4b 当時の日本政治

 

第一次世界大戦直前の日本は、経済的には、繊維産業の工業化は成し遂げていたものの、重化学工業はまだ十分な発展をしていない中進国で、日露戦争以来の借款のツケと軍事費負担が大きな財政負担となっていて、1910年以後は経済停滞に陥っていたことを確認してきました。

ここでは、政治面ではどういう状況であったのかを、確認していきます。

 

 

1913(大正2)年の「大正政変」

大正政変の引き金は、陸軍の師団増設要求

1912(明治45)年7月29日、明治天皇が崩御、翌7月30日からは年号が大正に変わりました。時の内閣は第2次西園寺公望内閣でしたが、改元早々の12月には西園寺内閣は総辞職し、第3次桂内閣が成立。しかしこの内閣も2ヵ月もたずに倒れて、翌13(大正2)年2月には山本権兵衛内閣に代わる、というめまぐるしい動きがありました。

大正政変と呼ばれるこの大正初年の政治の流れの大きな変化について、以下は、今井清一 『日本の歴史23 大正デモクラシー』からの要約です。

財政難でも、陸軍は2個師団増設を要求、海軍は戦艦3隻建造を予算化

第二次西園寺内閣は、世論に応えて行政・財政の整理を一枚看板に。大正2年度の予算編成、各省とも経常歳出1割以上減を閣議で申し合わせ。しかし陸軍は朝鮮に2個師団増設を強く要求。韓国併合後の情勢に対応し、辛亥革命〔1911年〕いらいの中国の政治的統一にそなえ、シベリア鉄道の複線化によるロシアの軍事力増強に対処という理由。予算案に、戦艦3隻建造の初年度分として600万円が頭を出していたことは、陸軍をさらに刺激。第一次大戦前夜の建艦競争に直面した海軍が、前年度から強硬に要求していた。

景気は停滞・政府も財政難という経済状況下で、また、日露戦争に勝って少なくとも当面直ちに極東で大規模な武力衝突をする可能性のある国がなくなっていたにも関わらず、陸海軍はどちらも、予算増を要求していたわけです。

上原陸相の辞任に、西園寺首相は内閣総辞職

西園寺首相は、陸軍が1年延期を承諾するなら増師を認めるが、大正2年度の増師はたとえ内閣がたおれても拒否するとの方針。これに対し上原勇作陸相が辞表を提出、当時は陸海軍大臣現役制、西園寺は山県有朋が後任陸相を推薦しない気配をみてとると、12月5日内閣総辞職。

陸軍には、経済・財政の制約の中で予算をやりくりして工夫しよう、という意識はなく、とにかく自組織の拡大を最優先しよう、という意識に固まっていたのでしょう。陸相を辞任させる強硬策に出ます。

閥族打破憲政擁護の大運動に、陸軍増師案は延期で、桂内閣に交代

西園寺内閣が総辞職すると、政友会ではただちにそのいきさつを発表、増師反対の主張は、閥族打破の叫びと結びついて全国にひろまった。世論の盛り上がりをまえに山県は、増師案と海軍拡張案をともに延期し、国防会議で陸海軍の国防方針を調整した上で実施との方針へ。これには海軍から反対、海相が留任を拒否。海相留任の詔勅が出される経緯があり、12月21日ようやく第三次桂内閣が発足。

反陸軍となった世論の反応に敏感に反応して路線の修正を図ったところは、昭和前期の陸軍とは大違いで、山縣有朋にはある程度の柔軟性があった、ということでしょうか。

第三次桂内閣は、すぐに不信任案可決で倒れる

翌1913(大正2)年2月、桂首相は新党、立憲同志会を組織、国民党脱党者など83名が参加するも、政友会からは一人も参加せず。2月5日に議会が再開されると、護憲派の政友会・国民党両党の提出した内閣不信任案上程、署名した議員は過半数。曲折があったが、2月11日桂内閣は総辞職。民衆運動の高揚におされて内閣が総辞職したのは、明治憲法のもとではこのときだけ。記録破りの短命内閣。元老会議で、後継は山本権兵衛に決定。

ただ、陸軍のその程度の柔軟性では、反陸軍になってしまった世論を変化させるには至らず、桂内閣は2ヶ月ももたずに倒された、ということであったようです。

政友会支持の山本内閣は、行政整理と官制改革を実施

政友会が山本内閣支持にふみきり、2月20日山本内閣成立。6月13日、山本内閣は行政整理方針を発表。法令勅令178を改廃、官吏6787人に雇員その他をあわせると人員整理は1万人以上。これにともなう財政整理額は、初年度大正2年は6600万円、同年度の歳出総額の11%。官制改革。陸海軍大臣現役制の廃止、陸海軍が大臣を出さないために内閣が倒れることはなくなった。文官任用令の改正、陸海軍省をのぞく各省次官・法制局長官・内務省警保局長・警視総監・各省勅任参事官等に特別任用を認める。

「師団の増設は、兵営を確保し、兵器を定数分だけそろえ、訓練・演習用の費用と、なによりも1個師団当たり1万数千人もの将兵の給与と生活費を確保しなければならない。陸軍部隊は、一度増設すれば、以後、恒常的に陸軍の経常費を膨張させることになる」 (山田朗 『軍備拡張の近代史』) というもので、金がかかります。

この時の日本は不況期で、しかも政府は財政危機状況にありました。前ページで見ました通り、日露戦争以来の巨額の借款返済に対して、軍事費を削減して返済原資を捻出するのが最も合理的な状況であったのに、それとは正反対に、予算を増額して師団増設を行おうとゴリ押しした陸軍は、国益ではなく自組織の利害しか考えていないことが誰の目にも明らかで、その結果として大きな反発を招いた、ということなのでしょう。

 

諸悪の根源は、海軍に対する陸軍の「メンツ」

この陸軍2個師団増設問題は、なかなか複雑な背景があったようです。以下に、伊藤之雄 『山県有朋』 からの要約で、補足します。

海軍対抗の陸軍のメンツ、さらに山県と桂との対立が、事態をゆがめた

次年度予算に4000万円の歳入不足。西園寺は山県に、師団増設案の提出は迷惑であると訴え。山県は、1個師団なり半個師団なりの増設、それも困難なら、機関銃隊の増設や砲工兵隊の改良などの軍備充実、と妥協を勧めた。山県としては、日露戦争後に海軍の拡張ばかり優先、師団増設への何らかの手がかりを残さなくては、陸軍を押えきれないと考えた。
師団増設反対の世論と西園寺首相らの強い姿勢、陸軍内部からは突き上げ、板挟みになった上原陸相。桂はその上原に、師団増設を内閣に強硬に要求すべきだ、と煽った。上原は山県系陸軍の主流ではなく、山県が妥協を策していることや、山県と桂の関係が悪くなっていることを知らなかったらしい。

陸軍の海軍に対する「メンツ」が大正政変を招き、しかも肝心の2個師団増設はこのタイミングでは実行できなくなってしまいました。もともとの目的設定に合理性を欠いていたために、全くの失敗となったわけです。「メンツ」にこだわったのがマチガイであったと反省して、次のカイゼンに活かすべきところです。

政府に金が足りなくて困っている時に、本心は妥協策であっても、海軍に対するメンツからの予算要求は、陸軍の組織利害だけをみて国家全体を見ておらず、国家運営に害をなしていたと言わざるを得ないように思います。山県有朋は長生きをし過ぎました。

また上原陸相も、大臣なのですから、国家の全体最適の中での自部門、という位置づけで物事を考えるべきところを、自部門の部分最適を追求するだけの行動をとってしまいました。課長級なら仕事熱心で結構ですが、局長級以上ならもっと視野を広く持てと言われて当然、ましてや大臣なら不適任、というのが本来の評価ではないでしょうか。この時の陸軍は、大臣が課長級レベルの発想で仕事をする組織に既に成り下がっていた、と言えるように思います。

なお、伊藤之雄・上掲書は、山本内閣について、政友会の原敬は、「山本内閣が不成立になれば山県に近い官僚内閣に逆戻りすると考え、衆議院第一党の政友会が山本内閣を支持するように動いた」、その結果、山本内閣には政友会から原敬はじめ3人が入閣、さらに高橋是清蔵相ら非山県系の3閣僚が入閣に先立って政友会に入党、政友会員ではない閣僚は首相のほか、牧野伸顕外相と陸相・海相の4人にすぎず、「かなり政党内閣に近い内閣であった」と記しています。

 

1914(大正3)年の「シーメンス事件」

海軍拡張とシーメンス事件で、山本内閣は倒れる

出だしは良かった山本権兵衛内閣ですが、1年ほどでシーメンス事件で倒れます。再び、今井清一・前掲書からの要約です。

大正3(1914)年予算案の重点は海軍拡張

山本内閣の予算案は海軍拡張に重点、前年度予算に頭を出した戦艦3隻建造の継続分のほか、戦艦1隻、駆逐艦16隻、潜水艇6隻の建造費あわせて1億5400万円を大正8年までの継続費として計上。総予算が年額5、6億円にすぎない当時としては、きわめて巨額の要求。陸軍の2個師団増設は翌年度に実施が内約された。行財政整理が実施されたにもかかわらず、政府は営業税の減税を決めただけで、その減税額は500万円にすぎなかった。

シーメンス事件が発覚して山本内閣は倒れる

大正3(1914)年1月23日の新聞の外信報道、ベルリン地方裁判所でシーメンス東京支店社員が恐喝罪で懲役2年の判決、東京支社から日本海軍の高官に贈賄したことを示す書類を盗み出して恐喝の種にした。野党の立憲同志会や貴族院の山県派議員は、山本内閣を攻撃。山本内閣にとどめを刺したのは貴族院の官僚派議員、衆議院の予算修正案から建艦費用を削減、両院協議会でも合意されず、大正3年度予算案は不成立に。3月24日、山本内閣は退陣。

これでは、行政整理は、財政危機から脱出するためではなく、海軍の建艦費を捻出するためであった、と受け止められて当然でしょう。前年の陸軍同様、海軍も自組織の利害だけを考えていると言われて当然のところに、さらに海軍の大汚職事件まで発覚したのですから、内閣がつぶれるのは当然、という状況でした。

内閣が倒れて当然の予算案と汚職事件でしたから、何とも仕方ないところですが、この内閣は1年目に行政整理の成果が出ていただけに、2年目も海軍拡張の規模を大幅に押えて内閣を保っていたなら、と敢えて考えたくなります。というのも、この内閣が倒れてわずか4か月後に、第一次世界大戦が勃発したからです。後継の大隈内閣が実際にとった行動を考えると、山本権兵衛内閣が継続していたなら、日本はより適切な政策を選択していたのではないか、と思えてしまうのですが。

 

1911~1914年 日本の内閣 表

 

大正時代初期 4代の総理大臣 写真

 

第一次世界大戦勃発への対応は、大隈内閣が行うことに

山本権兵衛の後は、反政友会の大隈重信

元老会議は、山本権兵衛の後任に、大隈重信を選びました。再び、今井清一・前掲書からの要約です。

難航した後任選び

元老会議はまず貴族院議長の徳川家達(いえさと)を推薦、閥族色がうすい点をかわれたが、組閣を辞退。つぎに枢密顧問官・山県系官僚の清浦奎吾を推したが、全政党が反対。3人目には政党政治家の長老大隈重信を指名。推したのは井上馨、自由・改進の昔から政友会系の勢力と対立してきた大隈を起用し、これを利用して政友会の打破をはかろうともくろんだ。

1914(大正3)年4月16日、第2次大隈内閣の成立

組閣にあたって大隈は、まず同志会総裁の加藤高明に援助を依頼、同志会を中心に国民・中正両派を加えた、非政友三派を基礎とした内閣をくわだてた。副総理格の外相に加藤高明、蔵相に若槻礼次郎と同志会の官僚派が要職。大隈内閣は長閥とのむすびつきが強かったが、憲政擁護運動は、大隈の人気によって麻痺。

大隈の政綱は、国防充実と国民負担軽減の矛盾

大隈内閣がかかげた主な政綱は、政弊刷新・国防充実・国民負担の軽減。長閥の元老の期待にこたえて政友会を打破し、2個師団増設を実現するとともに、あわせて悪税撤廃を要求する民衆の声にもこたえようとするもの。国防充実と国民負担の軽減という矛盾した要求をかかげて平然たるところに、大隈の大隈たるゆえん。

海軍は、八代海相が粛清策

海相に清廉な武人としてしられる八代六郎大将を起用。八代は組閣の翌日には、「薩の海軍」の実力者、山本権兵衛・斉藤実両大将を待命、5月10日には予備役に編入。5月29日には海軍軍法会議法廷で、海軍汚職事件の有罪判決。八代海相の手で矢継ぎ早に海軍の粛清がすすめられたことは、戦艦の年度分建造費の通過を容易にし、6月22日に開会された第33議会では、軍艦建造の追加予算案が難なく可決された。

直近の大問題であった海軍の汚職事件については、大隈内閣は適切な処理を行ったと言えるようです。

しかし、国家の財政危機がそもそもの根本問題であり、不況からの脱出をいかにして図るのか、厳しい財政と金のかかる国防との折り合いをどうつけていくのか、が非常に重大なテーマであることには変わりがない状況でした。

財政面ではそこそこに適切な政策方針をとってきた政友会に対し、対立する立場を敢えて強調しようとすれば、かえって混乱を招きかねません。「矛盾した要求をかかげて平然」という状況であったところに、第一次世界大戦勃発しました。大隈内閣成立から約3ヶ月半のタイミングでした。

もしも、山本権兵衛内閣が倒れていなかったら、政友会内閣が続いていたなら、日本の第一次世界大戦への対応は、少しは違っていたかもしれませんが、とにかく、大隈内閣の時代に、日本は第一次世界大戦への対応を行っていくことになりました。

 

「第一次世界大戦時の日本の政治」のまとめ

第一次世界大戦時の日本の政治状況をまとめると、下記のようになるかと思います。

● 日露戦争以来の借款負担と経済停滞で、財政が危機に瀕している中、陸軍がメンツから2個師団増設を要求、その結果、第2次西園寺内閣が倒れ、さらに第3次桂内閣も短命に終わり、政友会支持の山本権兵衛内閣の成立となった。

● 山本内閣は、行財政整理に取り組み、若干の実績は上げたものの、海軍拡張を予算化しようとした。結局、シーメンス事件で倒れた。

● わずか1年ちょっとの間にバタバタと交代した第2次西園寺・第3次桂・山本の3内閣は、すべて、陸海軍の拡張に絡んで倒れたことになる。

● 山本内閣の後は、政友会と対立してきた大隈重信が起用され、同志会加藤高明ら非政友三派と組んだ内閣が成立、大隈は国防充実と国民負担の軽減という矛盾した要求を掲げていた。

財政難の中でも、陸海軍それぞれが、艦隊・師団の拡張を図ろうとしており、それが政治の混乱の原因にもなっていた、という状況であったようです。当時の日本経済に対してだけでなく、日本の政治にも、陸軍・海軍の巨額の軍事予算が歪みを生じさせていた、と言えるように思います。

 

 

第一次世界大戦開戦直前の日本の政治状況はここまでとして、次には、日本の参戦決定の過程を確認していきたいと思います。