1b 開戦前の欧州の同盟関係

 

第一次世界大戦がなぜ勃発してしまったのか、開戦に至った経緯のうち、当時のヨーロッパ列国の同盟関係について、確認していきたいと思います。

 

 

ビスマルク時代のドイツは、ロシアと同盟、イギリスも友好国だった

第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリアなどの同盟国(Central Powers 直訳すれば中欧諸国)側と、フランス・ロシア・イギリスなどの協商国 (Entente Powers = 連合国 Allies) 側との間で戦われました。

しかし、この組み合わせは、第一次世界大戦の約30年前、1880年代のビスマルク時代とは全く異なる組み合わせであったようです。

 

ビスマルクは、同盟国・友好国の体制でフランスを包囲

まずは、ビスマルク時代のドイツはどのような同盟関係であったのか、どうしてそれに変化が生じたのか、という点を確認したいと思います。以下は、リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。

ビスマルク時代のドイツ、最初の基軸はオーストリアとの同盟

普仏戦争(1871)後、ビスマルク Bismarck は、フランスとその友好国、支持国を引き離そうとした。ビスマルクは1879年にオーストリアと防衛同盟を締結、この同盟は1882年にイタリアを加えて強化。

ドイツ(プロイセン)は、1866年に、普墺戦争でオーストリアを打ち負かし、オーストリアを排除したドイツ統一を進めていきますが、普墺戦争の13年後に、フランス対策から、路線を修正してオーストリアと手を結んだ、ということのようです。

ビスマルクはさらに、ロシアを加えた三帝協商体制へ拡大、英国とも友好的

1881年、外交上の大成功、ロシア、オーストリア、ドイツの三国がバルカンの一切の問題に関して共同歩調をとることを約した「三帝協商」 three emperors' alliance を締結。1887年にこの協商は失効したが、ドイツとロシアの結びつきはその代わりに秘密の「再保証条約」 Reinsurance Treaty によって強化、ロシアとフランスが同盟を結ぶ危険を回避。
英国に関してのビスマルクのねらいは、ドイツに対して友好的孤立、フランスに対して非友好的孤立の関係を保たせたいということ。

第一次世界大戦の約30年前、1880年代には、ドイツはオーストリア・ロシア・イタリアと同盟関係にあり、イギリスとも友好関係にあったわけです。つまり、前ページに引用した第一次世界大戦前の地図から明らかなとおり、この当時は、ドイツとその同盟国が、フランスの北・東・南を取り囲んでいた、という状況でした。

 

ヴィルヘルム2世がビスマルクの外交路線をひっくり返した

ビスマルク時代には同盟または友好関係にあったロシア・イギリス・イタリアが、なぜ第一次世界大戦では、ドイツの敵側に回ってしまったのか、以下はまた、リデル・ハート氏の著書からの要約です。

1890年代、ヴィルヘルム2世によるビスマルク体制の破壊、ロシアとの条約拒否

1888年、若いヴィルヘルム2世(カイザー)が即位。「親ロシア派の宰相」ビスマルクの辞任にともない、後継者がロシアとの「再保証条約」更新を拒否。その当然の帰結として、ツァーリが1891年、フランスと協定を締結、1年後には軍事協定に発展。カイザーはビスマルクの対ロシア政策を反古にしてしまった。

ヴィルヘルム2世は、対英関係も悪化

さらに対英関係の変化。ドイツの政策が国内充実から国外拡張へと転換、必然的にドイツと英国間にさまざまな利害の衝突が発生、1892年にトルコの鉄道利権問題、1896年には南アフリカのトランスヴァール問題。1898年からはドイツは「第一次海軍拡張計画」に着手。1898年から1901年にかけて、イギリスからの同盟締結の提案も拒否。
1904年には英仏が、1907年には英露が協定。それ以後列強は、事実上は2大敵対グループに分かれた。

ビスマルク時代にはヨーロッパ列強の中でフランスだけが孤立していて、ドイツは圧倒的な強者側連合の一員だったものが、ヴィルヘルム2世時代になってからの約四半世紀の間に、結果的に、ドイツ・オーストリア・イタリアの同盟と、ロシア・フランス・イギリスの連合の2大陣営に分かれた状況になりました。

2大陣営と言っても、ロシア・フランス・イギリス3ヵ国側の方が、ドイツ・オーストリア・イタリア側よりも、経済力も優位なら、地理的にもドイツを包囲する状況です。ドイツ一国の国力はこの期間に急成長してきたとはいえ、陣営同士の力関係では、優位性を失ってしまった状況にあった、と言えるように思います。

明治末期の日露戦争時には、日英同盟によりイギリスと同盟し、アメリカとも友好関係にあった日本が、その同盟・友好関係のおかげで日露戦争に勝利できたのに、その後は満州事変を起こして国際連盟からも脱退し、孤立化に進んで包囲されてしまった、というのは、ヴィルヘルム2世の時の状況を繰り返してしまったようにも思われます。

 

ヴィルヘルム2世によるビスマルク路線からの転換の背景と影響

ビスマルク路線が転覆した背景には、ドイツ国内の利害

なぜビスマルクが失脚させられ、外交路線が転覆することになったのか、この点については、他書から補足したいと思います。以下は、義井博 『カイザー』 からの要約です。

ロシアとドイツ国内勢力との利害の対立 ① 農産物

1890年代前後の国際関係の変化のなかで最も重視すべきことはドイツとロシアの関係。極めて不安定であった。
その一つは、ロシアの穀物のドイツへの輸入の激増が、ドイツの農業経営者のユンカーにとって大きな脅威となったことにともなって起こってきた問題。77年にいわゆるビスマルク関税を制定して農産物に関税を課し、農場主ユンカーの利益を保護する政策、それに対抗してロシアもドイツの工業製品の流入を阻止するために保護関税政策。

どこの国でも、自国の農産物保護は政治課題として力を持つことが多い、というのは、現代でも変わりはありません。

ロシアとドイツ国内勢力との利害の対立 ② ロシア債引受けによる鉄道建設

いま一つはロシアの外債問題。ロシアはドイツから資本を導入して鉄道建設を促進。ドイツの軍部にとっては、ドイツ資本が敵国を戦略的に援助していることを意味し、ディレンマ。ビスマルクはユンカーの反露的傾向におされ、87年ドイツ帝国銀行のロシア証券に対する貸付禁止令。ドイツがロシア公債の引受を阻止する措置を取ると、ロシアは直ちにパリに傾いた。

ユンカーは地主貴族であるため、ロシアの農産物との競合を回避したい、そこで、ロシア農産物の物流を促進する鉄道建設にドイツ資本が使われるなどとんでもないと反発した、ということだったのでしょうか。

ビスマルク自身は、ドイツ国内勢力からの突き上げから、関税政策やロシア債引受停止などの経済措置は取らざるを得ない、容易ではない状況にはあったものの、外交上はなんとかロシアとの利害調整を行ってロシアを引き留めていた、と言えるようです。

国内的に困難な状況があっても外交を成り立たせる、というのは、ビスマルクの外交手腕の高さを示すものと言えるように思います。ロシアを引き留められなくなると、ロシアは必ずフランスに救いを求めるであろうから、ドイツの立場が非常に不利になる、国内の反露派が何を言おうと、ドイツの安全保障確保のためにはロシアの引き留めが絶対必要である、と確信していたのでしょう。

 

全体利益より部分利益を優先の結果、ビスマルクの成果が失われた

ユンカーも軍部も、ドイツ全体の利害よりも、ドイツの一部分に過ぎない自己の直接的な経済的利害、あるいは自己の組織の利害だけを追求して、結果的にドイツを孤立させることになった、と言えるでしょう。部分最適の行き過ぎは全体最適をむしろ阻害してしまう、という典型例と言えるように思います。

国内でしか売れない農産物の過剰な保護より、輸出もできる工業製品を成長させるほうが、マクロ的に見れば、ドイツ経済にとって、あるいはドイツ国民の生活水準向上に対して、明らかにプラスになります。国内農業関係者が、工業を犠牲にしても農業を保護せよと主張するは、全体とのバランスを欠いた明らかに利己的な主張と言わざるを得ません。しかし、主張が利己的であることが明らかでも、農業関係者の政治力の強さに配慮せざるを得ない、というのは、現代の日本でもいまだに見られる問題です。

ロシアがドイツから借金をして、ドイツの工業製品を輸入して鉄道を敷設するなら、ドイツの経済界は潤い、国家財政はさらに強力になり、結果的に軍部に回る予算も増加できるはずです。他方、ロシア側は鉄道に金をかければかけるほど、軍備に回せる資金は乏しくなります。また、ドイツが金を貸さなくてもロシアは他の国から借入れ出来ますし、そうなると資材の輸入も他国からとなる可能性が高くなって、ドイツにとって損です。

そういう経済的観点からの分析までは行わないところが、軍人の限界なのでしょう。ただし、軍の視点からすれば、ロシアを敵に回すと万一の時にフランス・ロシアの2正面作戦を行わざるを得なくなるのが明らかなので、敵対することまでは望んでいなかったのではないかという気もします。

 

カイザーは当初、ビスマルク路線からの変更は望んでいなかった

ロシアとの条約更新を拒否したのは、ヴィルヘルム2世の即位直後のことですが、このとき、カイザーは実は、外交面ではビスマルク路線からの変更は望んでいなかった、とのことです。再び、義井博 『カイザー』 からの要約です。

カイザーは、最初、「航路はもとのとおり」と言った

露独再保証条約更新の交渉はビスマルクの辞職問題と重なった。ビスマルク辞職3日後の1890年3月21日、カイザーは条約を予定通り更新すると保証した。その翌日カイザーはヴァイマル大公にあてて、「航路はもとのとおり、全速力前進」という内容の電報を打っている。「航路はもとのとおり」といったにもかかわらず、そのわずか3日後の3月27日には、もとの航路からはずれて露独再保証条約の不更新に同意し、対外政策の重大な転換を決断する。

転換の理由は、ビスマルク辞職後の外務省の専門家の意見が「不更新」であったから、ということなのですが、皇帝の職務にはまだ経験不足のヴィルヘルム2世が、短期間のうちに、広く意見を募らず一部の意見だけに従って決定してしまったところに大きな失敗があったのではないか、という気がします。

 

三国干渉・日英同盟は、同盟体制組み換えの過渡期の出来事

ヴィルヘルム2世即位後まもなく、ロシアとの条約不更新でロシアをフランス側においやってしまったのは1888年のことでしたが、最終的にイギリスとも敵対することになって、英仏露の三国協商が成立したのは1907年のこと、欧州列強の同盟体制組み換えには約20年の期間がかかっています。

この期間中に、日本に関係したことで起こったことがありました。日清戦争直後、1895年の三国干渉です。このときの三国は、ロシア・ドイツ・フランスの3か国であり、イギリスは加わっていません。当時のドイツは、ロシアの関心を極東に向かわせるために、本件では積極的にロシアの利害の後押しをした、と言われています。一方、イギリスは、極東でロシアとの利害対立があり、三国干渉には参加せず、さらにその後、日露戦争前の1902年には日英同盟を締結しています。三国干渉も日露戦争も、まさしく、欧州列強が同盟関係を再編する過渡期の出来事であった、と言えるようです。

 

第一次世界大戦勃発には、ヴィルヘルム2世の言動に大きな責任

ビスマルク後20年経って、ヴィルヘルム2世は、ロシアだけでなくイギリスも敵に回すことになってしまいました。

リデル・ハート氏は、「彼〔ヴィルヘルム2世〕の戦争責任はこの数年間〔1900年代初めの数年間〕のその言動に集約される。しかもその責任は大きく、いやむしろ最大の責任と言える。カイザーの好戦的な発言と態度によって、いたるところに生み出された不信と警戒の念が、ヨーロッパを火薬庫にしてしまったのだから」と書いています。当時、具体的にどのようなことがあったのか、は割愛します。その詳細は、リデル・ハート氏の著書、あるいは義井博 『カイザー』 などの本を、ぜひ読んでいただきたいと思います。

「ヴィルヘルム2世の言動」は、本人の主観としては、あくまでドイツを有利にしようする動機に基づくものであったであろうと思います。しかし、動機がいくら適切でも、行動・手段が不適切なら、生み出される結果は不適切にならざるを得ません。

ヴィルヘルム2世の外交は、ビスマルクとは比べるまでもなく余りにも下手くそであり、結果的にドイツに不利な結果を自ら招いてしまった、と言えるように思います。彼は個人の感情によって判断を行っているところが少なくなく、巨大な国家権力を握るにはもともと不適切な人物であったようです。

第一次世界大戦の終結時、連合国側では、ヴィルヘルム2世の責任を厳しく問う声が上がりましたが、それも故なしではなかったようです。

 

 

ここまで確認してきましたように、第一次世界大戦の勃発に先立つこと7年前までに、ヨーロッパの列強には二つの陣営の形が出来上がっており、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は好戦的な言辞を振りまいていたようです。

第一次世界大戦は、この二つの同盟間で開戦されましたが、当然のことながら、対立する二つの同盟があったからと言って、それで即座に大戦争が勃発するわけではありません。ここから先は、サラエヴォでのオーストリア皇太子暗殺事件が第一次世界大戦の勃発に発展するまでの経緯を確認していきます。