これまで、陸軍主体の青島攻略戦や海軍による南洋諸島の占領という、日本の利益を一方的に追求した「切り取り強盗」的な戦いを見てきました。
日本軍は、しかしながら、連合国の一員として、十分であったかどうかは別にして、連合国への協力も行っていた、という点を確認したいと思います。
具体的には、日本海軍の太平洋・インド洋での連合軍への協力、日本海軍の地中海への駆逐艦隊の派遣、日赤による看護団の欧州への派遣、陸海軍による武器援助の4点についてです。
● このページの内容 と ◎ このページの地図
日本海軍の太平洋・インド洋での海上警備
前ページで確認しました通り、日本海軍はイギリス海軍からの協力要請を受けており、太平洋・インド洋では、実際に、イギリス海軍などに協力したさまざまな行動を実行していたようです。以下は、平間洋一 『第一次世界大戦と日本海軍』 からの要約です。
1914年8月~15年3月 大戦前期(対ドイツ東洋艦隊・エムデン作戦)
第一次世界大戦が勃発して1ヵ月が過ぎ、ドイツ東洋艦隊が、太平洋・インド洋で活発な海上交通破壊作戦を開始。イギリス海軍の要請を受けて、
● 巡洋戦艦伊吹はANZAC船団3万人をアデンまで護衛。
● 英加豪連合艦隊に遣米支隊(巡洋艦出雲・浅間・旧式戦艦肥前)が参加し、ドイツ東洋艦隊をガラパゴス諸島まで追跡。
● エムデン捜索のため、巡洋艦矢矧・筑摩・日進をインド洋に派遣。
1914年12月8日のフォークランド沖海戦で、イギリスが巡洋艦ドレスデンを除くドイツ艦隊を撃破すると、イギリス海軍は残敵掃討を日本に依頼して、すべての艦艇をヨーロッパに引き上げ。
このため日本海軍は、ドレスデン撃破の1915年3月まで、遣米支隊の一部を北米南岸に、日進をフィジー方面に配備してオーストラリアやニュージーランドの警備。
1915年3月以降 大戦後期(対通商破壊船作戦)
太平洋やインド洋のドイツ海軍勢力が一掃されると、日本海軍はフィリピンやオランダ領スマトラなどの中立国港湾潜伏中のドイツ商船(約40隻)の監視。
1916年に入り中立国所在のドイツ商船が武装し海上交通破壊作戦を始めたとの情報が入ると、2月8日にイギリス海軍はオーストラリア-アデン間の航路警戒のために巡洋艦、マラッカ海峡警備のために駆逐隊の派遣を要請。対して日本海軍は、利根・対馬をインド洋に派遣、駆逐隊一隊をマラッカ海峡に増派。
1917年1月に入りドイツの通商破壊作戦が強化されると、イギリスからの依頼に応え、日本海軍は、巡洋艦対馬・新高をモーリシャス方面に進出させ、巡洋艦筑摩・平戸をオーストラリア東岸やニュージーランドの警備に当て、さらに巡洋艦日進をフリーマントルに、春日をコロンボに配備。
太平洋・インド洋での日本海軍の作戦の評価
日本海軍は多数の艦艇を派出したが、船舶の護衛や哨戒、武装商船の捜索や遭難船の救助程度で、直接的成果はなかった。
しかし、ドイツ側公刊戦史は、ドイツ東洋艦隊が南米に逃れたのは、日本の海軍力を恐れ日本を刺激しないためであり、またドイツの武装商船がオーストラリア海域への進出を断念したのも、日本海軍の艦艇が行動していたためであったと書いている。
赤道以北のドイツ領南洋諸島の占領、という行動はあったものの、それ以外ではイギリス海軍の要請通り、太平洋・インド洋で、日本の海軍力がドイツの海軍力に対する抑止力として働いたようです。また、1917年11月から19年1月までの13ヵ月間、アメリカからの要請に応えて、巡洋艦常盤・浅間がハワイを警備した、という事実もあったようです。
上に出てきます地名・海域を地図上に示したものが、下の地図です。インド洋の西岸から太平洋の東岸まで、とんでもなく広い海域の中で、日本海軍は、英米からのその時々の要請に応じて、警備を行っていた、ということだったようです。
なお、ドイツの軽巡洋艦「エムデン」の活躍については、荒川佳夫 「軽巡エムデンの戦い」 (『歴史群像アーカイブ 第一次世界大戦 上』 所収)に詳しく書かれています。
日本海軍の駆逐艦隊による地中海での護衛活動
1917年、日本海軍は、駆逐艦部隊を地中海まで派遣
日本海軍は、1917年に入ると、ヨーロッパの地中海にまで艦艇を派遣し、作戦行動に従事することになります。再び、平間洋一 『第一次世界大戦と日本海軍』 からの要約です。
1917年2月、駆逐艦隊を地中海に派遣する決定
1917年1月、イギリス海軍省から駆逐艦を地中海に派遣するよう、グリーン大使経由の要請。この頃、政権は寺内内閣、連合国に積極的に協力すべきであるとの意見に変わっていた。軍艦1隻、駆逐艦隊2隊として、イギリス指揮下でなく独立指揮官の下に運用させること、および南洋群島の領有承認を交換条件として応ずることとし、2月10日の閣議で了承。
1917年4月から、最初は9隻、最後は17隻の護衛艦隊
海軍は2月7日に、佐藤皐蔵少将に対し巡洋艦明石、第10駆逐隊(松・榊・杉・柏)、第11駆逐隊(梅・楠・桂・楓)の駆逐艦8隻で第2特務艦隊の編成を下令。4月13日にマルタに到着。6月1日に増派で第15駆逐隊(樫・柳・桃・桧)に派出命令。翌年6月には人員派出によりスループ艦2隻、9-10月には駆逐艦2隻の運用を引き受けた。
地中海での輸送護衛活動
第2特務艦隊の17隻の艦艇は
● マルタ島を基地
● 輸送護衛と対潜水艦戦を統制するイギリス地中海艦隊司令官のもとで1年9か月の間
● 主としてアレキサンドリア-マルタ-マルセーユ、アレキサンドリア-タラント、マルタ-サロニカ間などで、連合国にとって最も重要な軍隊輸送船の直接護衛を引き受け
● 護衛回数は総計348回、護衛した船舶数は788隻、兵員は70万人に達し、被雷した船舶から7075人を救助するなどの戦功をあげた。
● しかし、1917年5月には被雷したトランシルヴァニア号に横付けして救助作業中の駆逐艦樺が雷撃され、6月には榊が艦首を雷撃されて艦長以下59名の戦死者と22名の負傷者を出した。
この当時の地中海の状況について、森山康平 「帝国海軍地中海遠征記」(『歴史群像アーカイブ 第一次世界大戦 下』 所収)から補足します。
当時の地中海には40隻もの敵潜水艦が存在
当時、地中海には25隻以上のUボートが暗躍、大部分は、アドリア海に面したオーストリア領ポーラやカッタロを根拠地。オーストリア海軍の潜水艦も10隻以上いたから、40隻近い敵潜水艦。トルコの要衝コンスタンチノープルにもUボートやトルコ潜水艦数隻。
連合国側の地中海での体制
第2特務艦隊が地中海に到着して、連合国軍の護衛艦は112隻、見張り専門の哨戒艦は89隻。地中海を航行する船舶のうち200隻は護衛を必要とする洋上航海で、護衛艦は船舶3隻につき2艦必要とされたから、十分なものとはいえなかった。
日本海軍の護衛艦隊は、ドイツのUボートをはじめとする同盟国の潜水艦から、連合国の船舶を防御するために派遣されたわけです。
「当時の対潜兵器は、第二次大戦時代と違って、ソナーもレーダーもなく、僅かに敵潜発信を傍受して電源を探知し、爆雷攻撃をする以外には方法はなく、そのため、勢い見張り哨戒で敵潜水艦のペリスコープ(潜望鏡)の発見に努めることが絶対条件だったので、艦上勤務は寸暇も取りえない、過酷のものであった」(紀脩一郎 『日本海軍地中海遠征記』)とのことです。多数の敵潜水艦が活動している海域で、大変な任務を行っていたと言えます。
地中海の日本海軍は高い評価、日本の南洋諸島獲得に貢献
地中海に送られた日本海軍の艦隊に対する評価について、また平間洋一・前掲書からの要約です。
日本海軍護衛艦隊への評価
当時、地中海にはイギリス、フランス、イタリア、日本、ギリシャ、アメリカの対潜艦艇。
地中海艦隊司令長官ディッケンス中将の報告
● イタリア海軍は非効率、沿岸警備など限られた任務しかできない
● フランス海軍は積極的ではあるが組織的に問題
● 日本海軍は素晴らしいが数が少ない
● ギリシャ海軍は計算外
● アメリカ海軍はジブラルタル方面から大西洋に展開されて使用できない。
船団護衛が主任務であったとはいえ、日本海軍第2特務艦隊の戦果はささやかなもの。戦後の調査によれば、日本海軍は1隻も撃沈していなかった。
地中海への艦隊派遣の成果
最大の成果は、日本がヨーロッパまで艦隊を派遣していたことを連合国諸国民に認識させたこと。また、この派遣によって旧ドイツ領南洋諸島の赤道以北を入手して、対米邀撃戦略上の安全圏を外方に拡大し、各種戦訓を入手したほか戦利品としてドイツ潜水艦7隻を入手し、初歩的段階にあった日本海軍の潜水艦建造技術を飛躍的に進歩させ、潜水艦に対米邀撃補助兵力としての確固たる地位を与えたこと。
陸軍が度重なるヨーロッパへの派兵要請についに応じなかったために、記録的輸出超過の利益だけを謳歌する日本への非難が高まっていた、という状況下、海軍の地中海での活動こそが、日本への非難を少しでも和らげ、また山東や南洋諸島などの権益獲得を援けた、と言えるようです。ただ、17隻だけでなく、もう少し数を沢山出していたら、連合国側からはもっと高い評価を得られていたであろうと思われます。
自国独善主義で国際協調の必要性の認識が弱い陸軍と、国際感覚を有している海軍との体質差が現れた、と言えるように思います。
陸軍が行った人的支援は、日赤看護団の短期欧州派遣のみ
開戦の年、陸軍は、日赤看護団をイギリス・フランス・ロシアの3国に派遣
陸軍は、連合国への人的支援を一切行わなかったわけではなく、日本赤十字社の看護団をイギリス・フランス・ロシアの3国に派遣する、という支援は行ったようです。
以下は、荒木映子 『ナイチンゲールの末裔たち』 からの要約です。
1914年9月8日、陸軍大臣から日赤に、欧州への救護員派遣の指示
1914年9月8日、陸軍大臣は日本赤十字社副社長小澤男爵を呼んで、日本赤十字社より救護員を英仏露三国に派遣することが閣議で決定されたことを伝えた。日赤は、勅令である日本赤十字社条例により、陸海軍大臣が監督すると定められていた。
日赤は、医員1名・看護婦20名・外国語を解する事務員1名・通訳1名を以て1個救護班の編成とし、英仏露に各1班を派遣、と決定。さらに、派遣内容として、露仏においては病院の開設(露では患者100名、仏では150名を収容)、英では主として看護に従事、各その勤務期間は5か月と予定する、と決定。看護婦は選抜の結果、露国派遣は看護婦長1名・看護婦12名、仏国派遣は2名・21名、英国派遣は2名・20名を選んだ。
第一次世界大戦の開戦から1ヶ月ちょっとで、日赤から英仏露3国への救護員派遣を閣議決定したのですから、動きは早かったと言えます。
英仏露三国での活動内容
英国派遣班は、1914年12月19日横浜港を出帆、米国経由でイギリスへ。英国の場合、英国赤十字社の命令を受けて、既存の病院での活動。場所は、サウサンプトンの英国最大の病院ロイヤル・ヴィクトリア病院の裏手、英国赤十字社が第一次世界大戦に際して急増した木造「バラック」50棟。日本の看護婦は(日本人医員の配下に入る二人を除いて)英国看護婦と共に英国医員受け持ちのバラックに2名ずつ配属。
仏国派遣班は、1914年12月19日横浜港を出帆、パリの高級ホテル、アストリアにおいて日本赤十字病院を開設。薬局、手術室、実験室、病室等々が欧州一流のこのホテルの全階にあてられる。
露国派遣班は1914年10月23日に東京を出発して、ペトログラードにおいて活動を開始。
戦争終結の2年以上前に撤収
当初それぞれ5か月を予定していた派遣期間が、先方の希望により、露仏では2回、英では1回延長されている。派遣費の合計は三ヵ国で74万2237円。戦争終結の2年以上前に撤収。
短期間過ぎた日赤看護団の欧州派遣
この支援の最大の問題は、期間が短すぎたこと。現地3カ国での活動は、1914年末から15年初めに開始されましたが、「戦争終結の2年以上前」ということは、遅くとも1916年の秋までには活動を終えていた、ということになります。
JMウィンターが、1916年と1917年を一括して「大量殺戮 The Great Slaughter」と表現したことは、「2 第一次世界大戦の経過 23a 1916年前半の陸戦」のページに書きましたが、この2年間の大量殺戮期間の半ばに至る前、大量の戦死傷者が発生する一方、まだ停戦は全く見えていない段階で、活動を停止して引き上げてしまったようです。
大量の戦死傷者が発生している欧州に救護員派遣を行ったこと自体は、重要な活動であったと思いますし、実際に派遣されて活動された方々には、大変な苦労があったであろうと思いますが、この短さでは、かえって、日本はアテにできず頼りにならない国、と思われたのではないでしょうか。
陸軍が送ったのは傘下の「女の軍人さん」だけで、自前の将兵である「男の軍人さん」は送らず、使った金もわずか74万円と、青島攻略の0.4億円やシベリア出兵の7.4億円の軍費と比べれば、余りにもわずかな金額でした。
腰の入っていない「お付き合い」程度の支援であることが明らかで、連合国側からは十分に意味があるとはみなされない、中途半端な支援であったように思われます。同様の救護活動分野でも、例えば軍医と衛生兵を前線近くの野戦病院に停戦まで派遣し続けるなど、他にもっとやり方があったように思うのですが、いかがでしょうか。また、多数の軍医や衛生兵を派遣して救護を行わせていたなら、日本軍自身の救護のカイゼンにも役立っていた可能性があるように思いますが。
ヨーロッパへの派兵要請に応じなかった日本陸軍
日本海軍は、南洋諸島は占領しましたが、インド洋・太平洋での警備活動や、地中海での護衛活動で連合軍に協力しました。一方、日本陸軍は、青島を占領したものの、日赤看護団を英仏露に短期間派遣しただけで、それ以外の要請には一切応じませんでした。
このとき陸軍が、連合軍の求めに応じていて、ヨーロッパに派兵していたなら、少なからざる人命が失われはしたでしょう。
しかし、外交的には日本の国際的地位がさらに高まり、独善的な自国独善主義の主張だけの異質な国とは見られなくなっていたでしょうし、さらには、国際協調の重要性の認識が国民にも広がって、偏狭な対外硬の主張が修正されていた可能性があります。
また、軍事的には欧州の最新の軍事技術動向、すなわち火力・機動力の重要さから経済封鎖の効果の高さまで、あるいは合理主義の基盤に基づかない精神主義の危険性を、陸軍幹部自身が経験できて、その後の日本軍の基本的な戦い方を大きく変えていた可能性があった、とも言えるように思います。
結果として、国際協調をもっと重んじて、紛争解決の手段に武力を用いることにもはるかに慎重になり、少なくとも昭和前期にアメリカ軍と戦おうという気は、起こさなくなっていたかもしれません。
現代のビジネス社会でも、単に海外出張経験があるだけの人と、出向等で現に海外に生活して業務を行っていた人では、考え方の幅の広さに相違があることが多いように思います。このときの陸軍が、ヨーロッパで、他の連合国軍と共に戦う経験を得ていたなら、陸軍自身の体質に良い変化を生じていて、昭和前期の大失策は起こさなかったのではなかろうか、と思われるのですが、いかがでしょうか。
日本陸海軍による大戦中の連合国への武器援助
艦隊や人員の派遣以外では、連合国への武器援助が行われています。上掲の平間洋一 『第一次世界大戦と日本海軍』 には、海軍のみならず陸軍も含めた、第一次世界大戦中の日本から連合国への武器援助についても、詳しい考究があり、以下は、その要約です。
現有武器(在庫)の譲渡
第一次大戦は大消耗戦となり、連合国側に立って参戦した日本への武器・弾薬・軍需品などの譲渡要求が続出。陸軍では、ロシア・フランスに合計25万丁、三十年式銃は使用に耐えうるもの全部、三八式歩兵銃は動員計画に関係ないもの全部を割譲。その上、イギリスからも再三の歩兵銃の要求、日英同盟の交誼で1915年8月までに保有小銃100万丁中から60余万丁を供給。
海軍の現有武器の援助はイギリスに砲・弾薬、フランスに砲・弾薬、ロシアに砲・弾薬・小銃・小銃弾など。現有武器の割譲は1915年にピーク。日本海軍はこれら有償譲渡のほかに日露戦争当時にロシア軍から、青島攻略時にドイツ軍から捕獲した武器や弾薬を無償で連合国に贈与。
日本での武器の委託生産
大戦が長期化し譲渡すべき武器がなくなると、連合国は日本へ委託生産を要請、1915年初頭から始まり、1917年にピーク。イギリスに3インチ砲・4.7インチ砲など、フランスに4.7インチ鍛鉄榴弾・3インチ大仰角砲鍛鉄榴弾など、ロシアには信管・4.2インチ加農砲・同弾薬・3インチ大仰角砲・遅動信管など。委託生産中、最大の契約はフランスの依頼による駆逐艦12隻の建造。
日本からの武器供給契約は合計7億円
陸軍の援助は主として小銃や弾薬、その90パーセントがロシア対象。海軍の援助はイギリス・フランス・ロシアに比較的分散。民間でも長崎三菱造船所、神戸川崎造船所における駆逐艦各2隻の建造のほか、被服や軍靴などの軍需品を供給。1918年1月現在で民間が3億9319万円、陸海軍が3億345万円、合計6億9664万円の契約。海運収入のみで、1916年には2億9500万円、1917年には4億9500万円に増大。
日本は債務国から債権国に
戦前には20億余の債務国であった日本は、ヨーロッパ諸国が戦争のため輸出ができなくなった地域向けの輸出を伸ばし、大戦が終わった時点ではロシアに2億2000万円、イギリスに1億9000万円、フランスに1億3000万円、総額5億4000万円の円貨公債を有する債権国に変わっていた。〔ただしロシア向けは革命により未回収に〕
連合国への協力としての武器供給
日本の戦争非協力が連合国の非難を受ける状況に対し、1917年1月22日の閣議で、山東半島や南洋群島など「我要望貫徹の程度は戦時中の与国に対する態度」によって決せられるので、今後は連合国への協力をより強化。武器援助に対して陸軍は、戦争の全期間を通じて特段値上げせず。日本製の4.7インチ及び5.9インチ野砲は使用可能だが、4.1インチ野砲は使用に耐えず、11インチ海岸要塞砲は重すぎて輸送が困難であるなどとの不満も。
一方、海軍は駆逐艦建造には債券発行を認めるなど資金調達に協力。戦時急造の多くのフランス製駆逐艦が「殆ど全部使用不能」となり戦後間もなく廃艦、日本製駆逐艦は戦後10年近くも現役、技術的にも一応満足すべきものであり協力も誠実なもの。
ロシアを支えた日本陸軍の武器支援
陸軍のロシアに対する援助。1915年春には貯蔵を殆ど消耗していたロシア軍には大きな救い。16年11月にはロシア軍の軍需品の3分の2が日本から。ドイツ軍もロシア軍の抵抗を「未だ可能にならしめているのは、この側〔日本〕から来る諸供与」と認めていた。日本は武器援助を梃として対露外交を展開し、戦後の対米・対独関係をも展望したパワー・ポリティクスを推進。しかし15年秋にはロシアの支払いが遅れ気味となり、17年6月に入ると革命のために支払いが止まる。陸軍は原敬や大蔵大臣勝田の危惧表明にもかかわらず、ロシアへの武器援助を継続。
武器援助とは言っても、大部分は有償ベース、すなわち一種のビジネスでしたから、部隊や艦隊を派遣するような高い評価はされなかったであろう、と思われます。
ロシアには、日本の陸軍が、武器援助だけでなく、早い段階で東部戦線への戦闘部隊の派遣も行っていたなら、その後の世界史が随分変わっていたのではないか、という気もしないではありません。
「連合国への協力」のまとめ
日本が第一次世界大戦中に行った「連合国への協力」をまとめますと、次のようになります。
● 日本海軍は、太平洋・インド洋の広い海域で、ドイツ艦の捜索追跡、連合国船舶の護衛や哨戒、武装商船の捜索や遭難船の救助などの活動を行い、太平洋・インド洋海域では、日本の海軍力がドイツの海軍力に対する抑止力として働いた。
● 日本海軍は、1917年からは地中海に駆逐艦隊を派遣、連合国船団の護衛活動を行った。
● 陸軍は、ヨーロッパ戦線への派兵の要請を受けたが、行わなかった。
● 日本赤十字社は、陸軍大臣からの指示により、救護団を英仏露三国に送ったが、戦争終結の2年以上前に撤収した。
● 日本陸海軍は、大戦中、連合国への武器援助を行ったが、大部分は有償ベースであった。しかし、ロシアには、支払いが遅延停滞しても武器援助を行って、ロシアを支えた。
海軍はそれなりの協力をしたように思いますが、陸軍はどうも後ろ向きであった印象を免れません。陸軍が、実際に部隊を派遣して欧州の地でドイツと戦っていたなら、日本陸軍自身のカイゼンに相当役立っていたのではなかろうかと思いますが、いかがでしょうか。
次は、第一次世界大戦末期から開始されたシベリア出兵についてです。