前ページでは、シベリア出兵に至る経緯を確認してきました。ここからは、共同出兵以後、いったんはシベリア全体を勢力下においた反革命コルチャーク政権が成立するものの、やがて革命派によるパルチザン戦に敗れてその政権が倒れ、英米が撤兵して日本だけが残留し出兵を継続するまでの、1918年8月から1920年はじめまでの経緯を確認します。
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1918年8月~、シベリア共同出兵
列国と日本のシベリア共同出兵
まずは8月の出兵について、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
列国のウラジオストクへの出兵
● 英軍の浦潮上陸は8月3日。
● 9日にはフランス軍約1200が上陸。
● アメリカ政府は8月3日に出兵宣言、8月16日から上陸、約9000。
● カナダ軍、約5000、浦潮到着10月27日。
● イタリア、1400、10月下旬、一部は浦潮に、主力はウラル方面。
● 中国、8月下旬、さらに10月下旬増派、合計約2000。
列国の欧州側北ロシアへの出兵
ウラジオストクへの共同出兵とほぼ時を同じくして、8月2日、連合国軍が北ロシアでも本格的軍事干渉開始。
● ムルマンスク地区で英(含カナダ)軍 6330、仏軍 590、伊軍 1520、セルビア軍 1070
● アルハンゲリスク地区で英(含カナダ)軍 4400、米軍 3950、仏軍 220。
日本の出兵は、浦潮・ザバイカル両方面に
● 陸軍中央部は、浦潮・ザバイカル両方面にいずれも戦時編制1師団の兵力派遣の方針。8月2日、出兵宣言の発表。
● 沿海州方面に小倉第12師団。その第1梯団は8月11日以後逐次浦潮に上陸、その兵力は計1万4040としてアメリカ側に通告。
● ザバイカル州方面には、まずは満州里へ満州駐箚旭川第7師団を派遣、「武装せる独墺俘虜」による「支那領土に対する脅威」に対処するため。
● それに対しイギリスおよびチェコ軍団から、ザバイカル州方面への派兵請願。政府は20日の閣議で第二梯団の浦潮派遣、23日には名古屋第3師団のザバイカル州派遣を決定。
出兵宣言から3ヵ月たった11月4日の陸軍省調査、この時点における出征部隊の人員総計は、戦闘員4万4700人、非戦闘員2万7700人、計7万2400人。7万3400人という数字もある。
出兵が行われたのは、西部戦線での「ドイツ陸軍暗黒の日」の前後、連合国側が軍事的劣勢を一挙にくつがえしたものの、第一次世界大戦があと3ヵ月で終わるなどとは、まだ誰も考えていない時期でした。
日本のシベリア出兵は連合国共同行動の一環であったこと、英仏米などはシベリアだけでなくヨーロッパの北ロシアにも出兵したことがわかります。ただし、総計7万人を上回る日本の派兵は、イギリスから積極的関与の要請があったとはいえ、陸軍自身の積極方針に基づくものであった、すなわち、日本の出兵の目的はあくまで極東における緩衝国形成にあった、と理解できます。
日本の出兵、国内は米騒動、現地は軍紀弛緩
陸軍少将も認める、日本陸軍の出兵の「底意」は「緩衝地帯の設立」
菅原佐賀衛 『西伯利出兵史要』 は、陸軍少将の著者が1925(大正14)年に出版したものです。参謀本部第4部長の渡辺錠太郎による「序」も付されて、偕行社から発行されていますので、「準公刊戦記」に近いものではなかろうかと推測します。
その本書には、日本のシベリアへの出兵の目的について、下記の記述があります。(句読点・濁点半濁点を追加、現代字やかな書きに変更、送り仮名を追加、あまり知られていない漢字書き地名をカタカナ書き地名に変更、などを適宜行っています。)
日本の出兵の「底意」は「緩衝地帯の設立」
我軍の出兵目的もまた「チ」軍〔=チェコスロバキア軍団〕援助であった。
無論、「チ」軍援助もその一面であろうが、なお当事者の胸中には独・墺俘虜ならびに過激派軍を撃破し、少なくもこれをバイカル湖以西に駆逐し、ザバイカル、沿海、アムール、サハリンの4州を含む極東露領を一団となし、これに非共産制の政府を擁立し過激派ロシアとの間に緩衝地帯を設立せんとする底意があったものと想像せらるるのである。
当時あった出兵への反対論
かくてシベリア出兵は行われたのであるが、その当時我国内にも種々の反対論があった。
● 思想の伝播は兵力をもって防遏し得べきものでないという議論もあった。
● 名義正しからざる出兵は、外は諸外国の感情を害し、内は衆心を一致する事が出来ないという議論もあった。
● また軍国的施設は労多くして効少ない、むしろ内を整え鋭を養いもって情況の変化に応ずる方が賢明であるという議論などあって、出兵反対の声もなかなか有力であったのである。
菅原少将の出兵反対論を読み返してみると、結果を的確に予想した見方が少なくなかったことが良く分かります。
出征 → 米価高騰で、日本国内では「米騒動」
1918年8月に始まったシベリア出兵に対し、日本の一般民衆は冷淡であったようです。再び、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
「米騒動」、軍隊の治安出動で、人々は出征兵士にも冷淡に
● 米価は前年(1917年)からこの年(1918年)の夏にかけて暴騰、7月中旬に政府の出兵方針でこの趨勢は決定的。
● 7月下旬富山県魚津町の漁民の主婦たちが決起。8月2日の出兵宣言とともに米価はさらに奔騰。
● 10日、京都と名古屋で大規模な街頭行動、群衆は大挙して米屋や巡査派出所を襲撃、この日から騒動は一挙に全国化。
● 都市の騒動が16日ごろまでに終息ののちも、地方の町村ではその余波。山口県や福岡県をはじめとする炭坑地帯では9月中旬まで坑夫の争議と暴動。
● 全国的規模で未曾有の治安出動、当然の結果として軍隊にたいする民衆の反感と違和感。
● 出征兵士の見送り、人々は今や冷淡。兵士の士気にも影響。不人気な寺内内閣は、民衆運動の昂揚によって決定的に揺らいだ。
軍事方針の策定が国内経済に悪影響を及ぼし、そのために軍への支持や兵士の士気が下がることがある、という実例になっています。
派兵された日本軍は軍紀が弛緩
派兵された日本軍の状況はどうであったのか、再び、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
日本軍の派兵先
● 日本軍は幹線鉄道の沿線ばかりでなく、ニコラエフスク(尼港)、スーチャン、ポシェート地区にまで部隊を派遣。
● 尼港への派兵は、アムール下流域と北サハリンにおける利権の獲得、スーチャンの場合アメリカによる鉱山利権独占に対する牽制。ポシェート地区、朝鮮独立運動に対する抑圧。
● これらの地点への派兵そのものが「チェコスロヴァキア軍団の救援」目的と大きく食い違い。
戦闘では日本軍が革命派を圧倒、革命派はパルチザン闘争に転換
● クラエフスキー付近での8月23‐24日の戦闘は一方的。日本軍との交戦はソビエト軍の士気を著しく沮喪。
● ハバロフスクでの極東ソビエト大会、8月25‐28日、戦線構築型の闘争を中止して赤衛隊は解散、新しい有利な条件を待ってパルチザン闘争を開始する、という決議。
日本軍の目的不明瞭、軍紀の弛緩
● この戦争において日本軍の掲げる目的はまったく不明瞭、当然、士気の低調と軍紀の弛緩。
● 「官費満州旅行位の心得にて出征しあるもの大部を占むる」「予想以上の不軍紀」(現地を視察した衆議院議員慰問団)。
● 出征中の匿名の従軍兵士の投書、動員計画の粗漏、輸送計画の杜撰、軍紀頽廃の実例、最高幹部の非常識、軍紀壊滅頽の原因、など。
前ページで見ました通り、「緩衝国形成」と「出兵策」では、目的と手段との整合性が取れていません。しかし、日本は、やはり「緩衝地帯形成」の底意をもって出兵しました。
軍事的に日本軍はロシア革命派より圧倒的に強力であった、という事実があった一方で、目的と手段の不整合の結果として、軍紀の弛緩も生じたようです。
一方、ロシア革命派側は、正面からの軍事衝突は行わず、パルチザン戦に切り替える、という決定を、最初の戦敗から数日内に決定しました。余程の実力差があったせいだろうと思われますが、状況変化に対応するためのカイゼン策の選択が適切であっただけでなく、その決断もきわめて迅速であった、と言えるように思います。
日本軍は兵力を一部削減して、対日批判・議会対策
この状況で、日本軍はいったんは一部兵力の削減を行います。再び、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
11月の出征規模縮小は、軍紀の弛緩も一因
● 極東ロシアの軍事情勢が一段落を告げると、政府および軍首脳部は派遣兵力の一部を削減して内地帰還措置。厳しい対日批判をかわす、議会対策、「危険思想」の好餌となる心配。
● 1919年1-2月に約2万3300人の人員が内地に帰還。帰還兵士の声は、潜在的な反抗の空気が軍紀弛緩と密接な関係にあることを示唆。
シベリア出兵時の日本軍の軍紀の弛緩の状況については、藤村道生 「シベリア出兵と日本軍の軍紀」が、日本軍憲兵隊の記録に基づいて、具体的に明らかにしています。シベリア出兵で問題となったのは、「掠奪だけではなかった」、「脱営・逃走・上官侮辱・抗命などが多数発生し、絶対服従を基本とする日本軍の規律が根本的に危機にさらされた」、「軍紀の頽廃は将校団においていっそうはげしかった」と指摘されています。面白い論文なのですが、ここではその詳細内容は割愛します。
この状況で日本が出兵規模の縮小を行った、というのは、間違いなく一つのカイゼン策でした。ただし、最も適切なカイゼン策であったとは言えず、本来の「緩衝国形成」の目的に集中できるよう、全体の政策をさらに見直して調整する必要があったように思います。
シベリア出兵後、反革命「全ロシア政府」が成立するも、弱体化へ
まずヴォロゴツキー「全ロシア政府」、クーデターでコルチャーク政権成立
連合国が出兵に踏み切った時期は、反革命側の勢力範囲が最大に達していた時であり、良いタイミングであった、とは言えるようです。再び、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
本格干渉開始時は、反革命側優勢
連合国の本格的な軍事干渉がはじまったとき、ヴォルガ流域から太平洋沿岸の広い地域は、ほとんどがチェコ軍団とローカルな反革命政権(多くは中道派政権)の掌握下。
反革命側諸勢力間の妥協・統合が成立
ヴォルガ河畔のサマーラ、ほぼ全員がエスエルの「サマーラの憲制委」が権力掌握、チェコ軍団に助けられ8月初頭までにヴォルガ中流域はほぼ完全にサマーラ政権の管掌下。
西シベリア、オムスク、6月30日に臨時シベリア政府発足、首相兼外相ヴォロゴツキー。この政府を動かしていたのは右派、その背後に商工業界、王党派将校、保守的カザーク層、中道派と対立し、「サマーラの憲制委」とも対立。チェコ軍団は反革命勢力の不統一、不協和に強い不満、両者を共同のテーブルにつかせることに。9月10日ごろから「国家会議」、戦況が悪化したサマーラ側がより多く妥協、ヴォロゴツキー入れた執政府成立。
ヴォロゴツキーは9月20日ウラジオストクに到着、自治シベリア政府〔ヂェルベル・グループ〕は何ら抵抗せず、23日までに一切の事務をオムスク政府に引き継いで消滅、ホルヴァート政府とは合同の話合いがまとまり、30日に協定書に調印。
11月にオムスクに反革命のヴォロゴツキー「全ロシア政府」
ヴォルガ戦線、赤軍にじりじりと押され、兵士と将校が離反。10月7日サマーラは陥落、執政府もオムスクに移転、ヴォロゴツキーを首班として全ロシア政府大臣会議を発足、シベリア政府は解消。11月3日、シベリア政府は全権力を全ロシア政府に移譲。大臣14名のうち、コルチャーク陸海相と外相を除く10名はシベリア政府メンバー。
オムスクのクーデタでコルチャーク政権成立
このときオムスクの政財界が推進していたのは、執政府排除、個人独裁樹立の陰謀。11月18日、大臣会議から指名をうけたコルチャークは「最高統裁官」に就任、「全ロシア軍最高総司令官」も兼務。このクーデタが現地イギリス軍の暗黙の了解のもとに実施されたことは周知の事実。エスエル、メンシェヴィキ幹部・活動家の逮捕。12月22日にオムスクで武装蜂起、鎮圧、ボリシェヴィキ地下組織の活動家100名を含む900名が犠牲、多くの政治囚惨殺。
コルチャーク政権は、ホルヴァートを「極東最高代官」に
コルチャークは、ホルヴァートには沿海・アムール・サハリン・カムチャツカの4州と中東鉄道付属地を管理下に置く「極東最高代官」ポストを再確認。しかし、シベリア政府に忠誠を誓い、その代償として第5独立プリアムール軍団長というポストを得ていたセミョーノフは解任。
日本も極東緩衝地帯化政策を転換
日本軍はもともと極東に西シベリアの政権の威令が及ぶことに警戒的。しかし、バイカル湖以東に固執する日本の姿勢は、他の連合国との不協和。軍団長を解任されたセミョーノフはオムスクと極東との通信輸送を妨害して応酬。事態を重く見た日本政府は12月2日の閣議でセミョーノフ抑制の方針を決定。参謀本部の方針は1918年初冬、従来の極東緩衝地帯化を狙った地方反革命政権擁立路線からボリシェヴィキ打倒を目標とする全ロシア的反革命政権支援路線へとシフト。
シベリア出兵の開始後3ヵ月、1918年11月には反革命勢力を統合した「全ロシア政府」が発足、さらにクーデタでコルチャーク政権が誕生したわけです。ドイツに対し11月11日に停戦が成立して第一次世界大戦が終了したのとほとんど同時期に、ロシアでも広大な地域を支配下に置く反革命政権が成立したわけですから、連合国側はこのとき、自らの戦略に対する自信の絶頂にあった、と言えるかもしれません。
日本は、極東緩衝地帯化政策の転換を迫られましたが、反革命国家を作って革命政府と国境を接しない、という目的はこの時点では成功していた、と言えるようです。上述の日本軍の出兵規模縮小には、この情勢も反映されていたでしょう。
セミョーノフやホルヴァートは、前ページで確認しました通り、日本軍が支援しようとした反革命派でした。日本もコルチャーク政権支援に舵を切り、セミョーノフは抑制する方針に転じたようです。
ところで、右派による中道派排除のクーデタを支援する、というイギリスの判断が適切であったかどうかですが、政権運営の意思決定を行いやすくするというメリットは明らかであるものの、支持者を減らし敵対者を増やすデメリットが確実に付きまとうことも間違いなく、実態として、そのデメリットが後日表面化した、と言えそうです。
チェコ兵帰国と中農層からの支持喪失で、コルチャーク政権は弱体化
成立した反革命政権の背後では重大な情勢変化が進行し、コルチャーク政権は弱体化していきます。再び、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
チェコスロヴァキアの独立により、チェコ軍団兵士は帰国へ
チェコスロヴァキア共和国の独立宣言〔1918年10月28日〕、チェコ軍団兵士の帰心は急速に高まった。1919年1月の末までに前線のチェコ軍部隊がすべてコルチャーク軍によって置き換え。
コルチャーク軍は攻勢するも、背後で農民反乱
コルチャーク軍は1919年3月4日から攻勢に。とくに成功おさめたのは西部軍で、4月初旬にはカザンとサマーラまで80キロに迫った。コルチャーク軍は、しかし、その背後を脅かす農民反乱、パルチザン運動の展開に手を焼く。
シベリア農村で、中農層が革命側に転換
シベリアの農村は1917年は比較的平穏、1918年春から夏にかけて、ソビエト政権支持の貧農層と反革命政権支持の富農層の対立の中、中農層は傍観者的態度。反革命勢力はチェコ軍団の武力と中農層の中立に助けられてソビエト政権を打倒。
ところが1918年末頃から、中農層の革命側への転換と呼ばれる過程。動員運動反対、徴兵・徴税ボイコット、反ゼムストヴォ決起、白衛軍からの集団脱営など、1919年半ばまで長期にわたって進行。徴兵拒否を契機とする農民反乱はすでにコルチャーク政権成立以前の段階から。
政権の存続には、軍事力だけでなく住民からの支持が必須であり、支持層を失えば政権も弱体化せざるを得なくなることを示す、典型的な実例であるようです。
中農層からすると、軍に徴兵されるのはいやだ、という気持ちが強く、動員をかけようとしたコルチャーク政権から離れようとした、ということだったのでしょう。
シベリアでのパルチザン戦の拡大
1919年、シベリア農村でパルチザン運動が拡大
1919年にはパルチザン運動が拡大し、最終的に反革命勢力を挫折させるに至ります。まずは、パルチザン戦法とは具体的にどのようなものであったかについて、上掲・菅原佐賀衛 『西伯利出兵史要』 からの抜書きです。
パルチザン戦の実相、日本軍は孤立
● 第14師団がこの〔=アムール〕方面の守備に移った前後〔1919年4~6月〕から、敵は全くその作戦計画を一変したらしく、…
● 「パルティザン」的戦法で至るところ鉄道を破壊し電線を切断して、日本軍を個々に孤立せしめ、機を得て各個にこれを攻撃しようという考えを採ったものと見え、この6、7月頃から盛んに鉄道橋を破壊し始め、多い時には一夜に50箇所も鉄道橋の破壊せられた事もあるという風で…。
● しかのみならず敵はこの交通途絶の責を日本軍に帰し、物資の欠乏は日本軍が居るからであるという風に宣伝し、盛んに農民の反日本感を煽り、かつ各地の我守備隊が孤立しているのに乗じ、これに対し攻勢を取るという有様であった。
● … 師団は、日々鉄道橋や電信の修理に忙しく、討伐の方に使用すべき兵力がないという有様…。
日本軍は、日清・日露や青島攻略の戦争では経験したことがなかった、新しい戦法に苦しんだわけです。逆の立場から言えば、明らかに劣勢の軍事力しか持っていない革命派が、そのレベルの軍事力でもなんとか戦える新戦法を、カイゼンによって生み出した、と言えます。カイゼン力の差が、最終的な勝敗を決する、一つの実例であると思います。
日本軍の蛮行が拡大させたパルチザン運動
パルチザン運動の拡大には、日本軍の蛮行も貢献してしまっていたようです。再び、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
パルチザン運動の拡大は、日本軍の蛮行にも原因
反革命勢力は都市で権力。農村を起点とするパルチザン運動がシベリア各地で持続的に展開。貧農層に加えて中農層の参加、ボリシェヴィキ活動家、赤衛隊や前線での実戦の経験者。
白衛軍と日本軍の蛮行に住民は激憤。革命派の地下組織は農民のあいだに根。アムール州最初の本格的な蜂起、1919年1月10日、日本軍現地守備隊の暴力に耐えかねたマザノヴォ村の農民、本部は近隣諸村の農民を動員、蜂起民は日本軍を襲撃、蜂起民の勝利。
日本軍討伐隊、手当たり次第に村々を焼き、無防備の農民を銃殺。現地日本軍の討伐行動は、陸軍中央部すら眉をひそめたほど。福田雅太郎参謀次長は1月28日、浦潮派遣軍参謀長に宛てて、「日、露両国民間の感情を害するが如きことありては誠に遺憾なり」と行き過ぎを戒める訓電。
パルチザンは劣悪な武装でも日本軍に勝利
パルチザンの装備といえば、弾は一人に100発もあれば恵まれた方。
2月25日から26日、アムール鉄道ユフタ駅付近の戦闘において、歩兵72連隊第3大隊が「全員悉く戦死」、救援の野砲第12連隊第5中隊と歩兵第72連来第11中隊の1小隊も「歩兵の負傷兵5名を除き他は悉く枕を並べて戦死」、野砲2門を奪われた。合わせて日本側の戦死者数は280名。日本軍に深刻な衝撃。
「日清、日露、青島の戦にも未だかつて例を見ない一大珍事」。
パルチザン戦への日本軍側の対策は「村落焼棄」
「敵はいつも日本を山の間に誘い入れ尖兵や斥候を通しておいて日本軍に安心油断させておき、本体を叩きつける作戦」。かくて「村落焼棄」を実施して構わぬとの方針。山田少将の告示、「各村落において過激派赤衛団を発見したるときは、広狭と人口の多寡に拘わらずこれを焼討して殲滅すべし」。
浦潮派遣軍参謀長、これが文字通りに実施されれば、「諸種の問題を惹起するに至るべく、また永久に庶民の怨みを買うが如き結果に陥るなきやを惧る」旨、第12師団参謀長に電諭。
アムール州では、農村のパルチザン支持勢力は雇農・貧農層と新移住民の中農層(とくに旧軍から復員したばかりの者)。しかし討伐隊の蛮行の結果、富農さえ地下組織と連絡をとるようになった。広くシベリア各地でおそらく同様の状況。日本軍の「村落焼棄」、これより十数年前、朝鮮で「暴徒討伐」を推進したとの類似性。
たった4年前、青島でドイツ軍と戦ったときは、教科書通りの素晴らしい合理的な戦争を行って、少ない犠牲で勝利した日本軍でしたが、シベリア出兵では、パルチザン戦、すなわちゲリラ戦を仕掛けられた結果、大苦戦となりました。
このパルチザン戦への対策は、革命派への支持をこれ以上広げないように、住民への経済援助などの方策が適切であったはずですが、日本軍は「村落焼棄」、すなわち抑圧武断策を採用して全く逆効果となり、ますます革命派への支持を広げる結果になってしまいした。そもそもなぜパルチザン部隊が住民から支持を得られているのか、適切な現状分析が行われず、したがって妥当なカイゼン策の工夫もされなかったものと推定されます。
シベリア出兵でのパルチザン戦への対応失敗を繰り返した、昭和前期の日中戦争
上記のパルチザン戦の記述を読んでいると、日中戦争時代の八路軍(共産軍)による抗日遊撃戦の記述を読んでいるかのような印象を受けます。
劣悪な装備でも、地の利・人の利を生かしたゲリラ戦なら、装備がはるかに優れた正規軍とも戦える、というのは、昭和前期の日中戦争や太平洋戦争のフィリピン戦線、あるいは米軍対共産ゲリラのベトナム戦争などでも示されたことです。
進出軍が、地域住民に反感を持たれている状態でゲリラ戦を仕掛けられると、進出軍が確保しているのは駐屯地という点だけで、点と点を結ぶ線の確保も困難になり、面を確保しているのはゲリラ側である、という状況に陥ります。
この場合、進出軍側にとって、地域住民に好感は持たれぬまでも、反感を持たれることを防止できるか否かが最重要課題となります。
しかし、シベリア出兵での日本軍の住民抑圧姿勢は、住民の反発・蜂起 → さらに抑圧的な「村落焼棄」 → 富農さえ反日本軍、と、状況をさらに悪化させる結果を生じたようです。
「村落焼棄」の武断策は、江戸幕府も取らなかった戦国時代的対策
日清戦争期以来、日本軍には現地住民に対し抑圧的な姿勢があり、その姿勢へのカイゼンは行われず、結果としてそれが体質化してしまっていた、と言えるように思います。
陸軍の幹部にもこの抑圧方策を批判した人々がいるのにかかわらず、全体では抑圧武断策を継続してしまったところに、最大の失策がありました。これでは、日本軍はとてもパルチザンによる尼港事件を批判できません。
そもそも、村落を焼討するなどというのは、戦国時代、織田信長の一向一揆や比叡山対策のような作戦です。江戸幕府となると、例えば島原の乱以後は、一揆を招いた大名が改易させられてしまう、という方針に変化しています。
戦国時代返りをしてしまい、しかもその中の悪い例に習う体質になってしまったのは、陸軍内の文化や教育に、何か根本的な欠陥があったような気がします。
それでも、昭和前期よりはまだマシだったシベリア出兵時の日本軍
とはいえ、シベリア出兵時の日本軍では、このパルチザン戦対策として、以下の3点についての議論がなされたようです(上掲・菅原佐賀衛 『西伯利出兵史要』)。
①兵力増強で対応する
②内政不干渉の立場に立って過激派を敵としない
③兵力増強しても焼き石に水なので守備区域を縮小する
その後の展開を言えば、1919年のパルチザン戦での劣勢に対し、1920年初めには②と③を組み合わせた対策が行われたわけですから、最善策(=撤兵)とは言えぬものの、少しでも現実的なカイゼン策がそれなりの速度をもって実行された点、昭和前期の日本軍よりははるかにマシであった、と言えるように思います。
残念なことに、シベリア出兵時のパルチザン戦の経験はその後の日本軍には研究・活用されず、現地住民に抑圧的な姿勢は、正されるどころか、昭和になるとひたすら武断を振りかざす体質へと、さらに肥大化してしまったようです。
昭和前期の日本軍は全く同じ失策を中国でさらに大規模に繰り返し、いたずらに現地住民と日本兵双方の生命を消耗させてしまいました。その当時の日本軍への反感が、70年以上たった今も尾を引きずるほどの悪影響を与えているわけですから、昭和前期の日本軍はとんでもなく下手くそな戦争をしたものです。
コルチャーク政権崩壊で、列国はシベリアから撤兵へ
1年2カ月でコルチャーク政権を倒したパルチザン戦
出兵開始からわずか3ヵ月で、コルチャーク政権が誕生しました。それに対抗して、パルチザン戦を通じて徐々に支持を広げていった革命派ですが、政権成立から1年2カ月で、ついにコルチャーク政権を倒すに至ります。再び、原暉之 『シベリア出兵』 からの要約です。
1919年5月はじめの現地軍の認識、コルチャークに農民が反発
5月2日、一時帰国中の軍司令部松平政務部長の講演、レーニン政府の基礎が財政的にも軍事的にも確立、コルチャーク政権に対する農民の反撥が強い、同政権が中道派をも圧迫する政策、将来の形勢は軽率に楽観を許さざるの状態。
赤軍がコルチャーク軍を圧倒
4月下旬から東部戦線で反撃を開始した赤軍は、6月20日頃までにコルチャーク軍を350‐450キロも押し戻し、すでにウファーを解放。7月1日ベルミ陥落、エカチェリンブルクは7月15日、チェリャビンスクは同24日に陥落。コルチャーク軍は総退却の様相。
イギリスはシベリアからの撤退方針
パルチザン運動と並んで鉄道労働者や港湾労働者のストライキも白衛軍と干渉軍にとって打撃。前線のコルチャーク軍が総崩れとなり、オムスク政府のイルクーツク移転も避けられないという形勢に、イギリス政府はシベリアからの撤退方針を決定。逸早くコルチャークを見限った。
1920年1月4日、コルチャーク政権は倒壊
オムスク政府は11月10日発の列車でイルクーツクに移転、オムスク陥落は14日。イルクーツクとその周辺では「政治センター」〔エスエル、メンシェヴィキによる中道派政権の受け皿〕の指導下に反コルチャークの反乱、1920年1月4日、イルクーツク守備隊の兵士反乱は軍事政権にとどめ、コルチャークは辞任、身柄は「政治センター」に引渡。
アメリカも撤兵
アメリカは1920年1月10日以後逐次撤退。アメリカの派兵目的は何よりもチェコ軍の救援、2月10日までに米国の船団が入港し始める運び、撤兵は爾後迅速に実施。実際連合国のうちでチェコ軍の本国送還に最大の尽力をしたのはアメリカ、2月以後、アメリカ船は3万6000人のチェコ軍兵士を輸送。
現地軍松平政務部長は、的確な情勢認識をしていたようです。その時点から1年持たずにコルチャーク政権は倒れました。
上述の通り、イギリスは、コルチャークによるクーデタという、政権運営は楽になっても支持者は間違いなく減少してしまう方策を支援しました。結局そのデメリットが表面化して政権がつぶれたわけですから、クーデタ支持は明らかにイギリスの失策であったように思われます。
しかし、イギリスは、一つの方策の失敗を認めて次の方策に切り替えること、すなわち撤兵の決定も、早かったと言えます。イギリスの方針に従って行動した人々に対しては無責任、という気もしないではありませんが、状況の変化に即応して対応策を選択する、という観点では、適切な選択を行ったように思います。
アメリカも、この状況変化に対応し、本来の目的であるチェコ軍団の帰国支援をしたら撤兵と決定しました。
なお、アメリカは4月に撤兵を完了、フランスも8月をもって全部のシベリア撤兵を完了し、同軍支援のポーランド軍、セルビア軍、ルーマニア軍等も概ね同時期頃までに各その本国に帰還、イタリア軍も1月から8月で撤兵、中国軍も4月頃から7月頃で撤兵したとのことです。
1920年1月までに、イギリス・アメリカは撤兵を決定、他の国々も8月までには撤兵しましたが、日本だけは、その後も出兵を継続します。次は日本が最終的に撤兵するまでの経過を確認します。