4e 対華21ヵ条要求

 

前ページまでで、日本は1914年8月に第一次世界大戦に連合国側で参戦して中国山東省青島のドイツ軍を攻略、同年11月同地のドイツ軍を降伏させたこと、その際、山東ドイツ利権と、当時日本の最重要課題とされてきた満州利権確保との関係整理・優先順位づけが行われていなかったことを確認してきました。

その結果として、青島戦後の1915年1月、日本は「対華21ヵ条要求」を行いました。この要求とそれに関する日中交渉は、第一次世界大戦での戦闘行為ではありませんが、青島攻略戦の直接の結果として発生した重要外交課題であり、日本が参戦して青島で戦った目的に大いにかかわりますので、ここに取り上げたいと思います。

この「対華21ヵ条要求」の評価については、「列国における二十一ヶ条の悪評は、パリ講和会議からワシントン会議を経て、1920年代を通じて日本外交の重い負担となった。それはある意味で今日まで続いており、たとえばアメリカの外交史研究では、二十一ヶ条は満州事変以前の日本外交のうちで ―しばしばそれ以後を含めてさえ― 最も悪名高いものとされるのが普通である」(北岡伸一 「二十一ヶ条再考」)という整理が的確であると思われます。以下、この対華21ヵ条要求について、経緯と内容を確認していきます。

 

 

参戦で必要な対中交渉の開始を、加藤外相が遅らせた

1914年8月の宣戦段階では、加藤外相は対中交渉を先送り

青島攻略戦で勝利すれば、必然的に、ドイツから山東利権を取り上げることになります。しかし、山東利権はもともとドイツと中国との協定によって成立している利権ですから、その処理を日本が勝手には決定するわけにはいきません。たとえ満州利権の確保問題がなくても、青島攻略戦の実行に伴い、少なくとも山東利権の処理をめぐり、中国政府との協議は必須でした。

ドイツへの宣戦布告は1914年8月23日、青島ドイツ軍の降伏は同年11月7日であるのに、日中間の協議は、翌年1月に対華21ヵ条要求の形をとるまで、開始されませんでした。なぜ、そんなに長い期間が経過してしまったのか、なぜ強硬な要求となってしまったのか、まずはこの点について確認していきたいと思います。

必ず行わなければならない対中交渉を、翌年1月まで待たず、8月の宣戦段階で開始できなかったのか、まずは、長岡新次郎 「対華二十一ヶ条要求条項の決定とその背景」からの要約です。

8月26日、日置公使は「絶好の機会」とみて交渉提言、加藤は「形勢観望」

8月26日、日置公使は加藤外相に、日独国交断絶の結果、中国政府当局者は日本の感情を害さぬよう顧慮している情勢なので、「この時期は対支交渉案件解決上の絶好の機会なりと思慮す」。また、交渉の要求条件として、
① 関東州租借期限99年間延長
② 南満州鉄道は右期間内還付売戻なし
③ 安奉鉄道〔安東(丹東)・奉天間の鉄道〕もこれに準ずる
④ 日本の援助により南満東蒙の軍政および一般内政の改善
⑤ 南満東蒙の日本人の居住営業の自由
⑥ 日本国よりの借款で九江武昌間等華中華南の鉄道建設
うち④・⑤は支那側の態度如何により多少譲歩、を提言。
これに対し加藤は8月29日、「今直ちに本件を支那政府に提出するは時期やや早きに過ぐ…今暫く形勢の推移を看望」。

⑥項目のうち①~⑤は、満州利権がらみです。今なら、日本が山東ドイツ利権を中国に取り戻す、という条件があるので、満州利権継続確保交渉がやりやすい、と日置公使は見たのであろうと思われます。

対中交渉の現場を担当することになる中国駐在の日置公使から、8月末に、今が絶好の機会とのせっかくの進言があったのに、加藤外相は説得力のある根拠を示さずに先送りしたように思われます。

即時に交渉開始していたら、もめていなかった可能性が高そう

日置公使の進言通りに即座に交渉を開始していたら、日中間であまりもめていなかった可能性が高そう、と思われます。この時点では、陸軍も、要求を膨らませていなかったからです。以下は、山本四郎 「参戦・二一ヵ条要求と陸軍」からの要約です。

8月、陸軍内の意見書も、満蒙利権の継続確保が主眼

参謀本部がはやくも8月16日に対華要求を立案して、岡陸相に明石次長が意見として申し入れた。内容は、
① 日支両国の協商
② 列国の既得権利を尊重
③ 南満内蒙については優越権を有する日本政府の提議を尊重
④ 行政軍事の改善を日本に委任
⑤ 利権の譲与・外国借款には予め日本の同意。
一方、田中義一も同時期に陸相に意見書。内容は、
① 日支両国の緊密な提携
② 日本は支那の軍事改善・国富開発を幇助
③ 日本は支那の治安保持に助力
④ 外国関係は予め相互の協商
⑤ 支那は日本の南満州及び東部内蒙古における特別の地歩を確認
なお⑤の南満内蒙関係では要求内容の詳細も記述。
陸軍の主眼は、この頃は満蒙一本、わずかに外国借款が入っている。

8月段階では、日置公使も陸軍も、交渉の目的を、最重要課題であった満蒙利権の継続確保に絞っていたことが分ります。公使と陸軍の両者の意見にあまり開きはなく、国内意見を短期間に取りまとめることは十分に可能であったと言えそうです。

このタイミングで交渉を仕掛けていれば、後の対華21ヵ条要求とは異なり、要求事項が膨れ上がっていないので、中国との間である程度スムーズに交渉がまとまり、列国からも特に目くじらを立てられることもなく済んでいた可能性が高かったように思われますが、いかがでしょうか。

加藤外相の交渉先送り判断の結果として、対中要求内容が増大

1914年8月の状況で一番問題になるのは、加藤外相が交渉を先送りしてしまった点です。先送りの結果として、要求内容が増大してしまったようにも思われます。以下は、野村乙二朗 「対華二十一ヶ条問題と加藤高明」からの要約です。

要求取りまとめは外務省小池政務局長、加藤は町田少将の意見重視

加藤外相の下にあって対華要求案件の取りまとめの任にあたったのは政務局長小池張造、後にいわゆる第二次満蒙独立運動の中心人物となる。小池に取りまとめさしたことに、すでに加藤の意図のあらわれ。
提出された意見書の中で本当の意味で採用されたと思われるのは、軍人のもの、特に北京公使館付の町田経宇少将からのもの。満蒙権益だけでなく、本土の鉄道、福建省の権利、日本人外交財政顧問などを主張、山東省ドイツ権益も犠牲に対する報酬として当然。

なまじ日程に余裕をつくったため、かえっていろいろな意見が出てきてしまう、というのは、仕切りが適切を欠く場合には、現実に起こりうることだと思います。

しかも、要求取りまとめの人選が適切ではなかった結果として、過剰なナショナリズムによる自国独善主義の要求になってしまったようです。

対中交渉を選挙対策に使おうとした加藤外相

加藤外相は、対華要求案がまとまっても、まだ交渉開始を遅らせました。対中交渉を選挙対策に活用しようとしたようです。再び、野村乙二朗 「対華二十一ヶ条問題と加藤高明」からの要約です。

対華交渉はずるずる遅れ、年明けに

11月7日に青島が陥落、加藤外相は11日の臨時閣議で対華要求訓令案の了解を取りつけ。しかし訓令案の内奏は12月2日、日置への手交は3日、しかも交渉開始期は改めて訓令。「交渉を開始せられ差支えなし」は1915年1月8日。
その間に行われた政治的変化と言えば、12月25日の衆議院の解散。加藤は対華交渉の時期を総選挙とかみ合わせたいと考えていたらしい。

加藤は、総選挙での自勢力(=立憲同志会)の宣伝材料にこの対中交渉を使おうとしたようです。国家のきわめて重要な外交課題の解決を、総選挙という国内事情の下位に置くことになります。交渉内容は必然的に、国家間の適切な関係構築という課題よりも、選挙民受けする内容が重視されることになるので、不適切と言わざるを得ないように思います。

順番を逆にして、先に対中交渉を実行しておき、総選挙ではその外交上の最重要課題の解決の実績をアピールする、という手法をとる方が適切であったように思います。

 

日本の一方的な利益要求ばかりとなった対華要求

12月3日に日置公使に示された「対華21ヵ条要求」原案

ともあれ、訓令すなわち「対華21ヵ条要求」の原案が、12月3日に日置公使に与えられました。

長岡新次郎 「対華二十一ヶ条要求条項の決定とその背景」(上掲)や、島田洋一 「対華二十一ヶ条要求」には、その全文が掲載されています。以下はその内容の要約です。なお、一部の用語の現代語への置き換えを行っています。

「対華21ヵ条要求」原案の内容

第一号 山東問題の処分に関する条約案
第1条 ドイツの山東利権の処分は日独協定を中国が承認
第2条 中国は山東省の地を他国に不譲与・不貸与
第3条 中国は山東鉄道からの連絡線敷設を日本に許可
第4条 中国は山東省の主要都市を開港
第二号 南満東蒙での日本の地位明確化の条約案
第1条 旅順大連租借、南満州・安奉鉄道期限を99年延長
第2条 日本国民は、南満東蒙で土地建物の賃借権・所有権
第3条 日本国民は、南満東蒙で自由往来、商工業等に従事
第4条 中国は、南満東蒙の鉱山採掘権を日本人に許与
第5条 南満東蒙で他国人に鉄道敷設権・借款の場合、予め日本政府の同意
第6条 南満東蒙の政治財政軍事に顧問を要する場合、先ず日本と協議
第7条 中国は、吉長鉄道の管理経営を99年間日本に委任
第三号 漢冶萍公司に関する取極案
第1条 漢冶萍公司は将来日中合弁に、中国は日本の同意なく同公司の権利財産を処分しない
第2条 中国は、同公司に属する鉱山付近の鉱山を、同公司の承諾なく他者に許可しない
第四号 中国の領土保全のための約定案
中国は、中国沿岸の港湾・島嶼を他国に譲与・貸与しない
第五号 その他
一 中央政府に、日本人政治財政軍事顧問の招聘
二 中国内の日本の病院・寺院・学校には土地所有権の承認
三 必要の地方の警察の日中合同または多数の日本人招聘
四 日本より半数以上の兵器の供給、中国に日支合弁の兵器廠
五 南支の鉄道敷設権の日本への許与
六 福建省の鉄道・鉱山・港湾開発で外国資本必要の場合、先ず日本に協議
七 中国での日本人の布教権の承認

第一号 4ヵ条、第二号 7ヵ条、第三号 2ヵ条、第四号 1ヵ条、第五号 7ヵ条、全部を合わせて21ヵ条、というものでした。日本側にメリットがある要求ばかりが並べられています。

日本側にメリットを獲得したいと思えば、当然ながらその対価が必要です。通常の交渉なら、要求が膨れ上がれば、対価もまた増大するはずです。ところが、対価となる条項、すなわち中国側にメリットを感じてもらえる条項が全く書かれていないという点に、この「対華21ヵ条要求」の根本的な拙劣さがありました。

日置公使から反対された「対華21ヵ条要求」

当然のこととして、対中国交渉の実務を担当することになる日置公使および中国領事館からは、この対中国要求案に対して強い反対意見が出されたようです。以下は、再び長岡新次郎 「対華二十一ヶ条要求条項の決定とその背景」からの要約です。

日置公使からは、12月3日以前に、交渉具体策についての意見書

日置は、12月3日交渉に臨む態度について述べた加藤への意見書中において、
交渉の懸引上引誘条件として、
① 膠州湾の還付
② 袁大統領及び政府の安全を保証
③ 日本および日本法権下の革命党員宗社党員留学生および不謹慎なる日本商人の取締を厳重励行
④ 袁大統領および閣僚の叙勲
⑤ 税率改正の提議に同意すべき条件。
威圧手段として、
① 山東出征中の軍隊による威力
② 革命党宗社党を煽動。
引誘条件も効力きわめて薄弱、威圧条件も「にわかにこれを動用すること能わざる弱点あり」として危惧の念。言外に交渉の難航を予想し、困惑している苦衷をもらしている。

交渉事はギブ・アンド・テイク、21ヵ条はテイクばかりなので、中国に何かギブしなければなりません(誘引条件)。また、場合によっては交渉中に相手を脅すこともありえます(威圧手段)。

日置公使として、誘引条件と威圧手段を色々考えては見たものの、日本側の要求が膨大すぎて効果が薄弱、と見ているわけです。

21ヵ条原案への日置公使以下の中国領現地側の反対は、加藤外相・小池局長に押し切られる

● 加藤は12月3日日置に訓令、21箇条原案。
● 日置は12月中旬北京に帰着し、直ちに北京公使館で首脳部会議。
● 小幡酉吉は政府原案通りに対支交渉を開始するならば事態は非常なことになる、先ず政府原案を大修正しなければならぬといい、その理由として、政府原案はその内容が余りに多岐、当面緊急の問題ばかりでなく不要不急の事項まで包含しているから、交渉範囲が非常に拡大され、かえって支那政府に疑惑と恐怖の念、その受諾を困難ならしむるおそれ。これに出淵勝治・船津辰一郎・高尾亨も同調。
● 小幡は急遽帰京し、1月4日加藤に会い意見を開陳、また訓令の起案者たる小池張造(外務政務局長)を訪問、その趣旨を説明。
● しかし、加藤は1月8日日置への電報で「大体原訓通りとご承知相成りたく」と問題にしなかった。

日置公使および領事館員による反対意見の表明は、まさしく交渉の当事者の役割を果たす、外交官としての経験と責任感から発したものであった、と言えるように思います。実際、「支那政府に疑惑と恐怖の念、その受諾を困難ならしむるおそれ」は、その予測どおりとなりました。

「対価不足」で失敗は必然であった「対華21ヵ条」交渉

ビジネス交渉を経験された方ならよくお分かりのことですが、交渉事というものは、双方にメリットがあることが成立の基本条件です。要求事項の決定は、通常は、先に最終的な合意レベルを想定し、そのレベルが達成できるようこちらから譲歩できる条件も用意した上で、交渉の出発点となる要求事項を決定する、というプロセスを踏むものです。

この対中交渉では、日本側が中国からメリットが欲しい、という状況で行われたのですから、日本はいわば「買い手側」でした。「買い手側」は、「売り手側」に納得してもらえるだけの「対価」を用意する必要があります。ただし現金対価を少なくしたいなら、付随サービスの無償提供などを組合せるといった方策も考えます。そうしないと交渉は不成立、そんな対価では売れない、と追い返されるのがオチです。

日置公使の言う「引誘条件」とは「対価」であり、引誘条件の「効力きわめて薄弱」とは「対価が低すぎる」こと、そのため「双方のメリットのバランス」が取れず日本側のメリットが過大にすぎ、交渉の基本条件が成り立っていない、そこで「サービスの無償提供」ならぬ「威圧条件」を加えて交渉をするのだが、威圧条件も「弱点あり」なので、交渉の難航は間違いないところである、と指摘しているわけです。交渉当事者として、きわめてもっともな指摘であると思います。

要求項目も多すぎた「対華21ヵ条」交渉

小幡北京公使館員からの、交渉する条項が盛り沢山すぎると交渉はまとまらなくなるという指摘も、まことに至当です。交渉のテーブルに乗せる条項は、多ければ多いほどもめやすくなるので、必ず達成したい条項以外の余分な条項は減らしておくのが通常です。もめてしまうと、合意できるはずだった条項まで吹き飛ばされてしまう、というのは起こりうることだからです。

あえて強硬な要求事項を増加することで、獲得できる事項を増加しようとした、という見方をしている研究者もあるようですが、実際に重要な交渉を行った経験がない人の見方、と言わざるを得ないように思います。

客観的に見て相手方が当方側に大きく依存している関係にあるなら、要求事項増加の方策が成り立つ場合もありえますが、そうでないならすべて拒否されて終わりです。そもそも強硬な要求事項数を膨らませば、交渉の相手方は心理的に反発を強めるのが通常であり、そうなるとやはり交渉は順調には進まなくなって妥結のハードルが上がってしまいます。本件でも、強固な要求が実際に中国国民の反日感情を高めてしまい、中国政府が妥協することをより困難にしました。

加藤外相と小池政務局長が、交渉の当事者である日置公使と中国公使館員からの現実的な指摘に何の顧慮も行わなかった時点で、この「対華21ヵ条要求」交渉の失敗は必然的であった、と言わざるを得ないように思います。

加藤外相と小池政務局長のコンビは、交渉事で行うべき当然の配慮をせずに「対華21ヵ条」の要求事項を策定し、さらに日置公使と中国公使館からの指摘も取り上げなかったのですから、二人とも実は重大な交渉を自ら行った経験などなかった人々(=ビジネスであれば、営業経験のない人々)ではなかったか、という疑いを感じてしまいます。

「対華21ヵ条要求」は、個人なら「恐喝罪」の犯罪行為

もっと客観的・冷静に見れば、「威圧」すなわち恫喝によって相手を畏怖させ経済的利益を得ることは、刑法なら「恐喝罪」にあたる行為です。加藤外相・小池政務局長は、外交を行おうとしていたのではなく、恐喝を行おうとしていた、と言えるのかもしれません。しかし、結果的にその「恐喝」もあまり成功していないので、彼らは犯罪者としても出来が悪かった、という評価が適切でしょうか。

参謀本部の明石次長(当時は陸軍中将、のち陸軍大将)は、1915年1月29日付の寺内総督あて書簡で、「わが提議〔=21ヵ条要求〕は十分強硬にこれを貫徹する必要これあるべく、もしそれわが要求にして容れられずば、断乎として教師団を燕京〔=北京〕の城郭に進め候ことは数カ月を待たずして解決いたすべく」と書き、「兵力に訴えても要求を貫徹すべきことを強調」(上掲・山本四郎 「参戦・二一ヵ条要求と陸軍」)していたようです。中将で参謀本部次長という陸軍の最高幹部の一人が、「恐喝」を主張していた、というのは、大組織としてかなり情けない気がします。

明石という人は、日露戦争期に欧州での謀略活動で名をあげ、その後韓国併合期には韓国駐箚の憲兵隊長となって「探偵政治の悪魔」と言われたそうです(半藤一利ほか 『歴代陸軍大将全覧 大正篇』)。大組織にはいろいろな人物がいるほうが良いので、当時の日本陸軍に必要な人物の一人であったことは間違いないと思うのですが、参謀次長にして良い人物であったかというと、違うように思います。

対中強硬方針は、国内選挙対策としては成功

加藤外相による強硬な対中交渉方針は、その本来の目的であった国内の選挙対策上では、所期の効果を上げた、と言えるようです。以下は、再び野村乙二朗 「対華二十一ヶ条問題と加藤高明」からの要約です。

1915年3月、加藤の同志会と大隈与党が総選挙で勝利

国内的には加藤の強硬策は依然として虚勢とはうつらず、その点では彼は成功。このことを端的に示しているのが3月25日に行われた総選挙の結果。大浦内相の干渉指揮で有名だが、政友会が185名から104名に激減、同志会が99名から150名に激増、中正会や大隈伯後援会を加えて大隈の与党が206名の絶対多数となったことは、何といってもこの内閣の参戦につぐ対華要求という高飛車な対外姿勢が世論の支持をうけたことを示している。

奈良岡・前掲書も、総選挙に向けて「『東京日日新聞』をはじめ、国内の新聞・雑誌はこぞって二十一ヵ条要求の報道を行い、要求貫徹の論陣を張った」、与党圧勝の原因として「大隈が日中交渉が進展中であることを巧みに利用し、有権者の愛国心に訴えかけたという側面も、もっと重視されてよい」としています。

「対外硬」の主張が世論受けする、というのは、明治中期以来継続してきた状況であり、それを選挙対策に利用したのは、極短期的には所期の効果を得たといえるでしょう。しかし、無理な交渉が当然の失敗に終わり、選挙民の期待を裏切る結果となった一方、中国の反日感情および米国の対日不信感を大きく増幅して、日本の国益を中長期的に大きく害する結果を招きました。

過剰なナショナリズムは、国内からの支持は集めやすいので、それを振りまいて権力を握ろうとする政治家や軍人が時々出てくるが、他国からの支持は得られない自国独善主義の主張を振り回すことになりやすく、結果的に国際的に孤立して国益を大きく損ね、かえって国を滅ぼすことになりかねない、という事例の一つとなってしまいました。

 

「対華21ヵ条」の対中交渉は、当然ながら難航

対華21ヵ条条交渉の経過

対中交渉は、1915年1月8日に日置公使が日本の要求箇条を手交して開始されましたが、日置の予想通り難航しました。以下も、野村乙二朗 「対華二十一ヶ条問題と加藤高明」からの要約です。

交渉下手の加藤外相、交渉巧者の袁世凱

交渉開始に当たっての日本側の戦術が迅速と一括方式と秘密主義であったとすれば、袁世凱の作戦はまさにその逆。1月19日、袁の反応を知ろうと大総統を訪問した坂西利八郎大佐に対しては脈のありそうな態度、一方日置には外交部次長の曹汝霖から憤慨の態度、両人からの報告書の差の中に担当者に対する本国政府の不信感を作ろうとする策。加藤はこのような初歩的な策謀に引っかかった

加藤は第五号を列国に秘匿して、列国から不信感

当時の中国の外交で秘密厳守など不可能、は常識、町田経宇少将も指摘。しかし袁世凱には秘密厳守を要求し、列国には第五号の希望事項を伏せた。
2月8日、日置は日本の提案内容が漸次列国の報道陣に拡がりつつあることを報告。2月10日、加藤は英グリーン駐日公使に、中国に対する要求事項は既に知らせている通りで、そのほかのことは単なる「希望」に過ぎないと回答。しかし、加藤はこれから後も日置に対し五号について強硬に交渉を続けることを求め続けるし、最後通牒の要求事項の中にすら入れることを主張する。

難航した対中交渉

討議の中心議題は何といっても二号の南満東蒙の問題。第1条の鉄道と旅大の租借期限の延長という最も重大と考えられる交渉が比較的速く合意をみたのに対し、第2条と第3条の土地建物の賃借権、所有権、居住権および営業権に関する問題がこじれたのは、前者が既得権の延長、後者が大幅な権益増大、内地雑居を要求しながらしかも領事裁判権も維持しようとしたから。

とくに大きな対立点は第二号と第五号

2月から4月にかけての長期交渉も、一号が大筋合意、二号の第1条が完全解決した以外では、みな未解決。大きな対立点として残されたていたのが、二号の第2条から第6条までの東部内蒙古問題であり、それ以外では五号の各箇条。

4月15日、妥協の可能性も生じたが、加藤が第五号を引っこめず決裂

4月15日に、東部内蒙古と五号の交換的解決案。ところがこれは日中双方の事情から破れる。加藤は東部内蒙古については南満州と同一条件を要求するには及ばない、その代わりに五号についてはその要求を全面的に撤回するつもりのないことを明瞭に。中国側も俄然強硬に、中国政府の立場に対する合衆国政府の公然たる支持。

元老が介入し、日本は5月4日に第五号を削除して最後通牒

わが国の最終的譲歩案の提示は4月26日。中国側の回答は5月1日、第二号なお相当のへだたり、五号は全項目を拒否。
この通告を受けて加藤は最後通牒の提出に。最後通牒政府案は4日午後の首相官邸における元老と閣僚との協議会に。元老の反対に対し、加藤は「自ら全責任を負って辞職する」。加藤が辞任すれば圧倒的に強硬外交を支持している国民感情からいって元老は非難の的になる。山県は「諸君は宜しく評議して決するところあって然るべし」と退却。
そのあと閣僚だけ残ってさらに協議続行、遂に閣議は五号削除の修正に決定、4日の夜か5日の早朝のこと。公使館は7日に最後通牒を手交。

この最後通牒をもって、ようやく日中間交渉は終結しました。

 

「対華21ヵ条」の交渉結果 - 21ヵ条のうち、合意成立は「半減」

21ヵ条要求各号の交渉の最終結果

最終的に日本側の要求はどこまで通ったのでしょうか。以下は、前出・島田洋一 「対華二十一ヵ条要求」からの要約です。

「要求」と結果には大きな開き

当初提出された「二十一ヵ条」原案と、最終的に出来上がった取極とを偏見なく見比べるなら、まず半減したというぐらいに見ておいて間違いない。無理な要求を出したあげく結局比較的ましな一部の項目しか通せなかったのだが、あたかも全面的に押し付けたかの印象を振りまいてしまったという点で拙劣極まりない外交だった。

第一号(山東関係)の結果

「最後譲歩案」提出(4月22日)の際に至って、加藤は山東還付の意向を明示。最終的には、参戦の際の公約はその通り実行された。それが賢明なやり方だったかどうか。もし当初から還付を明記しておいたなら、日本側原案の持つ一方的色彩が多少なりとも緩和されたことであろう。

第二号(南満州及び東部内蒙古地域を対象にした諸要求)の結果

双方が最後まで譲らず、遂に妥協点が見い出せなかったのは、東部内蒙古を満州と同等に扱うかどうか。結局最後通牒に訴えることで、日本側がその主張を押し通した。内容的に見た場合、この東蒙問題が、明らかに交渉全体を通じての攻防の焦点だった。

第三号(漢冶萍公司)の結果

中国政府による公司の国有化の動きを阻止し、日本側によるコントロールを強めようという意図から出された要求。第三号第一条、結局双方が歩み寄って合意が成立。第三号第二条が思わぬ躓きの石。アメリカの態度硬化と第三号第二条の存在とは密接な関連。

第四号(中国沿岸不割譲に関する取極案)の結果

中国側、そのこと自体何ら異存はないが、外国を相手にその旨の取極を交わすとなると、これは事実上、中国はその国の保護国になったと宣言するにも等しい行為、断じて受け入れられない。結局「中国側が独自に領土不割譲宣言を行う」ことで合意成立。

第五号(希望条項)の結果

中国側は、当初から、第五号については商議に応ずることすら出来ないという姿勢。ところが加藤は、第五号を交渉のテーブルに載せることにあくまで固執。日本外交に対する不信は決定的に。
結局最終段階で、元老の主張によって第五号関係のものは落とされることになり、「譲歩つき最後通牒」の形で出されたため、中国側もひとまずこれを受け入れるに至った。なお、取極(交換公文)がなされた項目も1箇条(福建)だけある。

交渉結果を点数化してみると

交渉結果を点数化してみましょう。条約か交換公文か中国政府の宣言かの形式を問わず、とにかく最終的にほぼ合意されたものを〇、大幅修正の上で合意されたものを△、撤回されたものを✖、としてみます。

第一号 4ヵ条: 〇3・△1
第二号 7ヵ条: 〇2・△5
第三号 2ヵ条: △1・✖1
第四号 1ヵ条: 〇1
第五号 7ヵ条: △1・✖6
したがって、全体では、〇6、△8、✖7

〇 2点、△ 1点、✖ 0点で計算してみると、合計点は20点。21ヵ条全部〇なら満点は42点であるのに対し20点という結果なので、「半減した」という評価は当たっている、と言えるように思います。

半分しか通せなかった外交交渉でしたが、交渉当事者の交渉技術に問題があったからではなく、そもそも要求自体に無理があったからであったことは明白です。

最初から要求項目を絞って、つまりは明らかに通りそうにない項目は削っておいて、必ず実現したい要求にはその対価を適切に用意していたなら、交渉はさほどもめることはなく、結果はずっと高い得点になっていたでしょう。すなわち、要求を拡大しすぎた結果として、双方好感を持ちあって合意することができなくなり、徒に反感を嵩じさせてしまいました。まことに拙劣、失敗した交渉でした。

 

「21ヵ条要求」では、対米外交でも重大なマチガイ

「21ヵ条要求交渉」の結果、アメリカは日本に「不信用宣言」

この対華21ヵ条要求については、対中交渉上だけでなく、対米交渉においても重大なマチガイがあった、と言われています。再び島田洋一 「対華二十一ヵ条要求」からの要約です。

「21ヵ条要求」は、対中・対米双方で大きな負の遺産

「二十一ヵ条要求」を契機に、中国における対日感情は決定的に悪化、この交渉の負の遺産として最大のもの。事は日中関係のみに留まっていなかった。「二十一ヵ条」は、アメリカの所謂対日不承認政策の始まりを画す事件でもあった。

対米関係上での大きな手落ち① ― 第五号第3項の対米説明

アメリカの態度硬化を殊更促進する大きな手落ちが二つ、加藤の外交指導の内に存在。第一の問題点、第五号第三項(警察)の扱いに関わる説明。アメリカに対してだけ、珍田駐米大使が、「容易に撤回し得るが如き意味合のものにあらざる旨」を強調。米政府としては、とりわけ第三項について、日本の動きに危険を認めた。しかし、実は第三項は、3月9日に既に撤回済み。米側の態度硬化が決定的となったのは4月15日前後であったから、4月2日の時点で、直ちに撤回の事実を米側に伝えておれば、その後の展開も少しは違ったものになっていたかも知れない。

すでに撤回していた事項について、容易に撤回できない、と説明していたのですから、かなりお粗末でした。

対米関係上での大きな手落ち② ― 第三号第2条の秘匿

米側の態度硬化のもう一つの要因、第三号第二条。中国側が強く受け入れを拒否したこともあり、最終譲歩案提出の際、加藤はこの項目を撤回。が、この第三号第二条の秘匿が、実際に米政府の態度硬化に駄目押しの役割。最早日本側からの累次の通知・説明は信用しないとの最終判断。

最終的に撤回したのですから、通すことは無理と早くに判断して引っ込めていれば、秘匿する必要もなかったのですが。

結局アメリカは日本に「不信用宣言」

5月7日、最後通牒発出と同時に、加藤は、列国に対し、その内容について通知。2日後の5月9日、中国側が最後通牒を受け入れ、交渉はここに一応の決着。13日、外務省を訪れた米国代理大使ホイーラーから加藤に一通の覚書、史上に名高いアメリカの「不承認宣言」、実は「不信用宣言」。
もし加藤が、第五号など速やかに撤回し、手際よく交渉をまとめておれば、アメリカの対日態度としては、ブライアン・ノート〔=満蒙での日本の「特殊地位」を承認する内容〕の線の方が歴史に刻まれていた可能性も大きい。満蒙に於ける「特殊地位」に国際的承認を得る、という当時の日本の国策の見地に立った時、これは大勝利というべきものだったろう。
加藤の外交指導は、歴史の大きな流れに照らして大失敗であったと同時に、当時の国策の見地から見ても、大きな、実に大きな失敗だった。

政治家としての加藤高明は、選挙に勝って成功したものの、外務大臣としての加藤高明は、中長期的に国益を毀損する事態を発生させて大失敗した、と言えるように思います。

そもそも、要求レベルを引き下げて交渉していれば、例えば、あらかじめ山東利権の全面還付を明白にして、南満東蒙の特殊地位の獲得に集中して交渉していたなら、こうしたマイナス影響を生じることなしに、同程度かそれ以上のメリットが得られていた可能性が非常に高かったように思われます。

アメリカが、「加藤は信用できない」と、問題を加藤個人に限定していてくれたなら、まだマシだったかもしれませんが、「日本が信用できない」という判断になってしまいました。加藤の責任は重大であったと思います。

過剰なナショナリズムに基づく「対華21ヵ条要求」交渉は、自国独善主義の主張を振り回したことで他国からの支持を失っただけでなく、交渉テクニックの拙さから「国家として信用できない」というマイナス評価まで得てしまったのです。

 

「対華21ヵ条要求」の大失策者・加藤高明

加藤高明の経歴 - 重大交渉の現場経験はなかった?

加藤高明がなぜ、かくも拙劣な要求と交渉を行って大きな失敗をすることになったのか、その背景を考えるうために、まずは「対華21ヵ条要求」に至るまでの加藤高明の経歴を改めて振り返ってみたいと思います。

以下は、加藤高明の評伝である櫻井良樹 『加藤高明-主義主張を枉ぐるな』 の内容を、極度に要約しています。

1860(安政7)~1887(明治20)年 出生~東大~三菱(ロンドン留学・岩崎娘と結婚)

● 1860年生まれ、1881年7月東京大学法学部本科を首席で卒業、ただちに郵便汽船三菱会社に入社。
● 幹部英才教育で83年4月にイギリスへ出発、三菱の駐在員としてではなく海外留学の意味あいであったよう。このときロンドンに来た陸奥宗光と出会い。
● 85年6月、日本に帰ってきた加藤は、三菱本社の副支配人に。そして86年4月、岩崎弥太郎の長女春路と結婚、この春路の弟が三菱の第三代社長となった久弥で、久弥と加藤は「肝胆相照らす間柄」。
● 帰国後1年半、87年1月には外務省入り。

1887(明治20)~1899(明治32)年 外務省~大蔵省~駐英公使

● 外務省では、まずは法律取調委員会で、条約改正のための法律編纂業務。
● その後大隈外相時代に外相秘書官や政務課長。1888年12月、大隈が外相を罷免されると加藤も辞表を提出
● その後90年9月に大蔵省に転じて参事官、銀行局長、監査局長、主税局長を歴任。
● しかし4年経たないうちに陸奥外相に呼び戻され、95年1月から99年4月まで駐英公使。

1899(明治32)~1913(大正2)年 外務大臣~代議士~外務大臣~駐英大使~外務大臣

● 加藤は1899年5月帰国。さらに外務省職員を免ぜられたのは1900年2月。
● 同年10月、山県内閣倒れ第4次伊藤内閣が成立すると、加藤は外務大臣に。01年6月までの7か月半、北清事変の事後処理。
● 02年8月の総選挙で加藤は当選し無所属議員に。しかし04年の選挙には立候補せず、代議士時代は1年半ほどで終了。
● 06年に西園寺内閣の外相となるものの、わずか56日で辞職。
● 08年7月第二次桂内閣成立し、翌年2月駐英大使としてロンドン着、約4年間在任。
● 13年1月に帰国して外務大臣、しかし桂内閣は、加藤就任後わずか13日で、13年2月11日に総辞職。

1913(大正2)年~1914(大正3)年 立憲同志会入党、同党総理、大隈内閣副総理格の外務大臣

● 1913年4月6日、加藤は立憲同志会に入党、7月20日に党の筆頭常務に。
● 12月23日、立憲同志会は正式に創立大会、加藤が総理(党首)に。加藤の党内統率力はまだまだ弱く、党首として多難な出発。
● 14年4月13日、大隈に組閣の大命。外務大臣が加藤高明で副総理格。大隈は内閣をゆるく統率、加藤が実質的に内閣の中枢を担った。問題は党内。不満が噴出、尾崎・大石と加藤・大浦との実権をめぐる主導権争い、加藤を党首から引き降ろそうとする動き。

三菱時代は日本で1年半・イギリスで2年の短期間でしかなく、しかも最初から別格エリート扱いを受けたため、加藤は、海外での見聞は広めたものの、ビジネスの実務や交渉経験を身につける機会はほとんどなかった、と推定するのが妥当のように思われます。

外務省入りも、もともと商人向きではなかったことが理由の一つであったようです。つまり、三菱時代、交渉ごとの経験は乏しく、またもともと交渉上手でもなかった、と思われます。

また、駐英公使時代、加藤は、イギリス社交界で非常な成功、日本の存在感を高めたとされていますが、あくまで社交的な成功であって、重要事項は日本に駐在する各国公使と外務省との間で交渉されていることに不満を表明したぐらいですから、やはり交渉事の経験が身につく機会はあまり与えられなかった、と言って良いように思われます。

「21ヵ条要求」の策定に関し、加藤は、実は重大な交渉を自ら行った経験などなかった人ではなかったか、という筆者の推測を述べました。実際、加藤は華麗な役職を多数経験した人物でしたが、エリート過ぎて下積み経験もなく、交渉の現場はあまり経験していなかった、と言えるように思われます。

加藤高明は、外交官時代は健全な思考をしていた

「対華21ヵ条」ではきわめて拙劣な外交を行った加藤外相ですが、実は、外交官時代には健全な発想をしており、例えば日清戦争時の対清講和では、干渉を招かぬように要求は抑えるべき、といった意見を表明していました。また、日露戦後の外相時代にも、加藤は陸軍との対立もあって外相を辞職したようです。再び、櫻井良樹 『加藤高明-主義主張を枉ぐるな』 からの要約です。

1895年の日清講和時、「占領は出来る限り小部分に」

1894(明治27)年7月28日、外務省に戻り特命全権公使兼政務局長。11月23日、ロンドン駐箚発令、着任は95(明治28)年1月23日。99(明治32)年4月まで約4年間のロンドン生活。
日清講和条件について加藤は、イギリス人の嫉妬を招かぬよう、第三者が見て当然と認められる程度に止めることが肝要、「大陸地の占領は出来得る限り小部分にとどめ、島嶼に着目する方が危険が少ないと伝えた(伊藤宛)。北京侵攻作戦は「暴挙」(大隈宛)。イギリスに配慮して講和条件に開港場の増加や長江上流の通行権を加えることを進言(陸奥宛)。三国干渉について、大勝に増長し「天下に敵なし」などと途方もないことを公言している人心に、冷水を頭上にかけ冷ます効果があったと表明(豊川宛)。

1906年の西園寺内閣外相時代、陸軍との対立から外相を辞職

1906(明治39)年1月7日に第一次西園寺内閣が発足、加藤は二度目の外相に。わずか56日、鉄道国有化を進める内閣の方針と加藤の財政政策上の主義がぶつかり、3月3日に単独で辞職。
『加藤伝』 は、満州経営問題をめぐる陸軍との対立こそが辞職の理由と。満州を世界に門戸が開かれた地にすることが大義であったはずなのに、陸軍は軍政を撤廃せず、大連を自由港にしなかったことが問題。

この二つの事例を見ている限り、加藤は、本来的には陸軍に迎合する発想はなかった、と言えるように思います。

政治家を目指すようになって、加藤高明は迷走したことがあった

前出の奈良岡聰智 『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか』 には、1900(明治33)年に加藤が第4次伊藤博文内閣の外相に就任したときの加藤高明は、「陸軍の構想する積極的な対外拡張路線とは明確に一線画していた」のに、1902年の政界進出後は、主張に迷走があった、という指摘があります。以下は、同書からの要約です。

1902年、加藤高明の政界入り

政友会に接近しすぎていた加藤は、第一次桂内閣のもとでは外務省でポストを得られず。そこで加藤は、1902(明治35)年8月に代議士となり、桂内閣打倒のために行動。活動は実を結ばず。代議士在職期間は、1904(明治37)年3月までのわずか1年半。

日露戦争時、東京日日新聞社社長として、主張が迷走

加藤は、〔1904年、日露戦争〕開戦後半年余り経って、東京日日新聞社社長に就任。政界復帰への足がかりを築くため。
ポーツマス講和会議が開催されると、加藤は賠償金獲得と樺太の完全割譲という日本側の主張を貫徹すべきだとする論陣を張り、桂内閣を激しく批判。日露の国力差を考えれば、講和はやむを得ない判断、加藤もそのことは内心では気づいていたように思われるが、加藤は桂内閣を批判するという政治的立場を優先し、結果として国際関係に無知な世論が唱える強硬論に同調。
国内政治における自らの理想や立場に固執する余りに、冷静な外交的判断を欠いたという点で、この時の加藤の行動は、10年後の二十一ヵ条と要求の際の失敗を予示しているようにも見える。

すでに1904年の段階、すなわち、陸軍との対立から外相を辞職した1906年以前に、政治家となった加藤高明には、国家としての適切な外交の実行よりも、桂内閣打倒という当面の政治的課題の達成の方に重きを置く、という思考法があったと言えるようです。

党首の立場が、加藤高明を「対華21ヵ条要求」に走らせた

東京日日新聞社社長時代の迷走はあったとしても、外交官から2回目の外相時代にかけては、対外硬派や陸軍と対立する健全な発想を表明していた加藤高明が、なぜ「対華21ヵ条要求」のような、通るはずのない自国独善主義の要求を行ってしまったのか、という大きな疑問が残っています。

1906年までと、1914~15年段階を比べてみると、加藤高明は、外交官であったのか、単なる政治家あるいは東京日日新聞社社長であったのか、それとも一党の党首・副総理となっていたのか、という相違があったと言えるように思われます。

外交官時代には国際協調に立った健全な見方をしていました。政治家になると政治的な課題を優先して外交課題には迷走する局面も出てきましたが、外務大臣という職務ではやはり健全な見方を維持していました。

しかし、一党の党首となり、また第二次大隈内閣で、外務大臣のみならず副総理としての機能も果たす立場に置かれると、選挙に勝ち政敵を従わせることを最優先課題とせざるを得なくなり、党内の反加藤派を抑えるためにも陸軍などが主張する強硬論に乗らざるを得ないと判断した、と考えるのが妥当のように思いますが、いかがでしょうか。

対外硬派が、再び日本を誤らせた

党内の不平分子が対外硬派であったことについて、再び櫻井良樹 『加藤高明 -主義主張を枉ぐるな』 からの要約です。

党内の不平分子は、加藤を軟弱外交と非難

「党内の不平分子」の加藤批判運動は、対外硬運動と関連。対支連合会は第二次大隈内閣が成立すると、満蒙問題の根本的解決を進言、さらに対支連合会と各派有志は1914年12月4日に、新たに国民外交同盟会を結成。これは「自主的外交」「挙国一致」「対支問題の根本的解決」を掲げ、同志会からも多くの政治家が加わった。
「自主的外交」というのは、加藤外交を対英追随の軟弱外交と見なすもの。代表者を選んで加藤に面会したが、いっこうに要領を得た答弁を得られなかったので、大隈内閣打倒の決議をなすに至った。加藤の答えは、貿易伸張こそ主眼としなければならないという貿易立国論。
では彼らは加藤による対華21ヵ条要求を歓迎したかというと、そうではなかった。彼らは加藤以上に強硬であった。

過激な対外政策を主張することで世論の支持獲得を狙う、という対外硬の手法は、日清戦争以前の時代から、野党が政府批判を行うさいの常套手段でした (「カイゼン視点から見る日清戦争 2 戦争前の日清朝 2a2 日本② 対外硬派」をご参照ください)。当時の立憲同志会は、政権与党となっていても元は野党時代が長く、その手法が党内の権力争いの手段に活用された、と言えるように思われます。

加藤は、党内基盤が弱かったため、軟弱外交批判を気にせざるを得なかったのかもしれません。だとすれば、加藤は「21ヵ条要求」については、1904年の東京日日新聞社長時代と同じく、国内の政治的事情を最優先して、その本来の外交的な「主義主張を枉」げたのです。

加藤は、課題の優先順位付けを間違えた

あるいは、優先順位の問題として、党内権力の安定化や総選挙勝利といった極く短期の目標の達成を優先して、中長期的な国益の達成をその下位においてしまった、という方が当たっているのかもしれません。(現代の日本の政治家も、加藤のこの失敗から学ぶべき点が多いように思います。)

本件では、加藤が日置公使の8月提言を受け入れていたなら、あるいは要求取りまとめの責任者を小池局長にしていなかったなら、珍田大使がアメリカに不適切な説明をしていなければ、など、さまざまなポイントがあり、そのすべてで裏目に出てしまったように思います。しかし根本的には、加藤外相が優先順位を間違えた結果であった、と言わざるを得ないように思います。

それにしても負の影響がきわめて甚大な大失敗となりました。対外強硬策は、所詮、野党として政権運営の責任を持っていない気楽さを基盤として行われる主張です。対外硬派は、日清戦争期に続き、またしても国を誤まらせた、と言えるように思います。

加藤高明は、1924年には、国際協調主義に戻っていた

その後の加藤高明について、上掲・奈良岡聰智 『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか』 は、「元老西園寺公望は、加藤の外交手腕に対する懸念を抱き、加藤および彼が率いる憲政会を長らく政権から遠ざけた。 … 加藤が〔二十一ヵ条要求への〕弁明を止めたのは、1923年秋に政権獲得を逃したことがきっかけである。これ以降加藤は、…中国への内政干渉と国際協調の原則を守りながら、条約上正当に認められた権益擁護を主張する穏健な外交方針を一貫して示し続けることになる。1924年に首相に就任した加藤は、幣原外交と称される国際協調外交を推進し、おおむね大過ない外交を行った」と指摘しています。

結局加藤は、彼の外交官時代以来の本来の考え方、すなわち国際協調主義に基づいた外交に戻ったわけです。彼が迷走せずに、この1914~15年の時期にも国際協調主義で一貫していたなら、日中関係や日米関係の暗転は生じることがなく、加藤自身も原敬と並び称される大政治家になっていたのではなかったろうか、という気がします。当時の日本にとっても、彼自身にとっても、誠に残念な大失策であった、と思います。

 

「対華21ヵ条要求」についてのまとめ

「対華21ヵ条要求」で確認してきたことを整理しますと、下記にようになるかと思います。

● 青島攻略を実施する以上、中国政府との協議は必須、8月下旬に現地交渉役の日置公使から「絶好の機会」との意見が寄せられたのに、加藤外相は交渉を先送り。おそらくはその結果、要求内容が増大した。

● 要求とりまとめは外務省小池政務局長、採用されたのは軍人の意見、交渉時期は総選挙日程と関連。確かに総選挙では加藤の同志会と大隈与党が勝利した。

● 12月3日与えられた21ヵ条原案に、交渉当事者となる日置公使以下中国領事館メンバーは反対意見表明、余りに多岐、支那政府に疑惑と恐怖の念を与えると。加藤外相は意見を全く取り上げず。その結果、交渉の失敗が避けられない事態となった。

● 交渉は中国領事館側予想の通り難航。最後通牒まで行って、最終的に合意が成立したのは、当初要求の半分。結局通せなかった無理な要求事項を、最初から外していれば、印象は大きく変わっていたはず。

● この要求の結果、中国における対日感情は決定的に悪化、また、要求内容を秘匿したため、列国からも不信感、とくにアメリカからは、最終的に日本への「不信用宣言」。負の影響がきわめて甚大な大失敗となった。

 

 

ここまでは、日本の参戦決定から、青島攻略戦、そしてその外交的跡始末である21ヵ条要求を見てきましたが、次は第一次世界大戦中の日本海軍の戦いぶりについて、です。