2e2 1918年 休戦へ

 

9月第1週までにドイツ軍がヒンデンブルク線に戻ったということは、占領地という点から見れば3月の大攻勢以前の状態に戻ったに過ぎません。しかし戦争には勢いというものがあり、ドイツはあっという間に劣勢に陥ってゆきます。休戦に向けた事態の急展開を確認します。

 

 

9月以後、11月の休戦まで

米軍も加わった連合軍の攻撃と、ドイツの同盟国の離脱

事態の急展開をとくに顕著に現していたのは、ドイツの同盟国の脱落でした。リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。

バルカンでは、9月中旬の連合軍攻撃で、9月29日ブルガリアの同盟国離脱

9月15日、サロニカにおける連合軍はブルガリア軍前線を攻撃して、2、3日でこれをうちくだいてしまった。ブルガリア軍は休戦を希望して、9月29日に連合軍との間にその調印が行われた。連合軍に、オーストリアの後方をめざす前進の道をひらいた。

9月末、連合軍の西部戦線総攻撃

連合軍総攻撃の計画、4点での9月26日~28日開始のほぼ同時的な集中攻撃。
① ミューズ川とアルゴンヌ森林 Argonne Forest の中間、アメリカ軍担当
② アルゴンヌ西、フランス軍担当
①②ともメジュール Mézières の方向に向けて、26日開始。
③サン・カンタン=カンブレー戦線、英国軍担当、モブージュ Maubeuge の方向に向けて、27日開始。
④フランダース戦区、ベルギー軍と英仏軍担当、ガン Ghent の方向に向けて、28日開始。
10月5日までに英国軍はドイツ軍防衛網を突破、しかしこの戦線では、攻撃軍の師団数の方が守備軍のそれより少なく、戦車も疲弊していたために、ドイツ軍の退却を危険に陥れるほど速くは進めなかった。
第一次世界大戦 西部戦線 1918年9月~11月 地図

 

10月、ドイツはウィルソン大統領に休戦の訴え、ドイツ国内の継戦意欲の崩壊

10月3日、ドイツは休戦の訴えをウィルソン大統領に

イギリス軍は9月29日朝にヒンデンブルグ線に攻撃、ドイツを不安にさせた。ヒンデンブルク、「軍事情勢の深刻さは遅延を許さない」。こうして10月3日、即時休戦の訴えがウィルソン大統領に送られた。ドイツ政府が休戦の条件を討議し、問い合わせていた間にも、フォッシュは軍事的圧迫を加え続けた。

ドイツ国民の継戦意欲が崩壊

ドイツ国民は、突然深刻な事態に直面、不和軋轢が高まり、平和運動がせきを切ったように沸騰。最終的には敗北だという確信は、軍の首脳たちよりも国民に達するのに時間がかかったが、いったんそれがしみ込んでしまうと、その感情は強力に。「国内戦線 home front」の崩壊は遅れて始まったが、結局は戦線の崩壊よりも早かった。

 

10月末~11月はじめ トルコ・オーストリアの崩壊とドイツ革命

10月26日、ルーデンドルフは辞任

10月23日に、ウィルソン大統領はドイツの要請にこたえて覚え書を送り、事実上の無条件降伏を求めた。10月26日、ルーデンドルフは辞任を強いられた。

ウィルソン大統領からの覚書で、休戦は実質的にドイツの無条件降伏とならざるを得ない状況だと明らかになりました。休戦は、実質的にドイツの無条件降伏になった事情については、後で詳しく確認します。

10月30日、トルコの崩壊

メソポタミアでの9月19日からの連合軍の攻撃で、トルコ軍主力が捕虜となり、イギリス軍は機敏な追撃でまずダマスカスを、次にはアレッポを占領。連合軍はさらに、マケドニアからコンスタンチノープルを襲う気配であったため、無防備のトルコは10月30日に屈服。

11月4日、オーストリアが崩壊

イタリア戦線、10月27日、イギリス軍がピアベ川で主攻撃を開始、30日までにオーストリア軍は山岳地帯と平野部のふたつに分断され、退却は大混乱におちいった。同日、オーストリアは休戦を求め、11月4日にその調印が行われた。

11月4日、ドイツ革命

11月4日、ドイツに革命の火の手が上がり、たちまち国中にひろがった。11月6日、休戦交渉をするためのドイツ代表団はベルリンを発った。

ドイツが休戦交渉を迫られる事態となった時点でも、ドイツは国境線を超えて攻め込まれていたわけではありません。しかし、他の同盟国がすべて脱落したため、戦争の継続は間違いなくドイツを敗北させる、と考えざるを得ない状況になっていました。

その意味で、この時ドイツが休戦を求めた = 降伏はやむを得ないと認めたのは、合理的な決定であると思います。ドイツは、戦後の再生の余力を残して降伏したと言えるように思います。

一方、大東亜・太平洋戦争での日本は、イタリア・ドイツの降伏後も単独で戦争を続け、最終的にポツダム宣言を受諾して降伏を決めたのは、ドイツ降伏後の3ヶ月以上も後となりました。結果として、その間に、さらに多くの人命が失われ、日本の各地は焦土となり、戦後の再生にも支障をきたしました。メンツにこだわれば合理的な判断はできなくなり、結果は更に悪化する、という典型的な事例になってしまったように思われます。

 

「休戦」がドイツの「敗戦」になった経緯

第一次世界大戦の場合は、いままで見てきたとおり、ドイツの同盟国は離脱してしまったものの、ドイツ自身は依然十分な戦闘力を保持していて、前線はまだドイツの国境外にあった段階での「休戦」でした。

十分な戦闘力を保持していて形式は「休戦」であったのに、実態としては「敗戦」になってしまったのはなぜか、について、もう少し確認したいと思います。

これには、ドイツが休戦を申し入れた10月3日から、休戦協定に調印した11月11日まで、1か月以上の期間が必要だったことが大いに関係しているようです。以下は、牧野雅彦 『ヴェルサイユ条約』 からの要約です。

10月3日、ドイツはウィルソン大統領に講和のための覚書を送付

1918年9月29日ドイツは大本営で皇帝臨席の下で政府・軍指導部はウィルソンに休戦と講和交渉を要請することを決定。10月3日にはバーデン公マックスの下で、帝国議会の多数派政党の信任を受けた政府が成立、ウィルソンに講和のための覚書を送付。

アメリカは、休戦条件の受諾と根本的な政治体制の変革を要求

アメリカ側8日付、ドイツ側10月12日、アメリカ側10月14日、のやり取り。14日のアメリカ第2覚書の中で、休戦条件は連合国軍事指導者たちの同意したものとし、また帝政ドイツ体制のままでいる限り講和交渉には応じられないとして、根本的な体制改革を要求。

ドイツ政府は、陸海軍の反対を押し切って交渉継続を決断

西部戦線がなんとか持ちこたえられそうとの見通しに自信を得てか、ルーデンドルフの軍指導部はウィルソンとの決裂も辞さずとの態度であったが、陸海軍の反対を押し切ってドイツ政府は交渉継続を決断。10月20日のドイツ側第三覚書では、無制限潜水艦作戦の停止を宣言、国制上の改革の根本的性格を強調。

アメリカはなおもドイツ体制からの軍事指導者や王家の放逐を要求

アメリカ側第三覚書、10月23日。ドイツの体制からの軍事的指導者や王家の専制支配者の放逐を要求。アメリカの国内政治的事情および連合国に対する配慮から。これに反撥してルーデンドルフはただちに覚書交換の中止を要求。内閣の強い姿勢に押され、ヴィルヘルム2世はルーデンドルフを解任(10月26日)。ドイツ側第四覚書、10月27日。

ドイツ閣内に意見対立、実質降伏派が多数派に

10月24日から27日にかけてのドイツの閣内協議、ドイツは降服(に近い休戦条件)を受け入れるか、「正義の講和」を要求すべきかの意見対立、柔軟な対応を支持する意見が大勢に。
28日には憲法改正、議会制政府の原則が確立。アメリカはなお皇帝の退位を要求との情報に、31日に内閣で宰相が皇帝の退位を提案、閣内での反対は少数。宰相は皇帝に自発的退位の説得を試みるが失敗。
11月1日に、キール軍港の水兵に不穏な動きの情報。

11月5日、アメリカから事実上の「降伏」要求、11月10日皇帝は逃亡

11月5日、アメリカ側第四覚書、事実上の「降伏」の確認に近いもの。宰相は11月9日午前に、皇帝の説得が不調のまま、皇帝退位の告知を予告。皇帝は革命政権と対抗しようとしたが、最高統帥部の説得に押され、翌日オランダに「逃亡」。オランダに到着した皇帝は11月28日にドイツ皇帝位ならびにプロイセン王位からの退位を声明した文書に署名。おくれて12月1日にオランダに逃れた皇太子も自らの王位継承権を放棄。

大東亜・太平洋戦争の終末期の日本の陸軍は、「国体の護持」にこだわって戦争を長引かせ、結果的に犠牲者の数を更に無駄に増やしました。一方、第一次世界大戦末期のドイツは、休戦条件を受け入れるために、ルーデンドルフを解任し、また、更に政府が皇帝に退位を説得し、軍もそれらを妨げようとはしなかったようです。

 

ドイツ降伏の理由に、ドイツ革命も

ドイツ革命は、ドイツ艦隊出撃命令に対する、海軍水兵の反抗から

ドイツが事実上の降伏を受け容れざるを得なくなった理由について、他書からも補足します。まずは、JM ウィンター 『第一次世界大戦』 からの要約です。

物量と兵力の圧倒的格差、帰還傷兵からの情報、同盟国の降服

ドイツ軍がついに降伏したのはなぜか。18年夏、前進が頂点に達したころ、ドイツ軍の予備兵力はまったく底をついていた。疲れ切って補給もままならず。連合軍の物量の圧倒的優勢。両者の差を象徴的に示すものは戦車。7-8月の連合軍の反撃では、大量に配備された戦車が歩兵や大砲、戦闘機と組み合わせて使用され、退却するドイツ軍に絶え間ない圧迫。
銃後の状況も危機。帰還傷兵の口から戦況の悪化が告げられた。8月以降ドイツ軍最高司令部が直面していたのは、戦争に対する兵士のストライキと呼べるもの。うわさは銃後にも伝わり、軍隊による戦闘放棄を知った市民の間に政府への失望と怒り。
時期を同じくして同盟国の降伏も相次いでいた。ブルガリア、トルコ、オーストリア各軍は、9-10月に総崩れ。

ドイツ革命は水兵の反乱から

1918年の夏にドイツ軍の前線が後退しはじめると、兵士たちはついに戦いつづける意思をなくした。
1918年10月27日、ドイツ艦隊はイギリス艦隊との最後の決戦を行うよう出航命令。水兵の反抗。水兵たちは主な港町で不満を抱いている労働者たちとたびたび接触、この戦争が敗北に終わることが分っていた、だからこそ、無謀な土壇場での試みは拒んだ。水兵たちは代表をベルリンに送り、政府に自分たちの要望を明らかにした。実質的には、たいていの産業紛争にみられる不平不満の典型的リストだった。
海軍に起こったこの反乱は、陸軍や産業労働者層にまたたくまに広まり、君主体制と戦争の両方に終止符をうつことになった。

要因として、経済封鎖の結果生じた物量格差と戦車に加え、戦況の悪化の情報が前線から銃後に伝わったことも挙げられています。革命も、経済封鎖の結果であったと言えるように思います。

もう1書、AJP テイラー 『第一次世界大戦』 からの補足です。

ドイツ革命の発端 - 戦時下に平和だった水兵の出撃命令への反抗

ドイツ提督たち、潜水艦戦をやめねばならぬことに腹を立て、イギリスを相手に大洋艦隊を出動させる決意。しかし、水兵たちは2年以上も軍事行動をしたことがなく、家族と安らかに暮らしてきた。10月29日になって乗務員は暴動、11月3日までにキールは彼らに占拠された、これがドイツ革命の発端。

大東亜・太平洋戦争での日本海軍は、米海軍に盛んに艦隊決戦を挑み、また航海中に米軍機や潜水艦に沈められて、敗戦以前にほとんどの艦船・乗組員を失っていましたが、第一次世界大戦時のドイツ海軍は大違い。潜水艦は大活用しましたが、艦隊決戦は一度だけ、以後は艦隊を港に温存していたため、水兵の反乱となったようです。

支配者側の反応 - 革命を防止するために戦争終結

マックス公と仲間たちは、革命がやがてドイツ全土に広がるだろうと確信、今こそ戦争を終わらせよう、革命を防止するためだと決意。中央党幹部のエルツベルガ―は、休戦委員会の委員長に。
11月8日8時に、エルツベルガーらは、フォッシュらに会った。エルツベルガーは休戦を求め、フォッシュは連合国が合意しておいた条件を読み上げた。パリでは、ドイツがこれほど厳しい条件を受諾するかどうかについて多少危うんでいた。事態が事態なので、ドイツ政府はほとんどどんな条件がつけられても休戦にとびついた。

ドイツ革命の進行、共和国が成立、皇帝退位

11月9日、革命はついに点火、ベルリンで共和国が宣言された。マックス公は首相の地位を社会民主党の指導者エーベルトに譲った。将軍たちはヴィルヘルム2世に対して、軍は皇帝のためでなく、ドイツのために戦うであろうと語った。2日後皇帝は、プロイセン王とドイツ皇帝を公式に退位する署名をした。
ベルリンの新しい共和国政府は、革命を喰い止めるのに忙しすぎて、休戦条約の討議に時間をつぶす余裕がなかった。エルツベルガーは、すぐ署名せよという簡単な指示を受取った。

10月29日のきわめて局地的な水兵暴動から、わずか10日ほどでベルリンでの共和国宣言まで進んでしまうのですから、銃後の不満がいかに大きかったかがわかります。

 

実は、ドイツ陸軍の前線も崩壊しかけていた

先に挙げたJMウィンターの著書に、「8月以降ドイツ軍最高司令部が直面していたのは、戦争に対する兵士のストライキと呼べるもの」という記述がありましたが、それを詳述しているのが、ベッケール&クルマイヒ 『仏独共同通史 第一次世界大戦』 です。同書は、春の大攻勢の失敗後はドイツ軍前線の士気も著しく低下し、8月以降は投降・失踪が急増していたことを指摘しています。以下は、同書からの要約です。

大攻勢の停止後は、ドイツ軍の士気低下

1918年4月以降は破滅が「進行」していた。「ミカエル」攻勢の停止の結果、部隊の士気は著しく低下。前線に到着するやせ細った若い新兵たち、スペイン風邪の蔓延。ドイツ第二軍、18年4月には28個師団、うち完全な状態は4個師団、それが8月3日には、17個師団と2個師団だけ。歩兵の訓練不足、将校の甚大な損失、多くの馬が病気でほとんど動かせない大砲。

8月8日から急増したドイツ軍兵士の投降・失踪

8月8日、この日だけで、ドイツ第二軍は4万8000人の兵士を失ったが、そのうち3万3000が行方不明。この数字は、英仏側の資料が語る3万の捕虜とかなり正確に符合。これほどの投降があったことで、ドイツ側にとって1918年8月8日は、「ドイツ軍の暗黒の日」となった。この時から、失踪する兵士の数は急速に増大していく。公式統計によれば、75万から100万の兵士が、戦争の最後の数カ月に前線から姿を消している。

「ドイツ軍の暗黒の日」とは、実はドイツ前線兵士の大量投降の日であったことが分かります。ルーデンドルフはまだ戦えると思っていたのかもしれませんが、現実には前線は崩壊しつつあった、と言えそうです。

投降・失踪兵士の急増は、春季攻勢の結果、敵地で豊かな物資を見た結果であるかもしれません。その推定が正しければ、やはりイギリスによる海上封鎖が非常に大きな効果を発揮した、と言えそうです。

なお、飯倉章 『1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか』 は、「実のところドイツ軍は1916年春ごろから、士気の低下に悩まされていた」、「1917年秋から、ドイツ軍ではシャーキング〔=軍務における責任回避・忌避、義務回避、避戦、怠業〕が目立つようになった。とくに東部戦線から西部戦線への移送時に兵士たちが消えてしまうことが多く、… ループレヒト王太子軍集団では、移動して再配置された際の部隊の兵力が20%も減っていたという俄かに信じ難い記録(1918年5月)もある」と指摘しており、8月以前からすでに多くの失踪者があったようです。

 

ドイツに迫られた降伏の条件

連合国側の休戦の条件

日清戦争の下関での講和談判で、日本は清国に対し、巨額の賠償と領土の割譲を要求し、飲まねば戦争を継続すると脅しました。戦争が継続されれば、清国側はさらに負け続けて損害は増大、その後の講和条件もますます不利になることが明白であったため、清国はやむなく講和条約に調印しました。

ドイツも、戦争が継続されればますます不利になることは、日清戦争における清国と同様に、明らかでした。相手側が提示してくる条件で休戦に応じる以外に手はなかったわけですから、ドイツにとっての次の問題は、休戦の条件として連合国から何を迫られるか、でした。また、リデル・ハート氏の著書からの要約です。

イギリスの意見は穏健な条件

ヘイグは穏健な意見。「ドイツは軍事的な意味では崩壊していない。これまでの数週間、ドイツ軍はきわめて勇敢に、また秩序正しく戦いながら後退。したがって、ドイツがのめるような条件を与える必要がある。ドイツに侵略された全地域およびアルザス・ロレーヌからのドイツ軍撤収によって、勝利は充分保証される」。また英国軍は、ゲリラ戦の危険を気遣っていた。そして、ドイツ陸軍は動員解除せず、ボルシェヴィズムのまん延に対する防波堤として残しておきたいと考えた。

フランスは強硬論

フォッシュは、ヘイグの条件には不賛成で、ドイツ軍にその砲の3分の1と機関銃の半分を引き渡させることと、連合軍のラインラント占領とライン川東岸の橋頭保の確保などを主張。
次の不一致点は、賠償を休戦条約の中にうたうかどうか。英国軍は反対し、フランス軍はぜひそのことをうたうべきだと主張。

海軍に関してはイギリスが強硬論

海軍に関するもの、個々では各国の立場は逆に。フォッシュは、Uボート部隊の降伏だけでいい。ロイド・ジョージは効果的で、しかも相手に屈辱を与えない妥協策として、ドイツ洋上艦隊の降伏ではなく抑留を要求すべきと示唆。

ドイツによる休戦条件受入れの決定― 背景には南部国境への軍事圧力と連合軍の優勢

ドイツがこれらの厳しい条件を受け入れることを急いだのは、西部戦線の戦況のためというよりは、「国内戦線」の崩壊という国内事情と、南部国境に高まる脅威、西部国境への持続的圧力、はっきり数字にあらわれた連合軍の優勢などの要因。
ほんとうに意味があったのは、オーストリア降伏のあと、オーストリアとドイツの国境に連合軍の3個軍が5週間以内に結集して、ミュンヘンに向けて集中的前進を準備することにした、11月4日の決定。これに加え、英国独立空軍がこれまで試みたことのない規模で、ベルリンを爆撃することになっていた。またヨーロッパのアメリカ軍兵力はいまや208万5000名、師団数にして42個師にふくれあがり、その内32個師は戦闘準備ができていた。
ドイツ代表団は過酷な休戦条件を受け入れるほかなくなった。11月11日午前5時、休戦の調印。

降伏条件が、ドイツにとって過酷なものとなってしまったのは、フランスの強硬論に引きずられたせいであるようです。

 

フランスの強硬論の背景に存在した休戦拒否論

フランスの強硬論の背景として、フランスでは実は休戦に否定的な意見が強かった、という事情があったようです。以下は、再びベッケール&クルマイヒ 『仏独共同通史第一次世界大戦』 からの要約です。

フランス内の「継戦論」対「休戦受け容れ論」の対立

フランスの世論はドイツからの休戦の提案に非常に驚き、そして最初の頃の反応の圧倒的多数は否定的なもの。一息ついた後で体制を立て直して戦闘を再開することでしかありえない、と考えられた。次の月には二つの態度、ドイツも戦争の現実を知るよう戦争がドイツの領土に及ぶべき、または、殺戮は一刻も早く終わらせるべき。右翼の姿勢と左翼の姿勢、大統領ポワンカレ対首相クレマンソー、ペタン将軍対フォッシュ元帥。時間が経つにつれ、後者の姿勢が次第に一般的に。

ドイツはフランスから不信の目でしか見られていなかったようです。

のちのナチズムの勃興を考えると、結果論ですが、フランスの感情的強硬論よりも、イギリスの理性的穏健論の方が適切であった、と言えるように思います。人間はやはり理性があるからこそ人間なのであり、一時の感情に押し流された決定は、結局好ましくない結果を生むことが多い、というのがより一般的な経験則であるように思いますが、いかがでしょうか。

 

11月11日調印の「休戦条約」の内容

休戦条約は、実際にはどのような内容であったのか、以下は、斉藤孝 「第一次世界大戦の終結」(岩波講座 『世界歴史25』 所収)に記されたその内容を整理したものです。

1918年11月11日 休戦条約の規定

● ドイツ軍は、15日以内にベルギー・フランス・ルクセンブルク・アルザス・ロレーヌ地方から撤退
● 1ヵ月以内にライン左岸から撤退、ライン左岸地帯は連合軍が占領する
● 戦線の一切の軍事設備は現状のまま連合軍に引き渡し
● 大砲5000門、機関銃2万5000挺、1700機の飛行機、すべての潜水艦、巡洋戦艦6隻、戦艦10隻、軽巡洋艦8隻、機関車5000台、車輛15万台、貨物自動車5000輌などを良好な状態で引き渡し
● ブカレスト条約(1918年5月7日ルーマニアがドイツに降伏して結んだ講和条約)とブレスト=リトフスク条約は破棄
● ドイツ軍は東部戦線からすべて本国内に退去
● ライン左岸占領軍の維持費はドイツが負担
● ベルギー国立銀行やドイツがロシア、ルーマニアから掠奪した金は返還
● 海上封鎖は続行
● この休戦期間は36日間であり、この間にこれらの条項が守られなければ、連合国は48時間の予告付きでこの条約を破棄することができる

名称は「休戦条約」でも、内容の実質は「降伏」であったことが良くわかります。

 

1918年の個々の戦闘の詳細

以上、1918年の戦闘の経過を確認して来ました。この年に起こった戦闘のうち、詳細で読みやすい記述があるものについて、下記に整理しておきます。

リデル・ハート『第一次世界大戦』
● 最初の突破(ドイツ軍春季攻勢、3月)
● フランダース突破(ドイツ軍春季攻勢、4月)
● マルヌへの突撃(ドイツ軍春季攻勢、5月)
● ≪第2次マルヌ戦≫(連合軍の反転攻勢、7月)
● ドイツ陸軍『暗黒の日』(連合軍の反転攻勢、8月)
● メギド―トルコ軍の壊滅(9月)
● 夢の戦闘―サン・ミエル(9月)
● 悪夢の戦闘―ミューズ=アルゴンヌ(9月~10月)

歴史群像アーカイブ『第一次世界大戦』 下
● カイザーシュラハト(ドイツ軍の大攻勢)
● アミアン1918(ドイツ陸軍暗黒の日)

 

 

次は、第一次世界大戦の経過の最後として、結局ドイツの敗因は何であったのか、何がドイツの敗戦に最も効いたのか、についてです。