4 日本の第一次世界大戦

 

これまで、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパでの戦闘について確認し、その総括を整理してきました。ここからは、極東の地にありながら第一次世界大戦に参戦した日本について、確認していきます。

 

● このページの内容 と ◎ このページの地図

● 日本も第一次世界大戦に参戦した

● 本章の内容

◎ このページには地図はありません

 

日本も第一次世界大戦に参戦した

日本も、第一次世界大戦には、連合国の一国として参戦しました。少なくとも、中国山東省の青島では現地ドイツ軍と交戦しています。

しかし、そもそも参戦の意思決定中に日本独自の下心があったこと、海軍の駆逐艦部隊を除いて欧州ではほとんど戦っていないこと、作戦行動に当たっても日本独自の利害追及がなされたことが多かったことから、いわゆる欧州大戦とは別に確認していく必要があると判断されるため、章を改めています。

 

本章の内容

「日本の第一次世界大戦」については、以下の順序で確認を進めていきます。

 

第一次世界大戦当時の日本

第一次世界大戦当時の日本の経済状況

第一次世界大戦の勃発は、日本最初の対外戦争である日清戦争から20年後、欧州列強の一国と初めて戦った日露戦争からは10年後、というタイミングでした。まずは、この当時の日本の国力はどの程度のところまで来ていたのか、経済と財政の状況について、確認します。

 

第一次世界大戦時の日本の政治状況

経済的な状況を理解した次には、政治の状況について確認したいと思います。当時の重要な政治課題な何であったのか、を確認します。

 

第一次世界大戦への参戦、日本の戦闘と連合国への協力

日本の参戦決定の経緯

欧州で大戦が始まると、1ヵ月経たないうちに、欧州からはるか遠く離れた極東の日本がドイツに宣戦します。当時の日本にはドイツとの紛争があったわけではないのに、時の大隈重信内閣は、加藤高明外相にも引っ張られ、対独宣戦布告を決定しました。そのさいの大隈内閣の意図を確認します。

→ 4c 日本の参戦決定

 

青島攻略戦の戦闘の経過

第一次世界大戦中に日本陸軍が戦ったのは、開戦の年1914年の青島攻略戦と、欧州での大戦終結の年1918年に開始して1922年まで続けたシベリア出兵がありました。このうち、青島攻略戦は、ドイツの出先軍に対し日本軍が慎重かつ十分な準備を行った上で開始したものであり、日本陸軍史上最も合理的な戦い方を行い、その結果戦死傷者もきわめて少なかった戦争でした。その戦闘の経過を確認します。

 

対華21ヵ条要求

青島攻略戦の事後処理として対中交渉が必要となりましたが、大隈内閣の加藤外相はそのさい、悪名高き「対華21ヵ条要求」を行い、中国の反日感情をいたずらに昂進させ、またアメリカとの関係も悪化させました。「対華21ヵ条要求」とはどのような内容の対中要求であったのか、なぜそのような要求が行われてしまったのか、結末はどうなったのかを確認します。

 

南洋諸島の占領

日本海軍は、陸軍の青島攻略戦にも協力しましたが、同時に並行して、独自の作戦として、赤道以北のドイツ領南洋諸島の占領も行いました。その経過を確認します。

 

連合国への協力 - 地中海への駆逐艦隊派遣、ロシアへの武器援助など

青島攻略戦や南洋諸島占領は、日本の利益獲得のための切り取り強盗行為でしたが、日本の陸海軍は連合国の一員としての行動も行っています。地中海への駆逐艦隊の派遣や武器援助など、第一次世界大戦時の日本軍の国際協力の状況を確認します。

 

シベリア出兵

第一次世界大戦から派生してロシアには革命が起こった状況下、日本もシベリア出兵に参加、他の列国が全て軍を引き上げた後も出兵を継続して、国際的な非難を受けました。この軍事行動については、カイゼン視点からはいろいろな課題が見出せるため、3ページに分けて確認しています。

 

シベリア出兵1 出兵決定の経緯

まずは、1917年11月ロシアで十月革命が勃発してから、翌年7月にシベリア出兵が決定するまでの経緯について、とくに列国側の主目的は、革命への干渉ではなく、第一次世界大戦の東部戦線の再建であったのに、日本は目的がズレていたことを確認します。

 

シベリア出兵2 共同出兵~列国の撤兵

1918年8月の出兵開始からわずか3ヵ月で、広大なシベリアに反革命統一政権が成立しますが、その後の赤軍の巻き返しとパルチザン戦の拡大により、1920年1月には反革命政権が倒れ、日本以外の列国は撤兵を決定します。その間にどのような経緯があったのか、日本軍はパルチザン戦ではどのような戦いぶりであったのかを確認します。

 

シベリア出兵3 日本の残留・尼港事件~撤兵

1920年には英米はじめ列国がすべて撤兵したのにかかわらず、また干渉の目的が果たせなくなったことも明白であったのに日本だけは残留、最終的に1922年10月に日本は撤兵しましたが、失敗が明らかな軍事行動となりました。尼港事件も含め、その間にどのような経緯があったのか、また出兵の失敗に対しどのような反省がなされたのか、について確認します。

 

 

まずは、第一次世界大戦期の日本の経済状況について、です。