5a 戦争より非戦が得

 

第一次世界大戦では、敗戦国と戦勝国どちらにとっても、戦争の厳しい結末が明らかになりました。すなわち、敗戦国では帝国が解体され、植民地はもとより固有領土も奪われました。戦勝国も、得られたものは戦争の巨費と膨大な人命の犠牲に全く引き合わない、という結果になりました。(「第一次世界大戦の総括 3d 主要各国の得失」のページを参照ください。)

では、第一次世界大戦で世界のどの国も大損をしたのかといえば、そうではなく、逆に大儲けをした国もありました。アメリカと日本です。両国とも、勝った側の連合国に加わって多少の交戦はしましたが、主要交戦国とはなっていません。主要交戦国とはならず、むしろ膨大な資源を消費している主要交戦国への物資供給者となるのが、最も経済的利益が大きく、国際的な地位の向上にもつながることを、日本自身も経験したわけです。

ところが、日本は第一次世界大戦後も、戦争の交戦国となって勝てば儲かる、「戦争ビジネスモデル」は成り立つ、という日清戦争以来の幻想を持ち続けて、昭和前期の大失策に至りました。ここでは、戦争が参戦国と非参戦国に与えた経済効果、そしてなぜ大儲けの経験をした日本はビジネスモデルの切り替えをしなかったのかについて、確認をしていきたいと思います。

 

 

第一次世界大戦で大儲けした日本

主要参戦国とならなかったことで、5割増の経済成長

日本は、第一次世界大戦に参戦したとはいうものの、実際の軍事行動は、陸軍による青島攻略戦や海軍による南洋諸島占領など、ごく限定的な作戦遂行にとどまり、またシベリア出兵は最末期から休戦後の行動でした。その点で、イギリスやフランス、ロシアなどの主要参戦国とは大きく異なり、たいして戦争をしていない状況にありました。

1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると、日本の経済は急成長、日本の実質国民総生産は、第一次世界大戦期の7年間のうちに、1914年の80億円から1921(大正10)年の120億円へと、5割増の経済成長を成し遂げた、ということは、すでに「4 日本の第一次世界大戦 4a 当時の日本経済」のページでで確認したとおりです。

 

大戦中は、万年赤字の貿易収支が、最大5億円超の大幅黒字に

下のグラフは、安藤良雄編 『近代日本経済史要覧』 中のデータを筆者がグラフ化したもので、1912年から1920年までの期間の日本の貿易収支と正貨保有高の推移です。ほぼ慢性的に赤字であった当時の日本の貿易収支ですが、1915年から1918年の4年間に限っては、巨額の黒字が出ていたことが分ります。この間の好景気を反映して、正貨保有高も急増しました。

日本の貿易収支 1912-1920日本の正貨保有高 1912-1920

大戦直前の1910~14年の期間は、日露戦争の戦費調達を外債に頼ったことが原因で、外債の元利払いが大きな財政負担となっていた上に、経済規模に対して大きな軍事費支出も行っていて、国家の財政は危機状態にあり、景気も低迷していました。

しかし、第一次世界大戦期には、対照的な好景気が経験されたわけです。

 

大戦景気で多くの成金

第一次世界大戦期の日本の景気がいかにすごいものであったかについて、今井清一 『大正デモクラシー (日本の歴史23)』 からの要約です。

大戦景気

大正4(1915)年の中ごろになると、日本経済は輸出の増加をきっかけに好況に転じた。この年の春ごろからロシアとイギリスにたいする軍需品の輸出がふえはじめ、下半期になると軍需品の輸出がますます増加したうえ、大戦景気で好況を迎えたアメリカに向けて生糸などの輸出が激増した。
戦争でとだえたヨーロッパ諸国の商品にかわって日本の商品が、中国はもちろんインド・東南アジアや遠くオーストラリア・南米諸国にも進出するようになった。日露戦争以降、入超続きであった日本の貿易は、一挙に輸出超過に転じた。

ほうぼうで成金が出現

未曾有の戦争景気の到来は、成金をぞくぞくと出現させた。日露戦争後の成金は一部の株屋だけであったが、第一次大戦のほうは、景気の規模が大きいだけに、成金の規模もけたはずれに大きかった。
成金の出現も、戦争景気の移りかわりを反映して、染料・薬品成金から鉄成金・紙成金・糸成金、株成金などとつづいたが、なかでも成金の横綱は、鉱山と船と貿易であった。鉱山成金を代表するのは、日立鉱山の久原房乃助。船成金は山下亀三郎・勝田銀次郎・内田信也。貿易では鈴木商店。

1920年になって戦後恐慌

大正7(1918)年11月に第一次大戦の休戦が実現すると、すぐに景気の反動が起こったものの、翌年3、4月ごろには、欧州復興のための物資の需要が増大してアメリカの好況も継続、大戦中を上回る戦後景気が訪れ、戦後恐慌が始まったのは、大正9(1920)年3月。

戦後には、欧州列国からの軍需品需要や欧州列国からアジアへの商品供給の途絶という、戦時下に限って存在した条件が失われたわけですから、輸出需要が減退したことはやむをえないことでした。ともあれ、大戦景気のおかげで、日本の経済規模が短期間に大拡張できたわけです。

 

第一次世界大戦期の急成長を経ても、日本はまだまだ農業国

第一次世界大戦期間中に、日本経済は著しい急成長を成し遂げましたが、それでも日本はまだまだ農業国でした。以下は、石井寛治 『帝国主義日本の対外戦略』 からの要約です。

1910年代、著しい産業発展はあっても、依然、農林水産業の比重が上

1910年代を通ずる日本の産業構造の変化、産業部門ごとの純国内生産(賃金+利潤)で見ると、いずれの部門でも名目額で4倍前後伸びている中で、とくに運輸通信公益事業が4.6倍、鉱工業が4.3倍と大きく発展、農林水産業3.6倍。それでも鉱工業の比重が農林水産業のそれを上回るには至らず。鉱工業の中では、重化学工業(金属・機械・化学)が急増して食料品工業を抜いてトップの繊維工業に肉薄。
1920年当時の日本の粗鋼生産は、アメリカの50分の1、イギリスの10分の1という経済小国。軍備拡張を進めようとすればするほど、仮想敵国のアメリカからの工作機械の輸入にますます依存。
日本の紡績機械工業は、大戦前には機械修理を行い、準備工程の混打綿機など簡単なものを制作するのがやっと、全プラントの国産化は困難。国産紡績機械の全プラント化が完成するのは1922年ごろ。豊田自動織機、1926年3月完成。

重化学工業が急成長したものの、まだ繊維工業は抜けず、さらに鉱工業が農林水産業を抜けなかった、ということですから、依然中進国レベルを脱していなかった、と言えるようです。自動車の国産化ができていなかったのも当然でした。

 

「戦争は儲かる」という日清戦争以来の誤解を正しそこねた日本

大戦前、日露戦争の戦費負担の後始末で財政危機となっていたことと、大戦後は未曾有の好景気になったことを見比べれば、「戦争は自らするより他国にしてもらって、自国は戦争をしている他国に物を売って儲けるのが一番だ」という結論が共通認識化されていても良かったのですが、そうはならなかったようです。

 

日清戦争から第一次世界大戦までの各戦争の結果

日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦の結果を並べてみると、以下のように整理できるかと思います。

日清戦争(1894~1895)

● 領土・利権等: 台湾の獲得
● 償金: 2億円(使った戦費より多額の賠償金を獲得)
→ 戦争は儲かるもの(=「戦争ビジネスモデル」)という誤解が形成された

日清戦争での「戦争ビジネスモデル幻想の成立」について、詳しくは「カイゼン視点から見る日清戦争」をご覧ください。

日露戦争(1904~1905)

● 領土・利権等: 南樺太の獲得、関東州の租借獲得、南満州鉄道の利権獲得、朝鮮の保護国化
● 賠償金:なし
→ 領土・利権は獲得したが賠償金はなく、戦費調達に行った借款の返済で、以後の財政に重圧

第一次世界大戦(1914~1918)

● 領土・利権等: 赤道以南の南洋諸島の信託統治の獲得、南満州利権の継続拡大
● 賠償金:なし
→ この戦争でも領土・利権を獲得、一方、主要参戦国とならなかったおかげで経済大拡張

 

第一次世界大戦では、「戦争は儲かる」という誤解を正し損ねた

10年ごとの3度の大戦争のうち、最初の日清戦争では、領土・利権も獲得し賠償金も取れて、確かに「戦争で儲かった」と言えます。

次の日露戦争では、賠償金を取れず、借金で戦費調達して領土と利権を獲得した形、つまりは、領土と利権を借金して買った、というに等しい結果となりました。その借金の返済は、その後の経済に大きな負担をかけ、他方財政が厳しいため満州の開発も進みませんでした。客観的に見れば、日露戦争後には「戦争ビジネスモデル」は疑われてよい状況となりました。

ところが、第一次世界大戦では、たまたまですが、領土も利権も獲得・経済も大拡張、という結果になりました。その結果、「戦争ビジネスモデル」の誤解が正されずに維持されてしまい、国家の軍事費支出の削減がほとんどできないという結果を生じして待ったのではないか、と推定します。

第一次世界大戦での日本には、最小限度の参戦で領土・利権を獲得、また主要参戦国とならなかったおかげで経済大拡張、という二つの特殊な条件が重なりました。通常はありえない余りにも特殊な条件であり、再現を期待してはいけない、と理解されるのが適切だったのですが。

第一次世界大戦後の欧州では、戦勝国でも戦争の結果に苦しんでいることに気づけば、「戦争ビジネスモデル」は成り立たないことが十分に理解されたはずだと思うのですが、そうならなかったことは、誠に残念なことであったと思います。

 

とりわけ、戦争=栄達の仕組みが維持された日本陸海軍

第一次世界大戦でも、多数の陸海軍の将官が「爵位」を得た

日清・日露など、戦争で功績のあった陸海軍の将官は、爵位を得て華族に列せられるという慣例は、第一次世界大戦時にも継続しました。小田部雄二 『華族』 の末尾に付された「華族一覧」によれば、「第一次世界大戦の功」によって叙爵した軍関係者には、下記がいました。

叙爵・陞爵の功績に、「第一次大戦の功」が挙げられている陸海軍人

● 1916年7月叙爵・陞爵
岡市之助 男爵: 陸軍中将 <第一次世界大戦参戦・青島攻略戦時、陸軍大臣>
長谷川好道 子→伯爵: 陸軍大将 <同、参謀総長>
神尾光臣 男爵: 陸軍大将 <青島攻略戦を実行した第18師団長>
八代六郎 男爵: 海軍中将 <第一次世界大戦参戦・青島攻略戦時、海軍大臣>
島村速雄 男爵: 海軍大将 <同、軍令部長>
加藤定吉 男爵: 海軍中将 <青島攻略戦に参加した第二艦隊司令長官>
● 1920年9月叙爵
田中義一 男爵: 陸軍中将 <1918年9月~、陸軍大臣>
加藤友三郎 男爵: 海軍大将 <1915年8月~、海軍大臣>
● 1920年12月~1923年10月叙爵
大谷喜久蔵 男爵: 陸軍大将 <青島守備軍司令官、浦潮派遣軍司令官>
上原勇作 男→子爵: 陸軍大将 <1915年12月~、参謀総長>
大井成元 男爵: 陸軍大将 <浦潮派遣軍司令官>
内山小二郎 男爵: 陸軍大将 <第一次大戦期の侍従武官長>
立花小一郎 男爵: 陸軍大将 <浦潮派遣軍司令官>

陸海軍人に対する叙爵そのものは、きわめて大きな戦功に対する当時の表彰の手段として、著しく不適切であったとは思いません。しかし、第一次世界大戦程度の戦功で、ここまで叙爵・陞爵を行ったことは、カイゼン視点から見ると不適当な影響が生じる可能性が懸念され、適切であったようには思えません。何しろ、第一次大戦の功による軍人への叙爵・陞爵は、上記のリストの通り全部で13人もいました。

上記のリストの中身を見て気づくことは、青島攻略戦関係だけで6人もいて、しかも陸海軍から各3人と、陸海軍間のバランスが優先考慮されているようです。なお、海軍については、陸軍支援に過ぎなかった青島攻略戦が対象で、南洋諸島占領が対象とされなかった点は、実際の功績に比べ大きくバランスを欠いているようにも思われます。

 

第一次世界大戦では、失敗した作戦でも、軍人は授爵された

上のリストで、とくに違和感を感じるのは、田中義一以下の対象者です。明らかに失敗であったシベリア出兵の関係者が多数です。出兵実施の責任を負うべき参謀総長の上原勇作や参謀次長→陸軍大臣の田中義一、あるいは現地軍司令官の3人までが対象になっているのは、信賞必罰の原則に合わないように思われます。

なお、政治家であるために上記のリストには入れていませんが、参戦時の外務大臣であった加藤高明にも、1916年7月に「第一次大戦の功」により男→子爵への陞爵が行われています。対華21ヵ条要求の失敗後でしたから、やはり陞爵の対象外とするのが適切であったように思われます。

松下芳男 『日本軍閥興亡史』 も、「シベリア出兵は絶対に負けない戦争であって、軍人がこれに参加することは、『戦歴』 を記入し、『戦功』 を表示し、『勲章』 や 『爵位』 を獲得するためのようなものであった」と指摘しています。「負けない戦争」でも作戦は失敗しましたが、「爵位」が獲得できてしまいました。

日清・日露の両戦争以来、軍人幹部にとっては、師団長級・司令長官級以上に出世して大きな戦功をあげれば、叙爵の栄典が得られる、ということは常識であったと思います。しかし、第一次世界大戦時の栄典の乱発・信賞必罰の不実施は、少なくとも一部の軍人幹部に、不適切な心証を抱かせた可能性があるように思われます。

高位の地位に居るときに戦争を起こして自らがそれに参加できれば、たとえ作戦自体は成功しなくても、軍人として叙爵の栄典にもあずかって華族になれる可能性がある、栄誉を得たければ戦争を起こすことである、という心証が、一部の軍人に抱かれた可能性があり、結果的に国家の方向性を歪めることにつながった、と言えるように思われるのですが、いかがでしょうか。仮説であって、具体的な検証が必要ですが。

 

「戦争はしないほうが儲かる」という意識が浸透した、敗戦後の朝鮮戦争

ついでに言えば、戦争はしないほうがよい、という意識が日本に浸透したのは、昭和の敗戦後、1950~53年の朝鮮戦争による特需で経済復興を果たした時からであった、と思われます。

筆者は敗戦後の1952年生まれ、父母は1916年~20年生まれ、父親は体が弱く丙種合格だったため、日中戦争~大東亜・太平洋戦争で戦地には行かなかったものの、徴用や内地での教育召集は経験していますし、兄弟・親類・同級生などで戦死者が多数出ています。

父母やその同世代の人たちは、戦争・敗戦と朝鮮戦争での経済復興を経験したおかげで、「戦争は、日本がやってはいけないが、近くで他国が戦争してくれると日本が潤う、朝鮮戦争で日本は息を吹返した」としばしば語っていたことを、はっきりと覚えています。

戦争はしないほうが儲かる、という意識は、昭和の敗戦とその後の朝鮮戦争による経済復興を経験した日本人には、強固な共通認識となりました。これが第一次世界大戦戦勝後の日本人と、第ニ次世界大戦敗戦後の日本人との最大の差であったかもしれません。

この世代からの日本国憲法第9条への支持の背景には、激烈な敗戦経験だけでなく朝鮮戦争時の経験もあり、「戦争はしないほうが儲かる」という意識もあったように思っているのですが、いかがでしょうか。

 

次は、戦争はしないほうが儲かるものの、戦争をする場合には、経済力戦になってしまうこと、第一次世界大戦の最重要キーワードは、「総力戦」ではなく「経済力戦」であったことについて、です。