5b 総力戦でなく経済力戦

 

第一次世界大戦では、一人当たり国民所得が高い国が勝利し、それが低い国は敗北しました。すなわち、長期戦となったこの大戦は、まさしく「経済力戦」となったわけです。(「3 第一次大戦の総括 3a 主要国の戦費」)

この点は、当時の日本の軍部内でもある程度は理解されており、その教訓に基づいて産業立国主義を提唱した犬養毅のような大物政治家もいたのにかかわらず、軍は軍事予算を削っても産業力強化・経済成長促進を優先する方策には転換せず、相変わらずの貧国強兵路線を継続しました。

このことが昭和前期の敗戦という大失策につながったこと、またその背景には、昭和前期の日本陸軍が、第一次世界大戦のキーワードを、「経済力戦」と言わず「総力戦」と言い張って当時の世論をミスリードしたこと、それに現在の研究者までミスリードされ続けていると思われること、これらが、ここで確認したい点です。

 

 

当時の日本は、戦争を行うにも、国力増進・工業化促進が必須だった

当時の日本軍人も、国力増進・工業化推進が必須と認識していた

大戦中および大戦直後に、ヨーロッパに二度出かけて、大戦の状況と結果を自分の目で見た海軍大佐・水野広徳は、ドイツの敗因分析で、第一次世界大戦の特徴を表す言葉として、「国民戦」・「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」という言葉を使いました(「2 第一次世界大戦の経過 2e3 ドイツの敗因」

ドイツは、「国民戦」・「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」に敗けたわけですから、日本は、工業化を促進し、経済力・物力を高めて国力を増進するという対策を打つことで、戦争のあり方の状況変化に対応する必要がありました。

日本陸軍内でも、「産業上の一等国民は、戦場における最強国民」と指摘されていた

「元海軍軍人」の水野広徳だけでなく、日本陸軍内でも、第一次世界大戦の調査報告中に、工業化水準の高さの重要性を認識して、「産業上の一等国民は、戦場における最強国民」と指摘した報告があったようです。以下は、葛原和三 「帝国陸軍の第一次世界大戦史研究」からの要約です。

陸軍内にも、産業力の重要性の指摘があった

第一次世界大戦について日本陸軍が調査した要点の抄録は、「参戦諸国の陸軍に就て」と題して発刊され、大正9(1920)年の第五版には、「産業上の一等国民は、同時に戦場に於ける最強国軍たり、戦時に於ける最強国民たるを得」としている。
また、臨時軍事調査委員からの「物質的国防要素充実に関する意見」は、「挙国一致を以て産業、特に運輸交通並びに技術の発達を助長促進し」と記している。

第一次世界大戦中~大戦後の日本陸海軍には、間違いなく、大戦を経済力戦と見て、日本の経済力の増進の必要性を認識している論者がいたのです。

 

政治家・犬養毅も、近代的軍備のための「産業立国主義」を提唱した

第一次世界大戦で出現した状況変化への対策として、工業化の促進を優先課題とする必要があることは、当時の日本の国政の場でも指摘されていました。以下は、戸部良一 『逆説の軍隊 (日本の近代 9)』 からの引用です。

総力戦のための産業力強化論

1921(大正10)年、まだワシントン会議開催の動きもない頃、国民党総理の犬養毅は産業立国主義を唱え、現役1年在営制と師団半減を主張した。彼は、総力戦の見地から産業力の強化を訴え、それが近代的軍備をつくりだす基礎である、と次のように論じた。

犬養毅の実際の主張 - 経済力がともなわなければ敗軍

今日の戦争は、軍人だけの戦争ではなくて国民全体の戦争であり、武力だけの戦争ではなくて武力と経済とを合した国力全部の対抗である。… 如何に精鋭な武器があっても、弾薬があっても、経済力がともなわなければ、結局は敗軍(まけいくさ)に終わるのほかないことは、この大戦が証明したのである。かような有様であるから、日本の陸海軍がどんなに力んでも、現在のような産業状態では、とうてい戦争はできない。… それよりは、平素の全力を産業の発達に用い、万一の場合には国力全部をもって対抗しうべき実力を養成しておくことが急務である。

とくに、「経済力がともなわなければ、結局は敗軍(まけいくさ)に終わるのほかないことは、この大戦が証明した」という言葉は、誰にも分かりやすい言葉で、この大戦の教訓を説明したものと言えるのではないでしょうか。

 

カイゼン視点から見て、犬飼毅の主張は状況変化への適切な対応策

この犬養毅の主張は、カイゼン視点から見れば、状況の変化によって生じた新たな課題に対し、きわめて適切な対応策を提唱したもの、と評価できるように思います。

産業力が低い日本は、列国と戦えば敗けるだけ、したがって、工業化水準が先進列国に追いつくまでは、国際紛争から戦争に巻き込まれる事態を回避するよう、協調外交を行う、同時に国内では、工業化促進を最優先課題とする政策を実行していく、という方針を、まずは政軍で共有化することが最も適切でした。

工業化促進の費用の捻出については、工業化促進費も軍費の一部と考えて、その原資を軍組織の合理化によってひねり出す、という対策は、軍自身の目的の達成のためにも、最も適切であった、と言えるように思います。

ただし、このときは産業立国主義を主張した犬養毅ですが、10年後の1930(昭和5)年には、ロンドン軍縮会議後の海軍軍縮条約調印に関連して、政府を「統帥権干犯」であるとして追及、その後の軍部独走を招く原因を作りました。自党の勢力伸長を優先するための倒閣行動を優先するあまり、原理原則を曲げることがある政治家であったという点は、残念なところです。

 

日本陸軍は、教訓には従わない選択を行った

軍備費予算の削減まで踏み込めなかった宇垣軍縮

では、産業立国主義の提案に対し、日本陸軍はどう考えたのでしょうか。以下は、黒野耐 『帝国陸軍の<改革と抵抗>』 による、上記の犬養毅の主張と、後に宇垣軍縮を行った宇垣一成の考えとを比較した論評の要約です。

「宇垣軍縮」の宇垣一成は、犬養「産業立国論」には同意しなかった

犬養の考えは宇垣のそれにきわめて近いものであったが、宇垣は、軍備縮小の論拠が薄弱である、と批判して、軍備の削減を基礎とする産業立国論には同意しなかった。犬養の正論を実行しなかったため、日本は長期的不況から脱却できなかったし、陸軍は常備軍を削減しても近代化できないというジレンマに陥っていく。

犬養と宇垣の考え方は近かったと言っても、結果においては、第一次世界大戦で生じた状況変化に対応するのかしないのか、現に工業化促進の政策費を捻出するのかしないのか、という点で大きな差を生じました。

 

結果として産業力強化ができなかった宇垣軍縮

政府の予算のうち軍備費予算を削減し、そこで浮いた分を、たとえば鉄道や道路などのインフラ投資や、工場の設備投資の補助金などに充てれば、産業の発達が確実に促進されます。

軍備費予算も、軍需産業への支援にはなりますが、産業全体の実力を底上げするものにはなりません。たとえば戦車は、トラクターという農業機械産業や自動車産業が発達していたからこそ開発できた兵器です。産業の裾野が拡大しなければ、軍需産業も強力にはならず、列国と比べ日本の軍需産業の総合力は低いままにとどまらざるをえません。

軍備費予算の削減に反対することは、「戦場における最強国民」たる「産業上の一等国民」を作る努力の足を引っ張ることでしかなかった、と言えます。

強力な軍を作りたければ、急がば回れで、まずは産業力の強化から実施する必要がある、産業力の強化に使われる予算は、したがって強力な軍を作り出す予算の一部である、ということを、軍の共通認識とする必要がありましたが、宇垣には、その努力が十分ではなかったように思われます。

陸軍内の「近代化路線派」対「現状維持派」の対立については、後で確認しますが、宇垣が、陸軍内の対立に配慮して犬養の「正論」を取り上げなかったことは、結局は、日本陸軍が、第一次世界大戦の重要な教訓は無視する、という路線を選択したことになりました。日本陸軍は、教訓は分かっていたのにそれを無視して、必要な方策は実行しないことを選んだ、と言えるように思います。

陸軍内の派閥対立については、「5d 兵員数より最新兵器」のページで詳細を確認いたします。

 

第一次世界大戦のキーワードは、「総力戦」ではなく「経済力戦」

キーワード=「総力戦」は、高経済力の先進工業国以外には不適切

「総力戦」という言葉は、良く知られているように、ドイツの参謀総長だったルーデンドルフがその著書のタイトルにした言葉であり、ドイツ・イギリス・フランスなどの先進工業国にとっての第一次世界大戦を論じる場合には、適切なキーワードの一つとして良いかもしれません。

しかしながら、第一次世界大戦でロシアは、180万人もの戦死者(一般人を加えた戦没者は300万人前後にも及ぶ -「3 第一次大戦の総括 3b 大量殺戮の実態」)を出しながら、脱落しました。「総力戦」を戦ったのに敗れたのです。一人当たり国民所得が欧州列国中で最も低く、工業化もまだまだ遅れていたからです(「同 3a 主要国の戦費」)。

つまり、「総力戦」という言葉は、ロシアのようにまだ先進工業国入りしていない国にとっては、適切とは思えません。ましてや、一人当たり国民所得がロシアよりもさらに低かった日本にとっては、ますます不適切でした。

 

欧米の研究書では、第一次世界大戦のキーワード=「工業化された戦争」

欧米の研究書の多くも、すでに「3 第一次世界大戦の総括 3c 兵器と軍事技術のカイゼン」のページで確認しました通り、第一次世界大戦についてのキーワードを、「工業化された戦争」としているものが多数であり、「総力戦」は適切なキーワードとはみられていないようです。

せめて「総力戦」の基盤が「工業力水準」にあることを明らかにしたうえで、したがって当時の日本は工業力不足で、列国に対しては戦争ができない国になった、と指摘するなら、「総力戦」がキーワードでも妥当とみなせないこともありません。

しかし、日本の研究書の多くは、「総力戦」をキーワードとして使用しているだけでなく、当時の日本と欧米列国の経済力・工業化水準との定量的な比較という事実確認を行わず、また当時の政策として何を行うのが最も適切であったのかを論じることなしに、「日本流の総力戦対応」の課題として、国家総動員体制や精神論の強調という論点に集中している傾向が強く感じられるのですが、誤解でしょうか。

 

「経済力戦」と言うと見えてくるもの

第一次世界大戦の良い観察者であった海軍大佐・水野広徳は、第一次世界大戦の特徴を表す言葉として、「国民戦」・「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」という言葉を使いました。(『自伝 (反骨の軍人・水野広徳)』 -また「2 第一次世界大戦の経過 25c ドイツの敗因」もご参照ください)

この4つの「戦」と「総力戦」を比べてみると、「国民戦」のイメージは「総力戦」と合致しますが、「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」がイメージするものは、「総力戦」という言葉からはイメージされにくいことに気がつきます。

「経済力」「物力」「国力」の優れた欧米列国には、日本は逆立ちしても勝てない、というのが、第一次世界大戦の教訓の一つでした。水野広徳は、列国との戦争は「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」とならざるを得えず、戦えば日本は必ず負けることが明らかであるとして、日米非戦論を主張するようになりました。

 

石原莞爾も、第一次大戦は「経済戦」と認識して、日米開戦に反対

満州事変を引き起こした張本人である石原莞爾も、「第一次欧州大戦では … 両軍は大体互角で持久戦争となり、ドイツは主として経済戦に敗れて遂に降伏した」として、持久戦争を最終的に決着させたのは経済力と指摘しています。

そればかりか、すでに欧州ではヒトラーが攻勢が開始して「第二次欧州大戦」が始まっていた1940~41年の時点でも、今日もまだ経済が勝敗を決する「持久戦争の時代」と認識、「今から30年内外で人類最後の決勝戦の時代に入」るが、そこで日本にとっては「東亜連盟の結成と生産力拡充という二つが重要な問題」であるとして、対応策として東亜諸国の国際協調と経済成長とを最重要課題に置いています。

こうした見方をしているがゆえに、石原莞爾も、「3年後には日米海軍の差が甚だしくなるから、今のうちに米国をやっつけるという者があるが、… 日米開戦となったならば極めて長期の戦争を予期せねばならぬ。米国は更に建艦速度を増し、所望の実力が出来上がるまでは決戦を避けるであろう。自分に都合よいように理屈をつける事は危険千万である」と、日米開戦に反対していました。

なお、石原莞爾の著書中にも「総力戦」の語は現れていますが、「それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない、そんななまぬるいのは持久戦争時代のこと」という、陸軍を批判する文脈の中での使用です。(以上はすべて、石原莞爾 『最終戦争論・戦争史大観』

海軍出身の水野広徳と陸軍の石原莞爾では、経歴背景は全く異なるものの、経済力が第一次世界大戦を決したと理解していた点で共通しており、そのため国際協調や経済成長が何よりも重要な国防対策であって、経済水準がまだ低位の現状では日米戦争は回避すべきもの、との認識まで共通でした。

(ただし、石原莞爾の場合は、経済成長が重要と認識しながらも、現実の政策上では、参謀本部の課長~部長時代に、対ソ戦対策から国防予算を大膨張させました。石原は軍事の専門家に過ぎず、経済成長はどうすれば可能かの知識を全く欠いていたため、と理解するのが妥当のように思われます。)

 

「経済戦」と認識していたなら、昭和前期の日本は、戦争には進まなかった可能性

第一次世界大戦後に、戦争の遂行に必要なものは何よりも経済力、局地戦はともかく、大戦争は経済力がなければできない、という教訓が常識になっていたなら、犬飼毅の産業立国主義流の考え方が主流になっていたなら、昭和前期の日本は、中国や米英に大戦争を仕掛けることはなかったのではないでしょうか。

経済力のない日本が大戦争を仕掛ければ敗れる、国は滅びる、というのが共通認識なら、何か紛争が生じても局地戦に限定し、米英との対立を招かないような対策を常にとっていたでしょう。

経済力を高めることこそ第一等の国防策、適切な産業促進策を企図して経済成長を実現できる経済官僚は、軍人と同等かそれ以上に国防に貢献する、と認めるようになっていたなら、そして優秀な若手経済官僚は米英に留学させるようにしていれば、経済政策や経済成長の進度も大きく変化し、国のあり方も変わっていたのではないか、と思われます。

また陸軍も、エリート若手将校の留学先を、敗戦国で帝政から共和制に変わったドイツから、戦勝国であった米英に変えていたなら、経済力の意味をより的確に理解するようになり、貧国強兵の軍事予算最優先主義にはならず、米英との戦争もいとわずというような大言壮語をする輩の発生も防げていたのではないでしょうか。

第一次世界大戦の教訓を適切に理解しなかったことが、昭和前期の大失策の大きな原因となった、と言わざるを得ないように思われます。

 

キーワード=「総力戦」は、ミスリーディング

日本陸軍は、ミスリードするために意図的に「総力戦」を選択

第一次世界大戦後の日本軍は、水野広徳のような非戦論が広がらないようにするために、あるいは財政の制約の中で巨額の陸軍予算を確保することに支障が生じないように、「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」を意識させにくい「総力戦」という言葉をむしろ積極的に選んだ、という可能性が高そうに思われます。

上で確認しました通り、当時の軍内部の論者が「経済力戦」という言葉を使っていたのにかかわらず、公式用語には使わなかったのですから、意図的に回避して「総力戦」を選んだ、と考えるのが妥当ではないでしょうか。

すなわち、「総力戦」は、第一次世界大戦の「本質を的確に表したキーワード」ではなく、日本陸軍のいわば「本質を隠すための政策用語」であって、その結果、「総力戦」の本質が「経済力」、とりわけ「工業化水準」にあることは、日本軍自身にも国民にも、十分には理解されずに済まされてしまったように思います。

 

現代の日本の研究者は、キーワード=「総力戦」で自らをミスリード

ですから、現代の日本の研究者の大多数が、今も「総力戦」を第一次世界大戦の本質を示すキーワードであるとしていることは、結果として、目的達成のために本来目を向けるべき重要課題が抜け落ちても気づかず、当時の日本軍の重大な失敗を見過ごす事態を生じさせていて、明らかに不適切のように思われるのです。

第一次世界大戦後の日本軍に関する研究書の中に、上記の犬養毅の主張を取り上げて、第一次世界大戦での状況変化への最も適切な対策は、工業化水準の引上げ策であったことを論じているものが少ない、という印象を持っていますが、これも重要課題抜け落ちの例の一つであるように思われます。

当時の日本陸軍が「総力戦」をキーワードとして使用していた、という記述なら、事実の記述として少しも不適切ではありませんが、研究者自身の第一次世界大戦の認識のキーワードとして「総力戦」を選ぶのであれば不適切、という意味です。

日本にとっての第一次世界大戦、という視点での研究であれば、第一次世界大戦のキーワードとしては、「経済力戦」「工業化された戦争」とするほうが、当時の日本の国力水準も、政府のみならず軍にとっての本来の最重要政策課題も、どちらも明確になるので、より適切と思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

次は、第一次世界大戦後の日本が、国家の発展モデルに関連して認識し損ねたことのもう一つとして、植民地を持つことがリスクに転じ始めたことについて、確認をしていきます。