西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の参考図書・資料

第一次世界大戦後の
日本の陸海軍 C 水野広徳 2

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
サイトトップ 主題と構成大戦が開戦に至った経緯
第一次大戦の経過
第一次大戦の総括日本が戦った第一次大戦日本が学ばなかった教訓
参考図書・資料映像・写真資料 文学作品 欧州大戦の 参考図書・資料日本の大戦の 参考図書・資料第一次大戦期の 政治・経済 加藤高明と 対華21ヵ条要求 第一次大戦期の 朝鮮・満州・中国日本の戦い概説 青島攻略戦日本海軍の戦い 連合国協力シベリア出兵 大戦後の陸海軍 @ 陸海軍史大戦後の陸海軍 A 陸軍各論大戦後の陸海軍 B 海軍各論大戦後の陸海軍 C 水野広徳 1大戦後の陸海軍 D 水野広徳 2

カイゼン視点から見る日清戦争


第一次世界大戦後の日本の陸海軍 C 水野広徳 2 著作

第一次世界大戦の教訓を最も的確に学んだ日本軍人である、水野広徳について、前ページでは評伝をとりあげましたが、最後にその著作についてです。

水野広徳の著作で、戦後再刊され、現在入手可能あるいは図書館で利用可能なものには、前ページで取り上げた自伝『反骨の軍人・水野広徳』以外に、下記があります。

また、『水野広徳著作集』には収録されていないものの、水野広徳らしさが出ている面白い著作には、下記があります。

なお、水野広徳の著作のオリジナルの刊行本には、国立国会図書館デジタルコレクションで、インターネット公開されているものが多くあります。以下の説明中で、『書名』*と表示したものは、この国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているものです。

前ページで、水野広徳の業績に対する評価を論じましたが、その評価が適切であるかどうかについては、やはり水野広徳の著作の内容を具体的に確認いただく必要があります。そのため、このページでは、とくに重要な著作や評論については、その内容を少し詳しく紹介しています。


水野広徳 (粟屋憲太郎・前坂俊之・大内信也 編集)
『水野広徳著作集』 雄山閣 1995

以下では『著作集』と略記します。各巻は、下記の内容となっています。

水野広徳の主要な著作が網羅された著作集です。とくに雑誌や新聞に発表した評論は、この『著作集』でなければ読むことが困難ですので、非常に価値があります。

本『著作集』に所収の評論ですが、第2巻および第4〜6巻は、軍事・外交・時事問題への論評が、時系列順に各巻に所収されています。他方、第7巻には、随想的なもの、人物評、書評が集められています。

第6巻の巻末に「書誌」があり、下記の内容となっています。

  • 「水野資料について」
    著作調査の結果判明したこと、発禁となった著作物、英文資料、未発見資料、書簡などについて。水野家家系図を含む。

  • 「水野広徳著作目録」
    目録Iは書籍のリスト、目録IIは雑誌論文のリスト。
    この目録にあっても、『著作集』に収録されていない著作があります。
    また、この目録自体も、完璧とはいえず、若干の漏れがあるようです。

本『著作集』には、「発禁処分を受けたため残存していないもの」、および「少年向け読み物、『日本名将論』の系列、雑文の類」のほかは、「ほとんど」を収録した、としています。『興亡の此一戦』は、発禁処分となったものの、本著作集に収録されています。

ただし、松下芳男 『水野広徳』で紹介されているのに、この『著作集』には収録されていないものがあり、やはり松下による評伝は読む価値が高いものと言えます。

第8巻の巻末には、「年譜」があります。大内信也 『帝国主義日本にNOと言った軍人 水野広徳』の巻末の「水野広徳年譜」とはほとんど同一の内容ですが、記述が若干異なっている箇所があります。

なお、この『著作集』については、下記の2点の問題があります。

問題点の第一は、この『著作集』を所蔵している図書館が非常に少ないこと。水野広徳の業績が、世間的にはあまり認知されていないためであろうと思います。認知が大きく広がることを願っています。

第二は、この『著作集』は全体に校正漏れが余りにも多いこと。未校正のまま出版されてしまったのではないか、と疑われるほどです。誤字等が頻出しているだけでなく、中には数行分以上抜けている箇所があったり、所収されているのに目次からは漏れている評論があったり、逆に全く同じ評論が2箇所に重複掲載されていたりしています。

国立国会図書館デジタルコレクションにも含まれている著作であれば、この著作集で不自然に思われる箇所は、原典で原文をご確認いただくことが可能です。

水野広徳の業績への認知が広がり、著作集が改めて適切に校閲されて、再刊されることを望んでいます。

以下は、『著作集』に収録の各著作・評論についてです。

『此一戦』* 1911 (『著作集』 第1巻 日露戦争・日本海海戦の戦記)

水野広徳は、日露戦後の1907(明治39)〜1910(明治43)年は海軍軍令部出仕となり、日露戦争での海戦の公刊戦史の編纂作業に従事しました。『此一戦』(初刊 博文館 1911、再刊 新潮文庫 1933)は、公刊戦史編纂の余暇に書いた日本海海戦の戦記です。戦史資料に基づき内容がしっかりしていて、しかも読みやすい、という点で、当時好評を博したようです。『著作集』 第7巻に所収の「戦争名著物語 『此一戦』を書いた頃」および「処女出版の思ひ出 『此一戦』の回顧」には、執筆・出版の経緯や思い出が書かれています。

『此一戦』では、水雷艇の戦闘の詳細、ロシア側への敬意表明、日本側死傷者の詳細、沈められたロシア側乗員の救助不能、松山のロシア捕虜収容所、などに関する記述もあって、艦隊決戦一本槍ではなく、視点がきわめて多面的である点に、水野広徳の個性が出ている、と言えるように思います。

国防・軍事では、「畢竟富は多くの場合人間を堕落せしむるもの」、「我が国民にして常に国力の緊満を希うならば、兵を強くして、妄りに富を貪らざるにある」として、明確に<貧国強兵>を主張していますが、「此に強兵と称するは、徒に勇を恃んで、戦を好むを云うのではない。唯国防を充実して、外海を禦ぐに足る丈の武備を云うのである。戦争の悲惨にして、人道に反するは、前既に述べた如くである」、「国大といえども戦を好むときは、必ず滅び、天下安しといえども、戦を忘るるときは必ず危うし」としています。

すなわち、水野広徳は、この当時から国防と戦争を区別し、蛮勇武断主義を排して、戦争抑止力としての国防には必要な金を使う必要があるが、戦争は悲惨な結果を生じるので避けるべきである、という見解であったようです。

また、「戦闘なるものは、決して精神のみで勝てるものではない…熟練なる技術と、堅鋭なる物質的勢力とがあって、始めて完全なる奏功を見ることが出来る」として、過度の精神主義も戒めています。蛮勇武断主義を排し、過度の精神主義を戒めて、戦争は悲惨なものと言い切る点には、水野広徳らしさが既に出ている、と言えるのかもしれません。

初刊の博文館版には、当時海軍中将の加藤友三郎と伊地知彦次郎、海軍大佐で子爵の小笠原長生の序文が付されています(『著作集』では割愛されています)。これは、この時点での水野広徳の軍事観・国防観が、当時の日本海軍として許容範囲内にあったことを示すものと思われます。こうした考え方が、当時の日本陸海軍の主流となっていたなら、昭和前期の日本の大失策は避けられたであろうと思われるのですが。

本ウェブサイトでは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 B 艦隊決戦より海上封鎖」のページで、本書からの要約引用を行っています。

『戦影』* 1914 (『著作集』 第1巻 日露戦争・水雷艇戦記)

『戦影』の初刊は、著者名を「一海軍中佐」と匿名にして、金尾文淵堂から、日露戦後10年で第一次世界大戦開戦直後の、1914(大正3)年11月に発行されましたが、大部分は『此一戦』出版前の明治39〜40年頃に執筆されたもののようです(初刊本の冒頭の「本書五個條」)。

本書の記述は、日露戦争開戦直前の1903(明治36)年10月、当時大尉の水野広徳が旧式砲艦の乗員であったときから始まります。その年の末に水雷艇艇長に任命され、翌年2月の開戦前から朝鮮海峡の警備に従事、次いで5月1日の第3次旅順港閉塞作戦に参加後は旅順港封鎖に従事、そして同年末、陸軍による203高地占領後、28センチ砲によるロシア旅順艦隊砲撃をただ1艦免れて港外に出た戦艦「セワストポリー」(公刊戦史の表記では「セワストーポリ」、以下「セ」艦))への水雷艇隊攻撃による撃滅をもって、記述が閉じられています。

旅順港閉塞作戦や「セ」艦への水雷艇隊攻撃には、日本海海戦の華々しさはなく、ましてや朝鮮海峡警備や旅順港封鎖は、戦争に必須の業務とはいえ、さらに地味でした。本書は、水野広徳の「戦争私記」(「本書五個條」)であればこそ、海軍の裏方的業務の実状が明らかにされた、珍しい戦記と言えるように思います。

当時の海軍の兵器について言えば、本書の記述からは、日露両海軍の双方に大きな損害をもたらした機雷(=機械水雷)の効果の高さと、それへの恐れがよく分かります。

また、水雷艇による夜間攻撃では、攻撃点に到達するまでに、敵の探照灯に照射され砲撃目標とされる危険帯を必ず通過しなければならないのですが、「セ」艦攻撃時の危険帯突入の緊張が臨場感をもって記述されています(現に僚艇は被弾撃沈し、その艇長は戦死しました)。

一方、「セ」艦は「水雷防禦網」を張っていたため、攻撃には「切網器」が必要でしたが、この時「水雷艇の有せる十四吋魚形水雷には切網器を備えざるもの多く」、また「その能力はすこぶる疑うべきものがあった」と、当時の日本海軍の魚雷(=魚形水雷)の性能の制約を指摘しています。

さらに、狭くて設備にも制約のある水雷艇内での日常生活、陸軍の負傷兵を収容治療した大連の病院での負傷下士卒の病室の様子、旅順封鎖のための中立国船舶に対する「臨検捜索」の実務状況など、通常の戦記ではまず書かれていない事柄がいろいろ書かれている点も、水野広徳らしい点、と思われます。こうした本書の記述からは、筆者はなんとなくですが、レマルクの『西部戦線異状なし』に似た雰囲気を感じました。もちろん『戦影』はレマルクよりずっと前に執筆されており、偶然の一致ですが。

「本書五個條」には、執筆の目的等だけでなく、水野広徳のこの時点での国防観・軍事観が良く表現されています。水野は、日露戦後10年間の兵器の驚くべき進歩に触れた上で、「兵力の強いものが必ず勝つ! 日本はどこ迄も強くなければならぬ!」と述べて、上掲の『此一戦』と同様、戦争抑止力としての軍備は強力であるべき、世界の兵器の発展に追随凌駕すべし、との考え方を示しています。その一方で、「我が国の国情と、習俗と、規則とは、露国軍人の筆に成れる彼の『ラスプラダ』や『ノヴィック』の如く、忌憚なき自由の評論と、腹蔵なき赤裸の記述とを許さない」と書いて、日本海軍の戦史編集の方針または軍人による発言の抑制状態を批判しています。

初刊は発行後ほどなく絶版となり、1930(昭和5)年に改造社から、今度は水野広徳の著者名を出して再刊されましたが、そのさい「本書五個條」および強力な軍備を主張した箇所は、削除されました。

『著作集』の『戦影』は、この改造社版の再刊本を底本とし、初刊本から改定された箇所を、「水野の思想の変化を示すものとして」挿入復元した(『著作集』「編註」)としていますが、「本書五個條」についてはなぜか『著作集』では復元されていません。上述の如く、重要記述が含まれているだけに、「本書五個條」の未復元は残念です。

『波のうねり』*・「バタの臭い」 (『著作集』 第2巻 第1回ヨーロッパ見学記)

水野広徳は、1916年7月から17年8月まで、第1回のヨーロッパ見学旅行に出ました。日本から喜望峰回りでイギリス、ロンドンに滞在、パリ・ローマにも旅行、アメリカ経由で帰国の旅程です。このうち、日本からロンドンまでの渡航記が『波のうねり』、ロンドン滞在記が「バタの臭い」です。

ロンドンまでの渡航記は、日記代わりに航海中に執筆されたようです。そのうち、まずは香港〜ペナン間が、『波のまにまに』*(実業之日本社 1917 − 『著作集』非収録)として帰国直前に出版され、その後、日本からロンドンまでの全行程の渡航記が、『波のうねり』(金尾文淵堂 1922)として海軍退職後に出版されました。全編出版時に旧稿に加筆された個所は、区別して表示されています。

『波のうねり』中には、軍事的な事項に関する論評も少しあり、そのうち潜水艦論については、本ウェブサイト中の「日本が学ばなかった大戦の教訓 B 艦隊決戦より海上封鎖」のページで、要約引用を行っています。

軍事的な事項についての水野広徳らしい論評としては、他に、「潔く死ぬることのみを以て理想とし、潔く生くることを工夫せざる国民は、到底世界に向かって大を為す能わず」、「戦場に屍を曝らすは、独り日本魂の専売特許にあらず」と指摘した「日本魂論」や、力尽きれば俘虜となることを恥とせぬ西洋と、俘虜となることを絶対恥辱とする日本とは、理性と信念との相違があるので、俘虜数が多い点だけを見て西洋人弱しと信じる日本人の観察は根本的に誤っていると指摘する「俘虜論」、などがあります。

海軍退役後の加筆部分には、日米戦争について、「国民に警告す。戦を始むるは容易なり、勝を制するのは容易ならず、苟も日米戦争を決心する以上、我が国民たるものは、予め少なくも、這次大戦に於て、独逸国民の嘗めたる苦惨と、払いたる犠牲とを覚悟せざるべからず。此の覚悟なくして徒に空疎なる妄想的日本魂に己惚れ、濫りに剣を抜かんか、是れ自ら刎ねるものと謂うべし」という文章もあります。

渡航記だけに幅広い話題が記されていますが、とくに挙げる価値があるのは、日本人の「己惚れ(うぬぼれ)」への警告です。例えば、日露戦争以来の日本人の「日本は世界の一等国」とのうぬぼれに対し、水野広徳は、東京が一等国の町であるなら、上海は特等国の町、セイロン(スリランカ)のコロンボの港は特等国の港、と評しています。

また、シンガポールで最も宏大な家屋・立派な自動車を有するのは支那人であり、着の身着のままで来て、荷揚人足から始めて、遂には富者になる、勤勉克己に富む支那人の性格には大和魂も兜を脱がざるをえない、それに対し、小金が出来ればたちまち錦を故郷に威張りたがるのが日本人出稼ぎ人の常、と指摘しています。

水野広徳は、外国の事物や文化・考え方について、日本的な固定観念で判断せず、日本と日本人をより良くするために、外国の優れているところ、学ぶべきところの積極的な発見に努めている、カイゼン主義の眼をもって見ている、と言えるように思います。

ロンドン滞在記の「バタの臭い」(1917年11月2日〜12月26日 『東京朝日新聞』に連載)の最重要点は、水野広徳がイギリスの大戦遂行能力を支える経済力・工業力の偉大さを認識したこと。イギリスの戦費は1日で8500万円に上ることに驚嘆〔日本は総軍事費が年間2.5〜3.5億円程度〕し、イギリス軍がドイツ軍と対抗できているのは「英国の優越なる軍事工業の力」、「工業の基礎は、富に在り」なのだから、「日本が今日先ず取るべき道は、正義に基く富の獲得にあり。金なくして何の己が一等国」と論じています。

もう一つの重要な点は、自身のロンドンでのドイツ軍による空襲被害の経験から、将来日本が戦争を行った場合、東京空襲で大被害を受ける可能性を指摘したことです。ロンドンの石造建築と違い、日本の木造家屋では空襲の被害は大、最近の飛行機の航続距離は500マイル超、艦上からの発着も早晩成功するだろう、日本への空襲は難事ではなくなり、「戦時、東京は敵機襲撃の第一目標たらん」。水野広徳がここで言わんとしたことは、日本軍による「空中防禦の完成」が急務との指摘でしたが、航空機や航空母艦の発達による日本の本土への空襲の可能性を的確に指摘している点、軍事の専門家としての見識の高さが良く分かります。

『波のうねり』も「バタの臭い」も基本的に旅行記ですので、旅の途上あるいは現地でのさまざまな見聞や経験が、豊富に記述されています。こうした見聞は、当時の日本や海外の状況についての資料としても、価値があると言えるように思います。またそれに対する水野の所感は、水野広徳の人格や個性を理解する上で、分かりやすい材料です。

なお、この第1回のヨーロッパ見学旅行について、自伝には6章の記述がありますが、そのうち、4章は『波のうねり』および「バタの臭い」からの抜粋です。残り2章の「ヨーロッパ大陸を観る」「アメリカ瞥見」は自伝だけです。また、大戦後の欧州、ことに敗戦国のドイツを見るために出掛けた、1919年3月から1920年5月までの第2回ヨーロッパ見学旅行の記録も、自伝のみにあります。

水野広徳の評論 1914〜1919 (『著作集』第2巻)

『著作集』 第2巻には、『波のうねり』*・「バタの臭い」のほかに、海軍時代の1914(大正3)〜19(大正8)年に発表した5つの評論が収められています。

「戦争我観」(『中央公論』 1914年10月)
欧州大戦勃発。 海軍力の劣るドイツは制海権を持てず、経済封鎖で敗れる。

「旅順と青島」(『中央公論』 1915年1月)
日露戦争での旅順戦と今次の青島戦との比較。青島でのドイツ軍の投降について、「武士道見地を離れて論ずれば、青島の早降は寧ろ賢き策」。

「欧州大戦観 剣光銃影」(『日本及日本人』 1915年4月)
「犬牙蜂針皆是れ自衛の機関」(『中外』 1917年10月)
「我が軍国主義論(姉崎博士の所説を疑ふ)」(『中央公論』 1919年1月)
〔「思想の大転換」以前の評論であり、 所論の展開や詳細に多少の差異はあるも、いずれも〕国際関係の現実から国家には国防が必要であるので、軍国主義をとることに弊害はあるがやむをえない、という認識。

なお、上述の『波のまにまに』は、表題作の渡航記と他の評論を合わせて、上掲の諸評論と同時期に出版されています。そのうち下記の2編は、『著作集』には収録されていませんが、国立国会図書館のデジタルコレクションで読めます。

  • 「勇敢なる海の戦士」 − ドイツ軍の「エムデン」などの活躍と終焉について
  • 「或る夜の話」 − 海軍の平和時の役割について
『次の一戦』* (『著作集』 第3巻 − 「思想の大転換」前の日米未来戦記)

『次の一戦』(金尾文淵堂)が、著者名は伏せて「一海軍中佐」として出版されたのは、 1914(大正3)年の6月末、第一次世界大戦勃発のわずか1ヵ月前のことでした。本書は、日本海軍の強化を求める立場から書かれた日米未来戦記です。出版の時系列では、『此一戦』の後で、『戦影』の直前、ということになります。

日米間の緊張が高まりつつあった時期に日米仮想戦をテーマとしたため、「忽ち各方面に異常の衝動を与え、まず驚いたのが外務省」、海軍内では無許可出版が問題になったが、「大いに海軍の必要が説いてあったので」処罰軽減され、「謹慎たった五日で済んだ」、書物は世間の注意を引いて「製本が間に合わんほど売れた」が、間もなく欧州戦争が突発して、「対米関係上その筋の希望もあり…再版後二月ばかりで絶版としてしまった」(自伝)という経緯の本です。

支那問題で日米間の緊張が高まる中、日本海軍の攻撃によるものとも事故によるものとも決めつけられない日本近海での米国戦艦の爆発事件が契機となり、両国の暴民による双方の大使館への襲撃が発生し、遂に日米開戦となる、という想定です。

日本軍のフィリピンへの攻撃で、米艦隊のフィリピンからの追い出しに成功、さらにフィリピン近海での艦隊決戦で、日本海軍は何とか勝利するものの砲弾を撃ち尽くし、ハワイからの米艦隊に殲滅されて日本は敗戦となります。最後に、「嗚呼我等は力に於て勝ちしも数に於て負けた!」として、海軍軍備の不足が敗戦の原因であると示されます。

本書では、艦隊決戦となる前に、駆逐艦や潜水艦による魚雷攻撃や、飛行船による対艦爆撃が大きな攻撃力を発揮し、艦隊決戦でも魚雷攻撃が効果を発揮します。これを、第一次世界大戦での実戦状況を知る前に書いた点に、水野広徳の軍事上の専門知識の高さと判断の的確さが良く現れている、と言えるように思います。

なお、『著作集』では、初刊本にある地図や図版、あるいは日米海軍の戦力比較データなどのほとんどが割愛されていますが、その点の注記がないことは残念です。

『興亡の此一戦』* (『著作集』 第3巻 − 「思想の大転換」後の日米未来戦記)

水野広徳は1930年に、『戦争小説 海と空』*(横須賀海洋社− 『著作集』には非収録)を出しました。横須賀海洋少年団の理事から、博覧会の記念に何か海戦に関する記述を頼まれた(同書「はし書」)ためですが、内容は日米未来戦を小説にしたものでした。これが元となって、2年後の『興亡の此一戦』に発展したようです。

本書の書名は、正しくは、初刊は『打開か破滅か 興亡の此一戦』*(東海書院 1932)、発行日は昭和7年10月10日です。改訂改題版は『日米興亡の一戦』*(東海書院 1932)、国立国会図書館の蔵書の奥付には、「昭和7年11月15日 改訂三版」とありますので、初刊が発禁となった後わずかな日数のうちに改訂作業を行い、再刊するとたちまち版を重ねた、と推定できます。

『著作集』は初刊本に拠っていますが、改訂時にどこが伏字とされたかは、国立国会図書館デジタルコレクションの改訂改題版で確認できます。また、本書の出版〜発禁〜改訂出版の経緯については、『著作集』 第6巻の評論 「日米若し戦はゞ」に、その説明がありますので、その項をご覧ください。

前年1931(昭和6)年9月18日満州事変が発生〜32年1月28日上海事変〜2月末リットン調査団来日〜3月1日満州国建国宣言〜9月15日満州国を日本が公式承認〜10月1日リットン調査団報告書が日本政府に通達、国内では、2・3月に井上準之助前蔵相・団琢磨三井合名理事長が暗殺された血盟団事件〜5月犬養首相が暗殺された五・一五事件も発生、という状況での出版でした。

同じ日米未来戦記でも、『次の一戦』からは18年経過、しかも第一次世界大戦の教訓もフルに反映されていますので、戦争の展開の予測にもさまざまな相違点があります。

第一、戦争の契機。前著は、支那問題での対立から日米戦争、という想定でした。本書では、満州事変が米国の支那支援を招く、支那は軍備増強(とくに空軍力)を行い、軍事力による満州回復に乗り出して、日本対米支連合の戦争となる、と、想定がより具体的となっているだけでなく、満州事変とそれ以後の展開が日本にとってきわめてリスクの高い行動となっていることを指摘しています。

第二、交戦相手国。前著では日米間だけの戦争でしたが、本書では、日本と「米支連合」の戦争で、英国は米国への好意的中立と、これもより現実的な見方です。

第三、海戦の主力兵器。前著ではまだ艦隊間の砲撃による決戦場面がありましたが、本書の海戦は基本的に航空戦です。日本側・米国側とも、艦隊に戦艦は入っているものの、中核はすでに航空母艦となっていて、艦載航空機が艦隊決戦を決する事態が想定されています。戦艦は、その巨砲の到達距離が航空機による攻撃よりはるかに劣っていることから、活躍の場はありません。

第四、経済封鎖の効果。米支との交戦で日本の貿易額の低下は著しく、一方満州の資源はそれを補うに全く足りず、物資の欠乏や物価の騰貴など、国民生活への影響が甚大であることが示されています。

第五、長期戦化の必然。国力はるかに勝る米国は軽々しく出戦しない。支那との戦争も、日本は北京・南京を占領でも、支那政府は遠く内陸部に避退して抵抗を継続、と、日中戦争の長期戦化についても予言を的中させています。また経済力巨大な米国は、日本の攻撃被害の復旧は速やか、と指摘しています。

第六、日本は自暴自棄の決戦。戦争長期化で日本は経済窮乏、のるかそるかのハワイ攻略大決戦に踏み出さざるを得なくなる、一方、米国側には東京空襲という策がある、両者それぞれがその作戦の発動に踏み切る、というところまで予測して本書は終わっています。本書読者の大部分は、日本が必ず敗戦することを理解するはずです。

水野広徳の本書での予測は、第一次世界大戦の実地から得られた教訓に従ったものであるだけでなく、細部には多少の相違があるとはいえ、大筋では日中戦争から大東亜・太平洋戦争への展開とその結果をかなり良く当てている、と言えるように思います。

本書は、日本の陸海軍幹部に対する、重要研究課題についての提言であった、とも言えるように思います。残念ながら、日本の陸海軍は本書の問題提起を全く活かさず、本書以後も、列国との妥協が成り立ちうる中国問題の解決策を打ち出そうとせず、独伊以外の全ての国を敵に回して経済封鎖をされてしまう事態を自ら作り出し、また速戦即決の短期戦という希望的観測にこだわり続け、中国では戦線の限定も行わず、自暴自棄になって太平洋戦争まで始めてしまいました。

日本海軍の中でも山本五十六を中心とするグループは、航空機が決戦兵器になることを適切に認識して、航空機と航空母艦に積極的に投資を行いましたが、主流派は相変わらず大艦巨砲にこだわり続け、本書の刊行から5年もたった1937(昭和12)年になって、大和・武蔵の巨大戦艦2隻の建造を開始するという、無駄な投資を行いました。

本書の末尾に付されている、「太平洋作戦の考察」と「日米海軍力の質的比較」という、著者による二つの論考のうち、前者の「太平洋作戦の考察」には、著者が上記の推定を行うにあたって考慮した主要な要素が整理されており、これだけでも読む価値が高いと思います。

ただし、残念ながらこの『著作集』 第3巻では、この「太平洋作戦の考察」の中で2箇所、それぞれ原著約8行分づつが抜けている、という重大な校正ミスがあり、国立国会図書館の原典のインターネット公開版で、正しい文章をご確認いただく必要があります。

なお、『興亡の此一戦』からは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 − 孤立せず国際協調」のページで引用を行っています。

水野広徳の評論 1920〜1923 (『著作集』 第4巻)

『著作集』 第4巻には、1920(大正9)〜1923(大正12)年の4年間に発表した、31編の評論・投稿が所収されています。(31編中、「軍事上より見たる海軍協定」は、収録されているにかかわらず『著作集』の目次から漏れており、目次にある評論数は30編です。)

上述の通り『波のうねり』も1922年に出版されており、この頃は、水野広徳の評論家活動が最も活発な時期であったとともに、大正デモクラシーが機能していて、かなり自由な発言が出来る時代であったようです。日米英仏伊の5ヵ国が主力艦の軍縮を合意したワシントン条約の調印(1922年)も、この期間内です。

以下は、これら31編の内容紹介です。筆者から見て重要と思われたものは、紹介も少し長めになっています。

「独逸の敗因」(『改造』 1920年7月号)
自伝にある「ドイツの敗因」とは少し異なる分析。海上封鎖・米国の参戦・敵国の宣伝の3要因と、その具体的な内容。

「軍人心理」(『東京日日新聞』 1921年1月11日〜15日)
軍人の「デモクラ化」や軍人への参政権の付与を求めた評論。
〔この評論が海軍で問題となって、水野広徳は謹慎30日、翌2月20日付で待命となり、8月に予備役に編入、すなわち海軍を辞した(松下芳男 『水野広徳』)〕。

「武装平和の脅威 − 国際連盟改造の急務」(『内外商業新報』 1921年1月22日〜31日)
「軍備撤廃亦は制限縮小論」(『改造』 1921年3月号)
両評論とも、米国議員提案の日英米「5ヵ年造艦5割休止」は研究に値する、との指摘。前者は、軍備の撤廃・縮小・制限を行う前に、不公明不平等・白人本位・欧州本位の国際連盟を改更し、真の自由平等の基礎の上に建て直す必要あり。後者は、これを実現するには強国がまず雅量を示さねばならぬ。

〔ここまでは、海軍現役時代の評論、次からが海軍退役後の評論となります。〕

「華盛頓〔ワシントン〕会議と軍備縮限」(『中央公論』 1921年10月号)
〔ワシントン会議の開催(1921年11月〜22年2月)に先立つ評論〕水野広徳自身の、軍国主義者から軍備縮限主義への「君子豹変」を公に表明。「日本の安全と国民の幸福の為め、軍備縮限の切要」を主張し、その具体論を提案。

「軍隊の宿営」(『東京朝日新聞』 1921年11月23日)
軍隊の民家宿営問題について。

「軍備縮小と国民思想」(『中央公論』 1922年1月号)
ワシントン会議が進行中の状況下、日本国内のさまざまな軍縮反対論を紹介、謬見の根底にある国防や軍備に関する様々な誤解を解き、軍縮への支持を広げようとする。

「軍事上より見たる海軍協定」(『中央公論』 1922年2月号)
ワシントン会議の結論である軍縮協定への評価について。主力艦の制限協定は、「我が国としては利する処頗る大」。全体として、欠点はあっても、大体において成功。

「陸軍軍縮論」(『中央公論』 1922年3月号)
「帷幄上奏と統帥権」(『太陽』 1922年5月号)
〔両評論とも、ワシントン会議での海軍軍縮協定の成立と、山県有朋の死(1922年2月1日)のタイミングでの、陸軍軍縮論〕 今日露国及支那に対し、侵略政策を執らざる限り、陸上の仮想敵国は無い。したがって陸軍経費は半減し、陸軍兵器の改良や文化事業に充当転用を。しかし現状でその実現性は疑問、実現には軍閥の城砦たる帷幄上奏権の廃止、および統帥権独立の否認が必要。〔この年8月、山梨軍縮〕

「世界平和と国家我」(『中央公論』 1922年7月号)
「国家我」とは「偏狭排他的なる愛国心」〔当時「自我」は「利己」と似た意味の言葉だったと推測される〕、「愛国心は国際的正義観念に立脚し、国家我は国家的利己主義に発足」、国家我の強き国民は世界に孤立、として偏狭排他的な愛国心を批判。

「『日本海上政権史論』を読みて」(『国家学会雑誌』 1922年)
英国海軍軍令部の軍人による、日本の古代以来の海戦海軍史への書評。

「海」(『中央公論』 1922年8月号)
世界の海を知る海の波同士の会話という設定での、日本と日本人論、世界史論。

「軍部大臣開放論」(『中央公論』 1922年8月号 − それとも1924年8月号?)
陸海軍大臣を軍人以外に開放することへの、陸軍某要路者の反対意見に対する反駁。軍人は戦争を行うための技師、国家の政務として決定せられたる国防軍備の計画を最も有効に、最も高率に、実施運用すれば宜しい、軍人が不合理なる統帥権の独立や帷幄奏上権を振り回し、国政の運用を阻害せんとするごときは許すべからざる不法。

「官吏夏休廃止の功過批判」(『中央公論』 1922年8月号)
夏休廃止は一大英断だが、執務能率増進の目的にはそぐわない。

「独露を何うする?」(『中央公論』 1922年10月号)
ドイツに関してはベルサイユ条約の改訂、ロシアに関しては労農政府の承認を提言。

「対死管見」(『中央公論』 1922年11月号)
軍縮離職の軍人に多額の涙金を与えるなら、先ず戦死者の遺族や廃兵の救済を。

「西比利亜座の軍閥劇」(『中央公論』 1922年12月号)
〔この年10月シベリア出兵からの撤兵完了〕 出兵結果への論評。シベリア出兵から得たものは、日本の侵略欲に対する世界の誤解と、日本軍に対するロシア人の怨恨。征服欲の軍閥と利権欲の財閥とが、政府を脅威して実施させた時代錯覚・時代誤謬の行い。「独逸は軍閥の跋扈に依って敗れた。… 日本の将来を誤るものは必ずや軍閥である」。

「今年中一番私の心を動かした事」(『中央公論』 1922年12月号)
「喜ばした事」として「海軍縮小協定の成立」を挙げる。

「嗚呼君子国」(『東京朝日新聞』 1922年12月19日)
北海海賊問題(1922年11月に発生した「大輝丸事件」のことと思われる)に対する論評。日本では国際罪悪に必ず軍閥の影ありの噂。「禍なるかな日本軍閥の陰謀」。

「暴力黙認と国家否認」(『中央公論』 1923年1月号)
「公許侠客団」である国粋会の社会運動・労働運動等への暴力を是認すれば、反動として社会主義者による革命を招く、禍を国家百年の後にのこす。

「一時の反動現象に昏迷する勿れ」(『中央公論』 1923年1月号)
伊国ムッソリーニの政権掠奪、英国の保守党内閣への政権交代、日本の社会運動・労働運動の一頓挫など、「世界は保守的反動時代に入るとも、武力侵略が是認せらるる時代は最早永久に過ぎ去った」。今我が国は産業の不振、国家は財政難、「大に軍備を弛めて大に国力を涵養すべき絶好の時」。

「御心配御無用」(『中央公論』 1923年1月号)
「普通選挙の行われざるは国家国民の恥辱」、普選擁護論。

「妙な国策・妙な愛国者」(『中央公論』 1923年2月号)
〔上掲の「嗚呼君子国」に続き〕 再び大輝丸事件。尼港の仇討ちは愛国者でなく非国民。

「予の一生に大影響を与へし人・事件及び思想」(『中央公論』 1923年2月号)
思想として、「独立独行」の精神と「人間平等」の観念。

「打首問答」(『中央公論』 1923年4月号)
水野自身と思しき退役海軍大佐と、海軍軍縮で退役した別の海軍大佐との対話。

「『右』と『左』の解剖と其相対関係」(『中央公論』 1923年4月号)
右は国家主義、左は社会主義。極右の世界的代表者は伊のムソリニ、極左は露のレニン。適度の「右」と「左」の並存は相互の切磋琢磨だが、極右と極左は共に排斥したい。

「新国防方針の解剖」(『中央公論』 1923年6月号)
水野広徳の日米非戦論の主張内容が良く分かる論文。〔本ウェブサイト中、「日本が学ばなかった大戦の教訓 C 孤立せずに国際協調」で、この評論から要約引用〕

「『数』の力と意義」(『中央公論』 1923年6月号)
「戦争に於ける数の力と其の意義」が本評論の副題。数の力とは、人員・物資の総合力。第一次世界大戦のドイツは、当初は訓練・準備による各個の力量の優越をもって連合軍を撃破、然るに長期の持久戦となって力量の優越を失い、数の力で劣り、国際関係等の環境また不利となり敗戦。数の力の優れるものの必勝条件は、戦を持久すること。日露戦争で、数の力はるかに劣る日本軍が勝利出来たのは、環境としても世界の同情得た上、露国内に内乱あったため。長期化していたら日本は敗戦。今の日本は世界五大国の一といっても、物資・工業力は低い。対外関係の環境も日露戦争当時の如き良好ではない。「天恵の薄きを諦めると同時に、他国殊に隣邦よりの補給を受け得る如く、我が環境〔=国際関係〕を改善する」以外に、日本の道はない。

「所謂主義者狩りの魂胆か」(『中央公論』 1923年7月号)
1923年5月10日に早大軍事研究団事件、6月5日に第一次共産党検挙の社会情勢。「社会主義を恐れ呪う暇に現代社会の欠陥を除け」。

「一視同仁たれ」 (『中央公論』 1923年8月号)
暴力行使団は、近時増加する傾向。当局は、左党に対する取締は峻厳を極むるに、右党には甚だ緩慢。左右両党の暴力行使、等しく厳重且つ適法に取締らんことを希望。

水野広徳の評論 1923〜1930 (『著作集』 第5巻)

『著作集』 第5巻には、1923(大正12)〜1930(昭和5)年の7年間に発表した、下記の40編の評論・投稿が所収されています。日米英の3ヵ国が補助艦制限に合意したロンドン条約の調印(1930年)もこの時期に含まれています。また、後掲の『日本平和論体系 7』に所収の「無産階級と国防問題」も、この期間に書かれたものです。

「警官の両面」(『中央公論』 1923年9月号)
警察官による人権蹂躙への批判。

「国際連盟を改造すべし」(『国際知識』 1923年)
国際連盟は、旧敵に対する実行不能の条約強制機関でなく、世界平和の促進機関たらしむること。制裁実力を増大すること。

「大災記」(『中央公論』 1923年10月号)
9月1日発生の関東大震災について。朝鮮人に関する流言飛語問題も論じられているようだが、残念ながらほとんど伏字化されていて、詳細は不明。

「大杉暗殺と軍人思想」(『中央公論』 1923年11月号)
大杉暗殺事件、「何故甘粕の如き浅見短識無思慮無分別なる将校が陸軍部内に発生若しくは存在したか」、軍人の「道徳標準を一般社会の水準に引き上げよ」。

「彼はチフス患者、我は手足挫折者」(『中央公論』 1923年11月号)
関東大震災と欧州大戦の損害比較。震災の物的損害は大戦の北仏の被害に相当。加えて、震災時の殺傷掠奪の暴行は、我が国民性の欠陥を暴露。

「短命連立内閣を造れ」(『中央公論』 1924年4月号)
清浦内閣による衆議院解散(1924年1月)に伴う選挙(5月10日投票)中。選挙後は護憲三派による連立内閣を造り、普通選挙と「軍部大臣官制改革」を実行せよ。

「排日癌の切開を要す」(『改造』 1924年5月号)
米国の排日を日本人は難詰するが、米国を責める前に自省の必要がある。米国の如き大国に対して脅喝威嚇は厳禁。

「護憲派の大捷と政局の新展開」(『中央公論』 1924年6月号)
退役により初めて経験した選挙戦。護憲内閣による普選の即行を主張。

「『戦争』一家言」(『中央公論』 1924年6月号)
ブルジョアが政治を支配せる間は軍備縮小はできはしまい。プロレタリアの天下となって後、初めて軍備の縮小も世界の平和も論ずることが出来る。〔松下芳男 『水野広徳』によれば、この年10月の『国民新聞』に、水野広徳左傾化の記事〕

「軍艦爆沈と師団縮小 − 国際平和と軍備縮小」(『中央公論』 1924年10月号)
ワシントン協定こそ日本財政の危機を救った。4個師団減少を決定した現宇垣陸相の政治的見識に敬服。国際連盟第5回総会の軍縮会議促進の決議も、予断を許さない。

「対支対露の根本問題」(『国際知識』 1924年)
対支対露関係で、日本国民は米国を恨み憎む資格なし、自省の必要あり。

「行政整理の犠牲者と新卒業生の就職難問題」(『中央公論』 1925年1月号)
行政整理による6万余の官吏の馘首、国家として已むを得ざる処置、社会としてはきわめて重大なる問題。なお一層重大は新卒者の就職難。

「米国海軍の太平洋演習を中心として(日米両国民に告ぐ)」
(『中央公論』 1925年2月号)
1月より南太平洋で6ヵ月の米海軍演習、仮想敵国は日本。かかる演習、仮想敵国民の感情を害し国交円満を損するに至ることある、ある程度は遠慮して貰いたきもの。
日米関係は、昨春の排日法案通過以来再び急激に悪化。思慮乏しき国民中にはずいぶん不穏なる米国への悪罵。米国人より見れば日本の輿論は日米開戦にあるかの如く。これが今回大演習の動機。
我が国には日米戦争煽動者が少なくない。日米戦争の勝敗を決するものは武力よりもむしろ経済力、経済関係の人が戦争可能を説くまでは、国民は軍人や愛国者の日米戦争説に耳を傾けてはならぬ。実質は微々たる問題なるに、国家の体面論から日米戦争をさえ説く者もある。我が国民は戦争の利点のみを知って未だその害点を知らざるの結果、容易に戦争を口にする。大和魂うぬぼれ病と戦争慢心病。
日米両国不和の真因は、相互の猜疑と誤解。日本は侵略に燃ゆる乱暴者でなく、米国は貪婪飽くなき剛欲者でないことを互いに覚り知らねばならぬ。戦争に依って日米問題を解決せんとするは、日本の為に無謀で米国の為に徒労。大国たる米国国民の寛裕と、小国たる日本国民の自省とが必要。軍備無ければ演習は無い、演習を心配する国民は、演習を非難する声を以て軍備の縮小撤廃を叫べ。

「日露復交に対する直覚観」(『中央公論』 1925年3月号)
日露新協約による国交の回復、我が陸軍の軍縮になお整理の余地。出来得る限り不急不要の軍費を節約し、シベリア方面の経済的発展に努めよ。

「米国海軍と日本」(『中央公論』 1925年4月号)
欧州大戦により、戦争の勝敗は一に精鋭多量なる兵器弾薬の供給如何によって決すること明らか、経済力大なら大兵力、富国は強兵を保ち得るも、貧国は到底強兵たり得なくなった。自国の経済力に目を閉じて徒に強国を誇る国民こそ哀れ。頑瞑なる日本の軍国主義者も、米国の国力が日本をはるかに優って居ることを否認しない。彼等が日米戦争の勝利を説く唯一の拠点は人の問題、大和魂。欧州戦争前、独逸人が英国民を評して、「ソロバン持つ手で鉄砲は打てぬ」と嘲ったのと同一心理、この他軽心こそ、独逸を今の悲境に沈倫せしめたる一因。米国人の米国魂を侮ることは大なる誤。

「生活安定と産業立国」(『中央公論』 1925年6月号)
海陸の軍備に国費の3割、農工商の産業費には僅かに3歩余、産業振興も産業立国もあったものではない。さらに軍縮して、大規模の産業的研究機関を設置せよ。

「日華親善と対等条約」(『国際知識』 1925年10月号)
上海の日本紡績会社の職工銃殺が動機で支那全国に国権回復運動。曾て自ら苦しみたる治外法権と関税制限とを課し、白人と共に支那を搾取するは、断じて日支国交の親善を保つの道では無い。日本は他の列国以上に支那を優待好遇すること必要。

「現内閣と軍閥との関係」(『中央公論』 1925年11月号)
政友会が抜けた加藤〔高明〕連立内閣、比較的正直。大なる強敵、軍閥。日本の政界に於て最も強大なる政府破壊力。軍部大臣武官専任制の撤廃を。

「階級問題と民族問題」(『外交時評』 1926年)
社会不安が、資産階級対無産階級の階級的闘争となりたると同様、今や国際不安は、征服国対被征服国間に於ける民族的戦争に。征服国の英仏伊三白人国を中心勢力とする国際連盟に、有色人種の解放は望めない。日本の処する道は?

「最小即最大」(『経済往来』 1927年4月)
米国から第二海軍軍縮会議の開催の提議。欣んでこれに応じ、進んで成功に努力するのが至当で賢明。軍事上最小限度の我が海軍、財政上に於ては最大限度。

「軍縮問題八面観 軍事上の純理と政治上の実際」(『中央公論』 1925年4月号)
軍備の撤廃は望まれないが、縮小は可能、戦争の勃発を緩和し、国民の経済生活を豊かならしむる。軍艦製造競争→財政窮迫、大蔵大臣が金庫の扉を閉める→海軍大臣が国防の責に任ぜずと威嚇する、軍国主義者が内閣打倒を叫ぶ→軍艦製造のために増税→物価が騰貴し、産業が衰え、文化が退歩して国民の生活を脅かす。軍備競争の苦痛と弊害とは各国とも既に十分経験済み。今回の会議、補助艦、比率の6割とか7割とか云う議論は戦術問題、国家としては今一層高所大所から達観せねばならぬ。

「『戦争と軍備』問答」(『工人パンフレットIV 「戦争と軍備」問答』 1927年4月)
軍備は縮小が望ましい、現代の戦争は勝っても利益はない、戦費と同様の金を国内で財政支出すれば、戦争しなくても産業は発達して国運は伸展する。

「軍備制限は実利問題」(『国際知識』 1927年4月号)
第二次海軍制限会議〔ジュネーブ〕への日本の快諾は賢明。其の成功を切望。軍事上の必要を捨てて経済上の必要に就くべき。

「支那の復興と我国民の覚悟」(『公民講座』 1927年7月号)
支那現在の混乱は更生の苦しみ、復興は時間の問題。日本製品の大得意先たる支那に不要な出兵、国民感情を害して自ら日貨排斥の因を作る如きは常識外。我国が産業立国に生きんと欲するなら、軍備に大縮小を加え、余れる経費と労働力を産業に振り向くべき。支那産業の発達は眼前、早く対策を講ぜざれば、我国は経済的に自滅。

「軍縮会議論(暴露された猿芝居)」(『中央公論』 1927年8月号)
ジュネーブ軍縮会議での日米英各国の提案の具体的な内容とその意味。

「軍縮会議と産業立国」(『公民講座』 1927年8月)
「喧嘩は強いが学問は駄目じゃ」は名誉か。機械類から日用雑貨品まで、品質も技術も到底外国品に及ばない、メイドインジャパンは粗製品の証明。明治時代は軍備第一主義が世界の風潮、今や時代は変化。軍備にあらず、産業の振興こそ真の国防の充実。経済競争の時代に経済力の弱き国は世界の落伍者。軍縮会議、この際軍備を縮小して余れる経費を産業方面に振り向くる絶好の機会。

「決裂したる軍縮会議」(『中央公論』 1927年8月号)
ジュネーブ軍縮会議が決裂に至った経過の概略。日本全権は軍縮の為に奮闘。巡洋艦最大備砲の英国6インチ砲案と米国8インチ砲案の衝突で決裂。

「戦争か平和か」(『太陽』 1927年10月号)
ジュネーブ会議決裂の結果として、早晩、英米の建艦競争。日本は他国の抗争外に超越して、内容〔=国力〕の充実に努めよ。

「ファッシズムと日本」(『経済往来』 1927年11月号)
ファッシズムとはムッソリニーを統領とせる少数反動的野心家に率いられた暴民専制政治。日本に於いて共鳴者の多きは何故であろう。危ないかな日本の憲政。

「反動的世界相と平和難」(『国際知識』 1927年11月号)
国際連盟は強国トラストに過ぎず。大問題を二三理事の間で討議解決せんとする傾向。連盟の危機。日本は小国の族頭となって連盟復興の十字軍を起こせ。

「我国議会政治の現状に就て」(『公民講座』 1928年1月)
我国議会、言論の府にあらずして暴力団の乱闘場の観。政党、情実に捉われ利害に迷い政治を腐敗さす。堕落政治の継続なら、国民は遂に議会政治の否定に至る。

「美保関事件の責任と水城大佐の自殺」(『中央公論』 1928年2月号)
昨秋の海軍大演習での駆逐艦衝沈、乗員百名殉難の責による、水城大佐の軍法会議判決を待たずしての自殺事件について。

「赤切符」(『経済往来』 1928年5月号)
鉄道の三等車の情景。

「撲滅より免疫」(『中央公論』 1928年6月号)
1928年3月15日の共産党一斉検挙について。過激思想は、権力の弾圧による撲滅策よりも、西洋諸国のように思想の訓練に依って免疫とすべき。

〔当時、1927(昭和2)年5〜9月に第一次山東出兵、1928(昭和3)年4月に第二次山東出兵、6月には満州某重大事件(張作霖爆殺)が発生、少しキナ臭くなりつつある状況〕

「英仏協定の無遠慮評」(『国際知識』 1928年11月号)
英仏間の海軍秘密協定。英国に都合のよい協定、他の国に同意せよと云う。米国は必ず反対。英国の浅慮短見。

「資本階級の就職優先」(『経済往来』 1929年1月号)
大学・各種専門学校卒業者の4割6分は就職できず。思想悪化の温床。

「軍縮劇」(『改造』 1930年1月号)
〔ロンドン軍縮会議の前に〕 軍人に軍縮の協定をやらすは愚。首尾よく行けば御手拍子。

「洋々会決議案」(『東京朝日新聞』 1930年6月5日)
ロンドン条約について、予後備海軍将官連の組織せる洋々会が、政府処置の不当を決議、その内容の古めかしき。政府の処置は至当。統帥権うんぬんは憂慮に堪えず。

「巨頭か虚頭か」(『東京朝日新聞』 1930年7月20日)
政府の司令で締結調印した国際条約に、軍事技術部たる軍部が異議を唱える権由なし。軍令部はロンドンの縁日掛値商売を正札で押し切ろうとした。

「海軍お家騒動の総勘定」(『中央公論』 1930年9月号)
〔1930年1月21日からのロンドン海軍軍縮会議、日本側の対米7割要求に対し6.975割で妥協成立、4月22日に条約調印、4月25日の議会で政友会犬養毅総裁と鳩山一郎が政府を統帥権干犯で追及。6月10日に加藤寛治軍令部長が直接天皇に辞表提出。(以上の経緯は、半藤一利・保坂正康 『総点検 日本海軍と昭和史』)〕
ロンドン条約に対し海軍、漸く軍事参議会に於て、「ロンドン条約の兵力量は軍備作戦上不十分なるも、同条約は短期間なるを以て国防計画を樹立し得るものと認む」。この決議の前半は加藤軍令部長の体面保持、後半は財部海相の責任回避。
政府が軍令部の主張を退け、条約の調印をするや、軍令部は躍起となって政府の統帥権干犯を叫び、加藤軍令部長は帷幄奏上、度に過ぎた7割宣伝に自縄自縛。
ロンドン縁日会議で日本の最小限度は正札の儘では売れず、理屈上国防に欠陥を生じるという問題。軍令部は先の宣伝の手前、今更引くに引かれず。そこへ臨時議会の開会、政権に飢えたる政友会も加わって、問題は複雑化、政治化。憲政の神とまで謳われたる犬養総裁までが軍閥の提灯を持ち、統帥権干犯を口にする。
政府と軍令部との間に板挟みとなって最も苦労したのが時の海軍次官山梨勝之進中将。ロンドン条約の成立は外に在っては若槻全権、内に在っては山梨の功が多き。
財部海相は海軍次官の更迭と同時に軍令部次長末次信正中将の罷免を断行。加藤軍令部長は、翌日帷幄奏上し骸骨を乞うの非常手段、海軍お家騒動のクライマックス。加藤軍令部長は更迭で、ひとまず退却、彼の反感は益々昂騰。財部が加藤を軍事参議官に推奏したのは敵を臥榻の下に置いたようなもの。軍事参議会はジレンマの中、冒頭の意見、苦心惨憺の跡。
今回の軍縮劇、最も所作の拙劣は財部海相、余りにも信念と思慮を欠く。若槻〔全権〕に口説かるれば若槻に靡き、浜口〔首相〕に泣付かるれば浜口に従い、加藤に詰められれば加藤に就く。政治家として若槻の深き思慮なく、軍人として加藤の固き信念なく、海軍の長として加藤友三郎の威望と才幹を欠いて居る。
ロンドン条約兵力量は軍備作戦上不十分と認めたる結果、軍令部に於ては補充のため新たに航空隊・巡洋艦・航空母艦等、経費総額約2億6千万円の海軍拡張計画、我国民はこの不景気の時代に背負わされる。政府がどの程度までこれを容れるか。
〔本ウェブサイト中の「日本が学ばなかった大戦の教訓 B 艦隊決戦より海上封鎖」のページで、本評論から引用〕

水野広徳の評論 1930〜1944 (『著作集』 第6巻)

『著作集』 第6巻には、満州事変発生の前年の1930(昭和5)年から、水野の死の前年の1944(昭和19)年までの15年間に発表した、61編の評論・投稿が所収されています。(目次も掲載数も単純に数えると62編ですが、うち「陽気の加減」は、なぜか2箇所に重複掲載されているので、実質は61編です。)

この期間の初め、満州事変の勃発から間もない頃には、水野広徳は、上掲の『打開か破滅か 興亡の此一戦』を出版(1932年)するなど、とくに日米非戦と満州事変への批判を積極的に発信しています。そのためか、評論中で伏字化される箇所も徐々に増加します。その対策として、発禁とならず出版されることを優先して、表現を相当工夫して発言内容も少し控えめにしていったように思われます。

満州事変以後の日本は、こうした水野の警告に拘わらず、水野の期待とは正反対の方向に、すさまじい速度で進んでいきます。日華事変の発生した1937(昭和12)年になると、水野広徳は「この頃はすでに当局のいわゆる注意人物となり、その執筆せるものは特に厳かな監視の目をもって見られていた。ともすれば発売禁止になるおそれがあったので、先生はほとんど筆をおかれていた」(松下芳男 『水野広徳』)という状態になります。

確かに、執筆することがあっても、日本の軍事政治状況自体を主題とはせず、波風の立つ恐れが少ないテーマに変わっていったように思われます。しかし、それでも水野広徳は、与えられた少ない発言の機会を出来る限り活用して、日米戦争への警告を発し続けただけでなく、支那事変や、欧州でのヒットラー・ドイツ対英仏の状況についての論評も行っています。それらの論評中で、水野はマクロ的には結果をほぼ適切に予測しており、彼の軍事的知見の高さと予測の適切さが、あらためて良く分かります。

以下は、この61編の評論の内容です。

「倫敦条約側面感」(『国際知識』 1930年9月号)
ロンドン条約が軍部の強烈な反対に会うや、政府は兵力量の不足に対し制限外の兵力を以てする新補充計画を承認とのこと、軍縮によって軍費軽減できぬとすれば、条約の効果は皆無となる。経済力を無視して兵力量のみ重きを置くのが戦争軍人の通弊。

「スポーツと思想」(『文芸春秋』 1930年10月号)
文部当局が青年学徒の左傾を防ぐためスポーツを奨励。効果あるやは大なる疑問。

「国家と国防」(『公民講座』 1931年1月号)
我国の軍人は常に軍備と国防とを混同。オランダが南洋の宝庫をほとんど無防備、無軍備同様の支那が独立を保持、雄大な軍備を擁したドイツが没落の底。国家の安否は軍備の大小より国民の覚悟。

「陽気の加減」(『東京朝日新聞』 1931年8月15日)
9月18日満州事変勃発の直前。参謀総長の軍縮反対。最近は陸軍の鼻息の荒いこと。

「日本の若返り法」(『海運』 1932年1月号)
枢密院、大臣、軍人。老人跋扈の日本。今の日本を救うの途は国家と社会の若返り。

「軍縮会議」(『東京朝日新聞』 1932年2月17日)
満州・上海の事変の最中にジュネーブ世界軍縮会議。各国の満足する軍縮は不可能。

「太平洋作戦高等考察 日米戦はゞ」(『経済往来』 1932年3月号)
上掲『興亡の此一戦』(1932年10月10日発行)巻末論考の「太平洋作戦の考察」の元評論。この『経済往来』版の数字や文章が一部だけ訂正されて、著書に付された。

「加州攻撃」(『文芸春秋』 1932年7月号)
この内容は、結論部分だけを変えて、上掲『興亡の此一戦』の本文中に取り込まれた。

「日米開戦と英露の動向」(『経済往来』 1932年10月号)
本評論の内容も、上掲『興亡の此一戦』の本文中に取り込まれた。満州事変が日米戦争の原因足りうるとの指摘は、満州事変が原因で日米開戦、との想定に変更された。

「日米若し戦はゞ」(『東洋経済新報』 1932年12月10日号)
〔『興亡の此一戦』出版直後、東洋経済新報経済倶楽部での講演の再録(大内信也 『帝国主義にNOと言った軍人 水野広徳』)。〕
今日、日米戦争関係の書物は50種ばかり、相当売れる。その大部分と違い、日米戦争を否定する気持ちで書いたが、発禁。本屋の営業政策上、発禁になれば却ってよく売れるとかで、改定して書名に日米の文字を加えて出した。
アメリカ海軍、日本に積極的に戦争をしかける力はない。日米戦争ありとすれば、それは必ず日本がアクチブ。政府の満州事件に対する態度、徒に世界の反感を挑む。13対1を二度三度繰り返すなら、日米戦争のみならず、世界を相手の戦争という境遇に立至りはせぬか。満州問題、一番当局の忌諱に触れた。欧州大戦の前にドイツがモロッコ事件で世界の反感を買った事実、ドイツが世界に孤立した大なる原因。
現代の戦争は常備兵力の戦争でなく、国力そのものの戦争。物資・交通輸送・工業力の発達が国家の戦闘力の基礎。その要に財力。金がなくては戦は出来ぬ。人力は精神力と技術力、日本は米国に劣るところはない。物質力は定備物力と補給物力、アメリカの艦隊は主力艦ばかりが強くて、補助艦は劣勢。
日本がフィリピンとグァムを占領したら、そこで日米戦争は持久戦となる、世界のほとんど総ての軍事評論家の意見の一致。結局体力が強くて長続きのする方が勝つに決まっている。漸減から撃滅という日本の作戦、思う通りうまく行くかは疑問。世界が日本に反感なら、日本が物資を得ることは非常に困難。持久戦の打開にハワイを空襲しうるなら、反面東京を焼き討ちされる危険。日本は持久戦か東京焼打かのジレンマに陥る。
満州事件以来日本には戦争気分が横溢して軍人の羽振りが良い、今や軍人全盛時代の感。日本のこの先どうなるのかも恐ろしい気がする。

「海の生命線を剖く」(『中央公論』 1933年5月号)
日本は正式に国際連盟脱退を通告。これにより新たな国際問題が生じる恐れ、南洋諸島に対する日本の委任統治問題。海軍は、問題発生するとしても統治権を放棄せざること、決定。南洋諸島の我が海軍作戦上の効果甚大、海の生命線。

「世界海軍競争の行く処」 (『海運』 1933年10月号)
当面の海軍競争は条約範囲内。問題は会議決裂、軍縮条約が無効となった場合。海軍競争は当然。日本は英米の6割以下に下がることを忍ぶ覚悟が必要だが、それなら最初から7割程度で協定を結ぶ方が有利。物資力・工業力で競争に耐え得ないのに決裂なら愚の骨頂。脅喝外交は功を奏せぬ。

「平和への直言」(『改造』 1933年11月号)
〔1931年9月の満州事変後、1932年に上海事変、五・一五事件、満州国承認、1933年に日本の国際連盟脱退通告、関東軍の華北侵入と塘沽停戦協定、第1回防空演習など、日本の積極武断策実施よって世界からの孤立が進展する中、水野広徳の危機感が溢れる評論。文中に「(○○字削除)」と示されている削除字数の合計は3千字を超え、それに加えて更に伏字箇所も多数ある。〕
自国の欲望のために他国を侵略することは無名の師。戦争に興味を感ずるのは軍人、恐るべきは軍人が政治上に権力をふるうこと。国民大衆は戦えば必ず勝つものと心得、戦争を歓迎する者も少なくない。何時の時代も何れの国も、国民大衆は対外硬論を悦ぶ。国際協調を説くことははるかに大なる勇気と愛国心を要する。今平和を説いて戦争に反対することは、間抜けと笑われるかもしれない。
日本は今あまりに多くの国際事件、敵を持ちすぎている。欧州戦争でのドイツに対する米国の心理は、日米戦争での英国の日本に対する心理と同じ。日本海軍が英米連合艦隊と戦うとせば、勢力比は10対3ないし10対3.5。対米6割ですら国防の安全が保てないという日本海軍従来の主張に照らせば、その結果は述べる必要がない。英米のいずれか一方と緊密なる親善関係を保つことを得ば、太平洋の波は日本にとりて常に静か。

「海軍より非常時を訊く座談会を読みて」(『東洋』 1934年2月)
「36年危機」〔=軍縮条約の有効期限到来〕に関し、上記「世界海軍競争の行く処」で述べた、協定存続が有利であることの再論。

「理解ある同情」(『他山の石』 1935年6月)
『信濃毎日新聞』に「関東防空演習を嗤う」を書いて同紙を去った桐生悠々が刊行を開始した、『他山の石』の1周年記念号への祝辞。悠々先生は我等にとって大なる存在。

「1936年の日本? 世界の中心問題はどうなるか?」(『労働雑誌』 1936年1月号)
現在の三大重大事件。一、海軍軍縮会議、米国の比率主義に、日本が均等主義一点張りで進めば決裂し、戦艦1隻1億円の海軍競争。二、イタリアのエチオピア侵略、威張りながら仲裁人が出てくるのを待っているのがイタリア。三、北支問題、〔伏字が多すぎて意味不明瞭だが〕日支××となれば、英も米も指をくわえて拱手傍観はしない、東洋の不安。

「愚なる敬礼」(『東京朝日新聞』 1936年1月10日)
バスの事故防止のため、運転手が片手をハンドルから外しての敬礼は禁止すべき。

「軍縮会議の決裂の経路と建艦競争」(『中央公論』 1936年2月号)
開催中のロンドン海軍軍縮会議、最早軍縮会議の弔鐘を訊くの外ない。日本対英米の海軍競争は避け難い。問題は製艦費、結局は国家経済力の競争。〔伏字箇所、多数〕

「輿論と大衆」(『日本学芸新聞』 1936年5月1日)
日本では二・二六事件。すでにナチス独裁体制を構築していたヒトラーのドイツは、ラインラント進駐と国会選挙(同年3月)。政治に対する大衆の輿論は浮草同様、頼りない。

「伊エ戦争の教訓」(『他山の石』 1936年6月5日)
イタリアのエチオピアへの軍事侵攻方針に、エチオピアが国際連盟に提訴(1936年1月)。国際連盟の無力無能を批判。

「敬礼の価値」(『東京朝日新聞』 1936年11月1日)
バス運転手の敬礼問題、運転上何ら差し支えないとの指摘に感謝、杞憂を慚謝。

「文化と戦争」(『日本学芸新聞』 1936年12月1日)
軍人間に文化排撃の教育無用論。新兵器による戦闘力の著しい増加を忘れた半面感。

「海軍無条約時代」(『日本学芸新聞』 1937年1月15日)
昨年末で軍縮条約は機能を停止。日本と英米、何れの主張が正しいかと、条約破棄が日本にとって賢策か愚策かは別の問題。過度なる軍備の準備は国防の欠陥にもなる。

「星錨問題」(『改造』 1937年3月号)
星は陸軍、錨は海軍。現在日本の政治は軍部の影響下。と言っても、陸軍のみが政界に幅を利かしているのは何故か。陸軍の大部分は山野で上官の命令のままに行動。海軍の軍艦、統帥系統こそあれ執務の上ではむしろ協同助力。陸軍、自由行動を禁じ、全体として一挙手一挙動。海軍、分業を主義、自由意思を尊重、協同によって全体の行動を完成。陸軍は独逸的の規則万能の画一主義、海軍は英国流の慣例本位の実際主義。

「インテリ漫才 大臣学第一課」(『文芸春秋』 1937年4月号)
新議事堂3つ分で軍艦1隻、予算の約半分が陸海軍費、政党の去勢。

「時局をどう観るか 解散から総選挙まで」(『改造』 1937年5月号)
3月31日、林銑十郎内閣による「食い逃げ解散」への批判。

「海軍の自主的態度を望む」(雑誌不明、1937年春 − 著作目録には含まれず)
〔松下芳男 『水野広徳』が、ある雑誌に寄せたものとして引用、しかし『著作集』はそれを確認し得ていないとしているもの〕
無条約となって、海軍予算は一躍4割に近き暴騰。軍部の政治進出、国内の言論機関を窒息去勢。ファッショの伊太利、ナチスの独逸、ソヴェート露西亜が皆これ。軍部と言っても陸軍も海軍もある。陸軍の尻馬に乗らず、永野海相は、自主的海軍で進むべき。
僅か二十海里のドーバー海峡、仏蘭西海軍は英国海軍の約二分の一、それでいて仏蘭西は英国に警戒心を抱かず、英海軍に競争する意思もない。英国の平和政策への仏蘭西の信頼。日米海軍競争、米国の財力と工業力は、充分にこれに堪え得る。満州事変以後、我国の対外国策は著しく排外的あるいは抗外的。永野海相は、重税に喘ぐ国民を救うため、有害にして無益な海軍競争を避くる途を講ずべき。戦争を防ぐことこそ、国家百年の安泰、国務大臣としての真の輔弼の責。

「婦人と戦線」(『家庭』 1937年5月号)
欧州戦争、男子の欠乏を補うものは婦人、婦人の助力無くして戦争遂行不可能。戦争は婦人解放を促進する好き機会だが、婦人の本務は平和の守り神として戦争防止。

「国防と国民 国防の基調は国民の幸福に在り」(『日本学芸新聞』 1937年5月20日)
国民の幸福を離れて国防の必要はない。国民の幸福とは、自由と経済。

「文化の立場から近衛内閣に要望する」(『日本学芸新聞』 1937年6月10日)
生活の安定により、国民の腹を満たせ。

「『他山の石』三周年に寄す」(『他山の石』 1937年6月20日)
三十余頁の小雑誌に過ぎずとは云え、暴権の肺腑を抉る。悠々居士の不撓不屈。

「資源の再配分」(『日本学芸新聞』 1937年7月10日)
近衛首相は、国際資源の公正自由なる分配を説く。それなら、労働条件の問題を忘れてはならぬ。何事も欧米と対等なら、国防充実のためにも、日本の労働条件の改善を。

「無条約時代に善処すべき諸問題」(『東亜公論』 1937年8月)
本年初頭から軍備無条約時代入り。ここ数年の間には、とにかく海軍条約が再び締結される時期が来ると固く信じている。今、アジヤ、ヨーロッパを通じて到るところに一触即発の危機。欧州には当分戦争は起こるまい。アジヤにおける触発的危機は支那に対する日本の態度で決定する。日ソ間には戦争は絶対に起こらない。日本のファッショは軍部中心国防中心、反国民性。満州の近い将来の完全発達には大なる疑問。アイルランドを見給え。印度にしてもそう。今日印度人の反英的感情は相当なもの。

「正義の真意義 − 挙国一致と社会正義と」(『日本学芸新聞』 1937年9月1日)
〔7月7日盧溝橋事件が発生、日支事変に拡大〕 出征兵士の大多数は持たざる階級に属す。持たざる国が持てる国より力で奪うことが国際正義として許されるなら、持たざる人間が持てる人間より分与を要求することも社会正義として許されねばならぬ道理。

「北支事変の感想 支那人は神にあらず」(『改造』 1937年9月号)
抗日排日の起こるのは当然すぎる程当然。〔伏字多数で論旨の詳細は不明瞭〕

「戦争漫談」(『改造』 1937年9月特大号)
日本海海戦は好条件に恵まれた。敵前回頭中三笠に敵弾が命中しなかったのは、偶然の問題、強運好運、天佑神助。
ジュトランド海戦。敵の水中攻撃に対する過度の警戒心、英国大艦隊ゼリコー長官、敵を撃滅するより味方を保存することにより強く専念。一方巡洋艦隊ビイチイ中将、独断専行の結果、巡洋戦艦2隻を撃沈された、軽挙軽進。英国艦隊は戦略的には失敗、戦術的にはむしろ敗戦。責任はゼリコーとビイチイと半分づつ。
ゼリコーが憂慮した潜水艦、活動は目覚ましきが、独逸潜水艦の破壊沈没は200隻の多き。日常の生活が極めて窮屈不快。潜水艦の戦闘力は乗員の精神力が重きをなす。
独逸では戦争の末期に、英国でも軍事と政治の軋轢。チャーチルの回顧録、「戦時に於ては将軍や提督の意見は正しく、あらゆる文官の意見は間違いであるという愚かな説」。

「英国に与ふ」(『改造』 1937年11月号)
支那において日本と英国の利害が全面的に正面衝突。実力勝負の戦争に依るか、外交交渉の協調に依るか。実力に依り総てを得たとするも、得る処と失う処いずれが大なるかは疑問。外交交渉に依るなら、双方の互譲、虚心坦懐に反省する雅量と寛裕が必要。愛国的感情と利己的欲念に駆られた自己独善では、互譲に達せられない。
今回の支那事変、日本反対の急先鋒は英国、英国の権益に影響が大。日英勢力の衝突は早晩免れ難きの声。英国単独で日本に砲口は絶対にあり得ない。問題は米国との提携。日本は、物質的に2倍以上の敵に対するは、大なる苦戦を免れない。大国には大国のプライド、その面子を重んじることが時局柄特に必要。

「日本人と攻撃精神」(『日本学芸新聞』 1937年11月20日)
支那事変、我軍は破竹の勢、旺盛なる攻撃精神。「攻撃は最良の防御」。しかしあまりに攻撃に専らは、防禦を侮る。項羽は70余戦ことごとく勝ったが、垓下の一戦に敗亡。

「主将と幕僚」(『中央公論』 1937年12月号)
帷幄・幕府の語源、主将型と幕僚型の軍人、日露戦争の海戦での東郷平八郎長官と、秋山真之参謀・島村速雄参謀長・加藤友三郎参謀長。

「香港と其攻略戦」(『文芸春秋』 1937年12月臨時号)
支那への英国の武器供給、日本が宣戦布告して英国が中立宣言せぬ限り、正当なる商行為。日本の宣戦布告の躊躇は、中立国の中立義務励行に因る〔日本側〕軍需原料の不足と、中立国船舶に対する臨検権行使による国際摩擦の激化を恐れる為か。
従来の日米戦争説・日露戦争説に、日英必戦論。仮想敵が多きに過ぎる。武田信玄は、上杉・北条・今川・徳川・織田と周囲に強敵、どれかと必ず和して、敵を腹背に受けず。秀吉の天下は、能く人と和したため。腹背に敵国を作らぬことが外交の要諦。
日英戦争の場合、香港よりもシンガポールがより重要。しかし、香港も海軍根拠地として脅威、攻略するには〔台湾からの〕空軍力。香港攻略の日英航空戦こそ空前の壮観。とはいえ英国の航空母艦は自由に東京湾外に迫り得る。

「支那事変と日英対立論」(『日本評論』 1937年12月号)
満州事変における米国の対日抗議はピューリタン的国際理想主義の発現。今回英国の対日反対は専ら英国の利害関係から、一層深刻で複雑。南京政府を見捨てることは英国の権益を放棄すること。
英国人はブルドック、平素は極めて寛容、一度怒って噛み付いたら死んでも放さぬ。平時は徴兵制度にすら反対、戦争となれば全国の大学生のほとんど全部が率先志願兵。実利と必要の前には体面は第二問題、大いに伸びる為に屈することを恥としない。
日本が「持たぬ国」を標榜してイデオロギーの国際陣営を張った以上、「持てる国」英国として対日関係決定の時。独力解決策をとりえないので、米国との共同戦線に全力。英米は、日本の発展国策そのものを批判。日本も満州と北支を経済的に支配するに至れば、最早持てる国。そこに日英対立の緩和策を見出すことが必要なのでは。

「日露戦争と今日の戦争」(『日本評論』 1937年12月付録)
欧州大戦、世界の強国ことごとく参加、規模の大、戦闘の烈は日露戦争に幾十倍、飛行機、潜水艦の出現活躍によって、空中から海中まで、有史以来初めての立体的戦争。
今次事変の我が飛行機の活動は目覚ましきもの。現代の飛行機の軍艦への攻撃力と破壊力は未試験の大問題。支那海軍は微弱のため、この重大問題を解決する機会を持てない。爆弾は、命中率大には低空投下、爆発力大には高空投下が有利、このヂレンマ解決のため米国海軍案出は急角度ダイビング法、高空より敵艦を見つけてほとんど垂直で急降下し、爆弾を投下。飛行機対軍艦の戦闘こそは今日の世界海軍の最大問題。
欧州大戦中の独逸潜水艦の活動は主として通商破壊戦、軍艦対潜水艦の戦闘は未知。潜水艦、戦術的には攻撃兵器だが、戦略的には防禦兵器。日本が有力な潜水艦を有する限り、敵の大艦隊は容易に我が沿岸には近づき得ぬ。水中スピードの鈍い潜水艦は、進んで攻める兵器より止まって守るに適する兵器。

「日本海軍論」(『時局月報』 1938年1月号)
満州事変と支那事変、国際連盟は日本には決議のみ、伊エ戦争の伊太利には経済封鎖、欧州の近火のため、また日本の海軍力を憚ったため。日本は海軍軍縮条約によって海軍費の縮小、民力休養と産業発達、空軍整備、体面面目は別とし、実害なく実益あり成功。英米との海軍競争に堪え得るや否やは、大陸に発展するか、島国に退却するかの分れ途。財力を以てする長期の海軍競争戦こそは一層困難で重大なる問題。日本海軍は伝統的に政治に拘わらず。海軍軍人がこの伝統精神を守る限り国民は海軍に信頼。

「英米海軍の弱点」(『中央公論』 1938年3月号)
英米ソ仏の持てる4国に対し、日独伊の3国が持たぬ国を標榜。世界の独立国は50幾つ、豆粒ほどの国も。日独伊はむしろ甚だ多くを持てる国、あたかも三井、三菱に比較して安田や住友が貧乏と言うのと同様。英国は東洋南洋に大なる領土と権益、現比率を以て到底その領土を防護し得ないこと、英国海軍弱点の第一。東洋に広大領土の英国には、地中海の制海権とスエズ運河の航行権とは重大問題。地中海航路の不安こそ英国海軍第二の弱点。米国海軍の弱点は、その均勢を得ざる艦隊。米国艦隊は大きな胴と足(主力艦と甲級巡洋艦)とを備えながら手(乙級巡洋艦)の極めて短い不具者。

「戦争と民族」(『改造』 1938年5月号)
支那事変発生以来皇軍向かうところ前に敵なし。支那軍に有力な大砲の欠乏。上海の防御戦を失ったとき蒋介石が、「能く2ヶ月を支えた支那軍は、破れたりといえども世界に豪勇を誇るに足る」と言ったのも、負け惜しみばかりではない。支那人の民族的団結心の強いことは世界的に有名。装備劣悪、作戦指揮拙劣、給料さえも満足に貰えぬ傭兵が、我軍の10倍以上の損害を被りながら尚も抵抗。もし優良の装備兵器・訓練・指揮官を以てすれば、支那軍の戦闘力は侮ることは出来ない。蒋介石とその周囲と軍隊ばかりが抗日排日であると思ったなら、認識不足。日本人は攻撃精神旺盛、支那人は常に相手の攻撃を待つ受け身の戦術。フランスが欧州大戦で払った犠牲は490万人超、我が軍の損害が10万、20万で驚くようでは、世界大戦の本舞台には立てぬ。

「偶感」(『他山の石』 1938年11月)
筆の戦いを讃える歌、3首。

「長期戦下の文化国策に直言する」(『日本学芸新聞』 1938年12月1日)
国民の意思発表の自由なくして、一切の文化は発達しない。

「兵は機である」(『改造』 1939年6月号)
欧州だけでは戦争は起こらないと信ずる。しかし兵は機。
〔実際にはこの年9月1日、ドイツのポーランド侵攻から第2次世界大戦が勃発〕

「日本外交の基調」(『日本学芸新聞』 1939年9月5日)
日本の取るべき策は、英ソいずれかの一方と協調、敵を一元化すること。

「怪奇微妙な欧州戦局」(『日本学芸新聞』 1939年9月20日)
〔9月1日ドイツ軍のポーランド侵攻開始、英仏は3日ドイツに宣戦布告も、何も軍事行動を行わなかった状況〕 世界はこの戦争が真剣勝負か八百長戦かを疑っておる。

「輿論 汪兆銘と事変処理への・・・」(『日本学芸新聞』 1939年10月5日)
汪兆銘が事変処理に適かは、支那国民が彼を愛国者と見るかで決する。汪氏の和平声明が求める日本軍の即時撤退がない限り新政権樹立は事変処理に大なる影響はない。

「国際時局と日本」(『外交』 1939年10月23日・10月30日・11月6日)
今次欧州戦争、ソ連抱込で英仏を抑え得ると信じたヒトラーの誤算。この戦争が本格的になれば必ず長期戦、その場合独逸は幾多の弱点と欠陥。日本の立場、この戦争が長引けば長引くほど相対的利益。日本の対支問題解決、目の上の瘤は米国。安全無難な対策は、長期摩擦を覚悟して既成事実を時効的に黙認せしむること。問題は日本の国力が長期抗争に堪え得るや。現状打破のために英国と戦うことは、同時に米国も敵とする。

「欧州動乱と歴史の教訓」(『財政』 1939年12月)
欧州現在の状勢、支那戦国7国の秦に類するものがソ連、日本戦国の秀吉に類するものが独逸。英仏対独逸の抗争は正に戦国6国の争に似たるもの、ソ連は漁夫の利。独逸の立場は秀吉の立場よりもはるかに苦しく、成功の可能性に乏しい。戦争が機械化・工業化・経済化された現代では物力こそ勝敗を決する唯一の要素。今回の欧州戦争の長期化は衆説が一致。勝敗は自ずから明らか。敗けた方は言うまでもなく、勝つとも殆んど致命に近き打撃。何れが勝つとも最大利益はソ連。日本には興亡の問題、早いか遅いか、ただ時期の問題。多難なるかな日本の前途。打開には支那事変の急速な処理が急務。

「第二次世界大戦の世界史的意義」(『科学ペン』 1940年4月号)
〔欧州の西部戦線はまだ戦闘開始に至っていない状況で〕 今次の戦争が欧州のみか、世界戦争に発展するかは不明。独逸対英仏の戦争がどこまで本気かさえ判らない。
ベルサイユ平和条約は敗戦国に復讐を挑む懲罰条約と化し、今次欧州戦争の種子を蒔いた。第一次世界大戦の歴史的意義、軍隊戦より国民戦への転化、戦争の勝敗を決するものは国民と経済力。労働運動、無産運動の勃興、ヒットラーですらも国粋社会主義を標榜。国際連盟の理想は崇高、敗戦国と共産露国の除外と米国の不参加で力は虚弱、実力制裁を加うべき兵力を有せず。
今次の戦争、英仏側は「侵略主義ナチズムの打倒」を以て戦争の目標と宣言、そこに史的意義。独裁主義対民主主義、全体主義対自由主義の戦。独裁政治即ち英雄政治、自ずから軍国主義、侵略主義となり世界の平和を脅威攪乱する危険性が甚だ多。独逸が勝ちそうになれば、米国は必ず英仏に与して起つ。米国のデモクラシー擁護は日本の国体擁護と同様に絶対的。財力・物力・工業力で世界一の米国を敵に回すことは、独逸には致命的。平和はまだ空想的理想の域。ロンドンやパリやベルリンやその他世界の大都市が焦土と化した後に於てこそ、初めて人も国も平和に目覚めるであろう。

「戦争と政治」(『海運』 1940年6月号 − 発禁処分を受けたことは確実)
立憲政治元祖の英国は、英国民自身の自由意思を以て戦争、国民精神総動員の大太鼓も、社会主義の言論抑圧も必要もない。独逸側では極端な言論の統制ないし弾圧、ただヒトラー総統とその一党の声のみ。独逸式と日本式と英国流は一利一害、一得一失。「戦争は文明を生む母なり」と唱えて戦争を讃美謳歌するのが独逸の軍国主義哲学。日本の軍人中には独逸哲学の信者が甚だ多い。戦争賛美の人間が政治を支配すると、不必要な戦争を惹起する危険。日本でも軍人勅諭や法律が現役軍人の政治関与を禁じているのはこのため。軍人が政治を支配している国は、バルカンや南米当たりの二流以下の国。文治国たる英米等では戦時すら陸海軍大臣も文官、軍人はその隷下。兵力戦を主とする即戦即決の短期戦にあっては独裁を有利とし、長期戦にあっては人の和を得たるデモクラシーが最後の勝利を占めるのではあるまいか。

「外米」(『政界往来』 1940年6月号)
旱害による米不足と物価の高騰について。伏字箇所あり。

「欧州の情勢を眺めて」(『日本学芸新聞』 1940年6月10日)
〔5月10日からドイツ軍はベネルクス3国に、17日からは北フランスに侵攻、24日以降は連合軍がダンケルクからイギリスに脱出、6月14日にはドイツ軍がパリに無血入城するという欧州の事態急展開の状況で〕
独逸のライン進軍を容認し英独海軍協定を結び、経済的援助を与える等、ヒトラーをして今日をあらしめたのは主としてチェンバレン〔英首相、5月10日に辞職〕。どうせドイツと一戦を交えねばならぬとの明があったなら起つべき好機はいくらでもあった。
連合軍側の軍事的失敗は現代戦争に対する認識不足に依る。英国が伝統の海軍力のみに依頼して、新鋭空軍の威力を軽視。ドイツ空軍の優秀はベルギー・オランダ戦線で偉大の成功。英仏の平和政策は非難すべきではないが、ドイツの軍備に目をつぶっていたことは祖国に対する罪悪。ドイツ空軍の優越は始めて判ったことではない筈。
欧州戦争はここ数日が勝敗決定の分水嶺。独軍がドーバー海峡の管制に成功すれば戦争は恐らく短期を以て英仏の屈服に終わる。これに反し連合軍が能く独軍の進撃を阻止し得たならば、戦争は必ず長期持久戦となり軍配は恐らく連合国側に揚がる。短期決戦に依ってドイツの勝利に終わった場合、次の問題は独ソの衝突。長期戦の場合は両交戦国の疲労困憊状況に依り、ソ連が漁夫の利。

「人心の刷新は責任の明断より」(『日本学芸新聞』 1940年9月25日)
ドイツが英国の制空権を完全に掌握せざる限り、また英国がその優勢なる海軍力の活用を誤らざる限り、ドイツの英本土上陸作戦は殆ど不可能。ドイツが英本土を攻略せざる限り、たとえロンドンが灰と化するとも、。英国政府は簡単にはカナダ落ちはせぬ。戦争は自ずから長期となり、英国得意の腰の粘りが物を言う。
今次戦争におけるドイツの軍事的成功、その最大の原因は電撃作戦、中立国侵略と言う国際道義の破棄に依って成功。万一敗戦の場合にはその行為に対する厳責を負わねばなるまい。仏蘭西では敗戦の責任者として、前国防大臣と司令官とに有罪の宣告。これら二人ばかりでなく歴代政府当局者の挙って負うべきもの。成功すれば軍賞に預かり、失敗すればお構いなしが近時の忌むべき風潮。欧州だけの問題ではない。

「再出発の大政翼賛会文化部に望む」(『日本学芸新聞』 1941年5月10日)
大政翼賛会の文化部長の再任は慶福。

「海の記念日と海運」(『海運』 1941年7月号)
英国海運力の消長は直に英独勝敗の決する点。海運あって、これを保護する海軍、海運の任務は重大。海の記念日は海への感謝日。海への感謝は漁業と海運の振興。

「先制の利」(海運』 1942年1月号)
〔前年12月に太平洋戦争の開戦〕 戦争に機先を制すること、海軍には殆ど決勝的。今次も我が海軍はハワイ奇襲とマレー半島沖の海戦とで輝かしき先制の利。先制の利のご利益とても無期限には続かない。3年経てば敵の戦艦も新たに建造、沈没軍艦も修復。彼等の造艦力は大、資材は豊富。長期戦に備うることを忘れてはならない。

「戦争と国民性」(『財政』 1942年3月号)
支那人英国人露西亜人等、その攻撃精神に於て、日本人や独逸人に比して著しく劣る。しかし、攻撃精神は即戦即決には有利だが長期戦には不利の嫌い。米国人の大胆不敵の冒険好き、真に愛国心に目覚めたる時こそ日本国民にとって好個の敵手となる。最後の勝利は常に必ず文化を尊重する国民の側にある。

「一億一心・鉄の結束」(『東京朝日新聞』 1944年1月9日)
今年こそは大東亜戦争の勝敗の岐るる峠、大日本帝国運命の定まる年。時局克服のために必要なるものは国民の固き団結。

水野広徳の随想・人物評・書評・日記・書簡など (『著作集』 第7巻)

『著作集』第7巻は、評論の中で、随想的なもの、人物評、書評的なもの、の3種と、日記および書簡が収録されています。

評論中の随想的なもの 3編

  • 「想華 海」(『中央公論』 1922年7月号)
  • 「酒杯漫語」(『中央公論』 1935年12月号)
  • 「杯の雫」(『改造』 1936年7月号)

評論中の人物評 11編 (なかなか面白いものが混じっています)

  • 「噫、秋山海軍中将」(『中央公論』 1918年3月号)
    − 同郷の秋山真之海軍中将への弔辞
  • 「尾崎行雄論」(『国際知識』 1925年1月号 − 著作目録では1924年12月号)
    − 軍備縮小を主張する平和主義者としての尾崎行雄論
  • 「醜男の弁」(『文芸春秋』 1930年1月号)
    − 水野広徳自身が経験したウソのゴシップ
  • 「上村彦之亟」(『改造』 1935年6月号)
    − 海軍大将、日露戦争時の第二艦隊司令長官、水野広徳は「お杯頂戴」事件
  • 「新陸相 川島義之」(『中央公論』 1935年10月号)
    − 水野は川島の陸相就任に反対の意見、陸相在任中に二・二六事件
  • 「新台湾総督 小林躋造」 (『中央公論』 1936年10月号)
    − 海軍大将、海軍兵学校で同期、小林含む条約派と艦隊派の対立も記述
  • 「米内光政」 (『中央公論』 1937年3月号)
    − 米内が林銑十郎内閣で海相就任
  • 「瓢亭・五百木良三」(『中央公論』 1937年8月号)
    − 同郷の右翼の大巨頭への弔辞
  • 「野村新外相を語る」(『中央公論』 1939年11月号)
    − 野村吉三郎海軍大将、海軍兵学校で同期、太平洋戦争開戦時の駐米大使
  • 「米内内閣をかく見る」(『日本学芸新聞』 1940年1月25日)
    − 米内内閣発足にあたっての期待
  • 「総理大臣 米内大将」(『婦人之友』 1940年2月)
    − 米内光政の人物と期待

評論中の書評的なもの 9編

  • 「読書の功罪」(『東京堂月報』 1925年10月号 − 著作目録からは漏れ)
    − 読書に関する随想
  • 「書評 『米国怖るゝに足らず』」(『東京朝日新聞』 1929年11月8日)
    − 池崎忠孝の著書への書評。著者池崎の言論は常に、日本に寛にし米国に厳。また、あまりに日本の海軍力を強視し、あまりに米国の経済力を軽視
  • 「書評 『戦争』を読みて」(『東京朝日新聞』 1932年3月18日)
    − 後藤兼文の著書(日清・日露の従軍自叙記)への書評
  • 「戦争名著物語 『此一戦』を書いた頃」(『日本読書新聞』 1937年12月)
    − 『此一戦』・『戦影』、執筆・出版の経緯
  • 「武人と読書 ‐ 書に親しんだ武将達の話」(『日本読書新聞』 1938年1月25日)
    − 軍人への読書の勧め
  • 「戦争文学に就いて」(『日本学芸新聞』 1938年9月1日)
    −火野葦平 『麦と兵隊』論
  • 「『大地の意思』を読みて」(『日本学芸新聞』 1939年11月25日)
    − 伊地知進の著書(上海戦の従軍体験、支那の農民生活を描く)への書評
  • 「書評 『世界人と日本人』」(『日本学芸新聞』 1941年2月10日)
    − 精神分析学の大家、大槻憲二の著書(日本人批判)への共鳴を表明
  • 「処女出版の思ひ出 『此一戦』の回顧」(『日本読書新聞』 1942年8月3日)
    − 『此一戦』、執筆・出版時の思い出

日記

  • 昭和14(1939)年の1年間の日記

書簡

  • 松下芳男宛
  • 松下宛水野ツヤ書簡
  • 桐生悠々宛
  • 清沢洌宛
水野広徳の自伝 (『著作集』 第8巻)

『著作集』第8巻には、水野広徳の自伝だけが収められています。一方、この自伝は、前ページで取り上げました通り、単行本(『反骨の軍人・水野広徳』)としても出版されています。

単行本の方には、@島田謹二による「解題」「付記」および刊行会による「刊行のことば」などが付されており、この自伝の執筆・刊行についての経緯が明らかにされている、A「前篇 剣を吊るまで」の内容の理解の助けとして、明治後期の松山の地図が付されている、というメリットがあります。他方、『著作集』第8巻では、これらの付録がありません。単行本の方がお勧めです。


家永三郎 責任編集
『日本平和論体系 7 水野広徳 松下芳男 美濃部達吉』
日本図書センター 1993

本書には、大正デモクラシー期〜昭和初期の平和論者として、水野広徳・松下芳男・水美濃部達吉の3人が取り上げられています。本書での家永三郎による水野広徳についての「解説」は、前ページで取り上げました。水野広徳の著作については、『著作集』には非収録の『無産階級と国防問題』、および『著作集』 第7巻所収の「書評・『米国怖るゝに足らず』」が収録されています。『無産階級と国防問題』は、以下の内容です。

『無産階級と国防問題』*(クララ社 1929)
〔『民衆政治講座』の第9巻として出版された。内容的には一般向け啓蒙書であり、水野広徳の国防論、第一次世界大戦から学んだ教訓などが良く表れている。〕
○ 国家の戦闘力(国防力)は、戦時に戦争に充用しうべき総合力。軍備は、国防力の一分子。現代戦争の勝敗を制するものは国の戦闘力(国防力)。
○ 日米戦争は持久的経済戦となり、経済力の弱きものが負ける。列国は、今や領土的=侵略主義的=帝国主義より、経済的=資本主義的=帝国主義に転進。
○ マハンの「軍備は平和の保障なり」を忠実に実行したドイツは敗れた。世界は今や平和達成の手段として軍備縮小。
○ 日露戦争までは、軍隊の戦争。戦争に勝つ為には、軍備の拡充。欧州戦争で一変、現代の戦争は国民戦あるいは国力戦。
○ 軍人は軍事専門の技術者。軍備の設定は軍人のみに委せず、財政・経済・外交に国民の意思をも加えた政治機関に依るべき。軍人の立案した軍備は常に過大。過大の軍備こそ外国に不安の念、軍備競争を誘起、ついに戦争を誘発。我国の陸海軍大臣の制度に問題、軍部大臣文官任用に改める必要。
○ 各国の軍艦建造費の総額80億円。大資本、しかも年々巨億の燃料需品を消費しながら、貨物の輸送も魚の漁獲も全くしない、不経済な資本の居眠り。
○ 実質に於いて支那の対外軍備はゼロ。然るに近年、支那国民政府の対外活躍。理由は、支那の主張が合理的、また最も重き点は支那国民の購買力。この潜在的経済力こそは百万の軍隊にも優る国防力。
○ 戦争には莫大な金が要る。欧州戦争の結果、勝者も敗者も、多額の借金、1千万人の墓、数千万の不具者、無数の寡婦や孤児。戦争が機械化・工業化・経済力化、機械力が劣れる国は戦争をなす能力なし、軍需原料の大部分を外国に仰ぐ他力本願の国防は、致命的欠陥。
○ 現代の戦争は、国力すなわち経済力の戦争。兵力で領土を争った時代は去った。現代の国家の発展とは、外国市場の経済的な征服、自国製品のお得意先を外国に開くこと。経済上の得意国〔=お得意先の国〕と戦争することは、自国の経済的破滅。
○ 米国は日本の最大得意国。日本も米国の好得意国。経済関係から見るとき、日米両国が互いに想定敵国として軍備を競うことは全く無意義の散財。日米戦争は断じてできるものではない。経済力薄弱なる国家が世界に処する根本国策は、軍備を張るよりも、戦争の危険なき平和を理想として軍備の縮小制限に向かって努力すべき。
○ 世界の経済界、工業原料獲得の為の植民地争奪時代は既に過ぎて、今や生産品売り捌きの為の販路拡張時代。商品を売り込む為には威圧や脅喝は禁物、脅喝外交よりご機嫌取り外交。現在の支那に対する列国の態度がそれ。
○ 欧州大戦の遺した最も意義ある産物は、国際連盟。国際正義の発達と、秘密外交の廃止。強大なる軍備も、国際正義に合せざる限り外交の後援とはならぬ。軍備は小なるも、国際正義に反せざる限り、他国の恐喝に屈する必要はなくなった。軍備はもはや外交の破壊者。いずれの国民も、他国の軍備は侵略の為と思っている。軍備の対立と国交の親善とは両立できるものではない。
○ 国家主義は、自国の利益の為には他国の利益を犠牲とすることを是認。社会主義は全人類の和合を念とする主義、他民族を強制的に搾取する帝国主義に反対。世界の総ての国が社会主義になれば、軍備の撤廃は期せずして行われる。
なお、著者による「序」には、「不戦条約も…本日正午を以て効力発生 … 世界の為に慶祝の至り … 今後の世界に最早戦争は無い訳 … 併しながら女郎の起請と政治の約束ぐらい当にならぬものはない」。〔しかし、この2年後には、満州事変が発生〕

水野広徳 『日本名将論』 中央公論社 1937

本書は、そろそろものを言いにくくなりだしていた頃の1937(昭和12)年、支那事変が5ヵ月後に始まる時期の刊行です。読んでみると水野広徳らしさがよく出ていて、なかなか面白い著作でしたので、ここに紹介いたします。

下記の14人の武将が、二人ずつ組み合わせて取り上げられ、論評されています。

  • 源義経と加藤清正 (人気英雄)
  • 明智光秀と石田三成 (悲劇の英雄)
  • 豊臣秀吉と徳川家康 (天下取り)
  • 平清盛と源頼朝 (相国と将軍)
  • 武田信玄と上杉謙信 (戦争スポーツマン)
  • 新田義貞と足利尊氏 (南北朝の抗争)
  • 平将門と源為朝 (反逆児と快男児)

水野広徳らしさ、というのは、本書が過去の名将を論じたものであるにかかわらず、中には伏字になっている箇所すらある、という点です。すなわち、各武将を論じる際に、それにことよせて、支那事変に進みつつある当時の日本を批判している個所が方々にあるのです。(『大日本史』や『日本外史』などの史書からの引用すら、おそらくは天皇崇敬や歴史観などに関する過剰に過ぎる配慮からと思われますが、伏字になっている箇所がありますので、全ての伏字箇所=現実批判ではありません。)

武将論そのものでも、なかなか面白いところがありまずが、ここでは、そうした現実批判の個所の一部を、以下にご紹介します。

加藤清正論の中で、秀吉の朝鮮侵攻時に、秀吉に対し「故無きの軍」であると諫めた浅野長政を取り上げて、「死を怖れず直諫をあえてした長政の如きは実に当年随一の忠臣、… 今の時代にも長政ほどの勇気ある政治家があったなら、国家も国民も助かるであろう」と述べて、満州事変以降の日本の中国侵出が「故無きの軍」であることを言外に示唆して批判。

石田三成論の中では、三成が世間一般に「陰険姦悪、侫便邪智の小人」とされていることを取り上げ、「何時の世にも時の権力者の好都合に作られた法律の恩恵の下においてのみ言論も、文章も許されるのである。資本主義支配の世においては共産主義に関する率直なる論評は許されない。 ・・・・・・〔伏字箇所〕の国にあっては、・・・・・・に対する忌憚なき批判さえ許されない。徳川時代においては苟も徳川に不利な言動や、徳川の敵に有利な言論が許されなかったことに何の不思議もない」と指摘して、軍部批判を許さない当時の日本は300年前の徳川期並みであることを示唆して批判。

豊臣秀吉論の中では、秀吉の朝鮮侵攻について、「従来の歴史の多くは秀吉の征韓をもって、国威発揚の偉業であり、皇武顕燿の壮挙であると言っている。だが公正に論ずれば、 … 失敗の事業に偉業も壮挙もあったものではなく、見方によればむしろ愚業であり、暴挙であったと言うべきである。無名の師を外に暴すこと前後七年、内は転送に民力を消耗し、外は怨恨を異邦に播結し、しかもその得るところは何ぞ。… 過ぐる欧州大戦において、ドイツ軍は個人としての剛勇を発揮したけれども、国としては敗北したのである、 … 国威を失墜し、国光を汚したものと云うべきである。秀吉の朝鮮出兵もまた甚だこれに類するものである。兵を動かして失敗したものに、東洋には古いところで元の大祖フビライの日本襲撃と、日本の関白秀吉の朝鮮征伐とがあり、近いところでは・・・・・・がある」と書いています。すなわち、水戸学と対外硬論者を厳しく批判しているほか、「近いところでは・・・・・・がある」という伏字箇所では、読者の多くは日本軍によるシベリア出兵あたりを思い浮かべることになり、日本軍の行動がむしろ国威の失墜につながっていることを示唆。

足利尊氏論の中では、権力と横暴とを論じ、「およそ政治の様式は独裁と合議の二つの外にはない。… 軍の生命は統帥である。… 軍部の政治指導精神が独裁専制主義に傾くことは言うまでもない。… だから、英、米、仏等の立憲国の如く、軍部が完全に政府に服従するか、あるいは独、伊、露等の独裁国の如く、政党が完全に撲滅されるか、そのいずれかでなければ政党と軍部との不断の抗争のためには政治の安定は到底期待し得ないのである。それは醇風美俗や挙国一致などの甘ったるい掛け声で解決の出来ない制度とイデオロギーの問題である」として、軍部の横暴を批判。

本書は、『著作集』に入っていないだけでなく、国立国会図書館デジタルコレクションでの公開対象にもなっていません。本書を所蔵している図書館は多くないであろうと思われますので、本書中で最も水野広徳らしさが出ていると思われる箇所を、少し詳しく引用しました。将来、『著作集』が改訂再刊されることでもあるなら、ぜひ収録いただきたい著作だと思います。


あらためて水野広徳の業績について

水野広徳の著作や評論の内容を、かなり詳しく紹介してまいりました。その理由は、水野広徳の業績への認知が低いと思われるためです。こうして、水野広徳の各著作・評論の内容を、その執筆の時系列にしたがって並べて、時々の政治軍事状況と対比してみると、水野広徳が行った予測はその後実際に起こった事態をかなり正確に見通していたことが、あらためて確認できました。

また、水野広徳の予測の正確であったのは、彼が第一次世界大戦の教訓を的確に学んだ結果であったことが、非常に良く分かります。水野広徳がこれだけ警告を発したにも関わらず、当時の日本はそれを取り上げなかった結果として、昭和前期の大失策を犯すことになってしまいました。

水野広徳がその著作・評論を通じて、第一次世界大戦の教訓として最も多く繰り返し指摘していることは、欧州大戦以来、戦争は、「国力そのものの戦争」、「財力と工業力の戦争」、「国力すなわち経済力の戦争」になった、ということです。

今や戦争は国力戦・工業力戦・経済力戦だ、と言われれば、日米戦争をやれば日本がアメリカに勝てるはずがない、必ず敗ける、ということはすぐに理解できます。そういう理解がなされないように、日本軍は、国力戦・経済力戦などという言葉は回避して、「総力戦」という言葉を選んだのであろう、と思われます。第一次世界大戦についての現代の研究者の多くが、いまだに「総力戦」を重要キーワードにしていることの不適切さは、水野広徳を読むと良く分かります。

他方、水野広徳が、第一次世界大戦の教訓を日本に適用することを妨げていることとして指摘しているものは、「国家的利己主義」、「偏狭的愛国心」、「国家の体面論」といったものです。言い換えれば、特定の観念に基づく正邪論であり、メンツ論です。これらが、昭和前期の日本が大失策を犯す原因となりました。

こうした正邪論・メンツ論は、現代に至るも日本から未だ消滅しておらず、またとくに中国・韓国という元儒教国では今も強く残存して、害をなしているように思われます。

あるいは、国家を企業に置き換えて、「企業的利己主義」、「偏狭的愛企業心」、「企業の体面論」などと言えば、現代の日本企業でも、いまだにこうした観念を振り回して、結果的に企業の経営を誤る事例が、決して少なくはないように思います。正邪的観念論・メンツ論こそは、カイゼンを妨げるもの、と言えるように思います。

昭和前期の日本が大失策を犯してしまった原因は、当時の日本が第一次世界大戦の教訓を的確に学ばなかったことにあり、教訓を学ぶことを妨げて国を誤らせ滅ぼしたものは、観念的な正邪論、あるいはメンツ論であったことを明確に証明しているのが、水野広徳の著作・評論である、と言えるように思います。

水野広徳の業績とその著作への関心が広がることを切に願っています。


これで、本ウェブサイトは完結です。ありがとうございました。


ページのトップに戻る

戻る前のページに このウェブサイトのトップページに戻る このウェブサイトのトップページに戻る