4f 南洋諸島の占領

 

これまで、第一次世界大戦に参戦した日本の、陸軍主体の青島攻略戦での戦いを見てきました。

ここでは、青島攻略戦と同時期の、日本海軍による赤道以北ドイツ領南洋諸島の占領について、どのように行われたのか、確認していきたいと思います。

 

 

第一次世界大戦の参戦当初、日本海軍は積極的ならず

もともと海軍は、参戦には消極的だった

第一次世界大戦での日本海軍の戦いを見ていく最初に、海軍は実は参戦には消極的であった、という点について、以下は平間洋一 『第一次世界大戦と日本海軍』 からの要約です。

海軍は、参戦よりも八八艦隊の整備が優先だった

前内閣の海軍大臣であった斉藤実大将など、海軍部内には中立を維持し八八艦隊の整備を優先すべきであるとの志向も強く存在。参戦への対応は受動的・消極的、海軍としては「概ね形勢観望を利としたり」との結論。
シーメンス事件により就任した傍系の八代海相が、山本大将などの海軍主流派や軍令部長などに相談することなく、その意に反して閣議で参戦に同意してしまったというのが、参戦をめぐる海軍の対応。

しかし参戦なら、この機会に南洋諸島を獲得したいとの願望もあった

参戦に関し海軍省と軍令部とではやや差異があったが、この好機に南洋群島を獲得したいという点で省部間は一致。

とにかく八八艦隊の整備を優先したい、財政厳しい折に戦費を使えば艦隊整備費が出なくなる恐れがあるので参戦したくない、しかしどうせ参戦するなら南洋諸島を取りたい、というのが海軍主流派の基本方針であったようです。

日露戦争に勝利して極東での紛争発生の可能性は減じている状況で、しかも当時の日本の経済力に対し相応の規模を越える八八艦隊が、本当に必要であったのかは別にして、八八艦隊の整備を最優先課題とするなら、それなりに合理的な方針であったように思われます。

 

1914年8月下旬~11月 青島攻略戦での、海軍による陸軍への支援

8月23日の日本の対ドイツ宣戦後、日本海軍の具体的な行動として最初に現れたのは、陸軍の青島攻略戦(1914年9月1日上陸開始~11月7日ドイツ軍降伏)に対する支援でした。以下は、斉藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。

青島攻略戦での日本海軍の活動 - 艦砲射撃は役に立たず

〔青島攻略戦で日本海軍が行ったこと〕
● 出征兵輸送船舶の掩護
● 膠州湾の封鎖
● 艦砲射撃による陸戦の支援、ドイツ軍要塞砲・堡塁への砲撃
(ただし艦砲射撃はほとんどが各砲台の着弾距離外からのもの、その命中率は低く、不発弾も多く、これほど「不利益ナルモノナシ」と回顧される状態)
● 陸戦隊による陸上戦闘、海軍重砲隊による陸上での砲撃参加
● 海軍飛行隊による偵察・空爆

青島攻略戦での日本海軍の損害 - ドイツの魚雷で海防艦が沈没

10月17日深夜に、封鎖されている膠州湾からドイツ駆逐艦エス90号が外海に出て、遭遇した海防艦高千穂を魚雷で撃沈する事件。追撃を受けたドイツ駆逐艦は、湾内に戻れず遁走、乗組員を上陸させて自沈。高千穂は乗員284名中生存者13名の大きな犠牲。
この経験から、ヨーロッパ海域のように「潜水艇」が存在したら、封鎖行為は相当に大変になるだろうとの意見も一部で出たが、海軍はここから多くを学ばぬままに終わる。

膠州湾封鎖と艦砲射撃については、イギリス海軍と協同でした。とにかく青島戦では、海軍は陸軍への支援に徹した、と言えるようですが、役に立たない艦砲射撃、という課題もあったようです。また、大艦巨砲も魚雷には負ける、という現実も経験しています。

 

青島に新鋭艦は出さなかった日本海軍

青島での日本海軍の艦砲射撃の命中率が低かったのは、砲撃技術の問題ではなく、使用された艦船自体の問題であったようです。以下は、再び平間洋一 『第一次世界大戦と日本海軍』 からの要約です。

青島攻略戦には、日露戦争時代の旧式艦を派遣

参戦に際し海軍が留意したのは、対米兵力の温存。このため青島攻略作戦の参加艦艇は、日露戦争参加の旧式艦や当時捕獲した旧ロシア艦艇などで、陸上要塞に対する艦砲の射程が不足して効果が挙がらない。

日進月歩の技術進化の中、10年前の日露戦争時の主力艦はすでに旧式艦になっていたようです。新鋭艦も実戦投入して、性能検証・カイゼン必要点の発見を行う方が適切とも思われるのですが、そうしなかったのは、企業の設備投資とは異なり、1隻あたりの投資規模が巨額である一方、実戦投入すなわち撃沈・破損等を受けるリスクも高いという、海軍艦艇に特有の事情が存在していたから、と思われます。

 

1914年10月、日本海軍は「ドイツ領南洋諸島(赤道以北)」を占領

日本海軍が狙った「ドイツ領南洋諸島」

そもそも参戦には消極的だった海軍ですが、日本は実際に参戦し、陸軍は青島攻略戦を開始するという状況になりました。そこで海軍は、上述の「参戦ならこの機会に南洋諸島を獲得したい」という願望通り、青島進攻作戦での陸軍の支援と並行して、かつ青島攻略の完了以前に、海軍独自の作戦として、赤道以北の南洋諸島の占領に踏み切ります。

ドイツが第一次世界大戦以前に領有していた「ドイツ領南洋諸島」は、下の地図中の青線で囲まれた部分です。北はマリアナ諸島から、西はパラオまで、東はマーシャル諸島まで、南は赤道以南でニューギニアの西側半分やビスマルク諸島までの地域を領有していました。

日本海軍が占領したのは、そのうち赤道以北、すなわちニューギニアやビスマルク諸島などを除いた地域でした。

第一次大戦直前、ドイツ領南洋諸島の位置 地図

 

日本海軍による南洋諸島作戦の実施決定の経緯

どのような経緯をたどって「ドイツ領南洋諸島」(位置は下の地図をご参照ください)の占領を行うことになったのか、以下は再び、平間洋一 『第一次世界大戦と日本海軍』 からの要約です。

イギリス外務省は、日本の南洋諸島占領を警戒して海域制限

イギリスは8月13日にはグリーン大使を通じて、日本海軍の行動を中国沿岸に限るなら、として日本の参戦を許容。18日には、日本が太平洋のドイツ領島嶼を占領することは、イギリスの友好国に「重大なる誤解を招き、吾人利益のためにならざるべし」とのステートメントを日本と調整することなく発表。

しかしイギリス海軍は、日本海軍に広い海域の警備を期待

8月13日のチャーチル海相も出席した日本参戦祝賀会の席上、イギリス海軍から、海軍兵力不足の北米沿岸警備に巡洋艦を派遣するよう警備依頼。この依頼は断ったが、加藤外相はグリーン大使に戦域限定との矛盾を指摘。
8月18日にイギリス支那艦隊司令長官から、ドイツ東洋艦隊がマーシャル諸島のヤップ島に集中との通報。海軍は、英国が日本艦隊の行動区域制限の主張を撤廃したとの判断。

日本海軍は、南遣支隊を編成、南洋諸島でドイツ艦隊の捜索

ドイツ東洋艦隊が南洋諸島を根拠地としているとの判断を固め、9月3日に巡洋戦艦鞍馬・筑波、巡洋艦浅間および第16駆逐隊(山風・海風)を以て南遣支隊(司令官山屋他人中将)を編制、9月10日から約20日間のマリアナ諸島、東西カロリン群島方面の捜索撃滅行動を命じた。
9月7日に、南洋群島への進出にはかねてから否定的であった加藤外相が、「海軍の力を借りて南洋在住邦人の困窮を救済せんとの希望を漏らした」。すると海軍は直ちに「南遣支隊の発動を急速開始するに決」する。

開戦時、イギリス外務省は、日本にドイツ南洋諸島を取らせる気は全くなく、日本海軍の支援は中国沿岸のみ、と言っていました。ところが、イギリス海軍からはすぐに、日本海軍による北米沿岸警備への協力も求めてきたり、ドイツ東洋艦隊のヤップ島集中を通報してきたりしたのです。

そこで日本海軍は、南洋諸島でのドイツ艦隊捜索作戦の実施を決定、さらに南洋諸島への進出に否定的であった加藤外相も、南洋在住邦人保護を言い出して、南洋進出作戦を開始することにした、という経緯であったようです。

南洋諸島占領作戦の経過

南洋諸島占領作戦は、具体的にどのように実施されたのか、再び、平間洋一 『第一次世界大戦と日本海軍』 からの要約です。

9月29日、第一南遣支隊はヤップ島上陸

海軍は、9月21日には松村龍雄少将を指揮官とし戦艦薩摩、二等巡洋艦平戸・矢矧で第二南遣支隊を新編し、豪州航路の保安を図るためオーストラリア艦隊と協同作戦を行うよう指示。これを受け山屋第一南遣支隊司令官はヤップ島の状況を偵察するため、鞍馬・筑波・浅間で連合陸戦隊を編成。
連合陸戦隊は9月29日朝、抵抗を受けることなくヤップ島に上陸し主要官庁を占領、ドイツ人島司に対し「独逸艦隊が出現する間、我権内に置く」ことを宣言し、公文書や武器などを押収処分して帰艦。

この9月29日段階では、ヤップ島に上陸し主要官庁を一時的に占領しただけで、帰艦しています。

10月3日~14日、海軍は南洋諸島の要地を占領

10月1日にはオーストラリア艦隊がラバウルを発ち北上するとの情報。海軍は、これ以上遅くなれば南洋群島もニューギニアやサモア同様にオーストラリアやニュージーランド軍に占領されてしまうと考えたのであろうか、2日には南洋諸島の一時占領、場合によっては永久占領の必要性を閣議に諮った。加藤外相は、差当り一時占領に同意し閣議もこれを了承。
海軍は翌3日に、第一・第二南遣支隊に「群島の要地を占領し守備兵を置くべし」との占領命令。山屋司令長官は再び陸戦隊をヤップ島に上陸させ、3日午後2時50分占領、軍政を宣言。
その他の島嶼は、10月14日までに総て占領。

ドイツ領南洋諸島のうち、赤道以南のニューギニアやビスマルク諸島はオーストラリア海軍が9月までに占領していましたが、10月に入ると、オーストラリア艦隊がラバウルからさらに北上する、という情報を得ました。

そこで海軍は閣議に諮り、日本の方針が南洋諸島の「差し当たり一時占領」に変更されます。そこからは動きが早く、10月3日から占領を開始、14日までに南洋諸島の要地をすべて占領します。

日本海軍がどのような順序と日程で南洋諸島要地を占領していったのかは、下の地図をご覧ください。

占領地の東端・ヤルート島から西端のアンガウル島まで、約3900キロの距離(= 日本の北端・宗谷岬から南西端・与那国島までの距離約2900キロの1.3倍)がありますが、その広い海域に散らばる諸要地を、わずか11日間で占領した、ということになります。

1914年 日本海軍 南洋諸島の占領 地図

 

日本が南洋諸島を手に入れることができた背景

イギリス外務省は、アメリカや中国、自治領オーストラリアやニュージーランドの反対もあり、日本の戦域を制限したかった。しかし、イギリス海軍は日本海軍の支援を失うことはできなかった。
イギリス外務省と海軍の意思の相違やイギリス海軍の戦局の不利が日本海軍に味方し、戦域制限をうやむやのうちに解消させ、日本海軍に念願の南洋諸島を入手させた。

1914年10月前半、青島では日本軍は本格攻撃の実施の準備期間中で、重砲の移動据付や塹壕掘りの真最中でした。その時、南洋諸島では、日本海軍が一挙に赤道以北の島々を占領してしまったわけです。陸軍だけでなく、海軍も「切り取り強盗」を働いた、と言わざるを得ないようです。

ただし、ドイツ領南洋諸島のうち、現在のパプア・ニューギニアを含む赤道以南は、オーストラリアとニュージーランドが取っていますので、「切り取り強盗」は日本だけではなかったことも事実でした。二つの強盗団が、赤道を縄張りの境界として、それぞれ強盗を行って分割した、と言えます。

 

「南洋諸島の占領」のまとめ

「海軍の南洋諸島の占領」で確認してきたことを整理しますと、以下のようになるかと思います。

● もともと海軍は、八八艦隊の整備が最重要課題で、それに支障を生じかねない戦費の使用が必要となる参戦には否定的であったが、どうせ参戦するなら、南洋諸島を取りたい、という意欲もあった。

● 青島攻略戦での陸軍支援で、海軍は新鋭艦を温存したため、艦砲射撃が届かなかった。

● イギリス外務省は日本海軍に海域制限をかけようとしたが、イギリス海軍からはその制限地域外への広範な支援依頼が来たため、日本海軍は南洋諸島の占領に踏み出した。

● 日本陸軍の青島攻略の本攻撃開始以前に、日本海軍は、赤道以北ドイツ領南洋諸島の占領を実施した。

陸軍は陸軍、海軍は海軍で、別々の戦いをしていた、という感が強くあります。昭和前期の陸海軍対立の悪弊の一端がすでに現れていた、と言えるようにも思います。

なお、この時点では占領を行っただけであり、領有が国際的に認められるためには、講和会議での承認が必要でした。

 

 

ここまで、第一次世界大戦の開戦直後に日本軍が行った、青島攻略戦と南洋諸島の占領を見てきました。どちらも、日本の自国独善主義的な利益獲得のために行った「切り取り強盗」的な行動でした。

しかし、日本は、連合国の一員として、十分かどうかは別にして、それなりに責務も果たしていたようです。次は、日本海軍の地中海への艦隊派遣や、陸海軍による連合国への武器援助など、連合国のために行った作戦等について確認いたします。