1917年前半の西部戦線では、ドイツ軍はヒンデンブルク線に撤退して守備固めを行い、連合軍側は4月の攻勢で相変わらずの大量消耗を発生させた結果、フランス軍内に反乱が生じて、立て直しが必要となりました。
ここでは、この年の後半の西部戦線、第3次イープル戦とカンブレー戦を確認していきます。
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7~11月、イギリス軍による第3次イープル戦 (パーサンダーラ)
泥まみれの戦闘地域の特性に合わせたカイゼンがなく、失敗に終わったイギリス軍
軍内の反乱の結果、フランス軍が大攻勢を避けたため、この年後半の西部戦線での攻勢は、イギリス軍が主役になりました。ますは、イギリス軍の大失敗となった第3次イープル戦(パーサンダーラ戦)について、リデル・ハート 『第一次世界大戦』 からの要約です。
イギリス軍は、ドイツ軍を手一杯にさせておくことを目的に攻勢を継続
さしあたって英国軍が戦闘の矢面に。ヘイグはベルギーで攻勢に出るという当初の作戦を実施することによって、ドイツを手一杯にさせておくことに。その原則は間違っていなくても、その方法と場所の選定は歴史のあらゆる経験にもとるもの。
第3次イープル戦、6月の奇襲は成功したが、ドイツ軍がすぐれた対策
最初の着手はイープルの〔ドイツ側〕突出部を解消するため、〔イープル南方〕メッシーネ山地 Messines ridge に攻撃をかけること、6月7日実施、奇襲達成。
しかし、主要進撃の準備にほぼ2か月、この期間にドイツ軍は十分警戒して対抗措置。英国軍の攻勢方法と違って水浸しの作戦地域によく合ったもの。相互に連絡のない拠点とコンクリートのトーチカを広範囲にバラまき、可能な限り多くの機関銃、前哨陣地は簡単に敵に占領されるが、予備軍が後方に結集してたちまち反撃に転じ、追い出してしまうというもの。
イープルの主要攻撃、雨と泥でほとんど前進できず
ようやく7月31日からイープルの主要攻撃、豪雨のためにはかばかしく進展せず、そのうえこの地域の入り組んだ排水設備をみずから破壊。
9月後半の攻撃はまずまずの成功。9月26日と10月4日の新たな進撃では、ドイツ軍の反撃のほとんどは砲火によって撃退、これは航空部隊の正確な観測と砲兵隊の機敏な反応に負う。しかし10月12日からの攻撃は大失敗。
ついに11月初旬にパーサンダーラ Passchendaele 〔イープル東方〕の沼沢地に埋没したこのイープル攻勢は、準備砲撃が軍の進撃を容易にするという本来の目的からはずれて、かえって通交不能という逆効果。
泥の困難と、ドイツ軍側の対策
犠牲の大きさにくらべてまことに微々たる前進しか達成できなかったわけは、主として沼地を無理に進もうとすることからの消耗と、ライフル銃や機関銃の中に泥が入り込んで詰まってしまったばかりでなく、砲弾の爆発の効果を泥が台無しにしたから。攻撃側の困難は敵のイペリットガス使用の増大につれ、また大量の兵員を反撃にそなえて背後に保持しておく戦術の再採用にともなって増大。
事後に現地を見たイギリス軍高官、「本当にあんなところで?」
3か月に及ぶ死闘は幕を閉じたが、ドイツ軍をベルギーの港のUボート基地から追い払うという英国軍の直接の目的は、まったく達せられず。ドイツ軍の戦力を弱めることはできたが、英国軍自身の戦力はもっと弱められた。
この作戦に主たる責任を負っていた人物は、戦闘が幕を閉じたときにはじめて戦場を訪れ、車が沼のような戦闘現場に近づくにつれ、ついに泣き出し、「なんということだ、われわれは本当にあんなところで兵士たちを戦わせたのか?」と叫んだ。これに対し彼の同僚は、先へ進めば戦場はもっとひどくなる、と答えた。
1914年10~11月の第1次イープル戦は、ドイツ軍の攻勢をイギリス軍が防いだ戦いでした。1915年4~5月の第2次イープル戦もドイツ軍からの攻勢で、イギリス軍は防衛したものの、大きな人命損失がありました。第2次では、ドイツ軍側に、毒ガスの使用という新しい工夫がありました。
第3次イープル戦は、はじめてイギリス側からの攻勢となりました。この第3次の戦いでも、ドイツ軍には現地が湿潤地であるという条件を考慮したすぐれたカイゼンがあり、イギリス軍側にもまた航空部隊による観測といったカイゼンがみられました。
しかし、そもそも戦闘の場所の選定が不適当であり、そのために大量の死傷者が発生したということで、ヘイグとその司令部に対するリデル・ハート氏の激しい怒りが、よく分かります。
第3次イープル戦でのイギリス軍死傷者は、30万人超
第3次イープル戦についての補足として、以下はAJPテイラー 『第一次世界大戦』 からの要約です。テイラー氏も、ヘイグを厳しく批判しています。
イープルで攻勢をかけることの失敗は、第一日の終わりまでに明らか
7月31日に始まった戦闘は、公式にはイープルの第三戦闘、一般にはパッシェンダール、ロイド・ジョージがいみじくも名づけた泥まみれの戦闘。失敗は、ヘイグとその取り巻連中を除けば、第一日の終わりまでには誰にも明らか。最後の攻撃は11月7日で、一村落、パッシェンダールの廃墟を占領した。
イギリスの戦線は、戦闘が始まる前の突出部よりも鋭く突き出てもっと具合が悪い状況に陥った。ドイツ軍が翌年攻撃した時、このちっぽけな成果のすべては、戦線を短くするために、戦わずして放棄された。
死傷者はイギリス30万人超、ドイツは20万人以下
イギリスの死傷者は30万人を超え、ドイツは20万以下。第三次イープル戦は、暗愚な戦争の中でも最も暗愚な虐殺であった。その最大の責任はヘイグにあった。パッシェンダールは、旧い型の最後の戦闘。
11月、戦車が初めて大活躍したカンブレーの戦い
第3次イープル戦が終わってから半月後のカンブレーでは、イープルとは非常に異なり、イギリス軍の画期的なカイゼンが大規模に試みられました。再び、リデル・ハート氏の著書からの要約です。
11月後半、カンブレーで英国の戦車が大活躍
フランダースの沼沢地で戦車を用いても意味がないことを最初から理解していた戦車軍団司令部は、戦車の動きにうってつけのカンブレー Cambrai で大規模な襲撃計画。攻撃を気取らせるような準備砲撃なしに、戦車の大軍を放出しようというのが基本的なねらい。イープルでの出血のために、これを決定的攻勢として達成するだけの資源がなくなった。
これまで、歩兵部隊の前進には、相手の機関銃を黙らせるため、事前に準備砲撃が必要でしたが、戦車部隊なら相手の機関銃は蹴散らせるので準備砲撃は要らず、相手にとっては奇襲となります。ただし、戦車と一緒に前進する歩兵部隊の人数が少なければ、相手の掃討が十分にはできず効果が少なくなるので、歩兵部隊を消耗するイープル戦へのこだわりは、戦車戦の実施にとっても迷惑な話であった、ということになります。
戦車によるカンブレーの奇襲攻撃が提案されたのは9月。英国遠征軍の参謀長は、イープルに集中すべきとしてそれに強く反対。イープル攻勢の失敗がはっきりとしてくるにつれて、この案に関心が集まり、ついに10月中旬、カンブレー計画が認可。ヒンデンブルク・ラインの障害はそだの巨大な束 huge bundles of brushwood の考案によって克服。
そだの巨大な束、とは、戦車が塹壕の溝を容易に乗り越えられるようにするためのカイゼン策でした。
11月20日。ほぼ400台の戦車に先導されたこの攻撃は、完全な奇襲。過去の攻勢にも例を見ないほどの深い浸透を達成し、軽い損害。しかし手持ちの兵員と戦車はすべて第一回の攻撃に投入されたために、成功を拡大するだけの予備軍がなかった。騎兵はこの役割を果たすことができないとわかった。
ドイツ軍側も、新戦法、「浸透前進」で反撃
進撃はやみ、11月30日、ドイツ軍は英国軍の進撃によってつくられた突出部の両側面に反撃を開始、あやうく大敗北を喫するところだった。
ドイツ軍は戦車の奇襲に対して、方法こそ違え原則は同じ奇襲によって報いた。長時間の準備砲撃の前ぶれなしに、ガス弾と発煙筒による短時間の集中砲撃によって、ドイツ軍歩兵の浸透前進 the infiltrating advance of the German infantry の道をひらいた。これは1918年春のドイツ軍の攻勢戦法の原型となった。
予備軍の不足が突出部の英国軍陣地を危険に陥れたため、英軍は最初に得た領土の大部分から撤収せざるをえなくなった。
カンブレーから得られたこと
カンブレーの戦いが失意のうちに終わったとしても、戦車を組み入れて奇襲を行えば、塹壕の障害も突破できないことはないという教訓が得られた。英国軍攻勢は1918年夏と秋の連合軍攻勢戦法の原型となった。
戦車の恐怖をカンブレーから学ばなかったドイツ軍
先見の明のあるドイツ軍将校たちは、英国軍の新戦法に同種のもので対抗する必要を説いたが、ほかの連中は「これ以上の戦闘の機械化」は兵員の士気を弱めるであろうと論じ、彼らの熱烈な伝統主義が、「戦車の恐怖は多分に幻想である」という考えを育てた。反撃攻勢がうまくいったことが、現実に直面することをきらう人々を勇気づけた。
成算のなかった第3次イープル戦などそもそもやっていなかったなら、あるいは、せめて早く見切りをつけていたなら、カンブレーに予備軍も確保でき、大攻勢の成功が可能であった可能性がある、と言えるようです。
リデル・ハート氏は、このカンブレー戦で見られたイギリス・ドイツ両軍それぞれのカイゼンが、翌1918年のそれぞれの攻勢の原型になった、という大きな意義を指摘しています。
西部戦線の転換点は1917年11月、イギリス軍によるカイゼンの成果
1914年8月に始まった第一次世界大戦は、開戦から3年3ヵ月後の1917年の11月になって、ようやく連合国軍側による反攻が現実化する条件に到達した、と言えそうです。
塹壕戦の膠着状態を打ち破るには、従来兵器ベースの工夫だけでは限界があり、新兵器が必要であると看破して、戦車の開発・改良に取り組んだイギリス軍は、カンブレー戦に至って、ドイツ軍とのカイゼン競争のそれまでの遅れを一気に逆転した、と言えるように思います。
イギリスには、後方で、新兵器の開発・生産を行える人材・工業力・資源の余力があり、それを活用できたこと、またイギリスの政・軍が特定の思想に凝り固まった金太郎飴状態に陥っておらず、勝利という目標は共通でもその手段について異なる意見を持つ人々が、それぞれの仕事を果たす余裕を持っていたことが、このカイゼンを生みだした、と言えるように思います。余裕があり、多様な意見があればこその大カイゼンであり、現代の企業においても、大カイゼンを生みだしやすい環境条件は変わらないように思いますが、いかがでしょうか。
他方、ドイツ軍は、このカンブレー戦の反撃でも、歩兵の浸透前進という新しいカイゼンを導入した点は、さすがであると思います。ドイツ軍は、開戦後の3年間、常にカイゼンの積み重ねを行って、カイゼン競争をリードしてきました。残念なのは、ドイツにも精神論に走る伝統主義者がいて、戦車の開発に努力を向けなかったことです。精神論は、ちょっとした尻叩きの手法として使われる程度なら有効性がありますが、本質的には特定の定性的な正邪観に基づく見方であるだけに、その観点に適合しないカイゼン策を抑圧する反作用があります。
ただしこの時期になると、ドイツは戦場では強くても、本国は経済封鎖の影響が深刻化していましたから、たとえ戦車開発を決意していたとしても、イギリスやフランスと同様の速度での戦車開発は、もはや困難になっていたのかもしれません。また、ドイツ軍には、イギリスより強力な参謀本部、すなわち、より思想統一された軍の指導が存在していたことが、逆に制約となって、全く異なる思考法からの画期的なカイゼンは出にくい体質にあった、と言えるのかもしれません。
ここまで、1917年の西部戦線の経過を確認してきました。次は、同年の他の戦線の状況についてです。