ここから、第一次世界大戦が開戦に至った経緯について、確認をしていきます。
まずは、なぜサラエヴォ Sarajevoでのオーストリア皇太子暗殺事件の発生が、世界大戦勃発の引き金を引くことになってしまったのか、についてです。この段階での主役はオーストリアで、ドイツもまだ脇役に過ぎません。
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サラエヴォ事件 = 局地紛争の勃発
1914年6月28日~7月28日 皇太子暗殺時事件から、セルビアへの宣戦まで
まずは、サラエヴォ事件から、オーストリアによるセルビアへの宣戦布告までの1か月についてです。以下は、リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。
オーストリアには、民族問題の解決で武力に頼る思考法
オーストリアは合併した領土に住むセルビア人らの不満を抑える手段として、武力を用いていた。セルビアという外国へも、早晩同じ対策を施したい気持ちがあった。オーストリアの指導者たちは、国境外の戦争こそが、国内の不和を鎮静させる最善の手段と考えていた。これは彼らに限ったことではない。
オーストリアとセルビアとの関係については、詳細を後で確認しますが、この時点では対立関係にありました。
オーストリアは、皇太子暗殺事件をセルビアへの圧力に利用
1914年6月28日、ボスニアの首都サライェヴォでのフランツ・ヨーゼフ皇帝の後継者フェルディナント大公殺害。若い共謀者の一味は、セルビア政府に敵対するグループから援助を受けていた。
オーストリアの外務大臣ベルヒトールト伯爵 Leopold Berchtold、「セルビアの問題をきっぱりと片付けるときがきた」と宣言。コンラート参謀総長 Franz Conrad、「まずドイツに、われわれをロシアの攻撃から守ってくれるつもりかどうか、問わねばなりません」。カイザーは7月5日に、オーストリアは「ドイツの完全な援助に依存することができる」旨の確約。
オーストリア政府の指導者たちは、この事件を利用して、対セルビアに武力発動をしようと考えたようです。
7月23日、オーストリアはセルビアに、武力行使を意図して最後通牒
ドイツのあと押しを確信したベルヒトールト、セルビアに対して相手がとても飲むことのできない最後通牒。起草された最後通牒に老皇帝ヨーゼフは、「ロシアは受け入れることはできまい…全面戦争にほかならぬ」。
最後通牒は7月23日、セルビア政府に送られた。2日後のセルビアの回答に、オーストリアは外交関係を断絶。実は、国の独立を決定的に犯す2点を除いては、オーストリアの要求をすべて受け入れていた。カイザーは、「私ならこんなことでかさにかかって動員令を出すことなどしなかっただろう」。
この時点のオーストリア政府内では、対セルビア武力発動が目的化してしまっていた、ように思われます。
イギリス外相グレイの仲裁努力を、ドイツは迅速には受け入れず
7月25・26日の両日、グレイ Sir Edward Grey はドイツ、英国、フランス、イタリアによる合同仲介と、オーストリア、ロシア、セルビアの軍事行動停止を申し入れ。これをベルリンはいったん拒否、27日遅くになってグレイ提案をウィーンに回すことに決めた。
オーストリアとセルビアとの戦争回避に向けて、イギリスが動いたものの、ドイツはオーストリアの同盟国であり、反応は鈍かった、という状況です。
7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦、ロシアからの直接交渉申し入れも拒否
しかし、28日午前11時、オーストリアの宣戦布告電報がセルビアに届いた。そして同日、ベルヒトールトはロシア外相サゾーノフの直接交渉の提案を、宣戦布告がたった今なされたことを理由に拒否した。
オーストリアの外相と参謀総長は、ぐずぐずしているとドイツの支援と戦いの機会を失うことを恐れた。宣戦布告に皇帝の署名を得るにあたっては、セルビア軍隊がオーストリア軍隊を攻撃したことは事実であると言いたてた。
このリデル・ハート氏の記述を読むと、オーストリアは、セルビアへの最後通牒が、セルビアを支援するロシアとの全面戦争を招くリスクを十分に認識しながらも、セルビアへの武力発動にこだわっていたかのように思われます。
戦争をしたくない皇帝の意向に反して、外相らが開戦の方向に引っ張っていった、というのは、この時点から20年前、1894年の日清戦争の開戦にそっくりな状況でした。(「カイゼン視点から見る日清戦争 3c 朝鮮出兵と開戦決定」・「同 3d 朝鮮王宮襲撃事件」をご覧ください。)
オーストリアのセルビアへの最後通牒
オーストリアからセルビアに、実は、10ヵ月間で2回目の最後通牒
オーストリアは、本当にセルビアへの武力発動にこだわっていたのかについて、他書からの補足です。
実は、この1914年7月のオーストリアからセルビアへの最後通牒は、10ヵ月間で2回目の最後通牒でした。オーストリアとセルビアとの対立には長い歴史があったこと、前回の最後通牒では戦争には至らなかったことについて、以下は、馬場優 『オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争』からの要約です。
1903年までは、オーストリアとセルビアとの関係は悪くはなかった
オスマン帝国から1830年代初頭に自治権を獲得していたセルビアは、1877年の露土戦争の結果、正式に独立、またハプスブルク帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナとその南東に位置するノヴィ・パザールの管理権・軍隊駐屯権を獲得。セルビアは、1903年までは、軍事同盟や通商協定などによってハプスブルク帝国の従属国的立場。しかし1903年にセルビアの王朝が交代、両国の関係は対立的に。
1906年の経済紛争と1908年のオーストリアのボスニア併合で、関係は悪化
1906年、セルビアが軍需品の発注をハプスブルク帝国の会社からフランスの会社に変更したことで、対立が発生。ハプスブルク帝国は対抗措置として経済制裁、セルビアからの家畜の輸入を全面禁止、「豚戦争」。
オスマン帝国では、1908年6月に青年トルコ党革命、議会制の導入、ボスニア・ヘルツェゴヴィナからの代表にも議席。対応として、ハプスブルク帝国は、ノヴィ・パザールでの軍の駐留権放棄を代償にボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を決定。ナショナリズムを背景に同州を併合しようとしていたセルビアとの対立的関係はさらに悪化。セルビアが主導する南スラヴ運動は加速。セルビアは、ロシアとの軍事的・政治的つながりを強化。
経済制裁後、セルビアはオスマン帝国やロシア、西欧各国、ドイツなどに新市場を開拓、セルビアの輸出に占めるハプスブルク帝国の比率は、1906年の経済制裁以前は80~90%、1910年には30%にまで低下。脅迫でセルビアを屈服させようとするハプスブルク帝国の政策は、イギリスやフランスの共感をまったく獲得できず、ロシアとの了解にも重大な悪影響。
経済紛争が出発点となって、関係が悪化したようです。
1912~13年のバルカン戦争で、セルビアは領土拡大、オーストリアの脅威に
バルカン戦争、第1次(1912年10月~1913年5月)と第2次(1913年6月~1913年8月)。ハプスブルク帝国の敵であるセルビアは戦勝国となり、領土を2倍にすることに成功。
ハプスブルク帝国の政策決定者は、帝国内の南スラヴ運動を焚きつけるセルビアの領土拡大を危惧しただけでなく、帝国内の南スラヴ人がバルカン半島で躍進するセルビアに魅力を抱き、それによって帝国の一体性が崩壊することをも危惧。
バルカン戦争は、セルビアほかバルカン諸国(バルカン同盟)とオスマン帝国との間の戦争。バルカン同盟にはロシアが支援を行っていたとのことです。
1913年8月以降、セルビアのアルバニアからの撤兵問題
1913年4月、ロンドン大使会議はアルバニア東北部および北部の国境線の大枠を決定、アルバニアに軍を駐留させていたセルビアに対して撤退を要請。8月17日、ハプスブルク帝国、ドイツ、イタリア、イギリス、フランス、ロシアの6大国は、セルビア政府に共同抗議書を手交。しかしセルビア軍は8月末になっても撤退せず。
その後は6大国の足並みがそろわず、特にロシアはセルビア支持を鮮明に。そのため再度の共同抗議は実現せず、10月1日、ハプスブルク帝国はセルビアへ単独抗議。しかし、アルバニアとセルビアの国境線では依然として混乱状態が継続。
バルカン戦争後、国際合意に反して、セルビアはアルバニアに駐兵させたまま、という状況が生じます。
1913年「10月危機」、最後通牒にセルビアは屈服
ハプスブルク帝国は、セルビア政府に10月15日にも抗議書。さらに10月18日、期限付き抗議書、実質的な最後通牒。8日間の期限設定。これには、ドイツですら、驚きを隠せない状況。他の大国からは、事前協議なし、8日間の期限は短い、高圧的、などの点に抗議はあったが、セルビアは撤退を決定。
アルバニア駐兵問題で、オーストリアはセルビアに最後通牒。セルビアは撤退しました。
オーストリアとセルビアには10年越しの対立関係があり、またセルビア主導の南スラヴ運動がオーストリア国内の民族問題に影響を与えてきたため、オーストリアは常にセルビアを牽制しようとしてきました。
しかし、セルビアはオーストリアと協調しようとせず、それどころか1913年のアルバニアからの撤兵問題では、列国会議での決定事項すら尊重せず、このため、オーストリアはセルビアに最後通牒を送りつけるという圧力をかけて撤兵させた、という経緯があったわけです。
1913年10月と1914年7月、2つの最後通牒の相違点
10ヵ月間に2回目の最後通牒ですが、前回はオーストリアとセルビアとの軍事衝突には至らずに、解決しています。なぜ、実際の軍事衝突まで発展しなかったのでしょうか。前回の「10月危機」での最後通牒の特色について、再び、馬場優 『オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争』 からの要約です。
「10月危機」で、大国の姿勢は戦争回避、ドイツはイギリスに支持要請
ドイツは、セルビアが譲歩しない場合にはハプスブルク帝国が軍事介入することを確信、イギリスの支持をとりつけることに尽力。イギリス側はそれを受けて、セルビアにロンドン大使会議の決議と軍隊の即時撤退を遵守するよう要請。ロシアもフランスも戦争を欲せず、セルビアのための弁護を行わず。
独・英・露・仏の主要4カ国が、国際合意の遵守で一致しました。
「10月危機」では、フランス・ロシアはセルビアに財政的圧力
戦費調達などにより財政が悪化していたセルビア。パリで調達した資金が軍事費に使われることを懸念していたフランス政府は、セルビアに対し国境問題の鎮静化までは上場させないことを、銀行団を通じて表明。パリを訪問していたロシア外相とフランス外相が協力して、パリ駐在セルビア公使にアルバニア領のセルビア軍の撤退を勧告。その代償として、フランスはセルビア公債(2億フラン)の上場に応じることにした。
さらに、仏・露はセルビアに、財政的圧力も加えました。
「10月危機」では、オーストリアの主張に大義名分
ハプスブルク帝国は、まず6大国の共同歩調による問題の解決をめざした。共同抗議、そして単独抗議にも失敗したハプスブルク帝国としては、事実上の最後通牒をとるしか方法はなかった。ハプスブルク帝国は、この「事実上の最後通牒」の手交に関して、「ロンドン大使会議の決議の遵守」という大義名分を持っていた。それゆえに、イギリス、フランス、ロシアの国々も、その行動の目的については承認せざるを得なかった。
大戦前年の「10月危機」の場合、オーストリアの高圧的なやり方に列国は不満があったものの、オーストリアの主張には大義名分があり、オーストリアを支持せざるを得ず、イギリス・フランス・ロシアまでそろってセルビアに圧力をかけ、撤兵させたわけです。軍事行動を発動せずに目的を達成できた、という点で「機能した最後通牒」と言えます。
1914年7月23日の最後通牒は、セルビアに対して厳しい条件
これと比べると、1914年「7月危機」の最後通牒は、次の点に特徴があった、と言えるのではないでしょうか。
● 「10月危機」のときの回答期限は8日間だったが、「7月危機」ではわずか2日間しかなかった。
● 「10月危機」では、セルビアは撤兵だけが求められたが、「7月危機」では、「相手がとても飲むことのできない」、独立国の主権にかかわる要求まで入れていた。
● 「10月危機」では「列国の決議の遵守」という大義名分に列国は縛られた。「7月危機」での「皇太子暗殺」は、確かに事件ではあったが、列国が縛られるような大義名分ではなかった。
10ヵ月前の最後通牒と比べて見ますと、明らかに意図的に、列国が介入できる時間を与えないように期限を設定し、セルビアが全条件の受諾が出来ないように最後通牒の条件を設定している、と解釈するのが合理的のように思われます。
つまり、10ヵ月前とは異なり、1914年7月のオーストリアは、リデル・ハート氏が記している通り、セルビアへの武力発動に実際にこだわっていて、問題解決のためではなく、対セルビア戦争を始めるために最後通牒を送った、と考えられます。
10ヵ月前にはオーストリアが武力発動する事態とならないように、介入をイギリスに働きかけたドイツも、今回は逆にイギリスからの仲介提案をいったん拒否して、オーストリアが実際に武力発動するのを、むしろ助けています。
馬場優 『オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争』 には、「ハプスブルク帝国研究の立場は、第一次世界大戦のハプスブルク帝国によるセルビアへの宣戦布告を、第3次バルカン戦争の勃発とみる向きが多い」とも記されています。また、同書によれば、オーストリアは、宣戦布告の「翌29日、首都ベオグラードに対してドナウ川の砲艦から砲撃を開始した」とのことで、実際に直ちに戦争を開始したわけです。
7月25日には、イギリスは、局地戦限定は不可能の見方
オーストリアとセルビアとの間の紛争は、外交交渉だけでは決着せず、武力発動が避けられない事態となったところまで確認してきました。では、オーストリア対セルビアの戦争は、局地戦に限定できなかったのでしょうか。欧州各国を巻き込む大戦争に発展するのを防止できなかったのでしょうか。
以下は、ジェームズ・ジョル 『第一次世界大戦の起原』 からの要約です。イギリスのグレイ外相は、早くもセルビアが最後通牒の全面受諾をしなかった段階で、この紛争が2国間の局地紛争では済まなくなり、ドイツ・ロシア・フランスを巻きこんだ大戦争となる可能性が高いと見ていたようです。
オーストリア・ドイツの瀬戸際外交の失敗
ドイツおよびオーストリアの両政府は、オーストリアのより断固とした行動、ドイツのより強固なオーストリア支援を示せば、ロシア介入の可能性は減少するものとも信じていた。7月23日につづく数日間のうちに明らかになった点は、ベルリンやウィーンの人々の楽観が、根底から誤っていたこと。
独墺側は、強く出ればロシアは手を引く、と期待していたようです。
イギリスは、仲介努力はするも、戦争の局地化は困難と推察
7月24日になると、イギリス政府も情勢を重大視。グレイ外相は翌25日から、「セルビアと直接利害関係をもたぬ英・独・仏・伊が協同して平和への道を探るため、ウィーンとペテルブルグの双方で同時に活動を開始」。グレイが独・仏の両大使に申入れたとき、セルビア対オーストリアの戦争はもはや局地化できまいと、彼はすでに推察。7月27日、グレイは、フランスがドイツに攻撃された場合のイギリス参戦問題を、内閣にはじめて提起。
一方イギリスは、この時点ですでに、セルビア対オーストリアの戦争は、露・独だけでなく、仏まで巻き込む事態を想定していました。
カイゼン視点から見るオーストリアの誤り
オーストリアは、課題遂行のための方策選定が不適切だった
上記の流れについて、カイゼン視点から見てみると、いろいろ気がつくことがあります。最大のポイントは、オーストリアが自国の課題達成に選んだ方策が適切だったとは言えない、という点です。
オーストリアが達成しようとした本質的な課題は、セルビアに対し、オーストリアとの力関係を認めさせることであった、と言えるように思います。通常は、課題の達成についてまずは目標値を設定し、次にその目標値を達成するために最も適切と思われる方策を選択します。本来、オーストリアは、セルビアに力関係を認めさせるという課題について、まずはどの程度まで認めさせることができれば目標達成と言えるかを十分に議論する必要があり、次に、それを認めさせるにはどういう方策が妥当かを検討する、というのが適切なステップでした。
目標値の設定次第で、採用すべき方策は変わります。たとえば、1万円だけ稼げばよいという目標値と、1000万円稼がなければならない目標値では、当然ながらその方策も達成に必要な期間も、全く変わってくるわけです。検討の結果、目標値そのものが無理とわかれば、目標値を引き下げる必要も出てきます。ところが、このときのオーストリアは、目標値の設定よりも、課題達成の方策としての武力発動を優先してしまいました。
必ず武力発動策が発動可能となるよう、相手が受諾出来るはずがない、列国からも支持が得られにくい要求値を設定したわけです。手段であるはずの武力発動が目的化してしまい、本末転倒になって失敗した、と言わざるを得ないように思われます。
この結果、ロシアからの軍事介入リスクが現実化することになりました。対セルビアの武力発動は、ロシアからの干渉をひき起こす可能性が高い、ロシアとの戦争に発展するリスクは小さくない、という認識がオーストリア皇帝にはあったのにかかわらず、です。
オーストリアは、願望思考で、リスクを捨象してしまった
オーストリアの次の誤りは、ロシアの介入リスクに対する明らかな判断の誤りです。皇帝にも指摘された通り、セルビアへの武力発動は、ロシアからの軍事介入を招く、高いリスクがありました。これに対し、「オーストリアのより断固とした行動、ドイツのより強固なオーストリア支援を示せば、ロシア介入の可能性は減少するものとも信じていた」というのは、願望思考に基づいて判断を決めてしまった、と言わざるを得ません。
ドイツもこのリスクを低く見ていたようであり、その理由について、以下は、ベッケール&クルマイヒ 『仏独共同通史第一次世界大戦』 からの要約です。
君主国ロシアは、皇太子暗殺のテロリスト懲罰は黙認するはず、との思い込み
ロシアは、君主制国家としての連帯感から、オーストリア=ハンガリーが、セルビア政府に使嗾されたと考えられたサラエボの「テロリストたち」を懲罰することは黙認するであろう、というのが一般的な見方。しかし、もしロシアがセルビアを支持するためにあえて戦争の危険を冒すようであれば、それこそがロシアの攻撃性の証明であり、そのことがドイツの開戦決定を正当化する。
英語には wishful thinking という言葉があります。「自分が望んでいることが現実的ではないとしても、望んでいる通りのことが起こる、と信じること」を言います。「こうなってほしい」という願望があるとき、「こうなるはずである」という判断にすり替わってしまうことです。このときのオーストリアは、まさしく wishful thinking に基づいて判断をしていたと言わざるを得ません。「希望的観測」と訳されていることが多いのですが、「願望思考」と訳すのが適切、と感じています。
物事は自分の願望通りには進まないものである、ということを良くわかっている人であれば、たとえ願望通りに進む前提で考えている場合でも、同時に、願望通りには進まず最悪のシナリオが現実化してしまった場合の対応策も検討していて、実際にそうなったときにすぐ手が打てるようにしています。このときのオーストリアは、そうしたリスク対策を全くとっておらず、結果的に開戦後すぐにロシアに攻め込まれてしまいました。
オーストリアは、列国の理解と支持を得る努力を行わなかった
10ヵ月前の最後通牒では、オーストリアの要求が達成されました。すでに見たように、それが成功した理由は、列国がオーストリアの主張について大義名分を認め、ロシアも含めて列国がセルビアに介入したからです。外交関係では2国間の交渉ごとであっても、自国の主張について列国の理解と支持を得るのが重要であることを10か月前に経験していながら、今度はそれに反する行動をとってしまったわけです。
10ヵ月前の経験では、列国の意見の微妙な相違から、セルビアへの再度の共同抗議の実施は難航しました。しかし、最終的には列国の支持があったおかげで、最後通牒が機能したわけです。今回も、前回同様、対セルビア要求の内容を、列国から支持を得られる水準に設定することが、最も妥当な方策であったと思います。
上掲の馬場優 『オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争』 は、ベルヒトルトは1912年に共通外相に就任したときは「ヨーロッパ協調の帰依者」であったが、わずか2年でその立場を大きく変えていった、としています。共同抗議の実施が難航したといっても、最終的には列国の支持があったからこそ目的が達成できたわけであり、列国からの最大の支持の確保を求めて、あきらめずに全力を尽くすことが、外相というは職務には必然的に求められていたと思うのですが。
オーストリアは、ロシアと交渉を行った方が、得をした可能性が高い
オーストリアがロシアとの交渉を全く行おうとはせず、さらにはロシアからの直接交渉の申し入れを拒否してしまったことは、事態をオーストリア対セルビアの局地戦では済まなくしてしまう、最初の重要なきっかけになった、と言わざるを得ないように思います。
ロシアとの直接交渉では、オーストリア側の要求値の引下げを飲まされる可能性はあったでしょうが、合意事項をセルビアに確実に果たさせる機会にできた可能性も高く、オーストリア側もメリットを引き出せたのではないでしょうか。
また、宣戦布告の目的が戦争突入以外の手段で達成できるなら、莫大な経費の発生を回避できるだけでなく、戦争につきものの不測の事態の発生も防止できたはずです。ロシアとの直接交渉の結果で宣戦布告を撤回したとしても、きわめて合理的と言えます。
いずれにせよ、オーストリアが、武力発動自体を目的化していなかったなら、あるいはセルビアへの要求値を列国から支持を得られるレベルに設定していれば、第一次世界大戦は、少なくとも1914年8月には勃発していなかった、と言えるように思われます。
こうして、オーストリアとセルビアとの戦争の開始は不可避となりましたが、次は、それが局地戦争に限定できず欧州大戦に発展してしまったのは、なぜであったのか、についてです。