけられたが、これをきっかけにしてウィルソン大統領は、実際的交渉に入る予備手続として、各国政府にその戦争目的をはっきり限定するように求めた。ドイツ政府の答えは不明瞭、連合諸国のそれは、敵側からすれば談合の基礎としては受け入れがたいもの。一時的な平和の動きは衰えていった。

ドイツとしては、ルーマニアも制圧して優位性が明確な時点なので、相手にその優位性を認めさせて講和に持ち込む、という発想なのでしょう。

しかし、現代のビジネス世界でも、強者が弱者に強者の優位性を認めさせる契約を押し付けようとすると、弱者から強く反発されて交渉が進まない、交渉担当者が交渉を成立させるために条件を弱めようとすると、社内(国内)から弱腰だと非難されてしまう、結果として交渉が成立しない、というパターンは、よくあることだと思います。ドイツの嵩にかかった要求を飲まざるを得ないと相手に思わせるほど、ドイツの軍事的な優位性が決定的だったわけではない状況であった、と理解するのが良いかと思います。

妥協的平和は実現せず

講和への強い動きにならなかった点についての補足として、以下はAJPテイラー 『第一次世界大戦』 からの要約です

両者の講和条件には、決定的なズレ

妥協的平和、互譲を伴う現状維持に戻ること。連合国は戦前の国境を、ドイツ軍は現存する塹壕線を出発点だと考えた。どちらの側も、敗北の恐れがないかぎり、他方の側が出す妥協案を受け入れようとしなかった。

要求が膨らんでいたドイツ側

ベートマン=ホルヴェーク首相は、アメリカを中立にしておきたいばかりに、平和の交渉を提案。12月22日にドイツ政府は、「平和覚え書」を公表。ドイツ側の条件は書かれていなかった。
ベートマンは、ドイツの保護のもとでのベルギー、ベルギー領コンゴ、ポーランド王国に対する経済支配、オーストリアのためのバルカン地方獲得などを要求するつもり、ドイツの将軍たちは、それ以上たくさんのことを要求する腹。連合国は交渉の申し出を即座に拒否。

勝てると考えていた連合国側

連合国側では、人びとは相変わらず、勝利は不可能かという第一の問いにこだわっていた。
フランス。10月の末に、ヴェルダンの指揮をしていたニヴェル将軍が奇襲により失地を奪回し、国民的英雄に。ジョッフルは祭り上げられ、ニヴェルは西部戦線の最高司令官の地位に。より一層決定的勝利に執着した新司令官。
イギリス。1916年12月7日に、ロイド・ジョージは首相に。戦争には勝てるし勝たねばならないという考えを擁護。新政府はベートマンのたくらみを撃退するために組閣されたという印象。

アメリカの仲介努力も功を奏せず

アメリカ。1916年秋に再選されたウィルソンは、12月18日、それぞれの戦争目的を述べるよう交戦諸国を招請したが、遅すぎた。ドイツでのルーデンドルフの権威の増大、イギリスにおけるロイド・ジョージとフランスにおけるニヴェルの昇進が、主だったすべての交戦国を妥協反対の方向に転じさせていた。17年1月10日付の連合国の覚え書は、妥協的平和についての一切の議論に終止符。

メンツと欲望が複雑にからむ交渉事は、上手くまとめるのが難しい、という典型的な事例であったように思われます。とくに教訓化できる点は、短期決戦で戦争を決着させる、という考え方は、実現が困難な「願望」に過ぎない、という点であるように思われます。

勝負が明らかについたといえる状況ではない場合、優勢の側がよほど譲歩しないと劣勢の側は妥協に応じません。しかし、優勢の側は、現に優勢であるだけに、優位性を維持した決着を望む内部意見に押されて、妥協が成立しうる「よほどの譲歩」を提案することが内部的に許されません。そのため、妥協は成立せず、戦争はさらに長期化せざるを得なくなってしまいます。

「短期決戦による戦争の決着、あるいは、軍事的に優勢の側に都合のよい時期と条件での決着は、実現困難な願望」であり、「戦争は長期化するもの」という現実は、昭和前期の日本軍が最も学ぶべき教訓であったように思うのですが、残念ながら、この教訓も学ばれることがなかったようです。

 

連合軍の現状認識と戦略 - 優位と思っていた

講和への動きが進まなかった連合軍側の背景

講和への動きが進まなかった背景には、連合軍の司令官たちの認識が楽観的に過ぎ、ドイツに軍事的な優位性はないと認識していた、という事情もあったようです。再び、リデル・ハート氏の著書からの要約です。

仏英連合軍は、西部戦線ではドイツ軍より優位と楽観

失意の波が『銃後』で高まっている間も、連合軍司令官たちは相変わらず楽観的。11月、ジョッフルはシャンティリー Chantilly において司令官会議、西部戦線においてドイツ軍が大きな窮地、連合軍は従来より一段と有利と意見が一致。フランスにおける英国軍兵力は約120万、フランス軍は原住民部隊を編入して約260万、それにベルギー軍を含めると連合軍は約390万。これに対してドイツ軍は約250万。しかし、フランスは今後損失を埋めるだけの適齢期の人口が存在していないため、西部戦線における連合軍の相対的優勢は、1917年春がもっとも可能性があろうとの見方で同意。
その結果、ソンム川攻勢で得られた優勢をさらに推進するため、すみやかに好機をつかむことと、将来の決戦のための準備として、敵の予備軍の消耗をいちだんと強めることを決定。

兵数だけの問題ではない、兵数が多くても勝てないことは、開戦以来2年以上の期間で散々経験してきたはずなのですが、その経験からの学習が十分とはとても思われない現状認識だったようです。リデル・ハート氏は、「連合軍が各自の兵力を編成するときの戦略上の最大の欠陥は、数量ばかりを主眼にし、適切な手段をもっとも効果的に役立てることを忘れたこと」と論評しています。

この司令官会議では、イタリア軍総司令官カドルナ Cadorna から、イタリア戦線からオーストリアに一撃を与えて、オーストリアを敵の戦列から引きずりおろすという提案がなされました。敵の弱点から攻め込むのは理にかなっていると素人目にも思えるのですが、仏・英の司令官たちはこの提案を、兵力を分散させることになるからという理由で退けてしまいます。この点について、リデル・ハート氏は、「戦争に対する十分な理解と戦史の知識が欠けていた」として、徹底的に批判しています。上記の明らかに誤った現状認識を含め、ジョッフルら当時の英仏両軍指導者は、その職務に明らかに不適任であった、と言えるようです。

 

フランス軍は、不適格な司令官ジョッフルを更迭

この状況で、ジョッフルが更迭され、フランス軍の司令官の首がすげ替わりました。また、リデル・ハート氏の著書からの要約です。

フランス軍総司令官は、不評のジョッフルからニヴェルに交代

フランスの世論はジョッフルの消耗戦略がはかばかしい戦果を挙げないことで不評。その結果ジョッフルは退き、ヴェルダン戦での失地回復を指導したニヴェル Robert Nivelle に地位を譲った。

ニヴェルが立てた作戦は、フランス軍の兵士に大きな問題を引き起こしますが、それは1917年になってからのことです。

 

戦況優位でも、経済封鎖の影響がドイツで深刻化 - 「カブラの冬」

この1916年末の時点について、戦況だけを見ていますと、ドイツ側が明らかに優位で、連合国側はといえば、イギリスは内閣が替わり、フランスは司令官が更迭されるなど、落ち着きがなかったように感じられます。しかし、実はこの時期は、連合国側のドイツに対する経済封鎖の効果がはっきり顕在化した時期でもあったようです。

ドイツは、1914年秋には食糧問題が発生

ドイツは、実は1914年の秋にはすでに食糧問題が生じていたことについて、以下は、ベルクハーン 『第一次世界大戦 1914-1918』 からの要約です。

ドイツの銃後、既に1914年秋には非常に厳しい状況。食料事情は急速に悪化、前線からの戦死通知、海上封鎖、外国貿易は完全に途絶。一般市民にとっては、製パン用穀物の不足が最も深刻な問題。既に1914年以前に、穀物生産は国内消費に不足。家畜の飼育で製パン用穀物生産はより減少にもかかわらず、ドイツ政府は牛乳と肉の生産を奨励。

軍事優先で民生に歪が生じるのは当然、と言えるように思います。

 

1916-17年の冬は、ドイツには「カブラの冬」

1916年から17年にかけての冬は、気候が厳しく不作となった結果、ドイツの銃後は食糧難で不味いカブラで空腹をしのがざるを得なくなり、「カブラの冬 turnip winter」と呼ばれているようです。以下は、藤原辰史 『カブラの冬』 からの要約です。

ドイツの餓死者は、1916-17年の冬から急上昇

大戦期ドイツの飢餓および栄養失調が原因の死者の数、1915年は9万人、16年は12万人、それが17年には26万人、18年には29万人と急増、大戦期全体では76万人、というのが、18年12月に出版された帝国保健庁資料の数字。
どの年も寒さが募る2月から3月にかけて死者の数が絶頂、とくに1916年から17年にかけてのカブラの冬の影響が如実。18年の後半に世界的に流行する強毒性インフルエンザの死者はもちろん含まれていない。イギリスの経済封鎖とドイツの政策失敗で、ドイツの食糧システムが崩壊
ホブズボームは、「イギリス側は、ドイツへの補給を封鎖するために全力をあげた。この封鎖作戦は、予想外の効果をおさめた。ドイツの戦争経済は、ドイツ人が自慢していたほどには能率的、合理的には運営されていなかったから」。ドイツの食糧政策の杜撰さが連合国側の意図以上の成果をもたらした。

ドイツはもともと食糧輸入国、イギリスによるドイツ経済封鎖の効果

〔双方の封鎖合戦がエスカレートする中〕イギリスは、食糧も肥料も、1915年1月までにドイツへの戦時禁制品に指定、15年3月11日には敵国向け輸出品の没収を宣言。ドイツ、長期戦に耐えられない脆弱性。
開戦直前のドイツは全食料の3分の1を輸入。ライ麦、ジャガイモは自給できたとはいえ、主食である小麦は29.5%、飼料用大麦は45.95%を輸入。小麦・大麦の輸入相手国は、アメリカ、ロシア、アルゼンチン、カナダ、ルーマニア、デンマーク。ロシアは敵国になり、アメリカ、カナダ、アルゼンチンは海上封鎖で輸入量が激減。さらに問題なのは、良質な牛乳やバターを生産するのに必要な濃厚飼料、トウモロコシや燕麦など。平時においてドイツは濃厚飼料を600万トン輸入。

ドイツは、畜力・人力・肥料の不足から、農業生産力も大きく減退

生産量、ジャガイモは5200万トン(1913年)から2900万トン(1918年)へ、穀物も271万トンから173万トンへと減少。その理由は、主に、畜力、人力、肥料の不足。畜力、軍馬の徴発と飼料不足。人力、男性農民の動員。肥料、カリは国内で確保できたが、窒素、リン酸は輸入依存。
1918年時で、1 ha当たりの収穫量は、穀物は平時よりも25%も減少。粗飼料および濃厚飼料の不足のため、1頭あたりの生乳生産量も平時の3分の2、1頭あたりの屠殺重量も250 kgから130 kgへ半減。

ドイツ政府の価格政策の失敗で食糧危機が深刻化 ① 「豚殺し」

1914年10月、政府が穀物価格の最高価格を決定すると、農民たちは穀物やジャガイモを〔食糧より高価格の〕家畜の飼料に転用。
14年末から15年初頭にかけて、家畜頭数を減らすことで大量の食糧を人間のために浮かすことができる、との学者の意見が新聞を賑わせ、ついに豚の集団殺戮開始。「豚殺し」。14年12月にドイツ全土で2530万頭、翌年4月15日には1660万頭にまで減少。学者たちは、動物性脂肪は、穀物では代替にならないことを理解していなかった。こうして豚肉とラードが減少。

ドイツ政府の価格政策の失敗で食糧危機が深刻化 ② 「カブラの冬」

1916年は凶作。ジャガイモの収穫高は、1915年には約5000万トン、16年には26万トンに激減。主食がルタバガ〔=カブラ〕になった。この原因も、価格政策の失敗。
家畜飼料の高騰により、農民たちはジャガイモよりもルタバガの作付けを選んだ。収穫期に当たる16年秋からの食糧事情は深刻化し、飢饉といえる状況に陥った。ルタバガを食べなくては生きていけない。食の量の減少のみならず質が悪化。都市の住民には、豚殺しもカブラの冬も、農民の「利益追求の結果」であったという意識。

海上封鎖の環境下で政府の政策も不適切であったことが「カブラの冬」の事態を招いた原因であったようです。

なお、オーストリアの状況も、ドイツと非常に類似していたようです。ベルクハーン上掲書・『第一次世界大戦 1914-1918』 は、オーストリアは既に1914年10月には食糧不足、15年5月になると週2日は肉無し日、原因としてガリツィアに代表される重要な農業生産地が戦闘によって荒廃、1916年のジャガイモ収穫量は非常に悪かった、と指摘しています。

日本も、米国からの経済封鎖を受けて始めた大東亜・太平洋戦争期およびその敗戦後に、やはり深刻な食料危機となりました。輸入品が入ってこなくなった一方、人や資材の配分を兵員と軍需物資生産・輸送に最優先で振り当てたための当然の結果でしたが、この点でも、第一次世界大戦でのドイツやオーストリアの経験から教訓を学んでいなかった、と言えるように思われます。

 

ドイツは、「カブラの冬」でも、強気の講和条件要求を引き下げず

1916年12月12日にドイツが講和会議の呼びかけを行ったとき、実は、ドイツ国内の食糧危機は深刻化していたわけです。そうであれば、理性的に考えれば、ドイツとしても、とにかく停戦・講和の実現が最優先であるとして、講和条件の要求値は引き下げることが肝要であった、と思われるのですが、そうはなりませんでした。

戦争では、双方とも、大量の血を流して戦っているために、感情的な判断が優先されてしまい、理性的な判断は通りにくくなる、というのが通例なのでしょう。ただし、その結果は主観的な願望とは真逆で、戦争はその後も継続し、最終的にドイツの敗戦となり、ドイツ帝国の崩壊となったわけです。

現代のビジネスでも、事業からの撤退のタイミングを間違えて、結果として企業の業績を著しく悪化させたり、企業倒産につながってしまう事態がときどき発生しています。まさしく戦争と同様で、それまでに投入した資金・労力が大きければ大きいほど、メンツや感情が優先されて、理性的に撤退判断を行うのが難しくなってしまうようです。

経済封鎖によるドイツの食糧事情の深刻化は、最終的にはドイツ革命につながり、第一次世界大戦を終わらせる重大要因の一つとなりました。ただし、それまでに、さらにもう2年近い年月が必要でした。

 

 

次は、1917年の大戦の状況です。