5 日本が学ばなかった教訓

 

ここまで、第一次世界大戦について、大戦が開戦に至った経緯、欧州大戦の経過、欧州大戦の総括、そして日本が戦った第一次世界大戦、という順序で、確認を行ってきました。その結果、第一次世界大戦での経験から、さまざまな重要な教訓が読み取れることも確認してきました。

ところが日本は、第一次世界大戦が終わってから20数年後の昭和前期、まず対中、次に対米英の戦争を開戦して敗北するという大失策を犯しました。日本が、第一次世界大戦の教訓を学んでいなかったためと思われます。

 

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昭和前期の日本は、第一次世界大戦の教訓を学ばず、大失策した

「2 第一次世界大戦の経過」で確認した教訓 - 戦争の「長期戦化」の大リスク

本ウェブサイトの「2 第一次世界大戦の経過」で確認したことは、1914年8月に開戦し、両陣営とも、その年のクリスマスには終わっているだろうと期待した戦争が、1918年11月まで停戦に至らず、4年4ヶ月もの間継続してしまった、という現実でした。

開戦後2年以上を経過した1916年12月には、講和への動きもあるにはあったのですが、

● 軍事的に優位を保ち続けていたドイツ側では、その優勢をもとに要求が膨らんでいた
● 連合国側は、軍事的には劣勢でも、勝てると考えていた

ことから、両者の講和条件には決定的なズレがあり、講和への動きは具体化しませんでした。

◆ 優勢の側がよほど譲歩しないと、劣勢の側はなかなか妥協に応じない
◆ しかし、優勢の側の内部では、優勢を相手に押し付けようとする意見が強く存在し、妥協が成立しうる「よほどの譲歩」を提案することが内部的に許されない
◆ そのため、妥協は成立せず、戦争はさらに長期化せざるを得なくなる
というのが、第一次世界大戦で実際に起ったことでした。

「短期決戦による戦争の決着、あるいは、軍事的に優勢の側に都合のよい時期と条件での決着は、実現困難な願望」であり、「戦争は長期化するもの」という現実は、昭和前期の日本軍が最も学ぶべき教訓であった、というのは、「2c4 1916年 カブラの冬」のページで確認したことです。

 

「3 第一次世界大戦の総括」で確認した教訓 - 「長期戦化」リスクへの対応

本ウェブサイトの「3 第一次世界大戦の総括」では、第一次世界大戦は長期戦化してしまった、という現実の下で、
① 戦争への資金投入とその影響
② 人的投入とその損失
③ 兵器や軍事技術のカイゼン競争とその結果
④ 大戦の結果としての主要交戦国の得失
という4つの観点から、総括を行いました。

ここで行った総括の中で、とくに、日本が学べたはずであるのに学ばなかった事項を挙げますと、以下がありました。

「3a 主要国の戦費」のページ

● 長期戦になると、経済力が勝敗を決定する。経済力では、開戦時から、連合国側が優位であった。
● 経済指標の中では、「一人当たりGDP」が最重要である。主要交戦国中、一人当たりGDPが一番低いロシアが最初に脱落、二番目に低いオーストリアも実質的に脱落した。
● 戦費は、中央銀行が国債を引き受け紙幣を発行、その結果、戦中から戦後に、交戦各国は激しいインフレとなった。
● 戦争の結果、交戦国の経済成長率は、中立国よりも低くなった。
→ 敗ける戦争はもちろんのこと、長期戦になってしまうなら、勝てる戦争も絶対にしてはいけない

「3b 大量殺戮の実態」のページ

● 経済成長=工業化の段階がより後進的な国の方が戦死者の比率が高かった。
● 従軍者の死傷は、大砲の砲撃がその最大原因、次は機関銃・小銃による銃撃。まさに、強大な火力と弾丸を豊富に持っていてそれを上手く使う側が、戦闘を優位に進められる戦争であり、工業化の進展度が重大要因であった。

「3c 兵器と軍事技術のカイゼン」のページ

● 英仏独はすでに「工業化」されていて、大量生産の急速立上げが可能、必要な巨大物量の兵器弾薬を供給でき、4年以上の長期間を戦い抜くことができた。
● 「工業化」が不十分であったロシアやオーストリアは、戦争から脱落した。
● 第一次世界大戦では、工業力とカイゼン力こそが、長期戦の最終的な勝敗を決した。
→ 昭和前期の日本軍は、第一次世界大戦の教訓と正反対のことをやった。人員体制の維持を優先して、兵器の近代化を不十分にした。「総力戦」と「精神力」を強調することで、工業化促進の必要性を無視するのが正当と錯覚させた。

「3d 主要各国の得失」のページ

● 速戦即決は成り立たない。戦争は、相手側に継戦の意思があり、支援国がある限り、継続して長期戦化する。
● 最終的な勝利は、経済封鎖を受けていない側、より強力な経済力のある支援国を持つ側にある。
● 戦争は、敗けたら大損で国が亡びる、勝っても全く引き合わない。
● 自国は戦争をせず他国の戦争で儲けるのが、一番経済的に利益が大きく、国際的な地位の向上にもつながる。
→ 戦争は勝っても損、戦争をしないのが一番儲かる

 

昭和前期の日本は、第一次世界大戦の教訓を反映してカイゼンするのに、十分な時間はあった

第一次世界大戦が終了したのは1918(大正7)年の11月でした。
● そこから日本が満州事変を起こした1931(昭和6)年までは13年
● 日中戦争の直接の引き金となった盧溝橋事件が起こった1937(昭和12)年までは19年
● 日本が「大東亜・太平洋戦争」を仕掛けた1941(昭和16)年までは23年
ということになります。

満州事変まででも13年間ありましたから、日本は、その間に第一次世界大戦の教訓を取り込んで、日本のカイゼンに活かすことは十分に可能だったはずでした。大東亜・太平洋戦争の開戦までの23年間もあれば、カイゼンをもっと発展させることもできていたでしょう。

しかし、これまでに確認してきた第一次世界大戦の教訓と、その後昭和前期になって日本に実際に起こったことを比べてみると、昭和前期の日本は、第一次世界大戦の教訓を活かさずカイゼンを行わず、むしろ第一次世界大戦の教訓に反する行動を繰り返して失敗してしまった、と言わざるをえないようにように思われます。

ここでは、第一次世界大戦での経験から学べたはずであったのにかかわらず、大正後期から昭和初期の日本が学ぼうとしなかった教訓のうち、とくに重要な下記の5項目について、当時の日本ではなぜその教訓がカイゼンに活かされなかったのか、その経緯を確認したいと思います。

「大東亜・太平洋戦争」という言葉を使う理由

ここで1点、注記をいたしておきます。

上にありますように、本ウェブサイトでは、昭和前期の日本が起こした1941年12月から1945年8月までの戦争のことを、「大東亜・太平洋戦争」と呼んでいますが、以下の理由によるものです。

● 「太平洋戦争」という言い方は、米軍にとっては、この戦争での日本軍との戦闘地域の適切な表現である。
しかし「太平洋」では、日本軍と中国軍(国民党軍・共産党軍)や英軍などとの戦闘があった中国~東南アジア西部~インド最東部に至る広い地域が入らないので、この戦争全体の表現としては不適切と思われる。

● 「アジア・太平洋戦争」という言い方もされている。
しかし、アジアのうちで、西アジア (トルコ~中近東)、南アジア (イラン~インド) の大部分、中央アジア、北アジア (ロシアのアジア地域)という広い地域 (おそらくアジア全体の半分以上の地域) は、この戦争での日本軍の戦闘地域ではなかったので、これも適切とは感じられない。

● 中国~東南アジアの西部~インド東部に至る広い地域を表現する言葉としては、やはり「大東亜 (=拡大東アジア Greater East Asia)」が適切と思われる。
そこで、アジア・太平洋地域の中で、実際に日本軍と中国軍や英軍、米軍などとの交戦があった地域の全体を概ね適切に示す言葉として、「大東亜・太平洋戦争」と呼びたい。

なお、ここでの「大東亜」は、あくまで拡大東アジアという地理的概念です。昭和前期の戦争や、その背景にあった考え方や「大東亜共栄圏」等を肯定するものでは全くありません。

むしろ正反対で、本文をお読みいただければ分かりますように、「大東亜・太平洋戦争」は、第一次世界大戦の教訓を全く学ぶことなく行われた、昭和前期の日本の大失策、と考えております。

昭和前期の日本の陸海軍が願望思考で始めた「大東亜戦争」は、直ちに「大東亜・太平洋戦争化」してその願望は破砕され、識者が以前から予測・警告していた通りに、日本は連合国に完璧に打ちのめされて敗戦した、という現実をより明確にできるのではないか、とも考えております。

 

本章の内容

戦争より非戦が得

第一次世界大戦では、敗戦すると帝国がつぶれてしまう、他方、戦勝国であっても得られるものは払った犠牲に全く引き合わない、という現実が明らかとなりました。

むしろ自国は戦争には参加せず、膨大な資源を浪費している参戦国への物資供給者となるのが、最も経済的利益が大きく、国際的な地位の向上にもつながることが、日本自身の経験にもなりました。ところが、昭和前期の日本は、日清戦争以来の、「戦争ビジネスモデル」が成り立つという幻想を持ち続けて大失敗しました。

 

「総力戦」ではなく「経済力戦」

第一次世界大戦では、一人当たり国民所得が高い国が勝利し、それが低い国は敗北しました。すなわち、長期戦となったこの大戦は、まさしく「経済力戦」となったわけです。

この点は、当時の日本の軍部内でもある程度は理解されており、その教訓に基づいて産業立国主義を提唱した犬養毅のような大物政治家もいたのにかかわらず、軍は軍事予算を削っても産業力強化・経済成長促進を優先する方策には転換せず、相変わらずの貧国強兵路線を継続しました。

 

植民地の保有はリスク

第一次世界大戦では、敗戦国であったドイツ・オーストリア・ロシア・トルコの4帝国はいずれも崩壊し、その旧領の一部は、戦勝国によって再分割され植民地として継続しましたが、その旧領地域から、民族自決主義により多くの独立国も生まれました。

それどころか戦勝国側でも、宗主国イギリスと戦って独立を勝ち取ったアイルランドやエジプトのような国が生まれました。さらに、日本がらみでは、朝鮮で三・一運動、中国で五・四運動が発生しました。第一次世界大戦の結果、植民地の継続保有は、植民地側からの強い抵抗を受けてリスク化する傾向が表面化した、と言えそうです。

第一次世界大戦後の日本は、このリスクを適切に評価・認識せず、相変わらず植民地・勢力圏の拡大を目指して、満州事変から日中戦争に進んでいき、当然の抵抗を受けて、結局は全てを失うことになりました。

 

強い陸軍 - 兵員数より最新兵器

第一次世界大戦では、兵力数以上に銃砲数・銃砲弾数が圧倒的に重要で、歩兵の突撃精神がいくら強固でも、機関銃には絶対に勝てないことが明らかになりました。また、軍事力の優位性の維持には、火力には塹壕、塹壕には戦車、など兵器のカイゼン・技術革新を進めることの重要性も明らかになりました。そして、軍事力の優位性の基盤として、なによりも工業化の進展度が重要であり、その前提条件が成立していない総力戦では敗北することも明らかになりました。

この教訓を生かそうと、第一次世界大戦後の日本陸軍は、兵力数削減で予算を浮かせ、それを兵器のカイゼンに活かそうという取り組みを開始したものの、そのせっかくの努力は途中で挫折させられ、昭和前期の日本の大失敗につながってしまいました。

 

高コスパ海軍 - 艦隊決戦より海上封鎖

第一次世界大戦では、大艦巨砲の活躍の場はなく、むしろ潜水艦と駆逐艦が大活躍しました。実際、第一次世界大戦での海軍の最大の機能は、海上封鎖、すなわち輸送船への攻撃による海上物流遮断と、その対策としての輸送船防衛にあり、艦隊決戦はたいした意味を持ちませんでした。

しかし、第一次世界大戦後の日本海軍では、大艦巨砲を強化する方針が継続され、その出費は日本の財政を継続的に圧迫して、結果的に日本の工業化促進への制約条件になってしまいました。

 

敗北の絶対回避 - 孤立より国際協調

第一次世界大戦では、ドイツは終始軍事的な優位性を保ったのにかかわらず、経済封鎖された影響が表面化して、最終的に敗北してしまいました。すなわち、軍事的な勝利のためには、経済封鎖を避けることが最重要対策であり、その手段として、とくに大きな経済力を有する国との国際協調の維持の重要さが明らかになりました。

ところが昭和前期の日本は、英米との協調を行わずむしろ好んで対立し、地理的に経済封鎖対策には役立たない、独伊との同盟に踏み切って、敗北の条件をつくってしまいました。

 

上記以外にも論点はあろうと思います。例えば、近代日本の国家体制整備にあたってモデルとされ、大日本帝国憲法の範にもしたドイツが、敗戦して帝政が崩壊してしまったわけですから、常識的には、そのドイツの轍を踏まないようにするための防止策、あるいは日本の国家体制のカイゼン・見直しが議論されてしかるべきであったように思われるのに、それがなされなかった、というポイントもあります。しかし、この点については筆者もまだ研究不足であり、ここでは取り上げないことに致します。

 

 

まずは、「戦争より非戦が得」という、国家としての戦争に関するポリシー、および戦争ビジネスモデル幻想の存続、についてです。