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総括@では第一次世界大戦の経済面を、総括Aでは第一次世界大戦の人命損失を、総括Bでは軍事面でのカイゼンを、それぞれ整理しました。総括の最後は、第一次世界大戦を終えた主要交戦各国は何を得て何を失ったのか、それぞれの国の得失を考えてみたいと思います。 すなわち、第一次世界大戦の主要当事国であった、ドイツ、オーストリア、ロシア、フランス、イギリス、アメリカは、戦勝または敗戦の結果、それぞれ何を得たのか、何を失ったのか、を整理したいと思います。なお、整理に当たっては、斉藤孝 「第一次世界大戦の終結」(岩波講座『世界歴史 25』所収)を参考にしています。 第一次世界大戦勃発時の経緯とも関連付けながら、見ていきたいと思いますので、最初は、皇太子暗殺事件に対してセルビアへの宣戦布告を行い、大戦に発展するきっかけをつくりだしたオーストリアからです。
オーストリアの失ったもの − 180万人の戦没と、帝国と領土1914年の7月危機に際し、オーストリアは、自国軍に十分な対外戦争能力がなかったのにかかわらず、サラエヴォ事件への報復としてセルビアへの武力発動にこだわり、そのさい懸念されたロシアの軍事介入リスクについては、ドイツの支援さえ得ればロシアの介入は防止できるとの希望的観測に依存した結果、かえって、自らは全く望んでいなかった大戦に引き込まれてしまいました。 大戦が勃発したことで、セルビアとの2国間紛争にとどめようと考えていたオーストリアの願望は、すでに裏切られてしまっていたのですが、大戦が終わってみると、最終的には下記のとおり、帝国の消滅という結果にまで行きついてしまいました。
この「帝国の消滅」については、事情をAJPテイラー 『第一次世界大戦』から補足しておきます。以下は、その要約です。 敗戦国の負担から免れる「策術」としての民族独立オーストリア=ハンガリー政府は、ドイツと同じく、14ヵ条を基礎にして講和を調停するようウィルソン大統領に要請。しかし、ウィルソンにはそれができなかった。ウィルソンは、チェコとポーランド、ルーマニアと南スラヴに対して独立を約束していたため。オーストリア=ハンガリーの「従属」民族は、自分たちが独立民族として形を変えさえすれば、敗北の重荷負担から逃れて、連合国になれることを知った。革命は無害なものであった。 〔1918年10月から12月にかけて、平和裡に、チェコスロヴァキア、南スラヴ、ポーランドが生まれ、ハンガリーすら独立したが〕このような策術がすべて報われたわけではなかった。チェコ、南スラヴ、ポーランドは正式に連合国となり、ルーマニアもまたドイツとの平和条約を破棄して終戦の1日前に参戦することによって連合国となった。ハンガリーとドイツ系オーストリア人だけは、滅亡した帝国の相続人と見なされ、その罰をしょいこまされた。 各民族独立の裏側にあった事情はともあれ、皇太子暗殺事件の報復としてセルビアへの武力発動にこだわった結果は、180万人もの戦没者と帝国自体の崩壊・消滅という、その本来目的としたものと比べてあまりにも重大で深刻な結果を生じたわけです。
ロシアの失ったもの − 300万人に近い戦没者と、やはり帝国と領土1914年7月危機に際して、セルビア支援のロシアは、軍の動員令の発動にあたり、対オーストリアの部分動員にとどめず、総動員にこだわってしまった結果、その時まだ十分に残っていた大戦回避・紛争の局地化の可能性を縮小させただけでなく、このとき開戦をすでに決意していたドイツに利用されてしまうことになりました。 ロシアもまた、セルビア支援策の選択に関する判断を誤った結果、オーストリアと同様望まぬ大戦に引き込まれてしまい、最終的には下記の結果となりました。
帝政ロシアの領土からは、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナが独立しました。帝政が終焉し、領土からは多数の独立国が生まれた点では、オーストリアと似ていますが、それでも人口は多く国土も広く、また後継政権は社会主義政権であり、第一次世界大戦後は他の国家とは異なる独自路線の発展の道をとったところが、オーストリアとの大きな相違点でした。
ドイツの失ったもの − 280万人近くの戦没者と、やはり帝国と領土1914年7月危機に際し、元はと言えばオーストリア対セルビアの局地的紛争にすぎなかったものを、欧州大戦に拡大させてしまったのはドイツでした。 まずはフランス、次にロシアを破って2正面とも戦勝しようとした最初の目論見は外れたものの、大戦期間中カイゼンを積み重ね、1918年初めまでは一貫して軍事的な優勢を維持しました。しかし、海上での護送船団方式と陸上での戦車の大量投入というイギリスによる二つの大カイゼンと、長期間の海上封鎖から深刻化した物資不足の結果、形勢を逆転され、最終的には実質的な降服を飲まざるを得なくなりました。 ドイツが失ったものは、下記となりました。
実際に使った戦費に加え、上記のものを失ったのですから、経済的にはとんでもない損失を生じたことになります。オーストリアとセルビアとの局地紛争を活用して、ロシア・フランスの両国を軍事的に敗北させようとした試みは、帝国を潰し、多数の人命を損じ、征服地だけでなく固有領土の一部も取り上げられ、国民を著しく貧しくするだけの結果に終わってしまいました。 戦争開始のイニシャティブを取った結果として、とりわけフランスからは「憎しみ」を買い、軍事的に優勢のときには講和を仕掛けても話に乗ってきてもらえず、敗けが明白になるまで続けさせられた上、ライン左岸占領やら、賠償やら、とくに厳しい制裁を継続的に課せられることになってしまいました。
支払能力をはるかに上回る賠償額は、一部しか支払われなかった上記の「ドイツが失ったもの」のうち、賠償支払について、大井孝 『欧州の国際関係 1919-1946』から補足しておきます。ドイツの賠償支払い能力をはるかに超過する賠償額であったため、結局、一部が支払われただけになってしまったようです。 もともとフランスの賠償要求は矛盾フランス側のドイツに対する巨額の賠償要求は矛盾を内包。ドイツが賠償を支払うためには、産業生産力の回復・拡大が必要。ドイツの産業の回復・拡大は、ドイツの軍事的潜在力を高めるもの、フランスは容認し得ず。 イギリスは現実的英は対独賠償要求に終始穏健、ドイツの経済復興を通しての欧州全体の復興、自国産業の輸出市場としてドイツの早期回復を期待。経済学者ケインズ、ドイツからの巨額の賠償取立ては欧州経済全体にとって有害。英首相ロイド・ジョージ、非現実的な巨額の賠償金の取り立ては不可能とフランス側に説いていた。 ドイツ賠償問題の背景には、英仏の対米債務問題米国は英仏などの対米債務問題とドイツから英仏などへの賠償金支払い不履行問題とを関連させることを拒否。その結果、フランスは対米債務返済の必要からもドイツに対して賠償支払いを強硬に要求し続けねばならなかった。 巨額の賠償額の決定1921年5月、賠償金総額は1320億金マルク、30年間の分割払い、最初の5年間は毎年20億マルク+輸出額の26%、次第に年額が増加、と決定。「ルール地方を占領する」との圧力を受けドイツも同意。 ドイツは、賠償金支払い不能、ドーズ案採択マルク暴落の状況下、ドイツは22年1・2月分、22年7月にも6ヵ月間の支払猶予を要請、さらに23・24年分の支払不能を宣言。フランスはベルギーと共に23年1月、ルール地方を占領。英米が介入して1924年4月、仏もドーズ案を受諾、賠償支払いを24年から5年間、10〜25億金マルクに軽減、29年以降は年額25億金マルク+指数で計算。24年10月からルール占領軍は段階的に撤退。24年から28年まで、ドイツは英米からの140億金マルクに及ぶ資本投下にも助けられて、賠償金支払いをほぼ予定通りに実行。 大恐慌で、ヤング案でも支払不能にフランスは賠償問題で次第に対独譲歩に、国内財政問題の緩和に英米との協調が必要。29年6月、ドイツの支払いを一層軽減したヤング案採択、29年当時の残額1096億金マルクを59年間の分割払い、ド年次支払額を平均して約3分の1に軽減。 1929年10月24日、ニューヨークの株式大暴落。1930年9月14日、選挙でヒトラーのナチ党が107議席を獲得。中部欧州の政情不安を警戒した英米資本は大量に本国への引き揚げ開始、ドイツ賠償支払要請の理由に。31年6月、ドイツ政府は賠償支払不可能を宣言。32年7月31日、ヒトラーのナチ党が全608議席のうち230議席を獲得して第1党に。 ヒトラー政権に変わり支払履行せずドイツは賠償総額1320億金マルクのうち、合計で約229億金マルクのみを支払い、フランスは本来受け取るべき約686億金マルクのうち、約96億金マルクを得たのみ。33年1月30日のヒトラー政権出現の後、もはやドイツは賠償残額の支払いを履行せず。 巨額の賠償の獲得とドイツ産業回復抑止の両方を同時に達成しようとするのは、無理としか言いようがありません。フランスがそれにこだわったのは、両方を望む強い国民感情があったからでしょうが、それは無理だと説明するのが政治指導者の本来の役割であったろうと思います。ドイツ内の反仏感情を強めただけで終わり、むしろヒトラーの権力獲得を助けてしまったと言えるかもしれません。
墺露独、敗戦3国から分かること上に確認したオーストリア・ロシア・ドイツの共通点は、3ヵ国とも、第一次世界大戦を引き起こす原因の一部となった国であり、また戦争に負けた側であった、という点です。 結果においても、とくに下記の3点は共通点となっています。
最大の戦争責任国であったドイツについては、さらに、下記の結果を生じています。
敗ける戦争は、絶対にしてはいけない、とくに、戦争を仕掛ける側になってはいけない、というのが、この3国の経験から明らかな教訓です。 この敗戦3国の貴重な経験から得られた教訓を全く学ばなかったのが、昭和前期の日本軍であった、と言えます。日本軍は、敗ける戦争を行ってはいけなかったし、またとくに、戦争を仕掛ける側には絶対になってはいけなかったのです。
第一次世界大戦での教訓 − 戦争の勝敗を決めるもの第一次世界大戦の経験として、まずは戦争の勝敗について言えることとして、次のことがありました。
そもそもイギリスを敵に加わらせて経済封鎖を受け、さらにはアメリカも連合国側に参戦させたことが、ドイツの敗戦を決定づけたわけですから、昭和前期の日本軍も、アメリカとは何とか妥協を維持し続けることがきわめて重要で、敵に回すことは絶対に避けるべきであった、と言えるように思います。 この教訓を全く学ばず無視したことが、昭和前期の日本軍が、日中戦争から大東亜・太平洋戦争に進んだ原因となった、と言えるように思います。
第一次世界大戦での教訓 − 敗戦国が課せられるもの第一次世界大戦の経験からさらに言えることは、昭和前期の日本が戦争を仕掛けて負けてしまうと、下記の結果になると見込まれる、ということでした。
戦争に負けると、これだけのものを課される、という教訓として、昭和前期の日本が第一次世界大戦でのドイツの経験をどこまで適切に認識していたかは、検討の余地があるように思います。知識として知ってはいても、日本は負けることはありえないと決めつけて、思考から捨象していた、ということだったのでしょうか。 実際の第二次世界大戦後の日本の敗戦処理では、戦後統治の安定のためにアメリカの判断で天皇制が「象徴」として残されたこと以外は、程度の多少の差はあれ、第一次世界大戦でのドイツの経験とほぼ同様になりました。 現代の日本人も、大東亜・太平洋戦争の敗戦の結果として日本に課せられたものは、第一次世界大戦でのドイツに課せられたものと比べて、少しも過大ではなかったことを充分に理解する必要があるように思います。 ドイツの貴重な敗戦経験から全く学ばず、戦争を自ら仕掛け、敗けるべくして敗けた昭和前期の日本軍の指導者たちは、まことに暗愚であった、といわざるをえないように思います。敗戦の結果として日本に課されたことへの批判があるなら、戦勝国ではなく、敗ければどうなるかわかっていたのに勝てる条件のない戦争を始めた、昭和前期の日本軍の指導者たちに、その責任があります。
フランスが得たもの・失ったもの
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