ドイツ軍が圧倒的な強さを見せながらも、フランスを敗北に追い込むという目的の達成については失敗に終わったシュリーフェン計画ですが、なぜ失敗したのでしょうか。この疑問には、いろいろな研究者が論究しています。
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リデル・ハートが見たシュリーフェン計画失敗の原因
まずは、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 が失敗の原因として何を指摘していたか、についてです。右翼を強化すべきであったのに左翼を強化した、という点には、すでに前ページで触れしました。以下は、それ以外の重要ポイントについての要約です。
モルトケは右翼を強化しなかっただけでなく、右翼からさらに抽出した
誤りの第一は、モルトケがシュリーフェンの意図したとおり後備軍、補充軍を用いることをせず、愚かにも第一線にある7個師団をさいてモブージュ Maubeuge とジベ Givet を包囲させ、またアントワープを監視させたこと。もっと悪いことは、彼が8月25日、東プロシアにおけるロシア軍の前進を阻止するために、4個師団を東方に派遣する断を下したこと。これらの兵力もまた右翼から引き抜かれた。
根本的な問題は、補給が追い付かなかったこと
おそらくこれがもっとも重大、ドイツ軍が予定時間を上回る早い速度で前進したため、補給が追いつかず、飢えによる兵員の疲労が増した。実際、いざ戦闘開始となったとき、兵員は肉体的消耗のためにほとんど行動できない状態だった。
ドイツは、戦略的に敗北した
結果は戦略的敗北であって、戦術的敗北ではなかった。だからドイツ軍右翼はひび割れをつぎ合わせ、エーヌ川戦線で頑強に抵抗することができた。マルヌ川の戦闘で、連合軍27個師団が、ドイツ軍13個師団と決定的側面で対決したという事実は、第一に、モルトケがいかに完全にシュリーフェンの意図から逸脱したかの証拠であり、第二に、フランス軍総司令官ジョッフルがきわめて困難な状況のもとに自軍をいかにうまく立て直したのかの証拠でもある。また第三に、このように数字上の優勢がはっきりしている以上、現実に企てられた包囲よりももっと大規模な包囲も可能であったということの証拠である。
兵力不足、補給不足が原因であったと指摘されています。
JMウィンターが指摘する「3つの基本的な問題点」
一方、JMウィンター 『第一次世界大戦』 は、シュリーフェン計画には、以下の「3つの基本的な問題点」があったと指摘しています。
人間の耐久力、兵站、通信の確保
第一に人間の耐久力。9月初めまでに多数の部隊が疲労のために力尽きた。
第二に兵站。たとえマルヌの戦いで勝利を得たとてしてもそれ以上の前進はおそらく不可能。
第三に通信の問題。戦線から240km離れたルクセンブルクに設置された総司令部との連絡が追い付かなかった。
兵站と兵の疲労については、リデル・ハートの指摘と一致してます。「ドイツ軍はとうてい不可能なことをしようとしていた」というのが、JMウィンターの結論です。
クレフェルトが指摘するシュリーフェン計画の「兵站上の問題点」
ハート、ウィンター両者の共通の指摘である兵站の問題について、クレフェルトが、さらに詳細に分析・追求しています。少し長くなりますが、クレフェルト 『補給戦』 からの要約です。
1914年までに人口と経済が急拡大、軍の補給の必要量も増大
ヨーロッパは、1871年(=普仏戦争時)から1914年(=第一次大戦開戦時)にかけて、人口はおよそ70パーセント増加。フランス陸軍の兵力規模は、1870年で50万人弱、1914年では400万人以上。
軍隊が戦場に持っていく行李の数は、兵力量の増加率をさらに上回って増えた。ドイツの大砲は普仏戦争時の5倍の数に。また砲弾は、1門あたり平均で普仏戦争時の5倍の量を、戦争開始後1か月半以内にほとんど消費。
輸送必要量の増加から、兵士対馬匹の比率は、1870年における4対1から、3対1に。馬は人間の約10倍食べるため、各部隊あたりの食糧必要量は約50パーセント増加。鉄道もめざましい発展をしたが、その性格上、前線背後での輸送に限定。
軍団は、規模拡大の結果、前進スピードが低下
1914年の各国軍隊は、兵と馬の足に相変わらず依存。1日あたり15マイル〔約24キロ〕の前進スピードの維持はますます困難に。限界距離、すなわち軍隊が兵站駅から離れて行動できる最大距離、1860年代の100マイル〔約160キロ〕はその約半分に低下。1箇軍団の規模が大きくなりすぎたため、軍団が全く前進しない時でさえも、それに補給を続けることは困難。
シュリーフェン計画の問題点は、大軍への長距離補給の困難さ
シュリーフェン計画は、兵站的思考ではなく戦略中心。二つの問題。
第一に、42日間に400マイル〔約640キロ、1日平均約15キロ〕、ドイツ軍が行進の果てに遂にフランス軍と対峙した時、疲労困憊のため行動不能に。
第二に本国からはるかに離れた土地で大軍を維持し補給。シュリーフェンはそれを全く理解するに至らず。シュリーフェンは、極めて重要な右翼について、軍の維持・補給を検討するための兵棋演習を行っていない。
モルトケによる実施上の問題点、補給問題に気づきながら放置
小モルトケは補給および食糧確保という問題のすべてが、シュリーフェンによってないがしろにされていると感じた。それだけに彼が、計画の基本的輪郭を大幅修正するのではなく、それを依然として継続したというのは驚き。
6箇の軍団にたった3本の道路、縦列の長さは約80マイル、補給の混乱は確実。ドイツ軍、ベルギー国境を越える以前においてさえ、重輸送中隊は遅れ始めた。その時、各部隊に食糧を補給するための諸措置が全く不十分であることが即座に明瞭になった。
兵の食糧は現地徴発に頼り、馬のかいばがなく、作戦にも影響
ドイツ軍にとって幸いだったのは、通過する国土が豊かで、季節が好都合だったこと。また退却するベルギー軍の補給物資集積場を活用。各軍団は1日で約130トンの食糧とかいばを消費、そのような莫大な量を発見するため、一層1日当たりの前進距離が増大。
兵は現地徴発で食べてゆけたが、ドイツ軍は、敵地で馬にどうやって食物を与えるかに、まったく準備なし。作戦に影響。8月11日には、騎兵1箇師団が軍馬の飢えと疲労のために脱落。マルヌ川戦闘の直前、馬匹牽引の重砲隊・弾薬補給部隊は追従できず完全に失敗、弾薬補給の全任務は、極めて数の少ない自動車輸送中隊に。激しく使われたため、トラックの60パーセントがマルヌ川戦闘開始までに破壊されていた。
シュリーフェン計画は、1914年の大軍には、実行不可能だった
マルヌ川に到着した時、ドイツ軍大隊の多くは実兵力が半分に減少。戦闘や病気による損害と、敵地での補給線維持の必要性とが原因。そのうえひどい疲労。もはや参謀総長ではなくなった時にモルトケは、マルヌ川までの絶え間ない突進は過ちと気づいた。
マルヌ川の戦闘がドイツ軍に有利に運んだとしても、その進撃力は尽きた。シュリーフェン計画は兵站面から見て実行不可能。リデル・ハートが述べたように、ナポレオン時代には可能、次の世代だったら、自動車輸送部隊がそれを達成。しかし1914年のドイツ陸軍の規模と重量は、利用可能な戦術的輸送手段に全く釣り合っていなかった。
クレフェルトは、事実を定量的に分析しており、1914年のドイツ軍にとっては実行不可能であったという結論は、非常に説得力があるように思います。
ウォルマーが指摘する、兵站上の問題点中の、鉄道利用の制約
クリスティアン・ウォルマー 『鉄道と戦争の世界史』 は、この第一次世界大戦でのシュリーフェン計画の実施に際し、ベルギーとフランスが自国の鉄道を破壊したことも、ドイツ軍進撃の制約になった、と指摘しています。以下は、同書からの要約です。
ドイツ軍の進軍阻止のため、ベルギーとフランスは自国の鉄道を破壊
ベルギーのアルベール国王は、ドイツ軍の侵入前に、鉄道のトンネル及び橋梁の破壊を命令。進攻後、ドイツ軍は鉄道の復旧を試みたが、成果は上がらず、マルヌの戦いの開始時点で、総長2400マイルのベルギー鉄道網のわずか6分の1が機能。所有車両の大半が打ち壊されるかベルギー軍によってフランスへ運ばれ、軌道が無傷のまま残された線区でも信号機が破壊されていた。ドイツが利用できたかもしれなかったフランスの鉄道も、退却軍によって爆破済み。
ドイツ軍の鉄道管理にも問題あり
ドイツ軍の進軍も、鉄道の管理を誤ったために停滞。ベルギー側の行った破壊活動のせいで鉄道はすでに劣悪な状態にあったにせよ、軍当局は発生した渋滞を顧みず、空になった貨車が返却されるまでの時間を計算に入れずに、最大数の列車を間断なく突進させて、効率性をいちだんと縮減。さらに野戦場の指揮官らが、他の部隊に充てて差し向けられた列車を強奪、あるいは貨車を保存庫代わりに使って運行を差し止めることで、交通運輸業務を妨害。
ドイツは、ベルギーとの国境線までは、国内鉄道網を徹底活用したものの、国外に出たとたん、占領地の鉄道を活用するのが困難で、作戦遂行の支障となったことがよくわかります。
他方でドイツは、前線での輸送制約の課題に対応するため、軽便鉄道を有効活用したようです。再び、ウォルマー 上掲書からの要約です。
ドイツは、軽便鉄道を、開戦早々のリエージュ攻撃にも活用
ドイツは、前線と鉄道輸送終点の連絡業務から生じる問題を予測して、ゲージ60センチの軽便鉄道網を建設するために膨大な量の機材を備蓄。すでに10年前に南西アフリカ植民地で、350マイル〔約560キロ〕の鉄道を敷設済み。この経験を通じてドイツは、技術面で優位。開戦から2、3日でドイツ軍は、リエージュの攻撃戦を支援するために軽便鉄道を敷設。
リエージュ攻略では、重砲が活躍しましたが、その輸送に軽便鉄道が活躍したものと思われます。軽便鉄道による輸送は、英仏独の3国中、ドイツが最も有効に活用、次がフランスで、イギリスの活用開始が一番遅れたようです。
シュリーフェン計画は必要がなかった、というAJPテイラーの指摘
シュリーフェン計画が実行不可能であったのであれば、ドイツ軍はどうするのが妥当だったのでしょうか。ここで、AJP テイラー 『第一次世界大戦』 での指摘を見ておきたいと思います。戦線の現実的な展開からの結論です。
ドイツ軍の後退、塹壕戦の開始、モルトケ解任
シュリーフェン計画の大きな弱点が表面化。ドイツ軍は、新規の軍隊を投入することができず、兵站線はもう手一杯。9月9日、ドイツ軍はいたるところで退きはじめ、14日、エーヌ河 the Aisne に着いた。ドイツ軍は地上に穴を掘り、機関銃を据えた。機動戦争は終わった。塹壕戦が始まっていた。相対峙する戦線は膠着し固定した。
9月14日―戦線がはじめて膠着したその日―ヴィルヘルム2世は、参謀総長モルトケを解任し、陸軍大臣ファルケンハイン Erich von Falkenhayn をモルトケに代わらせた。しかしドイツには軍隊が不足し始めていた。
ドイツは、シュリーフェン計画には失敗したが、フランスには打撃
ドイツ軍はフランス軍の包囲に失敗したが、ベルギーのほとんどすべてとフランスの工業地帯をその手に収めた。フランス軍は、石炭供給の大半、鉄鋼産地のすべて、多くの重工業を失っていた。
シュリーフェン計画は、結局、必要がなかった
ドイツは、崩壊しつつあるオーストリア=ハンガリー軍を強化するために、東部戦線でも強大な軍隊を備えて置かねばならなかった。ドイツは「二つの戦線での戦争」をしなければならなくなった。ところがドイツは、戦前には不可能だとして取り上げられなかったことを成し遂げた。ドイツは、守勢に立っていた限りでは、両戦線を維持したし、その上他の戦線向けに部隊を送ることができた。結局において、シュリーフェン計画は必要がなかったわけである。
結果からみれば、ドイツは西部・東部両戦線を維持できたのだから、シュリーフェン計画の実施は必要がなかった、というのがテイラーの指摘です。
カイゼン視点から見ると
ドイツが、ロシアにだけ攻勢・フランスには守勢なら、戦争は短期でドイツ勝利だった?
AJPテイラー氏は、「結局においてシュリーフェン計画は必要がなかった」と言っているものの、カイゼン視点から見てみると、「結局において」どころか、そもそも採用しないほうが良かった作戦であったように思われます。
ドイツが、1914年8月に、ロシアに対してだけ攻勢を取り、フランスに対しては守勢を取っていたなら、ドイツは、フランスに対しては勝ち負けなしで、ロシアに対しては短期間で勝利を収めていた可能性が高かったように考えられるからです。
ドイツ・フランス国境付近が「天然および人工の障害」というのは、ドイツ軍だけでなくフランス軍にとっても当てはまることだったでしょう。実際、西部戦線のドイツ・フランス国境では、フランス軍が現に第17計画を発動したものの、ドイツ軍は16個師団だけでフランス軍を追い返してしまっています。
つまり、ドイツ・フランス国境では守勢をとることにしてシュリーフェン計画を実施せずにおけば、言い換えれば、ドイツが、フランスに勝つ必要はない、フランスの侵入を抑えさえすればよい、との戦略方針をとっていたなら、ベルギー経由でフランスに進攻した大軍の右翼軍はそもそも必要が生じなかったのです。
そうなれば、50個以上の師団が浮くので、東部戦線には、最初からかなりの数の師団を投入することが出来ていた、ということになります。そうしていたなら、対ロシア戦は短期で勝利できていたのではないか、それこそ戦争はクリスマスまでに終わっていた可能性が高かったのではないか、と思われます。ロシアが片付けば、フランスとも、勝ち負けなしで講和が出来ていたのではないでしょうか。
1914年の欧州大戦の実際上で、それ以上に重要な点は、シュリーフェン計画を発動していなければ、ベルギーへの侵攻が発生していないので、イギリスの参戦は起こらず、ドイツは余分な敵を作らずに済んでいたことです。
イギリスを敵に回すこともなく、短期決戦でロシアに勝利していたなら、ドイツ帝国はさらに栄え、オーストリア帝国もハプスブルグ家の権威が維持され、ロシア帝国はドイツには負けても革命までは起こらず、ロマノフ家の帝政が今しばらくは存続していたのではないでしょうか。その後の歴史は、現実に起こってしまったこととは、相当異なるコースをたどっていた可能性があるように思えるのですが、いかがでしょうか。
大モルトケの戦略は、「西部は防勢・東部で決戦」だった
石津朋之 「『シュリーフェン計画』 論争をめぐる問題点」によれば、「ドイツ統一戦争」勝利後のドイツ参謀総長大モルトケが構想した将来の戦争計画の基本は、「東部戦線での大規模な攻勢と西部戦線における攻勢防御であった」とのことです。また、大モルトケの後継者であるヴァルダーゼーも、「西部戦線で防勢を維持することについては一貫していた」とのことです。しかし、シュリーフェンは、西部戦線について、防勢から大攻勢に「戦争計画を根本的に変更」してしまいました。
すなわち、西部では防衛のみ、ロシアに対してだけ攻勢、という戦略思想も、少なくとも歴史的には、ドイツ軍の中に存在しており、しかもそれは大モルトケの思想であった、ということなのです。
小モルトケは、どうしているのが良かったか?
一般論として、過去に策定された大計画は、どれだけ偉い大先輩の立案だったのであれ、またどれだけの期間と費用とがその研究に投入されたのであれ、現在の状況では多少なりとも過去の計画時点とは異なるところが生じているはずなので、あらためて、現在の状況に最も適した計画は何かを考える方が、どう見ても適切であったように思います。
特に、シュリーフェン計画は、当初の立案から10年近くが経過しており、各国のマクロ的な政治経済状況や相対的な実力格差、あるいはミクロの兵員・兵器・輸送・交通インフラなどのいろいろな点で、条件や状況に変化が生じていたと思います。
したがって小モルトケは、既存のシュリーフェン計画だけにこだわってはいけなかったのではないでしょうか。発想の枠をもっと枠を広げて、1914年8月の状況により適合しているのは、大モルトケの西部戦線防勢論なのか、シュリーフェン計画による西部先行大攻勢論なのか、少なくともこの二つのうちどちらを適用するのがより良い結果が得られそうか、という検討を行うのが適切であったように思われるのですが。
ヴィルヘルム2世にはシュリーフェン計画は魅力的だった
小堤盾 「モルトケとシュリーフェン」(三宅正樹ほか編著 『ドイツ史と戦争』 の第5章)は、「敵国に対する完全な勝利を導く巨大な殲滅戦思想が、ヴィルヘルム2世のドラマティックな感情に強い影響を与えた」というヴァルダーゼーの言葉を引用しています。
ヴィルヘルム2世にとっては、シュリーフェン計画が魅力的すぎて、大モルトケ思想を認める気は全くなかったのかもしれませんし、そうだとすると、小モルトケにはシュリーフェン計画の実行以外の選択肢はなかったのかもしれません。
それでも、参謀総長の任にある者として、シュリーフェン計画最新修正案だけでなく、1914年8月の条件に適用可能な大モルトケ思想修正案も含めて、両案の得失を検討した結果をヴィルヘルム2世に提起するのが望ましかったように思われますし、それを行わなかったのは、小モルトケの責任といわざるをえないように思います。
次は、再び、大戦の経過に戻り、1914年の東部戦線を確認します。