西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の総括

総括 C
各国が得たもの・失ったもの

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
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第一次大戦の経過

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カイゼン視点から見る日清戦争

総括@では第一次世界大戦の経済面を、総括Aでは第一次世界大戦の人命損失を、総括Bでは軍事面でのカイゼンを、それぞれ整理しました。総括の最後は、第一次世界大戦を終えた主要交戦各国は何を得て何を失ったのか、それぞれの国の得失を考えてみたいと思います。

すなわち、第一次世界大戦の主要当事国であった、ドイツ、オーストリア、ロシア、フランス、イギリス、アメリカは、戦勝または敗戦の結果、それぞれ何を得たのか、何を失ったのか、を整理したいと思います。なお、整理に当たっては、斉藤孝 「第一次世界大戦の終結」(岩波講座『世界歴史 25』所収)を参考にしています。

第一次世界大戦勃発時の経緯とも関連付けながら、見ていきたいと思いますので、最初は、皇太子暗殺事件に対してセルビアへの宣戦布告を行い、大戦に発展するきっかけをつくりだしたオーストリアからです。


オーストリアの失ったもの − 180万人の戦没と、帝国と領土

1914年の7月危機に際し、オーストリアは、自国軍に十分な対外戦争能力がなかったのにかかわらず、サラエヴォ事件への報復としてセルビアへの武力発動にこだわり、そのさい懸念されたロシアの軍事介入リスクについては、ドイツの支援さえ得ればロシアの介入は防止できるとの希望的観測に依存した結果、かえって、自らは全く望んでいなかった大戦に引き込まれてしまいました。

大戦が勃発したことで、セルビアとの2国間紛争にとどめようと考えていたオーストリアの願望は、すでに裏切られてしまっていたのですが、大戦が終わってみると、最終的には下記のとおり、帝国の消滅という結果にまで行きついてしまいました。

  • 大戦期間中に、従軍者120万人が戦死した。また、大戦期間中に、ロシア軍に領土内に侵入されたこともあり、一般人の死亡数も60万人に及んだ。戦没者総数は、約180万人であった。

  • 帝国は「消滅」した。帝国内にあった諸民族が独立、また皇帝カール1世が退位したためであった。

  • 海外権益を放棄し、軍備は3万人に制限され、戦争責任を承認して賠償を課せられ、ドイツとの合邦は禁止された。

  • なお、ハンガリーもまた、周辺小国に領土を割譲させられ、面積は3分の1に減じ、マジャール人口の3分の1がハンガリー国外に置かれることになった。陸軍は3万5千までに制限され、一切の艦艇は引渡され、空軍は禁止、賠償支払も規定された。

この「帝国の消滅」については、事情をAJPテイラー 『第一次世界大戦』から補足しておきます。以下は、その要約です。

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敗戦国の負担から免れる「策術」としての民族独立

オーストリア=ハンガリー政府は、ドイツと同じく、14ヵ条を基礎にして講和を調停するようウィルソン大統領に要請。しかし、ウィルソンにはそれができなかった。ウィルソンは、チェコとポーランド、ルーマニアと南スラヴに対して独立を約束していたため。オーストリア=ハンガリーの「従属」民族は、自分たちが独立民族として形を変えさえすれば、敗北の重荷負担から逃れて、連合国になれることを知った。革命は無害なものであった。

〔1918年10月から12月にかけて、平和裡に、チェコスロヴァキア、南スラヴ、ポーランドが生まれ、ハンガリーすら独立したが〕このような策術がすべて報われたわけではなかった。チェコ、南スラヴ、ポーランドは正式に連合国となり、ルーマニアもまたドイツとの平和条約を破棄して終戦の1日前に参戦することによって連合国となった。ハンガリーとドイツ系オーストリア人だけは、滅亡した帝国の相続人と見なされ、その罰をしょいこまされた。

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各民族独立の裏側にあった事情はともあれ、皇太子暗殺事件の報復としてセルビアへの武力発動にこだわった結果は、180万人もの戦没者と帝国自体の崩壊・消滅という、その本来目的としたものと比べてあまりにも重大で深刻な結果を生じたわけです。


ロシアの失ったもの − 300万人に近い戦没者と、やはり帝国と領土

1914年7月危機に際して、セルビア支援のロシアは、軍の動員令の発動にあたり、対オーストリアの部分動員にとどめず、総動員にこだわってしまった結果、その時まだ十分に残っていた大戦回避・紛争の局地化の可能性を縮小させただけでなく、このとき開戦をすでに決意していたドイツに利用されてしまうことになりました。

ロシアもまた、セルビア支援策の選択に関する判断を誤った結果、オーストリアと同様望まぬ大戦に引き込まれてしまい、最終的には下記の結果となりました。

  • 大戦期間中に従軍者約180万人が死亡した。またドイツ軍に領土内に侵入されたこともあり、一般人約114万人が死亡した。合計で300万人に近い合計戦没者は、第一次世界大戦での戦没者数としては、トルコに次ぐ大きさで、他の主要交戦国ドイツ・オーストリア・フランス・イギリス4ヶ国のどの国よりも多かった。

  • ロシア革命が起こり、「帝政」は崩壊した。

  • ブレヒト・リトフスク条約により、過去200年にわたってツアーがものにした欧州内の征服地のすべてを失った。

  • 日本によるシベリア出兵など、革命政府への干渉戦争は、1922年まで続いた。

帝政ロシアの領土からは、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナが独立しました。帝政が終焉し、領土からは多数の独立国が生まれた点では、オーストリアと似ていますが、それでも人口は多く国土も広く、また後継政権は社会主義政権であり、第一次世界大戦後は他の国家とは異なる独自路線の発展の道をとったところが、オーストリアとの大きな相違点でした。


ドイツの失ったもの − 280万人近くの戦没者と、やはり帝国と領土

1914年7月危機に際し、元はと言えばオーストリア対セルビアの局地的紛争にすぎなかったものを、欧州大戦に拡大させてしまったのはドイツでした。

まずはフランス、次にロシアを破って2正面とも戦勝しようとした最初の目論見は外れたものの、大戦期間中カイゼンを積み重ね、1918年初めまでは一貫して軍事的な優勢を維持しました。しかし、海上での護送船団方式と陸上での戦車の大量投入というイギリスによる二つの大カイゼンと、長期間の海上封鎖から深刻化した物資不足の結果、形勢を逆転され、最終的には実質的な降服を飲まざるを得なくなりました。

ドイツが失ったものは、下記となりました。

  • 大戦期間中に、従軍者約200万人が死亡した。ドイツ国内の戦場化は期間も場所も限定的であったが、経済封鎖の環境下での経済政策の失敗から「カブラの冬」の事態を生じ、一般人約76万人も死亡、戦没者総数は約276万人であった。

  • 休戦時のアメリカからの要求もあり、皇帝の退位と皇太子の継承権放棄により、帝政は廃止となった。

  • 海外植民地を剥奪された。ヨーロッパの領土も、アルザス=ロレーヌはフランスに返還、シュレスヴィヒはデンマークに、ポーゼンなど東西プロシアの一部がポーランドに割譲され、面積において13%、人口において20%を削減された。

  • ライン河左岸は15年間、国際連盟の管理下におかれ、保証占領された。また、ザール河流域にある炭坑の所有権と採掘独占権はフランスに与えられた。

  • ドイツの陸軍兵力は、10万人に制限され、参謀本部・義務兵役制度は廃止された。海軍の軍艦保有量は10万トン、海軍兵員は1万5000に制限され、潜水艦の保有が禁止された。空軍の保有も一切禁止された。

  • ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の特別裁判、全宰相ヴェートマン=ホルヴェークらの裁判が定められたが、オランダが亡命者である皇帝の引き渡しを拒否し、裁判は実現しなかった。

  • 賠償支払は定められたが、金額は1921年5月までに決定されることになった。
    (1921年1月、最終的に2260億金マルクに決定された)

実際に使った戦費に加え、上記のものを失ったのですから、経済的にはとんでもない損失を生じたことになります。オーストリアとセルビアとの局地紛争を活用して、ロシア・フランスの両国を軍事的に敗北させようとした試みは、帝国を潰し、多数の人命を損じ、征服地だけでなく固有領土の一部も取り上げられ、国民を著しく貧しくするだけの結果に終わってしまいました。

戦争開始のイニシャティブを取った結果として、とりわけフランスからは「憎しみ」を買い、軍事的に優勢のときには講和を仕掛けても話に乗ってきてもらえず、敗けが明白になるまで続けさせられた上、ライン左岸占領やら、賠償やら、とくに厳しい制裁を継続的に課せられることになってしまいました。


支払能力をはるかに上回る賠償額は、一部しか支払われなかった

上記の「ドイツが失ったもの」のうち、賠償支払について、大井孝 『欧州の国際関係 1919-1946』から補足しておきます。ドイツの賠償支払い能力をはるかに超過する賠償額であったため、結局、一部が支払われただけになってしまったようです。

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もともとフランスの賠償要求は矛盾

フランス側のドイツに対する巨額の賠償要求は矛盾を内包。ドイツが賠償を支払うためには、産業生産力の回復・拡大が必要。ドイツの産業の回復・拡大は、ドイツの軍事的潜在力を高めるもの、フランスは容認し得ず。

イギリスは現実的

英は対独賠償要求に終始穏健、ドイツの経済復興を通しての欧州全体の復興、自国産業の輸出市場としてドイツの早期回復を期待。経済学者ケインズ、ドイツからの巨額の賠償取立ては欧州経済全体にとって有害。英首相ロイド・ジョージ、非現実的な巨額の賠償金の取り立ては不可能とフランス側に説いていた。

ドイツ賠償問題の背景には、英仏の対米債務問題

米国は英仏などの対米債務問題とドイツから英仏などへの賠償金支払い不履行問題とを関連させることを拒否。その結果、フランスは対米債務返済の必要からもドイツに対して賠償支払いを強硬に要求し続けねばならなかった。

巨額の賠償額の決定

1921年5月、賠償金総額は1320億金マルク、30年間の分割払い、最初の5年間は毎年20億マルク+輸出額の26%、次第に年額が増加、と決定。「ルール地方を占領する」との圧力を受けドイツも同意。

ドイツは、賠償金支払い不能、ドーズ案採択

マルク暴落の状況下、ドイツは22年1・2月分、22年7月にも6ヵ月間の支払猶予を要請、さらに23・24年分の支払不能を宣言。フランスはベルギーと共に23年1月、ルール地方を占領。英米が介入して1924年4月、仏もドーズ案を受諾、賠償支払いを24年から5年間、10〜25億金マルクに軽減、29年以降は年額25億金マルク+指数で計算。24年10月からルール占領軍は段階的に撤退。24年から28年まで、ドイツは英米からの140億金マルクに及ぶ資本投下にも助けられて、賠償金支払いをほぼ予定通りに実行。

大恐慌で、ヤング案でも支払不能に

フランスは賠償問題で次第に対独譲歩に、国内財政問題の緩和に英米との協調が必要。29年6月、ドイツの支払いを一層軽減したヤング案採択、29年当時の残額1096億金マルクを59年間の分割払い、ド年次支払額を平均して約3分の1に軽減。

1929年10月24日、ニューヨークの株式大暴落。1930年9月14日、選挙でヒトラーのナチ党が107議席を獲得。中部欧州の政情不安を警戒した英米資本は大量に本国への引き揚げ開始、ドイツ賠償支払要請の理由に。31年6月、ドイツ政府は賠償支払不可能を宣言。32年7月31日、ヒトラーのナチ党が全608議席のうち230議席を獲得して第1党に。

ヒトラー政権に変わり支払履行せず

ドイツは賠償総額1320億金マルクのうち、合計で約229億金マルクのみを支払い、フランスは本来受け取るべき約686億金マルクのうち、約96億金マルクを得たのみ。33年1月30日のヒトラー政権出現の後、もはやドイツは賠償残額の支払いを履行せず。

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巨額の賠償の獲得とドイツ産業回復抑止の両方を同時に達成しようとするのは、無理としか言いようがありません。フランスがそれにこだわったのは、両方を望む強い国民感情があったからでしょうが、それは無理だと説明するのが政治指導者の本来の役割であったろうと思います。ドイツ内の反仏感情を強めただけで終わり、むしろヒトラーの権力獲得を助けてしまったと言えるかもしれません。


墺露独、敗戦3国から分かること

上に確認したオーストリア・ロシア・ドイツの共通点は、3ヵ国とも、第一次世界大戦を引き起こす原因の一部となった国であり、また戦争に負けた側であった、という点です。

結果においても、とくに下記の3点は共通点となっています。

  • 多数の戦没者を生じた
  • 帝政が崩壊した
  • 領土は大幅に削られた

最大の戦争責任国であったドイツについては、さらに、下記の結果を生じています。

  • 巨額の賠償支払いが課された
  • 皇帝ほかの裁判が決定された
    (オランダの引渡し拒否という全く別の要因で、実施はされなかった)

敗ける戦争は、絶対にしてはいけない、とくに、戦争を仕掛ける側になってはいけない、というのが、この3国の経験から明らかな教訓です。

この敗戦3国の貴重な経験から得られた教訓を全く学ばなかったのが、昭和前期の日本軍であった、と言えます。日本軍は、敗ける戦争を行ってはいけなかったし、またとくに、戦争を仕掛ける側には絶対になってはいけなかったのです。


第一次世界大戦での教訓 − 戦争の勝敗を決めるもの

第一次世界大戦の経験として、まずは戦争の勝敗について言えることとして、次のことがありました。

  • 戦争を仕掛けた側は、途中経過がいくら軍事的に優勢でも、相手は講和に合意せず、最終的に敗けるまで戦争を継続されてしまう
    (軍事的に優勢なら、有利な条件で講和できる、というのは願望に過ぎず、現実化しない)

  • 短期の講和が成り立たたず戦争が長期化した場合、経済封鎖を回避し、より強力な経済力がある支援国を確保し続けることが、最終的な勝利を得る最も有効な手段である

そもそもイギリスを敵に加わらせて経済封鎖を受け、さらにはアメリカも連合国側に参戦させたことが、ドイツの敗戦を決定づけたわけですから、昭和前期の日本軍も、アメリカとは何とか妥協を維持し続けることがきわめて重要で、敵に回すことは絶対に避けるべきであった、と言えるように思います。

この教訓を全く学ばず無視したことが、昭和前期の日本軍が、日中戦争から大東亜・太平洋戦争に進んだ原因となった、と言えるように思います。


第一次世界大戦での教訓 − 敗戦国が課せられるもの

第一次世界大戦の経験からさらに言えることは、昭和前期の日本が戦争を仕掛けて負けてしまうと、下記の結果になると見込まれる、ということでした。

  • 戦没者数は膨大になる
  • 天皇制は廃止される。革命が起こるかもしれない
  • 海外植民地が失われるのはもちろん、固有領土まで削減される
  • 既存の軍備は没収、将来の軍備も大幅に制限される
  • 巨額の賠償支払が課せられる
  • 指導者層は裁判にかけられる恐れがある
  • 相手国からは、数十年、あるいは数百年に及ぶ「恨み」を買い続ける

戦争に負けると、これだけのものを課される、という教訓として、昭和前期の日本が第一次世界大戦でのドイツの経験をどこまで適切に認識していたかは、検討の余地があるように思います。知識として知ってはいても、日本は負けることはありえないと決めつけて、思考から捨象していた、ということだったのでしょうか。

実際の第二次世界大戦後の日本の敗戦処理では、戦後統治の安定のためにアメリカの判断で天皇制が「象徴」として残されたこと以外は、程度の多少の差はあれ、第一次世界大戦でのドイツの経験とほぼ同様になりました。

現代の日本人も、大東亜・太平洋戦争の敗戦の結果として日本に課せられたものは、第一次世界大戦でのドイツに課せられたものと比べて、少しも過大ではなかったことを充分に理解する必要があるように思います。

ドイツの貴重な敗戦経験から全く学ばず、戦争を自ら仕掛け、敗けるべくして敗けた昭和前期の日本軍の指導者たちは、まことに暗愚であった、といわざるをえないように思います。敗戦の結果として日本に課されたことへの批判があるなら、戦勝国ではなく、敗ければどうなるかわかっていたのに勝てる条件のない戦争を始めた、昭和前期の日本軍の指導者たちに、その責任があります。


フランスが得たもの・失ったもの
−190万人近くの戦没者と引換に、
失地回復・海外植民地の獲得と、わずかな支払に留まった賠償金

ここまでは、敗戦国が失ったものを見てきました。次は、戦勝国側が得たものと失ったものについてです。

フランスの場合、大戦の勃発に関しては、裏側でロシアをけしかけたと言えなくはないのですが、自国側から戦争を仕掛けたとは言われないように、軍をドイツとの国境線から引き下げていたという事実もありますので、やはり被害者であったことは間違いありません。

まずは、フランスが失ったものについて。

  • 大戦期間中に従軍者約150万人が戦死、一般者の死亡約34万人と合わせて、戦没者総数は約184万人だった。

それに対して得たものについて。

  • 領土については、アルザス=ロレーヌを回復した。

  • ザール河流域にある炭坑の所有権と採掘独占権を得た。

  • ドイツからの賠償金を得ることになった。

  • 委任統治領として、ドイツ領であった東カメルーンと東トーゴ―ランド、トルコ領であったシリアを得た。

端的にいえば、アルザス=ロレーヌを回復し、シリアとアフリカの一部地域を得たものの、それに対して184万人の命を犠牲にした、という結果ですから、引き合っていたとはとても言えないように思います。


イギリスが得たもの・失ったもの
− 113万人の戦没者・海外植民地と賠償金少々

イギリスの場合、参戦の理由はロシアやフランスとは異なり、自国への攻撃に対する反撃ではなく、ドイツ軍によるベルギーの中立侵犯に対し、国際秩序の維持の必要性から、参戦しました。その意味では、国際正義のための参戦、と言えると思います。

イギリスの失ったものについて

  • 大戦期間中に従軍者約100万人が戦死、一般者の死亡約13万人と合わせて、戦没者総数は約113万人だった。

イギリスが得たものについて

  • 委任統治領として、ドイツ領東アフリカのうちタンガニーカおよび西カメルーン・西トーゴーランド、トルコ領であったイラク、パレスティナ、トランスヨルダンを得た。エジプトは保護国化した。また大英帝国の自治領であったオーストラリアとニュージーランドが、ドイツ領であった南洋群島のうち赤道以南を、南アフリカが同じくドイツ領であった西南アフリカを委任統治領として得た。

  • ドイツから賠償金を得ることになった。

参戦自体は国際正義のためであっても、勝利の結果として旧ドイツ領と旧トルコ領の植民地の多くを得ています。イギリスは、戦費及び連合国諸国への借款供与でも、最大額を支出していますので、犠牲に対する補償としてこの程度は当たり前、というのが当時の国際常識であったのでしょう。

失ったものを十分にカバーする代償であったかと言えば、そうは言えないでしょう。イギリスはフランスとは異なり、多少の空爆は受けたものの自国が戦場になったわけではありませんが、フランス以上の戦費を使って前線では主導的な役割を果たし、また連合国側の各国に借款を供与して各国の戦闘態勢を支えました。


アメリカが得たもの・失ったもの − 10万人の戦没者に見返りは得ず

1917年になって参戦したアメリカが得たものと失ったものは、どうだったでしょうか。以下は、アメリカが、戦争そのものから得たもの、失ったものについてです。

失ったものについて

  • 大戦期間中に従軍者約10万人が戦死、一般者の死亡は1000人程度であった。

得たものについて

  • アメリカは、旧同盟国の領土は何も得ていない

  • ドイツからの賠償も得ていない

最末期に参戦したため、戦死者はフランスやイギリスと比べればはるかに少ないとはいえ、それでも約10万人が亡くなっています。それに対して、領土も賠償も取らなかった、というのは、それだけ見れば非常に立派な行動であったように思われるでしょう。

しかし、そもそもアメリカの参戦は、すでに得ている巨大な経済的な利益を守るためであった、というのが実情でした。「巨額の資金が連合国に供与された。… 工場はイギリスとフランスの注文で時間外作業をした。経済は景気づいた。…もし連合国が戦争に負けたら、アメリカの貸し付けも失われるだろう。最後の手段として合衆国は、アメリカの繁栄がつづき、金持ちのアメリカがますます金持ちになれるために参戦したわけである。」(AJPテイラー 『第一次世界大戦』

アメリカの場合、戦争そのものについては確かに一方的な負担を行いましたが、戦争の背後にあった経済活動からは、この程度の負担は全く問題にならないほどの巨額の利益を得ていたわけです。


戦争は勝っても損、戦争をしないのが一番儲かる、という教訓

フランス・イギリス・アメリカの3国から学べる教訓は、何でしょうか。3国とも戦勝国でした。戦勝の結果、フランスとイギリスは領土と賠償を得ました。しかし、長期戦を戦い抜いた両国にとって、得た領土と賠償は、そのために払った犠牲の大きさに見合うものであったとはとても言えませんでした。

一方、アメリカは、領土も賠償も得ていません。しかし、最終段階まで参戦していなかったために、連合国に対する物資供給者として、経済的に大きな利益を得ただけではなく、その国際的な地位においても、欧州との関係を逆転しました。

すなわち、第一次世界大戦のような長期戦になってしまうと、最終的に戦争に勝っても、得られるものは払った犠牲には引き合わない、むしろ、他国がどれだけ戦争をしていようとも、自国だけは戦争をしないのが、もっとも利益が得られる状態である、というのが教訓であった、と言えるように思います。

第一次世界大戦での、戦争の勝ち敗けに関する、カイゼン視点からの教訓を総括すれば、以下のようになるかと思いますが、いかがでしょうか。

  • 速戦即決は成り立たない。戦争は、優勢な側が止めたいときに止められるものではなく、相手側に継戦の意思がある限り継続して長期戦化する

  • 最終的な勝利は、経済封鎖を受けていない側、より強力な経済力のある支援国を持つ側にある

  • 戦争は、敗けたら大損で国が亡びる、勝っても全く引き合わない

  • 自国は戦争をせず他国の戦争で儲けるのが、一番経済的に利益が大きく、また結果として国際的な地位の向上にもつながる



欧州大戦の総括はここまでとして、次からは、日本が戦った第一次世界大戦についてです。


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