ここまで、開戦初年、1914年の陸上での戦闘の経過を見てきました。ここでは、海上の戦いの状況を確認するとともに、1914年の全体の状況を総括したいと思います。
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1914年の海戦
リデル・ハートが語る1914年の海上の戦い
1914年の海上での戦闘の状況について、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からです。
大戦で一番決定的だったのは、イギリスによるドイツの海上封鎖
今次大戦を通じておそらくいちばん決定的な行動、実際の開戦以前の7月29日、巨大な英国大艦隊がポートランドを発進して、戦時基地スカパ・フロー Scapa Flow に向かったとき。この瞬間からドイツの主要水路は眼に見えない圧力に。
海軍の新兵器は、機雷と潜水艦、このためドイツは持久作戦
ドイツ海軍総司令部は、英国の戦略を予想しそこねたこともあって、持久戦を採用。機雷および潜水艦という新しい武器。ドイツ軍総司令部は機雷敷設艦とUボートの厳重な海上封鎖の効果がはっきりあらわれるまでは、戦闘を避けることをねらった。
イギリスは、遠方からの監視戦略で対抗
英国海軍本部の戦略は、敵を探し出そうとする直接主義の方針を廃して、代わりに≪現存艦隊≫ ‘the fleet in being’ の間接主義。ドイツの機雷とUボートの危険を悟って、遠方から監視する戦略。敵が現われれば即座に行動に移れる準備を整え、軽舟艇を敵に接近させて監視する体制。
英国が全般的な制海権を握ることが連合国側の大義名分のかなめであり、一方的に損害を蒙るような立場に身をさらして、その制海権を危うくすることは、この至上命令の否定にほかならないことをよくわきまえたもの。海軍本部は、海上ルートの安全確保という第一の任務にとりかかり、英国遠征軍のフランスへの渡航の安全を保障した。
'the fleet in being'は、艦隊保全主義とも訳されているようですが、「艦隊の存在を抑止力として活用」という考え方です。艦隊の保有には、巨額の資金と長い製造期間がかかっているので、イチかバチかの使い方で大きな損害を受けるわけにはいかない、明らかに有利な条件にない限り艦隊決戦は避けよう、強力な艦隊が存在していること自体が敵への抑止力になるので、艦隊決戦をしなくても艦隊の効果はある、と、金持ち国のイギリスでさえ考えていた、ということになります。
日本海軍は、明治の日清戦争での黄海海戦と日露戦争での日本海海戦の2つに勝利したおかげで、すっかり艦隊決戦主義に陥り、結果として大東亜・太平洋戦争のミッドウェー海戦で大敗北しました。ミッドウェーは日米の航空艦隊決戦でしたが、アメリカ側は、日本海軍の暗号を解読していたので、日本よりも有利な条件にありました(日本は米艦隊が来ているかどうか知らないが、アメリカは日本艦隊が来ることを知っていた)。
経済封鎖は、当時まだ意識された戦略ではなかった
海軍力を行使して経済的圧迫を加えるという考えは、当時まだ熟していなかった。これが正式の戦略にまで結晶したのは後の段階に至ってから。ただし、海洋交易に攻撃をかけるということは英国海軍の古い伝統。この種の間接的攻撃がUボートによって自国に加えられたとき、英国がこれを残虐な行為として非難したのは、論理的ではなかった。
イギリス人のリデル・ハート氏がイギリスを批判している点、同氏の客観的な視点と公正さがよく現れています。
北海ではイギリスによる対ドイツ小襲撃戦のみ
8月29日、英国巡洋戦艦部隊と駆逐隊が、ヘルゴランド・バイト the Bight of Heligoland を急襲して、ドイツ軽巡洋艦数隻を撃沈。この戦いがドイツ側に、防衛戦法に徹する決意を固めさせた反面、Uボート攻撃のわざを錬磨することになった。この交戦を別にすれば、1914年の北海戦史は、一方の側の昼夜を分かたぬ警戒の記録であり、他方の側のUボートと機雷敷設艇のささやかな戦果と損害の記録。
大艦であっても魚雷(水雷)や機雷に弱いことは、1894年の日清戦争・1904年の日露戦争当時の日本海軍にも知られていたことでした。大金が必要な大艦巨砲より、安価で小さな機雷敷設艇や水雷艇・駆逐艦などのほうが、よほどコストパーフォーマンスが良かった、ということになります。
地中海ほか、他の海域での戦い
地中海では、ドイツ軍艦2隻が英国の追跡の努力をうまくかわした。インド洋では11月9日、ドイツ巡洋艦エムデン Emden の撃砕によって、英国の邪魔はいなくなった。太平洋上ではイギリス巡洋艦部隊がドイツ巡洋艦に撃砕されたが、12月8日フォークランド諸島 the Falkland Isles でイギリスがドイツ艦を沈めた。この時以後、英国と連合諸国の海上連絡は確保され、貿易、物資供給、兵員輸送が安全に。しかし、Uボートの発達により、安全がさほど確かなものではないことが次第にはっきりしてきた。
第一次世界大戦では、連合国側による対ドイツ海上封鎖が大きな効果を上げましたが、それは、開戦時には戦略として意図的に実施されたものではなかったようです。もともと陸上での短期決戦で決着がつくと想定されていた戦争でしたから、それも当然のことと思われます。
ただし、上の地図を見れば、英仏海峡およびスコットランド・ノルウェー間を封鎖すれば、対ドイツ海上封鎖は可能ですし、バルト海とトルコのボスポラス海峡を封鎖すればよいロシアの海上封鎖はもっと容易であったことが明確です。他方、フランスやイギリスは大西洋に開けているので、この両国を海上封鎖することはもともと困難であったことがよく分かります。
AJPテイラーが語る、ドイツの海の新兵器の効果とイギリスの対抗策
上記の記述についての他書からの補足です。ますは、ドイツの海の新兵器の効果と、イギリスの対抗策について、AJP テイラー 『第一次世界大戦』 からの要約です。
大艦巨砲より、新兵器の機雷と潜水艦が効果
戦前の海軍の立案者たちは、巨砲を装備した巨艦だけを考えた。両陣営とも、新兵器である機雷と潜水艦の重要性を予見できなかった。イギリスの失敗の原因となったのは、この二つの新兵器であった。アブーカー号、ホーグ号、クレッシャー号は、9月22日に1隻のUボートによってすべて撃沈され、戦艦オーデイシアス号は、10月27日に機雷によって沈められた。
大艦巨砲主義では必ずしも勝てないことが、実は1914年の英独海戦のなかで、すでに示されていた、と言えるようです。大艦巨砲は以前からの兵器、それに対して機雷と潜水艦の方が、最新鋭で効率的な兵器でした。
JMウィンターとAJPテイラーが語る、海上封鎖の効果
もう一つ、海上封鎖の状況とその効果について、他書からの補足です。
イギリス対ドイツ、ドイツ対ロシアの海上封鎖
海戦のもっとも重要な部分は、封鎖戦略にあった。戦争勃発直後、イギリスの艦船が、北海・イギリス海峡・地中海で、同盟諸国の港を出入りする船舶を妨害。その報復としてドイツは、イギリスの海岸沿いに機雷を敷設。
1914年10月29日イギリスは、中立国の船舶はその積荷がドイツ向けではないこと証明必要と宣言、11月3日には北海全域を軍事区域と宣言。ドイツはこの措置を無制限経済戦争の宣言と解釈し、イギリスに対する潜水艦攻撃を翌年2月4日より開始すると発表。3週間後イギリスは報復措置発令、ドイツ向けおよびドイツからの船荷の没収の認可。
黒海とバルト海では、日露戦争で受けた大きな痛手からまだ立ち直っていないロシア海軍が、小規模のドイツ軍とトルコ軍によって簡単に封じ込められた。
(以上は、JMウィンター 『第一次世界大戦』 から)
海に囲まれたイギリス、海への出口が狭いドイツやロシアは、海上封鎖が比較的容易であり、英独両国海軍の戦いは、実際には、相手国への海上封鎖合戦であった、と言って良さそうです。
ここからは、イギリス同様海に囲まれた日本も海上封鎖されやすい、という教訓が得られるのですが、昭和前期の日本軍は、その教訓を学ぼうとはしなかった、と言えそうです。
イギリスの対抗策、海上封鎖の効果
イギリス軍。徐々にドイツの補給を断った。ドイツ船舶は捕獲され、中立国の船舶はイギリスの港に連行され、その積荷が検査された。ドイツの方には先見が欠けており、戦時資材を蓄積することに失敗した。
(以上は、AJPテイラー 『第一次世界大戦』 から)
そもそも「瓢箪から駒」で大戦争になってしまったわけであり、開戦時には両陣営とも戦争は短期で終わると見ていたわけですから、「先見の明」が欠けていたのもやむを得なかった、と言えるように思います。
1914年の情勢の総括
ドイツは目標未達成に終わった
1914年の情勢を総括してみましょう。
● 陸上では、ドイツ軍が、西部・東部の両戦線とも優勢であった。
● 西部戦線ではシュリーフェン計画が達成できず、ドイツの進撃は止めらたものの、ドイツは広い占領地域を獲得した。
● 東部戦線、独露国境方面では、最初ロシア軍にドイツ領内に侵入されたが、その後ドイツ軍がロシア軍を大きく後退させた。
ただし、オーストリアには、ロシア軍が侵入したままの状況で年を越した。
● 海上では、小海戦があっただけで大海戦は発生しなかった。
両陣営による相手方陣営に対する海上封鎖合戦となり、とくにロシアに、その影響が顕著に表れていた.。
ドイツは、短期間でフランス・ロシア両国を降伏させようと戦争を開始し、軍事的な優位性は確立したものの、目標は未達、すなわち、フランス・ロシア両国は降伏には至らず、長期戦化の様相を呈しだした、という状況であったことが確認できました。
なお、極東では、日本がドイツに8月15日に最後通牒を送り、8月23日に宣戦布告しています。連合国対同盟国の勝敗の帰趨がまだ全く見えない早い段階での宣戦布告が妥当な判断であったのかどうかは、議論の余地があるところでしょう。その年の年末、日本は極東ドイツ軍に簡単に勝利していたものの、欧州での動向は明らかにドイツに有利、連合国には不利で、相当不安だったのではなかろうかと思います。
1914年に早くも明確になっていた、兵の損失のすさまじさ
1914年は8~12月の5ヵ月間しか戦争をしていませんが、各国とも、兵の損失はすでに著しく過大であったようです。
兵の損失の具体数については、リデル・ハート氏の著作では明確ではない傾向がありますので、より詳細な兵力損失の数字について、以下は、木村靖二 『第一次世界大戦』 からの要約です。
1914年の戦死・戦傷・捕虜数は、西部戦線の独仏英3国で、計160万人以上
開戦から年末までの5ヵ月間は、大戦全期を通じて、両陣営とももっとも多くの死傷者を出した時期。フランス軍は、戦死・戦傷・捕虜を含めほぼ85万人を失い、ドイツ軍は西部戦線だけで68万人、イギリス大陸派遣軍も兵員の4割、8万5000人を失った。
東・西両戦線とも機動戦が多く、塹壕などを構築する余裕がないまま、敵陣に突撃を繰り返す戦法をとったことが、この大殺戮の原因であった。
1904-05年の約1年半の期間の日露戦争での総損失(戦死・負傷・捕虜)は、日露両軍合わせて50万人ほどです。第一次世界大戦では、たった5ヶ月で、西部戦線だけでその3倍を超える損失が発生していたことになります。いかに機関銃や重砲の殺傷力がすさまじいものであったか、それに対し、旧来の突撃を繰り返す戦法は、いたずらに損失を増すだけでいかに効果がなかったか、それを明確に示す数字であると言えそうです。
この損失状況でも、この時点では休戦・講和への動きは出なかった
これだけ大きな犠牲を出している状況ですと、今後も戦争を継続する意味があるのか、休戦して政治決着をめざすなど他の方策はないのか、などと考えるのが、合理的なカイゼン思考だと思いますが、この当時はそういう考え方が強くなることはなかったようです。再び木村靖二 『第一次世界大戦』 からの要約です。
ドイツは、戦略転換、西部戦線では守勢・東部戦線で攻勢
1914年11月18日、参謀総長ファルケンハインは、宰相ベートマン=ホルヴェーク Theobald von Bethmann-Hollweg と会談、英・仏・ロシアが結束している限り、ドイツが満足できる講和を強いるような勝利は不可能、したがって目標はロシアを脱落させて単独講和、次いでフランスとも講和、その後イギリスと対決すべき、ロシア・フランスとの講和を容易にするため、領土割譲を求めるべきではないとの意見を表明。
国民を納得させるため領土割譲は不可欠と考えていたベートマンは抵抗したが、結局同意。ファルケンハインが、1915年以降、西部戦線では守勢に徹し、東部戦線で攻勢に出たのも、この考えから。
以前の戦争なら、当事者はこの段階で休戦・講和交渉を求めただろう、とイギリスの軍事史家ハワードは指摘。しかし、国民の支持と期待を背負った戦争は、もはや支配者の一方的な判断で休戦に入れるような性格の戦争ではなくなっていた。ドイツ軍が敵領土で戦っているなかで、開戦前の状態に復帰するだけの講和は、とても国民には受入れられなかった。そのうえ英・仏・ロシア三国は、すでに9月のロンドン条約でドイツと単独講和を結ばないことを決めていた。
国民を戦争にあおった責任は政治家自身にあるにせよ、この時点では休戦・講和に国民を納得させることは困難であった、ということは、確かに言えそうです。
その時、ファルケンハインは状況をかなり冷静に見ていて、制約がある中で、出来る限りの現実的なカイゼンを行おうとしていた、と言えそうに思いますが、いかがでしょうか。こういう人が7~8月の時点で参謀総長職にあったなら、大戦の勃発には至っていなかったのではないか、という気もします。
もう一つのポイントは、同盟関係からの制約、現代用語を使えば、集団的自衛権の持つマイナス面の表出です。同盟離脱防止が図られ、その結果、単独講和が困難になりました。オーストリアとロシアは、もしもこの時点でそれぞれの同盟関係から抜け出して講和を結ぶことができていたなら、相当に不利な条件を飲まされたとしても、それぞれの帝国の即座の崩壊にまでは至らず、立直しの時間が得られていたのでなかろうかと推測するのですが。
1914年の個々の戦闘の詳細
以上、1914年のヨーロッパでの戦闘の経過を確認して来ました。この年に起こった戦闘のうち、詳細で読みやすい記述があるものについて、下記に挙げておきます。
リデル・ハート 『第一次世界大戦』
● マルヌ川の戦い
● タンネンベルク
● レンベルク会戦
● 第一次イープル戦
歴史群像アーカイブ 『第一次世界大戦』 上
● マルヌの奇跡 (シュリーフェン計画からマルヌの戦闘まで、リエージュ要塞攻略を含む)
● タンネンベルク殲滅戦
● 軽巡「エムデン」の戦い (エムデンはドイツ東洋艦隊の軽巡洋艦、たった1隻でインド洋で大活躍した)
いずれも、読んでいただく価値は高いと思います。
次は、1915年の状況です。