2c2 1916年後半の陸戦 ソンム・バルカン・イタリア・中東

 

1916年後半の陸上の各戦線についてみていきます。

まずは、西部戦線で膨大な犠牲者を出した、ソンムの大攻勢について、です。

 

 

1916年7~11月 西部戦線 戦車も初投入されたソンムの大攻勢

ソンムでの英仏共同攻勢

1916年後半の西部戦線では、連合国軍の共同作戦でありイギリス軍が主要任務を負った、ソンム川での攻勢 the Somme Offensive が行われました。この戦闘には、戦車が初めて投入されました。

また、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。

第一次世界大戦 西部戦線 1916年 ソンム 地図

 

7月~ ソンムでの英仏共同攻勢

7月1日、1週間続いた砲撃のあと、英国軍13個師団はソンム川の北15マイルの戦線を攻撃。ヴェルダンで戦力を消耗したフランス軍はソンムでの役割低下、5個師団が主として同川南側の8マイルの戦線を攻撃。
準備を隠さず長期の砲撃を行ったため、奇襲のチャンスはまったくなくなった。兵力は弱小でも組織の強固なドイツ軍の抵抗にぶつかって、英国軍の攻撃の大部分は失敗した。英国軍が柔軟性のない密集した「波状」隊形をとっていたため、損害はいっそうひどいものに。フランス軍、抵抗は少なく予測もされておらず、より大きな戦果。
つらい戦闘がほぼ2か月続き、その間、英国軍は多大の犠牲を払いながらほとんど進展は見られず。両軍の歩兵は大量に消費される砲弾の餌食になるばかり。イギリス軍は着実だが犠牲の多い進撃を続け、占領地域こそとるに足りなかったが、ドイツ軍の抵抗を著しく弱め、11月の早い冬の雨季の到来による作戦停止を迎えた。

9月、イギリス軍はソンムで戦車を始めて実戦に投入

ソンム川はある一点で将来に意義深い光。9月15日、初めて戦車が戦場に姿。機関銃と有刺鉄線に対抗するために発明されたもの。英国軍総司令部は、戦車の生みの親たちの意見にそむき、またそれに同意していた彼ら自身の言葉にもそむき、ソンム攻勢の消えかけた希望を取り戻す賭けとして、使えるだけの戦車を使うことに踏み切った。ドイツ軍前線の決定的な崩壊は戦車の出現が原因であったという事実。10月第1週までにドイツ軍は最後に完成した守備陣へ退却。
数がまだ十分そろわないうちに早まって戦車を用いたことは、確かに間違い。得られた戦果はたいしたものではなかった。軍当局の高官らは戦車に失望。

ソンムのおかげでフランスはヴェルダンで失地回復

ソンム川の攻勢、別の間接的な効果。ヴェルダンへの圧力を軽減したことで、フランス軍は反撃準備を整えることが可能に。10月24日と12月15日、反撃を敢行して失地の大半を取戻し、しかも損害は軽微。

ソンムでの人命損耗はイギリスは過大、ドイツも後退禁止の命令で無益な人命損失

《ソンム川会戦》なるものは失意のうちに、また敵ドイツ軍がこうむった苦痛も影が薄くなるほどの、英国軍兵力の激しい消耗をもってその幕を閉じた。
ドイツ軍の損害は主として、その上級司令官ら、ことに第1軍のフォン・ベロー Fritz von Below 将軍にその責がある。彼は、1インチたりとも塹壕を放棄した将校はすべて軍法会議にかけられる、塹壕1ヤードを失った場合は必ずや反撃、奪回しなければならぬという布告を発していた。人命の無益な損失を招き、士気面への影響はそれをさらに上回った。ついに8月23日ベローは自分の布告を撤回せざるをえなくなり、またヒンデンブルク=ルーデンドルフ新体制の方針に沿って、自分の抵抗戦法を修正せざるを得なくなった。

機関銃の前に突撃を行うことがいかに自滅的かは、とうに分かっているはずなのに、イギリス軍が大したカイゼンなしにそれを繰り返して、過大な損耗を生じていた事態が分かります。

他方、ドイツ軍の撤退禁止・反攻必死の命令も、徒に犠牲を増やしていただけであったことが指摘されています。少なくともドイツ軍は、この時点で自らの誤りに気がついて、命令を撤回しているのですが、ドイツ軍を模範としたはずの昭和前期の日本軍は、この点からも何も学習しなかったようです。

 

ソンムでの膨大な死傷者数

例によって、リデル・ハートは人命損失の具体的な数字を明確には挙げていないので、AJPテイラー 『第一次世界大戦』 から補足します。ソンムでの死傷者数は、ヴェルダンでのそれを上回ったようです。

ソンムでの死傷者数、英仏独の合計は100万人以上

7月1日に、イギリス軍は6万人の死傷者、そのうち2万人は戦死。これは、第一次世界大戦中、イギリスの一軍あるいは他の国の一軍がわずか1日で蒙った損害としては、最もひどいもの。
11月13日に最後の攻撃がなされた。戦線突破は一つも見られなかった。前線はあちこちで5マイルほど前進していた。その向こうではドイツ軍の戦線は以前に劣らず強くなった。イギリス軍はおよそ42万人の死傷者を出し、フランス軍は20万人近い死傷者を出した。ドイツ軍はおそらく約45万人を失った。

なお、テイラーは、ドイツ軍の撤退禁止・反攻必死の命令の責任者をファルケンハインであったとしています。

 

ソンムでイギリス軍が投入した新兵器・戦車

画期的な兵器・戦車のイギリス軍による開発

ソンムではあまり活躍できなかった戦車ですが、最終的には西部戦線でドイツを敗北させることに非常に貢献しました。この戦車が、第一次世界大戦中に、いかにして開発されたのかについても、リデル・ハート氏が書いています。

戦車の開発は戦争そのものの歴史上偉大な出来事

戦車という新しい兵器が戦争の様相を全く変えてしまった。従来人間は移動するときには発砲できなかったし、遮蔽物が必要なときには移動できなかった。しかし、1916年9月15日から、ひとつの物体の中に火力と移動と遮蔽の3つの要素が同時に結合された。これは、この世界大戦における英国の頭脳のもっとも意義深い成果であった。「戦車による集団攻撃が…我々の今後の最も危険な敵となった」とは、ルーデンドルフ自身の証言。

大きな破壊力を持っているが移動するのが難しく、防御のための遮蔽も必要、という火砲を、移動できるようにして、小銃や機関銃程度の火力からの防御も与えた、という戦車は、たしかに革命的な新兵器であったと思います。

戦車の開発はトラクターの改良から、チャーチルが支持

最初に思いついたのはアーネスト・スウィントン大佐。フランスで戦線を視察、1914年10月に、行詰り対策として、トラクターのような機械を改良して、小型速射砲を備え弾丸をはね返し塹壕を蹂躙する機関銃破壊物の製作を提案。
これに総司令部もキッチナー陸軍大臣も反応しなかったが、アスキス首相経由で提案を知ったチャーチル(当時海相)が提案を支持。海軍が調査研究を開始し、15年7月までに、陸軍省と海軍本部の合同委員会が本格的に取りかかる。16年2月には、この機械の公開試験を実施、40台(のち150台に変更)の発注が決定。16年夏に乗員の訓練。

陸軍が使用する兵器であるのに、陸軍が冷淡だったので、海軍が研究を開始した、というのは、イギリスらしい良いところでしょうか。昭和前期までの日本の陸軍・海軍なら、それぞれ相手の領域には手出しをせず、せっかくの開発のネタも放置する、という結果になっていたのではなかろうかと思われます。

総司令部、英国陸軍省や参謀本部による戦車の不適切な取り扱い

1916年9月15日のソンムで実戦に投入。軍当局は、戦車開発部門の願いを聞き入れず、戦車の機構が未成熟であり、数も十分でないうちに、働かせることを強硬に主張、戦車の本来の有効性を危険にさらした。
戦車攻撃のための戦区は、戦車の性能とその限界に応じて、慎重に選択する必要があったが、この条件は17年11月のカンブレー攻撃までは考慮されることも守られることもなかった。英国軍需省による新型戦車1000台の発注が、陸軍省によりあっさりと取消されたこともあった。幸いにも、前線で戦車を扱った若干の正規軍人たちが、戦車に正当な試練の場を与えようと努力した。

戦車の開発構想には、フレンチやヘイグといった将軍たちはあまり関心を持たなかったようで、最大の貢献は佐官・尉官級によってなされており、チャーチルやロイド・ジョージらが開発や製造について支援をした、ということであったようです。

 

開発プロジェクトとしての戦車開発

1914年の秋に湧き上がった、しかもそれまで全く存在したことがなかった新兵器の構想が、2年たたないうちに一応実現され、1916年秋のソンムの戦場に実際に投入されるところまできた、というのは、当時の開発プロジェクトとしてはかなり早いスピードであった、と言えるのではないでしょうか。

実際に戦場で使ってみないと必要なカイゼン・改良点は分からない、というのも当然ですので、ソンムでの試験投入は間違いだった、とは断定できないように思います。

戦車が大きな効果を発揮した最初の戦闘はソンムから1年後2ヵ月後のカンブレーであった、というのは、試験投入経験を活かした改良を行い、さらに量産と輸送に必要であった期間を考えると、これもかなり素早かったのではないかと思います。

新技術が理解され活用されるまでには、それが画期的なものであればあるほど、時間がかかることもよくあることです。ただし、その画期的な新技術の提案に当初反応せず、また開発品が登場してからもその新技術の最適な使用法を理解するのに時間がかかった英国の総司令部・陸軍省や参謀本部の人々は、チャーチルやロイド・ジョージに比べてカイゼン志向が乏しく、敵と常に競い合わなければならない組織のリーダーとしては、あまり適切ではなかった、と言えるように思われます。

 

1916年のその他の戦線の状況

ここまでは、1916年の西部・東部両戦線の状況を見てきましたが、ここからは、バルカン半島、イタリア戦線と中東の陸戦の状況を、それぞれ見ていきたいと思います。再び、リデル・ハート氏の著書からの要約です。

バルカン半島、8月、ルーマニアが連合国側で参戦するも、年末までに陥落

ルーマニアは1916年8月27日に参戦、同年12月6日のブカレスト Bucharest 陥落で、同国は事実上の消滅。ロシア軍のブルシーロフ攻勢がルーマニアを刺激して参戦決定。ルーマニアは歩兵の装備悪く、機関銃もわずか、砲兵隊も不十分。国境線がやたらと長い。加えて、ロシア軍・イギリス軍からまちまちの助言。
ドイツ軍の水際立った連携戦略は、新参の敵を片輪にし、ドイツは石油、小麦を産出するルーマニアの広い領域を手に入れた。この会戦の教訓は、人力は機械力ほどの価値はなく、優秀な機械をすぐれた司令官が管理すれば、《巨大部隊》の価値を減少させることができるということ。武器と訓練は単なる人数よりはるかに有効。

下の地図にあります通り、ルーマニアは、北東部はロシアと接していましたが、北部はオーストリア、南部はブルガリアとトルコの同盟国側で挟まれていました。ブルシーロフ攻勢でロシアに余力がなくなると、ルーマニアは支援を得られず、敗戦が避けられない状況になってしまった、と言えそうです。

第一次世界大戦 バルカン半島 1916年 ルーマニアの参戦 地図

 

イタリア国境での死傷者合計は70万人超、イタリア軍側に大きな損害

トレンチノ Trentino 地方におけるオーストリア軍の攻勢が止むと、イタリア軍は予備軍を再びイゾンツォ川へ向かわせた。8月6日攻撃開始。秋になってさらに3回攻撃敢行。オーストリア軍に苦しい緊張を課したという成果はあったものの、攻撃側の方が大きな損害をこうむった。この1年間にイタリア軍の戦死傷者は約48万3000人、敵側は26万。

中東のイギリス軍、1916年中はまだ大きな戦果なし

トルコ軍がエジプトに手出しする恐れから、英国軍はかなりの兵力をエジプトに常駐。しかし、エジプトにおける英国大駐屯軍(ある時期には25万を越えていた)は1916年を通じて行動を起こさず。アラブ系の同盟軍、1916年6月、ヘジャズHejaz地方〔現在のサウジアラビアの紅海沿岸部、メッカ、メジナなどを含む地域〕においてトルコ支配に抗する反乱。これを英国が利用しようとしたが、進撃はなかなかはかどらず。

ルーマニアが連合国軍側で参戦した、という変化はあったものの、それ以外には特に前年と比べ大きな変化はなかったようです。ただし、西部・東部以外のこれらの戦線でも、多数の死傷者が発生したようです。

 

1916年の陸戦の総括

この1年だけで合計数百万人の戦死傷者

ここまで、1916年の陸上の戦いを確認してきました。これを総括してみると、以下のようになるかと思います。

● 西部戦線では、ヴェルダン、ソンムの二つの大きな会戦があり、両陣営合計で160万人以上の戦死傷者を出したが、境界線は、結果的にあまり変化がなかった。

● 東部戦線ではロシアのブルシーロフ攻勢があり、一時期はオーストリア領内侵攻とロシア領の失地回復がなされたものの、結果的にロシア軍の戦力が破滅することとなり、また100万人以上の人命が失われた。

● バルカンでのルーマニアの連合国側での参戦は、その敗退によって、物資補給面で逆にドイツを利することになった。イタリア戦線も膠着状態にあり、合計70万人超の戦死傷者が出た。中東では大きな動きはなかった。

すなわち、ルーマニアを除いては占領地域に大きな変化はなく、まさしく膠着状態にありました。しかし、この1年間だけで数百万人規模の戦死傷者が発生し、まさに大量殺戮の年となりました。なお、兵力損失は、どの戦線でも連合国側の損失が同盟国側を上回っていた、と言えるようです。

1916年にこれだけの大量殺戮が各地で繰り返されたのは、この年に両陣営ともいろいろなカイゼン策を試行はしたものの、犠牲減少に効果の高いカイゼン策の発見・実施には至らなかったため、と言えるように思われます。ただし、ソンムでのイギリス軍による戦車の試験投入は、1917年11月以降の大カイゼンにつながることになります。

 

1916年の個々の戦闘の詳細

以上、1916年の陸上での戦闘の経過を確認して来ました。この年に起こった戦闘のうち、詳細で読みやすい記述があるものについて、下記に整理しておきます。

リデル・ハート 『第一次世界大戦』
● 肉ひき機―ヴェルダン
● ブルシーロフ攻勢
● ソンム攻勢
● 高まる戦車の恐怖(イギリスによる戦車の開発)
● ルーマニア壊滅
● バグダッド占領

歴史群像アーカイブ 『第一次世界大戦』 上
● ヴェルダン要塞攻防戦

歴史群像アーカイブ 『第一次世界大戦』 下
● 戦車誕生
● ソンム大会戦

 

 

次は、1916年の海上の戦いについてです。この年にはユトランド海戦も行われました。