4c 日本の参戦決定

 

ここまで、第一次世界大戦の直前の時期の日本の経済および政治の状況を見てきました。長年続いた経済成長が停滞して5年、日露戦争時の借款返済が国家財政への重しとなっているのに、陸海軍からは拡張のための予算増が要求され、それが政変にもつながるという苦しい状況の中で、1914年4月に大隈内閣が成立、国防の充実と国民負担の軽減という相矛盾する要求を政治課題として掲げていました。

ところが、大隈内閣成立後3ヵ月の7月末になると、ヨーロッパの情勢が急激に変化し始めます。「1 第一次世界大戦の開戦」で確認しましたとおり、6月28日サラエヴォでのオーストリア皇太子暗殺事件の後、7月28日オーストリアのセルビアへの宣戦、31日ロシア軍の総動員発令とドイツのロシア・フランスへの最後通牒、さらにドイツは8月1日ロシア・3日フランスに宣戦、4日にはドイツがベルギーに侵攻を開始したためイギリスもドイツに宣戦し、第一次世界大戦の勃発となりました。

ここでは、大隈内閣はどのような経緯で欧州大戦への日本の参戦を決定したのか、を確認していきます。

 

 

必然性のなかった日本の参戦 ー 閣議決定までの経緯

1914年8月7日、大隈内閣の参戦決定までの経緯

大隈首相の日本は連合国側に立って、ドイツに対し8月15日に最後通牒を送り、8月23日に宣戦布告を行っています。しかし、冷静に考えると、そもそもオーストリア対セルビアの局地紛争に端を発した欧州の大戦に参戦する必要があったのか、という疑問があります。

奈良岡聰智 『対華二十一ヵ条とは何だったのか』は、「第一次世界大戦は、近代日本が行った対外戦争の中で、特異な地位を占めている。それは、日本が紛争当事国ではなく、戦争に加わる必然性がなかったにもかかわらず、時の政権の政治判断によって参戦がなされているからである」と記しています。

ここでは、日本が参戦の意思決定を行った経緯を、主に斎藤聖二 『日独青島戦争』 に拠って、確認していきたいと思います。まずは、大隈内閣が8月7日夜の臨時閣議で参戦を決定するまでの経緯について、同書からの要約です。

8月4日のイギリス参戦の前から、加藤外相は動き出していた

● 8月1日、加藤高明外相指示で駐英日本大使井上勝之助がグレイ外相と面会、グレイは、日本に何らかの依頼をすることになるかどうかは現段階では分からないと回答。
● 加藤外相は、3日に駐日イギリス大使グリーンを招き、イギリスの極東利権を守るために日本からの全面的な軍事援助を期待してよいと積極的な意思表明。
● 4日午前中の閣議の最中にイギリスより、香港・威海衛が危険となれば日英同盟の1911年の合意に則って日本の軍事力に頼りたいという電報。加藤外相はイギリス大使に、英商船が拿捕された場合にも、当然日本への出動依頼が来るものと理解、と語って、参戦への強い意欲を示した。

イギリス外務省の当初方針、日本に膠州湾を取らせない

イギリス外務省は、7日にかけて対日施策の検討。内容は、
一、中国沿岸でのドイツからの攻撃に備える必要ある
二、イギリスの極東戦力は万全ではない
三、この問題ではイギリス海軍部の意見を尊重
四、日本の野心と自由行動を抑え、かつ対独敵国にしておく必要がある
五、日本に膠州湾を奪取させない、行動依頼は海上に限定
六、青島利権はイギリスかフランスが引き継ぐ
七、日本の軍事的助力への返礼は財政援助で行う
これらの観点に基づいて、7日付の対日要請。

イギリスは、日本が連合国側にあることを明確にさせたかっただけで、ドイツの租借地であった青島を日本に取らせる気は全くなかったことが分かります。

日本の陸海軍も8月2日~4日に準備行動、対独作戦計画策定

● 具体的な動きがはじまるのは、ドイツがロシアに宣戦布告との情報の入った8月2日から。
● その日に八代海相は、第二艦隊司令長官に出動準備を訓令。翌3日に海軍軍令部は、青島ドイツ軍排除の「作戦方針」を策定。
● 同じ3日に陸軍参謀本部も「対独作戦所要兵力」を概定、「作戦計画」の立案を開始。
● 4日、海軍軍令部は「中立」と「開戦」の両面を想定した具体的な展開計画を立案、また前日の「作戦方針」用の詳細な「兵力編制」も立案。陸軍側でも4日に「対独作戦計画要領第一部案」がほぼ完成。

イギリスから日本に、軍事支援の要請がまだ来ていない段階で、日本の陸海軍はすでに対独作戦計画の詳細まで策定を進めていたようです。

7日、イギリスは日本に、「ドイツ武装艦船駆逐」の依頼

7日、イギリス大使が加藤外相に、イギリス商船の中国沿岸航行の安全確保のために、ドイツ武装艦船を駆逐するように依頼、加藤はこのときイギリス大使に、目的達成のためには青島を攻撃することが最も簡略な方法だとはじめて青島進攻について口にした。

イギリスからドイツ武装艦船の駆逐依頼があったとたん、日本側から、青島攻撃を持ち出したようです。

7日夜、大隈私邸での臨時閣議で、参戦・青島進攻を決定

夜8時からの閣議で、加藤外相は、海上索敵破壊行動のみに留まるわけにはいかないとして、青島ドイツ勢力の一掃を提案。閣僚たちは全員それへの支持を表明。尾崎行雄法相が「日英同盟の誼」だけを名目として一刻もはやく参戦すべきと発言、陸軍内の親ドイツ派の影響を恐れていたため。加藤外相は、イギリスの依頼の範囲を越えるからほかにも名目が必要とそれに反対。結局、青島進攻のために、「十一日火曜日ニハ宣戦布告ヲ為ス」ことを決めただけで、参戦名目はさらに検討することとして散会。

日本は、8月7日にイギリスからドイツ武装艦船駆逐の依頼が来たときには、すでに青島進攻を考えていて、その日の夜に対独宣戦布告の予定日まで閣議決定した、という状況であったことが分ります。

ただ、普通なら、参戦の理由が先に生じていて、だから宣戦布告する、という順序です。とにかく宣戦布告を決める、名目はさらに検討する、というのは日本の参戦に必然性がなかったことを示していると言わざるを得ないように思われます。

 

加藤外相が主導した、早期の参戦決定

日清戦争のときは、当時の陸奥宗光外相が戦争開始に熱心で、伊藤博文内閣を開戦に引っ張っていきました。第一次世界大戦では、加藤高明外相が戦争開始に熱心で、大隈重信内閣を開戦に引っ張っていった、と言えそうです。

どちらも、軍以上に外相が熱心だった点に共通点がありました。ただし、日清戦争時には伊藤首相はじめ開戦不賛成の指導者も少なくなかったのですが、今回は「閣僚たちは全員」開戦を支持した、という点に相違がありました。

8月7日は、ドイツ軍がベルギーに侵攻を開始してまだ3日目、日本は、少なくともその時点では中立を守る(=イギリス支援の必要性がもっと高まってから、日本支援の対価をより高く売る)という手もありました。

参戦するにしても、イギリスからの依頼の範囲である武装艦船駆逐だけに留める手もありました。また、青島に進攻するとしても、その青島を取った後はどう処理するのか、という課題もありました。閣議のメンバーは、それらについて十分な議論をせず、きわめて拙速に青島進攻を決定してしまったように思われます。

この点について、前掲の奈良岡氏著書は、「加藤外相が即時参戦を決断した背景として、〔戦争は早期に集結すると考えて〕参戦理由が消滅することへの懸念と中国の抵抗や列強の介入を封じ込める意図が強く働いていた」としています。

8月7日時点では、仏露英と独墺の間の戦争なら仏露英側の勝利で早期に集結する、という見方が支配的であっても当然だったのかもしれません。これが適切な判断だったかどうかは別にして、勝ち馬に乗る決定は早いほうが良い、というのは、経験則としては理解できます。

しかし、もしも8月末まで待っていたら、ドイツ軍が、西部戦線ではフランス領内に破竹の勢いで進撃し、東部戦線ではタンネンベルクでロシア軍を打ち破っていますから、連合国側で参戦することに躊躇する議論が出てきていても不思議なかったかもしれない、と思います。その意味で、早く参戦を決定したことによって、結果的に異論を封じ込んだ、と言えるかもしれません。

 

8月15日の対独最後通牒までの紆余曲折

7日の閣議決定は、11日に宣戦布告、というものでしたが、実際に起こったことは、15日に最後通牒、23日に宣戦布告でした。なぜ当初の予定通りには進まなかったのか、15日に最後通牒が出されるまではどういう経緯があったのか、再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。

8日の拡大閣議で、元老からは慎重な対応の要求

● 8日早朝、加藤外相は日光に避暑中の天皇に開戦内定の上奏。
● 同日夜7時から首相官邸で、山県有朋、大山巌、松方正義の3元老を加えた拡大閣議。大隈首相は、「兎に角済南鉄道丈は大いに有利なるもの」と述べ、中国利権をドイツから奪取することが戦争目的の一つと。加藤は、「国際上に一段と地位を高めるの利益」。元老たちは参戦に同意をしたものの、ドイツと中国に日英同盟上のやむを得ぬ参戦であることを十分に了解させたうえで行動に移るべきと主張。
● 拡大閣議の閉会後、加藤外相、八代海相、若槻蔵相の3人の協議。11日の宣戦布告をあきらめて、元老の意向に沿って最後通牒形式でいくことに。

加藤外相は、7日夜の閣議後、すぐに日光に飛んで行き、翌8日の早朝に大正天皇に上奏を行った後、すぐに東京に引き返し、その日の夜は3元老を加えた拡大閣議を行い、さらにその閉会後には外相・海相・蔵相の3相会議を行っています。対独開戦に入れ込んでいたことがよく分かります。

イギリスは、日本の参戦阻止を試みる

グリーン大使は、グレイ外相に日本の決定を通知。グレイ外相は日本の予想外の反応を知ると、宣戦布告を当面延期するように日本政府に申し入れよとグリーンに指示。
〔9日、グレイ外相は駐英井上公使に、対独宣戦をしばらく見合わせることを要望、10日には、グリーン大使を通じて、ドイツ仮装巡洋艦撃破のための日本海軍出動要請を取り消すと申し出た。
小林啓治 『総力戦とデモクラシー』から補足)〕

イギリスは、日本の目的が膠州湾(青島)でドイツが有していた利権の獲得にあると、適切に理解しており、それはならぬ、とストップをかけようとしたわけです。

加藤外相は、イギリスに強硬姿勢を伝達

加藤外相は、10日にグレイ外相の意向を聞くと、前日ドイツ大使が外務省を訪ねて脅迫めいた言辞を発したこと、宣戦できないと日本の国内政局は深刻な危機に陥ること、膠州湾は最終的に中国に還付すること、日本は単独でも参戦する意思のあることを伝えた。

膠州湾の中国への還付について、「最終的に」と日本が言っているところは、素直に返す気はなさそう、と疑って当然という気もします。

グレイ外相は現実的な対応、日本の青島攻略に同意

加藤の強硬姿勢を聞いたグレイは、ドイツ大使の言辞を名目に日本は単独でも参戦し得る立場に立ったととらえ、また膠州湾の還付という妥協点も提起されたことから、ここで手を打つのが現実的であると判断。11日にグレイ外相は、ドイツ占領地以外では軍事行動をしないという声明を盛り込むことを条件に、日本の青島攻略に合意するという電報。

日本が膠州湾を素直に返す気はなさそうとしても、圧力をかけて返還させることはできるだろう、とイギリスは考えたのでしょうか。

イギリスからの回答を待たず、日本は臨戦態勢入り

この時点ではほとんど臨戦態勢といってもよい状態、「今更軍事行動を中止する事能ハさる」状況。約500名の青島在住邦人も、10日までに「老幼婦女」が引きあげ、11日には各事業所の本店・本社から指示が出されて15日以前に避難するよう取り計らい。

15日に日本の最後通牒を公布

12日の午後にグレイ外相の参戦合意の電報が届くと、日本政府は翌13日に「青島ノ還付、支那海より独艦ノ引揚ヲ迫ル事」の2点を名目とする最後通牒文案を閣議決定。ただし、青島の還付に関しては、ドイツが最後通牒を受諾した場合のことで、武力での占領となれば無条件で還付するとはかぎらないとの見解のもと。14日の元老合同閣議を経て15日にこれを公布。もちろんドイツがこれを受諾することはまったく考えていない。

日本の参戦・青島攻略に対するイギリスの合意には、膠州湾還付が前提となっていたことに注意が必要です。「イギリスには最後通牒方式とすることを伝えていなかった」のですから、イギリス側は、武力占領後に膠州湾は最終的に還付される、と解釈していて当然です。

膠州湾還付はドイツが最後通牒を受諾した場合のことで、武力占領となれば無条件で還付するとはかぎらない、というのは、日本国内だけしか通用しない理屈であり、大きな問題があった、と言えるように思います。

 

大隈内閣の戦争目的は、どう見ても「切り取り強盗」か「火事場泥棒」

その後の展開を見ても、ここで大きな問題であったのは、「兎に角済南鉄道丈は大いに有利なるもの」という言葉に表れているとおり、山東での利権をドイツから奪取することを主要目的として、大隈内閣が参戦を決めたことです。

日清戦争では、朝鮮に対する影響力を巡る清国との争いが先にあり、その決着の手段として開戦されました。日露戦争も、朝鮮へのロシアの進出に関わる争いが先にあり、その決着の手段として開戦がありました。どちらの戦争でも結果的に領土や利権を得ましたが、開戦は紛争の解決が目的であり、領土や利権の獲得自体を主目的としたわけではありません。

ところが、ここではドイツとの間には事前に何の論争も存在していませんでした。それなのに相手の保有する利権を武力で占領して奪おうとするのは、どうみてもドイツに対する「切り取り強盗」、多少言葉を穏やかにしても、欧州大戦のドサクサに乗じた「火事場泥棒」であった、と言わざるを得ないように思われます。

ドイツが1898年に青島・膠州湾を清国から租借した経緯も、「切り取り強盗」行為であったことは間違いありません。ドイツは、先にロシアとイギリスの黙認を得ておき、97年11月に二人のドイツ人宣教師が山東省で殺された事件を活用して、ドイツ海軍の軍艦が膠州湾に侵入、直ちに上陸して港を占領、そして98年3月の膠州湾租借条約で99年間の租借を得ています。(「カイゼン視点からみる日清戦争 - 7 日清戦争の結果」を参照ください。)

ただし、青島港や済南鉄道は、その後ドイツが資本・人材・知識を投入して開発・整備を行ったものです。「青島港が大連を抜いて天津に次ぐ中国第二位の国際港となったのは1909 年のこと…青島は中国の諸都市の中で今後さらに発展する可能性の強い都市として注目が集まっていた」(斎藤聖二・前掲書)というのは、1898年からのドイツの努力があったればこそ、でした。それを、ドイツとの間に紛争がなかった日本が武力奪取することは、平時であれば国際的な承認が得られるはずのない行動であったと言わざるを得ません。

第一次世界大戦にイギリスが参戦した理由は、「ドイツがベルギーの中立を侵犯した」から、すなわち国際秩序の維持が目的であって、単にフランス・ロシアとの「三国協商があった」から、ではありません。一方、日本の大隈内閣は、「日英同盟の誼」を利用して、「中国利権をドイツから奪取することを戦争目的の一つとして」、すなわち自国の一方的な利害の確保を目的に、参戦を決定しました。

その後の経過においても、山東省利権にこだわった大隈内閣は、誠に品格の低い内閣であった、そして大隈重信首相と加藤高明外相は、日清・日露両戦争での日本の主張と今回の日本の主張には公正さに重大な格差があることを理解していない、国際感覚の乏しい政治家であった、と言わざるを得ないように思います。

 

山県・井上ら元老は、大隈内閣の参戦決定を批判

日清・日露の両戦争や、その前後の外交交渉の当事者として長く外交に関わってきた元老は、大隈内閣と加藤外相に対し、非常に批判的だったようです。

山県は、「もーだめだ、外交がたたきこわされた」

まずは、このときの山県有朋の主張について、再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。

山県と政府とは、対ドイツ外交の姿勢という点においても根本的に相違。大隈首相は、一旦了解した参戦の回避まで言い出す山県に、開戦できなければ辞職する可能性もあると迫っている。
最後通牒が発布されたのを聞くと、山県は、「もーだめだ、外交もたたきこわされた。加藤は一体其眼中唯自分一人のみで国家という感念がない」「何の必要ありて斯かる事を突発的に他人の横顔をなぐる様なやり方をするのだ」と慨歎したという。「独逸も亦我が親交国なることを忘る可からず」という山県の主張は、政府にくみ取られることはなかった。

日清戦争時には武断派とされた山県ですが、その長年の経験から、列国との協調の重要さを身に染みて知っていた、と言えるように思います。

 

井上馨のいう「大正新時代の天佑」は、列国との協調の立て直し

井上馨は、山県とは別の観点で、大隈内閣と加藤外相を批判しています。当時、興津にいて拡大閣議には出席しなかった井上は、意見書を大隈首相に届けさせます。

以下は、井上馨の伝記である 『世外井上公伝』 の第5巻にある、この意見書からの要約(ただし適宜現代語に変換)です。

英仏露三国との連携強化で資金援助を得て、日本の発展

● 今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑である。
● この戦局と共に、英・仏・露の団結一致は更に強固になる。日本は右三国と一致団結して、東洋に対する日本の利権を確立しなければならない。東洋に対し英は海軍力、露は陸軍力、仏は財力をもって臨んでいる。海陸両力ある日本は、宜しく仏を説き英露を勧め、仏と共に財力をもって日本の援助とならしめるという策を講じなければならない。
● 英・仏・露と誠実な連合的団結をなし、この基礎をもって、日本は支那の統一者を懐柔しなければならない。英・仏・露三国へのわが外交官の人選とともに、袁〔世凱〕を心服させられる特派員または公使の選任をしなくてはならない。
● 明治維新の大業は鴻謨〔=大計〕を世界に求めたことにある。大正新政の発展は、この世界的大禍乱の時局に決し、欧米強国と駢行〔=並んで進み〕提携し、世界的問題から日本を度外することができないようにする基礎を確立することである。

井上馨の「大正新時代の天佑」という言葉は、大隈内閣の対独開戦決定経緯の説明で、多くの歴史書に引かれていますが、この言葉だけを引いて、井上馨の具体的な発言内容は紹介していないことがほとんどで、あたかも井上馨も「切り取り強盗」「火事場泥棒」を勧めたかの如き誤解を生じさせています。

井上の意見書を確認してみると、その内容は、実は大隈内閣・加藤外相のドイツ利権奪取方針とは全く関係がなかったどころか、それとはむしろ対立して、英仏露との国際協調の再構築を主張していて、日本独善主義ではなかったことがよくわかります。

井上馨の実際の主張は、この戦乱が、名目だけになりかけている日英同盟や日露協商などの国際協調の立直しの好機であり、資本に乏しい日本が、英仏露と協調の上、資金を欧州から引いて経済開発事業に取り組む好機である、中国との友好関係を再構築して経済発展を行い、日本の国際地位を高めるべきである、ということにあったわけです。(「4a 当時の日本経済」のページで確認しました通り、この時点の日本経済は不況期、日本政府は財政難であったことを思い出してください。)

財政に詳しく経済事業を良く知る協調外交論者の井上らしい主張であったと思います。(井上馨は元々どういう人物であったか、どういう考え方をしていたのかは、こちらをご参照ください。)

山県・井上とも、日清戦争時の三国干渉以来の経験から、日本だけが得をしようとする日本独善主義は国際的に通用しないことを良く知っており、列国との国際協調を重視していました。その点で大隈内閣・加藤外相とはまったく考えが異なっていた、と言えるように思います。また、元老の国際協調主義が分かっていたので、大隈内閣・加藤外相は、元老には資料は出さず相談もあまり行わずに事を決めた、ということだったのではないでしょうか。

 

中国の「中立」問題への実務対応 -日独開戦への必要ステップ

8月15日の最後通牒に対し、ドイツからは回答はなく、回答期限とされていた8月23日に、日本はドイツに宣戦布告しました。

ところで、青島・膠州湾への軍事行動は、租借地外の中国領土を巻き込まざるを得ません。ドイツに対し宣戦布告したものの、実際の軍事行動を開始するには、中国側の諒解を取る必要がありました。この課題への対応について、再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』 からの要約です。

中国政府は、8月3日に中立宣言するも、11日に中国領域内の戦闘禁止を断念

中国政府は3日に中国領域内での交戦を禁止する事実上の中立宣言を各国公使に通告。同時にアメリカに、中国領域内で戦闘行為をしない旨の協約を列強間に成立させてくれることを期待すると伝えた。6日には日本政府にも、〔中国を〕非戦闘地域とする協定の成立に尽力してくれるよう正式に要請。駐日中国公使陸宗輿は、8日に大隈首相に口頭で中国領域内の非戦闘区域化を申し入れ。
しかし大隈はそれに賛同しがたい旨を語り、それに続けて参戦への積極的な意向を陸に伝えた。結局、袁世凱は11日に、日本が青島攻略をするのは確実であると理解、列国間協約の締結による中国領域内の戦闘禁止化策を断念した。

中立除外戦域の設定に関する論争

● 日本の対独最後通牒の2日後の17日に、中国の総統会議は日独間の戦闘の場合は、中立除外戦域を設定すると決議。
● この日にイギリスも、1898年の中独協定にある「租借地外50キロ以内の軍隊移動の自由」という規則に則って、日本もその範囲内で軍事行動を行うべきであると提案。
● しかし加藤外相は、それでは敵前上陸とならざるを得ず、到底承服できないと繰り返しイギリスに伝える。
● イギリスは日本の強い姿勢の前に22日に譲歩、中国政府が承諾するなら50キロ区域外に上陸することに異議をはさまないと伝えてくる。
● 日本政府は、中国政府に対して21日に、中立除外地域として「山東省中黄河以南ノ地」を指定するよう要請。
● 中国は、それでは山東省全体を軍事行動の対象とすることになると反対。
● 日本は「濰県ト諸城県トヲ連接シ南北ノ海岸ニ達スル一線以東」を再提起、もはや時間がないから仮に中国側がこれを呑まなくても強行すると伝えた。
● 先発隊が龍口沖合に到着する前日の8月31日に、仕方なく中国側はそれを受け入れた。
1914年 日独青島戦争 山東省内の中立除外戦域の指定 地図

地図を見れば一目瞭然ですが、最初に日本が提案した「山東省中黄河以南ノ地」は、済南も含み、ほぼ山東省全域に近いきわめて広い領域です。大隈首相のいう「大いに有利なる」済南鉄道を接収したいという意図が露骨です。「濰県ト諸城県トヲ連接シ南北ノ海岸ニ達スル一線以東」とすることで、中立除外地域は山東省の半島部となりましたが、それでも「租借地外50キロ」と比べればはるかに広大な地域でした。

 

日本の参戦は、結局何が目的であったのか

斎藤氏の説は、①青島独軍排除、②中国施策への布石、③山東利権

こうして日本は、ドイツに宣戦布告をしました。日本の参戦目的について、斎藤聖二 『日独青島戦争』 は、「①青島ドイツ軍の排除、②今後の対中国外交施策への布石、③山東利権への経済的欲求の充足、という3点にあった」としています。

①の青島ドイツ軍の排除は、軍事的に明確です。③の山東利権も内容は明らかです。問題は②の今後の対中外交施策への布石、という点です。この点について著者は、この青島戦争での「勝利が懸案の 『満州』 利権問題の解決にむかう具体的契機となった」、「『対華二一ヵ条要求』 はこの戦いがあってはじめてあのような形をもって登場しえた」と説明していますが、著者のこの見解は、すんなりとは理解しにくい感があります。

「対中国外交施策」が意識されていたことは間違いないもの、客観的には戦略的な「布石」と見なせるものではなかったのではないか、と思われるからです。「山東」・「満州」両利権の整合性のつけ方が討議不足で、それを大隈内閣の共通認識にせずに開戦してしまった結果、後でそのツケが回ってきて「対華21箇条」のドロナワに入り込んでしまった、と考えるのが妥当のように思うのですが、いかがでしょうか。

 

元老・井上馨の証言、当時の最重要課題は「満州の利権の継続」

大隈内閣の開戦決定時に、「対中国外交施策」が「布石」と呼べるものにはなっていなかったのではないか、という点について補足します。大戦の開戦に先立って大隈内閣が発足した時に、対中外交課題として何が意識されていたのかを確認したいと思います。以下は再び井上馨の伝記 『世外井上公伝』 からの要約です(現代仮名遣いに直しています)。

井上馨の大隈内閣に対する外交面での期待について

● 〔井上公は大隈内閣に〕失墜しているわが利権の挽回を希望。
● 日露戦後わが対支政策は萎靡振るわず、欧米諸国の異常な進出ぶり。戦後日支両国間には幾多の重大な懸案が解決未了のままに放任され、関東州の租借期間も、わずかにあますところ9年後に迫っている状態。
● しかのみならず、米国の満州に対する野心はますます露骨に。1909年11月(明治42年)に米国は突如として満州鉄道中立問題を提起したが、日露両国の反対により幸い不成功に終わった。
● 〔井上公が〕漢冶萍問題について斡旋し、日仏銀行の設立に尽力したのも、日露提携を提唱してきたのも一に支那における利権確立の切なる念願にほかならなかった。

当時の対中国外交の最大課題が、満州利権の継続確保であったこと、とりわけ、ロシアから引き継いだ関東州の租借期限があと9年しかなく、時間的制約の中で解決を図る必要があったことが分ります。

一方、「日露戦後わが対支政策は振るわず」の最大原因は、日露戦争の戦費を借款で賄った結果として、返済義務対応を優先せざるをえず、中国への投資に回せる資金がなかったことであろうと思われます。

だからこそ、対支政策振興の達成に、ロシアとの提携やフランス資本の引き込みなどが重要手段として認識されており、実際にロシアとの提携が対米交渉の中で効果を発揮した事実もあった、ということも理解できます。

貧乏国が、「貧国強兵」で軍を強くして領土や利権を得ても、開発する資金を出す余裕がない、それでは利権は名目だけになる、利権を実質化するには開発資金の捻出が必要だが、そのためには上手く国際協調を行うべし、という大原則を、井上馨はあらためて説明した、と考えられるように思います。

 

大隈内閣は、満州利権と山東ドイツ利権の調整をしなかった

すなわち、満州利権の継続確保問題は、当時の日本の重大課題として、以前から十分に認識されていたことでした。一方、青島・山東半島のドイツ利権の奪取が可能であるという状況は、大戦の勃発によって急浮上したものであり、それまでは全く意識されたことがなかった事項でした。

大隈内閣・加藤外相は、青島攻略の決定に際し、当然ながら、満州利権の継続確保と山東半島ドイツ利権取上げという二つの課題の関係整理、優先順位づけが必要でしたが、それがなされぬままに、その後の事態が進んで行きました。

満州利権と山東利権では、明らかに満州利権の方が重要であったのに

満州利権と山東利権の二つを比較すれば、満州利権の方が山東利権よりも重大であった、と言えるように思います。もしも満州利権の継続確保が困難になれば、再びロシアが満州に進出して、朝鮮にまで影響が波及する事態も十分に考えられました。国民感情の面でも、満州利権は日露戦争で多くの戦死者を出して獲得した利権でした。

そうであるなら、満州利権継続確保という大目的達成のために、山東ドイツ利権はあくまで中国政府との交渉材料に使うものとし、結局日本の手には残らないものであると認識する、というのが、この状況では一番適切な対応策であったように思われます。

「青島攻略後は、膠州湾を中国に速やかに返還し、日本はドイツ利権の継承を主張しない、その代り関東州の租借期限は大幅に延長してもらい、満州利権の継続を確保する」という方針を内閣の共通認識として、事前に、中国政府と交渉し英仏露からも同意得る、というやり方をしていれば、元老を含む国内は納得していたでしょうし、対外的にも青島攻略は「切り取り強盗」行為ではなく、むしろ中国のために利権を取り戻す「正義の戦い」との見方にもなっていたでしょう。

そうなっていれば、中国国内の反日感情を昂進させることはなく、むしろ日中間の好関係の発展につながり、アメリカからも許容されていたのではなかろうか、と思います。

大隈内閣・加藤外相が、元老に耳を傾けず、満州利権と山東ドイツ利権の関係整理をせずに参戦したことは、大きな失策であった、と言わざるを得ないように思います。もしも両利権の双方を確保しようとしていたのなら、そもそも無理なことをしようとしていた、と考えざるを得ないように思いますが、いかがでしょうか。

奈良岡・前掲書は、「政友会与党の第二次山本内閣の中枢を担った人物が、いずれも参戦に消極姿勢を示した」、「もしシーメンス事件が発生せず、第二次山本内閣が存続していれば、日本は即座には参戦しなかったかもしれない」と指摘しています。シーメンス事件は、いろいろな意味で不幸な結果を招いたようです。

 

「日本の参戦決定」についてのまとめ

これまでのところを整理してみると、次のようになるかと思います。

● 加藤外相は、8月4日のイギリスの参戦以前からイギリスへの援助を表明、7日にイギリスからドイツ武装艦船駆逐の要請が来ると、閣議をリードして、参戦・青島攻略の閣議決定を行った。山県ら元老からの参戦決定批判にも、最後通牒方式採用の妥協を行ったのみ。

● イギリスのグレー外相は、いったんは日本の参戦阻止を試みたものの、膠州湾の中国還付の表明があったため、青島攻撃に同意した。

● 大隈首相は、「とにかく済南鉄道だけは大いに有利なるもの」と述べて、青島攻略によりドイツ利権を継承することを目指していた。中国との中立除外戦域の設定協議においても、当初日本は、山東省のほぼ全域を要求、最終的にも、山東半島部全域を指定して、ドイツ利権継承の目的を果たそうとした。

● 当時の日本には、租借期間があと9年のみという満州利権の継続確保という大きな課題があった。しかし、この満州利権継続確保問題と、山東利権問題との優先順位付けがなされないまま、青島攻撃が行われることになった。

 

 

次は、青島攻略戦の戦闘経過についてです。