2c1 1916年前半の陸戦 ヴェルダン・ブルシーロフ攻勢

 

1916年の状況について、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 は「相討ち The Dog-fall」という言葉で要約し、JMウィンター 『第一次世界大戦』 は、1916-17年の2年間を「大量殺戮 The Great Slaughter」という言葉で象徴しています。

1916年は、連合国側・同盟国側の双方に、今までと同等かそれ以上に、大量の兵力損耗が発生した年であったようです。

その1916年について、まずはこの年の前半の西部戦線と東部戦線の状況についてです。

 

 

1916年前半の西部戦線 - ドイツ軍によるヴェルダン大攻勢

ヴェルダン大攻勢 = ドイツ軍によるカイゼン策・「消耗戦」

1916年の前半は、西部戦線でのドイツ軍による、フランスのヴェルダン Verdun 要塞大攻勢から始まります。

以下は、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。

1916年、連合国軍は夏以降の総攻撃開始を計画

1915年末までのフランス戦線における英国軍兵力は38個師団に増強。1915年末の連合国軍の会議で、フランス、英国、ロシア、イタリアの4ヵ国が同時に総攻撃、その攻撃開始は英国遠征軍の訓練とロシアの再装備に時間を要することから、16年夏以降と決定。

1915年までは、ドイツ軍側のカイゼン努力が連合国側を大きく上回り、連合国内ではイギリスだけに多少のカイゼン努力が感じられる状態でした。

しかし、1915年末に連合国側各国の連携強化が図られ、また戦力整備に時間を要することも共通認識化されて、夏以後の攻勢開始が合意された、というのは、連合国側各国のカイゼン努力がようやく同一方向にそろえられたことを示すものであるように思います。

とはいえ、連合国側の攻撃開始には時間が要することは明らかでした。

ドイツ軍は、連合国軍の総攻撃以前に、新作戦を開始

ドイツ軍参謀総長ファルケンハインは1915年のクリスマスに、ロシアはすでに半身不随、イタリアは大勢を動かすほどのものではない、フランスだけが残っている、フランスはほとんど軍事的努力の限界点、フランスを出血多量の死に追いやるべき、と述べた。その地点はヴェルダン。

優位に戦争を進めてきたドイツ側は、連合国側の反攻が始まる前に、新作戦の開始が可能でした。

ファルケンハインによるヴェルダンでの「消耗戦」構想

目標とすべきはフランス軍が最後の一兵を投じてまで死守したいと念願している地点を総攻撃の対象とすることによって、フランス軍をしぼれるだけしぼり取ってやること。ヴェルダンにおける戦術的計略の根本、限定された前進を幾度か持続的に繰り返して敵に脅威を与え、フランス予備軍を引きずり出してこれをドイツ軍砲兵隊の餌食にし、粉砕するというもの。1回1回の前進には、短時間ながら集中的な砲撃の援護をつけるから、損害は免れるはず。

ドイツ軍側は、自国の損害は少なくしてフランス軍を大損耗させようという、「消耗戦」という新しい戦術を試みます。これも新たなカイゼン策の試みであったと言ってよいように思われます。

第一次世界大戦 西部戦線 1916年 ヴェルダン 地図

 

ドイツ軍はヴェルダンで徐々に侵入を拡大

フランス軍はすでにヴェルダンを非要塞化。要塞はすでに時代遅れという考えから、砦はいまや待避所のためだけに使用。2月21日ドイツ軍の砲撃開始、2月24日に至るまで、ミューズ川 the Meuse 東岸の守備陣はくずれ去った。ジョッフルは同地区の指揮をペタンPhilippe Pétain に委ね、予備軍がその配下に。3月6日、ドイツ軍はミューズの西岸まで攻撃を拡大、しかし守備軍も強化され兵力対等に。
消耗戦。その都度の前進はわずかなものであったが、それがやがて積み重なって、守備側が決定的な損失をこうむる結果に。6月7日、ヴォ砦 Fort Vaux が落ち、ドイツ軍の潮流はひたひたとヴェルダンに接近。

東部戦線の項で詳細を確認しますが、ドイツ軍がヴォ砦を攻略したのと前後して、ヴェルダンの緊急事態を救うべく、東部戦線でロシア軍によるブルシーロフ攻勢が始まりました。このため、ドイツ軍は西部戦線から東部戦線に兵力の一部を転用することになり、ヴェルダン攻勢の勢いが失われます。

ヴェルダンでの消耗の効果

6月24日以後、ヴェルダンのドイツ軍は新しい師団を与えられずに、精力が枯渇して前進をやめてしまった。その秋のフランス軍の反攻勢への道が開かれて、小刻みに失ったものを一挙に取り戻すことになった。
ドイツ軍はヴェルダンでは精神、物質両面の目的を達成しなかったとはいうものの、フランス軍に出血を強いた。ために、1916年の連合軍作戦では、フランス軍は微々たる役割しか演じられなくなった。英国軍が戦闘の主要任務、その結果、協商国の戦略の範囲も成果も限られることになってしまった。

「消耗戦」というドイツ側のカイゼン策に対し、連合国側の対策として東部戦線でブルシーロフ攻勢が実施されたため、ドイツ軍は兵力の一部を西部戦線から東部戦線に転用せざるを得なくなり、ヴェルダン戦は所期の成果を上げられなくなりました。

 

ヴェルダンでは、仏独双方に、膨大な死傷者が発生

リデル・ハートは、ヴェルダンを「肉ひき機 The Mincing Machine」とは呼んでいるものの、具体的な損耗の数字を挙げてはいません。結果的にヴェルダンではどれだけの人命損失が生じたかについては、他書に、次のような記述があります。

ヴェルダンでの死傷者数は、両軍合わせて約60万人

フランスの世論にヴェルダンは救う価値がないと確信させることができなかったのと同じように、ドイツの世論に、ヴェルダンは奪う価値がないということを納得させることも、間もなく不可能に。ドイツの死傷者は増大し、フランスの死傷者は比較的少なくなった。戦闘がおさまった6月末までに、フランスは31万5千の死傷者を、ドイツ軍は28万1千人の死傷者。これは、西部戦線で攻撃が防禦よりも犠牲が少なかった唯一の攻撃であった。
AJPテイラー 『第一次世界大戦』
戦いが終わった〔ヴェルダンの〕戦場には50万を超す兵士の屍が散乱。フランス軍はヴェルダンを放棄せず、死力を尽くして守ったが、そのために、フランス軍下にある330の歩兵連隊のうち、合わせて259もの連隊が投入された。フランス軍が抵抗すればするほど、ドイツ軍にとってヴェルダン奪取の重要性が増していった。この戦いはドイツ軍側においても、じわじわと大量殺戮の場となっていった。
(JMウィンター 『第一次世界大戦』)

ファルケンハインの、フランス軍を損耗させることだけが目的、という目的設定は合理的であったと思いますが、ユニークすぎて、それを前線の将兵や、さらには世論に納得させるのは、難しかったのでしょう。

 

1916年前半の東部戦線 - ロシア軍によるブルシーロフ攻勢

西部戦線を救うため、東部戦線でロシア軍が攻勢

東部戦線では、西部戦線でのヴェルダン攻勢で苦境の連合国軍を救うため、ロシア軍が動きました。再び、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。

3月、西部戦線を救うため、ロシア軍がナロチ湖攻勢

ヴェルダンの緊急事態に、ロシア軍は英仏連合軍を救うため、3月に北方ナロチ湖 Lake Narocz 〔現ベラルーシ、リトアニアのヴィルニュス東方〕において犠牲の多い長期にわたる攻撃。この攻撃が叩きのめされ、主要攻勢の準備を再開。

6月からのブルシーロフ攻勢 the Brusilov Offensive、ロシア軍の大成功と大損失

一方、ロシア南西正面軍総司令官ブルシーロフ Alexei A. Brusilov は主要攻勢から敵の注意をそらせるため、6月4日に攻勢を開始、ルーツク Luck 付近とブコビナ Bukovina 地方に進撃。はじめは驚異的な成功。ブルシーロフの兵力は広く分散していたために、オーストリア軍はさし迫った火の手に全く気が付かず、不意をつかれた。6月20日までにブルシーロフはオーストリア兵20万名を捕虜にしていた。
ドイツ軍はこの大波を阻止すべく急いで補強。8月いっぱいロシア軍の攻撃は続いたが、損害の大きさに見合うだけの結果は得られず。ブルシーロフはブゴビナ地方と東部ガリシアを占領し、35万名の捕虜をあげたが、100万名以上の尊い生命を失った。ロシアの予備軍のすべてをそこに吸収していたために、そこで招いた大損害が結局はロシア軍事力の破滅に最後のとどめを刺すことになり、ロシアの戦闘力を精神面で崩壊させた。
第一次世界大戦 東部戦線 1916年 ブルシーロフ攻勢 地図

 

ブルシーロフ攻勢で、ルーマニアが連合国側で参戦、ファルケンハインが失脚

この攻勢に対処するためにファルケンハインは、西部から7個師団を撤収。したがって英国軍のソンム川攻勢をはね返す計画も、ヴェルダンを消耗戦に持ち込もうという希望も、みなご破算に。
これをきっかけにルーマニアは、連合国側に立って参戦する運命的な決定。さらにファルケンハインの失脚と後任としてのヒンデンブルクの登用、および知的指導者としてのルーデンドルフの任命を促した。

ブルシーロフ攻勢は、ドイツ側の戦略に対抗するという目的に対しては、効果のある対策となりましたが、結果的にロシアの戦闘力を削いでしまうという副作用も生じてしまいました。

ヴェルダン、ブルシーロフ攻勢のどちらも、カイゼンの試みとして意味があるものではありましたが、実際に生じた結果からすれば、最適の選択ではなかったようにも思われます。

 

東部戦線でのドイツの攻勢を支えた鉄道活用技術

少し横にそれますが、東部戦線でのドイツ軍の圧倒的優勢の理由の一つとして、ドイツ軍の鉄道技術があったことについて、補足しておきたいと思います。以下は、クリスティアン・ウォルマー 『鉄道と戦争の世界史』 からの要約です。

ドイツとロシアの鉄道活用の優劣

ロシアでは鉄道輸送の不足により軍隊の到着が遅延、その膨大な兵力数を活用しきれず。対照的にドイツは、鉄道を使って部隊を素早く移動配備し、ロシアの弱点を目掛けて攻撃を集中できた。

東部戦線の広さと、鉄道輸送網の少なさから、長距離の軽便鉄道輸送が活躍

東部戦線では、軍隊の東進に伴い先をカバーする鉄道網が減少し、また彼らを乗せられる路線本数は一層激減。バルト海からモスクワまでおよそ750マイルの距離東に延び、1000マイル離れた黒海へと南下する広大な戦域。中央ヨーロッパにおける従来型の鉄道の不在は、軽便鉄道が西部戦線におけるよりさらに重要な価値を発揮し、またより長距離を運行する傾向にあった。

ドイツは、ロシアの鉄道の改軌にも熟達

ドイツ軍は自分たちが中央ヨーロッパで占奪した領域に運行する、途方もなく長蛇の鉄道線の監督権を支配下に引き寄せて利用。ドイツの鉄道部隊は、後退するロシア軍が軌道に加えた損傷の修理だけでなく、ロシアの軌間幅5フィートを長距離にわたって4フィート8インチの標準軌に改軌する作業にも熟達。1916年の5月までに、ドイツ軍は今日のポーランド、ベラルーシとリトアニアに敷設されていたほぼ5000マイルの軌道を改軌。

5000マイルとは、約8000キロ。日本の函館~東京~鹿児島の新幹線(北海道・東北・東海道・山陽・九州新幹線)の合計路線距離は約2,150キロ。8000キロというと、その4倍近くの距離です。幅を狭くする改軌なので比較的楽とはいえ、そんなに長い距離の改軌を、ドイツ軍の鉄道部隊は2年もかからずに行った、ということになります・

鉄道管理能力の不足が、ロシアの敗因、また革命の原因

ロシア側、鉄道を効果的に管理する能力がなかったことがドイツとの対戦の足枷に。ロシア革命の引き金はペトログラードでのパンの欠乏、それは輸送網のまずい管理のせい。

軍事的に優勢となる軍隊は、輸送・補給の技術と管理にも優れていたことが分かります。ろくろく補給を行わずに歩兵をひたすら歩かせた昭和前期の日本軍は、やはり第一次世界大戦の経験を十分に学んでいなかったように思いますがいかがでしょうか。

 

リデル・ハートはファルケンハインに辛い評価

ファルケンハインは、1914年11月に小モルトケの後任として参謀総長に就任し、16年8月に更迭されました。更迭された時期は1916年の後半でしたが、ブルシーロフ攻勢を生じさせてしまったことがその原因であったらしいので、ここに記しておきます。

リデル・ハートのファルケンハインへの評価は、下の要約にあります通り、かなり辛いものとなっています。

ファルケンハインは「一文惜しみの百知らず」

失脚の直接の理由はルーマニアの参戦にあったが、根本原因は1915年におけるファルケンハインの不明確な戦略がロシアの戦力回復を可能にし、結局1916年の彼自身の戦略を台無しにしたという事実にあった。ファルケンハインの戦略は、姑息でその場しのぎの、もっとも卑近な実例。
もっとも有能で科学的な将軍でありながら、「一文惜しみの百知らず」を演じて、計算の上に立った冒険を試みることをしなかったばかりに、祖国を破滅させた人物。確かにフランス軍に予備軍をヴェルダンの 『血の風呂』 に注ぎ込ませるという目的は達したが、決定的な戦略的成果は何ひとつ挙げられなかった。

このリデル・ハートのコメントを、もう少し具体的に言い換えると、西部戦線は持久戦になることを看破して東部戦線に注力したり、次には対フランス消耗戦を試みるなど、マクロ的な全体観には極めて優れていたものの、個別の状況への実践的な対応、とくに個々の戦闘への戦力投入量判断がいかにも不適切で、出し惜しみを行ったため、結果としてドイツの勝機を失った、ということなのでしょう。

とくに、西部戦線で持久戦・東部で攻勢という適切な方針をいったん立てたのですから、その方針通り、東部でもっとロシアを徹底的に叩いておくのが妥当だったように思われます。そうしていたなら、ロシアはもっと追い込まれ、ブルシーロフ攻勢は起こらず、西部から東部に兵力を転用する必要も生じず、西部でも主導権を取り続けられたであろう、ということでしょうか。

 

 

1916年の消耗は、ヴェルダンとブルシーロフ攻勢だけにとどまりませんでした。次は、これも大きな消耗戦になった一方で、画期的な新兵器である戦車も登場したソンムの戦いについてです。