第一次世界大戦(欧州大戦)の戦闘の経過の最後として、長く軍事的な優勢を保ち続けたドイツが結局敗けたのは何故であったのか、ドイツの敗因について再確認したいと思います。
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リデル・ハートの総括
ドイツの崩壊と降伏の根本原因について
リデル・ハート氏は、「あの驚くばかり突然なドイツの崩壊と降伏は、どのようにしてひき起こされたのか」、もう少し言い換えると、第一次世界大戦でのドイツの崩壊と降伏の根本原因は何であったのか、という観点から、戦史を総括をしています。
戦闘の経緯の詳細を論じてきた著書にふさわしい総括の観点です。リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。
第一次世界大戦の勝敗に最も決定的だったもの - 英国海軍による海上封鎖
将来の歴史家がこの世界大戦の結果にとって決定的なものとして1日を選ぶことを迫られたとき、おそらく彼は1914年8月2日を選ぶであろう。チャーチルが英国海軍に動員令を発した日である。なぜなら海軍が封鎖の立役者であり、それがこの格闘における決定的作業であった。ドイツ国民の半飢餓状態が、「国内戦線」の最終的崩壊に直接影響を及ぼした。
ドイツ軍を苦しまぎれにあの自殺的な1918年の攻勢に追い込んだのは、英国海軍の締めつけ。戦争が11月11日以後まで続いたとしたら、ドイツ軍はうまく後退して自国の国境にたてこもることができたのか。この問いに対して、ドイツ側の意見はおおむね、しかりであり、降伏を「国内戦線」〔の降伏〕のせいだとしている。連合国内の、偏見をもたない勤勉な戦争研究家の多くは、軍事的観点から、その意見に同調する傾向。
ひとつの原因だけが決定的ではなかったし、またありえなかった。《西部戦線》、《バルカン戦線》、戦車、封鎖、宣伝など、そのすべてが原因。どれひとつを取ってもそれだけでは不完全。ただし、時間的に最初であり、内容的にも一位に位するのは「封鎖」である。
すでに見たように、ロシアでは食糧危機から1917年に革命が起こり、17年末に、極めて不利な条件でも停戦することに同意しました。ドイツもまた、1916-17年の冬から「カブラの冬」状態に陥っており、1918年10月末にキール軍港での暴動が起きると、ドイツ支配階層には、革命の広がりを防ぐためにも休戦を急ぐ必要があると認識されて、休戦に至りました。
人心を決するのは、結局は経済状況です。経済運営が順調であれば、政権は強い支持を受け不満を持つ人も少数派です。しかし、経済運営に困難が生じると、政権の維持は困難になり、深刻な経済危機にまで至れば、支配階層が放逐される革命すら起こりうる、というのは、洋の東西を問わない経験則の定理の一つです。第一次世界大戦でも、この経験則定理が当てはまってしまいました。
それでは、大戦の終末期にドイツに革命を招来した原因は何かと考えると、イギリスによるドイツの経済封鎖が生み出した食料危機がその根本原因となったと、確かに言えそうです。1918年11月というタイミングでのドイツの敗戦について、それに寄与したさまざまな要因中の最大要因を強いて選ぶなら、経済封鎖であった、とするリデル・ハート氏の総括には、説得力があるように思います。
もう一つの総括 - 主要国の役割への評価
リデル・ハート氏は、もう一つ、印象に残る総括を記しています。それは、第一次世界大戦を戦った主要各国の役割についてです。「この戦いの勝利をかちとったのがどの国かという問いは、もっとも無駄な問いである」、つまり、単独の1国が決定的に勝利に貢献したのではなく、連合国側の主要4ヶ国がそれぞれ勝利に貢献したのである、として下記のように評価を行っています。また、リデル・ハートの著書からの要約です。
フランス - 初期の抵抗
英国軍が準備段階だった時期にフランスが砦を持ちこたえていなかったならば、この軍国主義の悪夢からの文明の解放は、不可能だった。
英国 - 海上封鎖、在戦援助、1916年以降の主戦力
英国の制海権と財政援助と、1916年以降主として闘争の重責を引き継いだその軍隊とが存在しなかったならば、敗北は必至だった。
米国 - 経済的援助、アメリカ軍の到来
合衆国の経済的援助や、兵力のバランスをくつがえしたアメリカ軍の到来、それが与えた心理的な蘇生感がなかったならば、勝利は不可能なはずだった。
ロシア - 自らを犠牲にした貢献
同盟国を救うためにいくたびも自らを犠牲にし、破滅の道を進みながら、同盟国の究極の勝利を確実に準備していった。
ドイツ - 無類の忍耐と熟練
ドイツの政策に対して歴史の審判がどう下ろうと、この国が優勢な敵に対して無類の忍耐と熟練をもって、4年間自己を貫いて譲らなかったことは、軍事的、人間的偉業の叙事詩として、惜しみない賞賛に価する。
リデル・ハート氏は、イギリスを含む連合国側の主要4ヶ国に対するそれぞれの貢献を、適切に評価しているように思われます。それだけでなく、大戦の経過中に顕著なカイゼン努力が見られたドイツにも、敵ながらあっぱれ、という評価を下していることは、同氏らしいところであると思います。また、とくにイギリスやアメリカによる財政援助を指摘している点は、リデル・ハート氏が、単なる「戦闘史」家ではなく、「総合的な戦史」家であったことをよく表していると思います。
水野広徳の総括
ドイツの5つの敗因
ドイツの敗因について、リデル・ハートの記述だけでは、あまりにも一面的な見方となってしまうかもしれません。そこで、別の人物の見解もご紹介したいと思います。
日本の軍人で、第一次世界大戦中および休戦直後のヨーロッパに行って、自らの目で大戦の状況を確認した人の一人に、海軍大佐・水野広徳がいます。以下は、水野広徳がその自伝(『反骨の軍人・水野広徳』)中に、記したドイツの敗因についての分析の要約です(現代表記化しています)。上述のリデル・ハートの総括と対比してみる価値があるように思われます。
ドイツのベルギー中立侵害で英の参戦と伊の敵対
- 英国の参戦、イタリアも敵対、持久戦化、米国参戦、国内経済力の衰微
ドイツのベルギー中立侵害は日和見の英国の参戦に絶好の口実を与えたと共に全世界の反独心を誘発した。これがドイツ敗因の第一。
ベルギーの中立蹂躙は英国を敵に回したるにとどまらず、三国同盟の一としてドイツの味方たるべきイタリアの参戦を躊躇せしめ、のち遂に敵に走らしむるに至った。ドイツ敗因の第二。
シュリーフェン計画失敗による持久戦化
内線作戦〔=シュリーフェン計画〕は全く敗れ、速戦速決の基本計画は根本より打ち砕かれ、戦いは漸く持久戦に入ることとなった。ドイツの如き自給自足の能力なき国が海陸を封鎖せられて持久戦となれば敗戦はただ時間の問題。内線作戦の失敗こそはドイツ敗因の第三。
無制限潜水艦戦による米の参戦
局面打開に英国の糧道を絶つの一策あるのみ、無制限無計画の非合法潜水艦戦を強行。Uボート作戦の誤算と米国参戦に対する誤判こそは、ドイツ敗因の第四。
以上四つの敗因の中、英米なかんずく英国を敵に回したることがドイツにとっての致命的失敗であった。
ドイツ国内経済力の衰退
これらの敗因のほか、戦争が長期に亘れる結果として食糧物資の欠乏を来し、国民生活を極度に窘窮(きんきゅう)せしめ、兵器軍需の供給を著しく困難ならしめた。この国内経済力の衰弱こそはドイツ敗因の第五。
要するにドイツは戦闘に勝って戦争に負けた。軍隊戦に勝って国民戦に負けた。武力戦に勝って経済戦に負けた。人力戦に勝って物力戦に負けた。結局兵力戦に勝って国力戦に負けた。
なかなか的確な敗因分析であると思います。水野広徳が挙げる5つの敗因をさらに要約すれば、ドイツは自ら有力国を敵に回し、経済封鎖もされてしまった、ということになるでしょうか。リデル・ハートは英国海軍による封鎖を一位としましたが、水野広徳による敗因分析も、それとほぼ一致した見解のように思われます。
とくに、この戦争の最終的な勝敗は、戦闘力・武力ではなく、経済力・物力・国力によった、と指摘している点は、その後軍を離れた水野広徳の方が、昭和前期に参謀本部や軍令部で精神力を振り回して戦争指導をしていた将官たちよりも、よほど適切な見方をしていたと分かります。
考えてみると、昭和前期の日本は、満州事変を起こし、その後支那事変(日中戦争)も起こして米英中など世界の有力国を敵に回し、ついには日独伊三国同盟締結と南部仏印進駐の結果、米英から経済制裁を受けるまでに至りました。この第一次世界大戦でのドイツと全く同様の轍を踏んで敗戦に至ってしまった、と言えるように思いますが、いかがでしょうか。
ここまで、第一次世界大戦の戦闘経過について確認してきました。次は、第一次世界大戦(欧州大戦)の全体を通じた、カイゼン視点からの総括を行いたいと思います。