西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

日本が戦った第一次世界大戦

@ 第一次世界大戦時の
日本の経済

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
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(『欧州大戦写真帳』より)
 
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カイゼン視点から見る日清戦争

第一次世界大戦への日本の参戦について見ていく前に、当時の日本の政治・経済の状況について、確認したいと思います。第一次世界大戦が勃発したのが1914(大正3)年、日本は、その10年前の1904(明治37)〜05(明治38)年に日露戦争を戦っています。従って、ここでは、明治末期から大正初期にかけての政治・経済の状況を見ていくことになります。

政治状況をより適切に理解するためには、その基盤条件となっていた経済状況を理解することが必要と思われますので、まずは、当時の日本経済の状況を確認したいと思います。


まだ中進国であった、その当時の日本

まずは、1枚の写真から始めたいと思います。

写真 新橋より銀座を望む 東京名所写真帖 1910年

この写真は、『東京名所写真帖』 (尚美堂 1910(明治43)年、国立国会図書館デジタルコレクションで公開)に収録されている1枚です。「新橋より銀座通を望む」と説明がついています。第一次世界大戦勃発の年からは少し前ですが、写真は速報性に価値があるという性格から見て、やはり1909〜10年に撮影されたものであろうと推定します。

東京駅が開業したのは1914(大正3)年の12月ですから、この頃はまだ新橋駅(現在の新橋駅とは少し位置が異なる)が東京の表玄関であり、そのすぐ近くの、路面電車が通る幹線道路が撮影されているわけです。実際に、路面電車が写っていますし、人力車も見えます。

ここで、もう1枚の写真と比べていただきたいと思います。ニューヨークはマンハッタンの 5th Avenue & 42nd Streetという場所です。1910年ごろの写真とされていますので、上の写真とは同様の時期です。New York Public Libraryのインターネットサイトから引用しています。

ニューヨーク マンハッタン 5th Ave. & 42nd St.の写真 1910年頃

上と下の二枚の写真は、同じような時期であっても、いろいろな違いが表れています。通りの両側の建物の高さもその相違点の一つですが、最大の相違点は、ニューヨークでのおびただしい数のクルマの存在です。


クルマは普及開始の米国、国産開始は10年以上先だった日本

米国では、有名なT型フォードの量産販売が1908年から開始されていました。その生産台数は、1909年には1万台強、1910年には2万台弱でしたが、以後急激に増加して、1914年には20万台を超えていました (Wikipedia英語版 'Ford Model T'の項目による)。米国の自動車の総生産台数は、このT型フォードに他車の生産台数が加わりますので、さらに大きな数字になります。

日本は、と言えば、国産車の製造が開始されたのが1925(大正14)年、それまでは極めて高価な輸入車しかなく、T型フォードを使ったタクシーの開業も1912(明治45)年が最初で、タクシー利用が拡大した「円タク」の普及は、1924(大正13)年以降のことであったようです(ウィキペディアによる)。したがって、1910年頃の東京・銀座の写真にクルマが1台も写っていないのも当然、と言えるようです。結果的に、当時の日本と米国の経済力格差を明確に示している証拠写真となっている、と言えるように思います。


20年以上続いた経済成長 → 大戦直前5年間は停滞
第一次世界大戦期には一転して、日本経済は未曽有の急成長

当時の日本の経済水準を、具体的に数字で確認していきたいと思います。下のグラフをご覧ください。

グラフ 日本の国民総生産 1886-1926

これは、安藤良雄編 『近代日本経済史要覧』のデータを筆者がグラフ化したもので、1886(明治19)年から1926(大正15・昭和元)年の期間の日本の国民総生産の伸びを示しています。

日本は、1886(明治19)〜1907(明治40)年の期間に産業革命を成し遂げた、と言われています。同じ期間中に日清・日露の2つの戦争も経験しました。1986年には約40億円だった「実質」国民総生産は、1910年には80億円近くに達し、25年かけて倍増しました。(同期間に、人口も3854万人から4918万人に約28%増加していますので、「一人当たり国民総生産」は倍増まで至らず、約57%の増加でした。)

この数字からしますと、明治後半の約20年にわたった日本の産業革命期は、年ごとに多少の凹凸はあっても、全体としては、当時の日本人の多くが経済成長を実感していた時期であった、と推定されます。(敗戦後の1960〜70年代も、そういう時期でした。)

しかし、1910(明治43)年から14年までの5年間は不況になり、「実質」国民総生産の伸びはほぼ停滞します。この間の国民総生産は約3%だけの増加、一方人口は5204万人へと約6%の増加でしたので、「一人当たり国民総生産」は若干ながら減少しました。

長期の経済成長に慣れきっていた後に、停滞期が5年も続いたというのは、当時の日本人の生活実感からすれば、かなり異常な事態であり、政治的にも不安感が高まって不思議はありません。

しかしそのとき、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発しました。すると日本の経済は急成長、「名目」数字の伸びの大きさからインフレも激しかったことが明らかですが、「実質」でも、1921(大正10)年には日本の国民総生産は120億円にまで到達しました。第一次世界大戦期のわずか7年間のうちに、80億円から120億円へと5割増という、著しい経済成長を成し遂げたわけです。(1914年から21年まで、人口は5204万人から5667万人へと、約15%の増加でした。)

日本が近代化を開始して、初めて急激な経済成長を経験したのが第一次世界大戦期であった、と言えます。


当時の日本の経済は繊維工業が牽引、
重化学工業製品は欧米に依存の、「生糸貿易基軸体系」

ただし、当時の日本は、産業革命を成し遂げていたと言っても、繊維工業に代表される軽工業が進展しただけの段階で、重工業・化学工業の製品は依然欧米の先進工業国に依存していました。

下は、石井寛治ほか編 『近代日本経済史を学ぶ(上)明治』のデータを筆者がグラフ化したものです。第一次世界大戦の5年前、経済成長が停滞期に入る寸前の1909(明治42)年の日本の貿易額についてです。

グラフ 1909年の日本の貿易額 総額

貿易品目を、生産財・消費財に分けると、輸出額では消費財が圧倒的ですが、輸入額では生産財の比率が増加します。では、生産財・消費財の中身は何か、それぞれ見ていきます。

グラフ 1909年の日本の貿易額 生産財の輸出入の内訳

まず、生産財についてですが、日本からの輸出は、生産財と言っても石炭や銅などの生産原材料であり、一方、輸入では機械器具や化学品が約3分の2を占めていました。

グラフ 1909年の日本の貿易額 消費財の輸出入の内訳

消費財を見てみると、輸出では、製糸・紡績・織物・その他繊維製品、すなわち繊維工業製品が6割を占めており、その中では、製糸製品すなわち生糸が、最大の輸出商品でした。輸入側でも、繊維原料、すなわち繰綿等が消費財輸入額の4割を占めていました。

本書『近代日本経済史を学ぶ(上)明治』は、紡績用機械や紡織機もまだ輸入していたこの当時の日本の状況を、「《生糸貿易基軸体系》」と記しています。この当時、日本の生糸の主要市場はアメリカで、「対米生糸輸出を支えとした、イギリスなどからの労働手段〔=機械設備〕輸入、インド、アメリカからの原綿輸入、そして中国、朝鮮その他への綿製品輸出、という貿易構造」が、「昭和初年に至るまでの貿易構造の《原型》となった」ということであり、典型的な発展途上国型の産業・貿易構造であった、といえるようです。


第一次世界大戦前の日本の製鉄業は、まだ発展途上
供給量は、国内総需要の5〜6割

当時の日本の重工業の発展状況はどうであったか、その代表例として、官営八幡製鉄所の操業状況を確認したいと思います。以下は、大江志乃夫 『日本の産業革命』からの要約です。

仕切り線

官営製鉄所の操業の開始は、実質的には1904(明治37)年

製鉄所は、1901年2月、160トン規模の第一高炉火入れをもって操業を開始、しかし原料コークスの不適応問題で最初からつまずき。独自のコークス製造技術が開発され、はじめて操業再開、1904年7月。以降順調な生産、翌年には第二高炉も操業を開始。

グラフ 日本の銑鉄供給高 1900-1911

1913(大正2)年でも、日本の供給量は低水準

1913年段階でさえ、日本の製鉄業は、世界の製銑高の0.3%、アメリカの0.8%、世界第5位のベルギーの10%たらずという低水準。労働力一人あたりの製銑量は、アメリカの8分の1、イギリス。ドイツの4分の1。

仕切り線

官営八幡製鉄は、順調な生産が可能になったと言っても、拡大しつつあった日本の需要量の4〜5割程度、八幡以外の国内を合計しても5〜6割程度しか供給できない状況でしたから、これをさらに発展させることが重要課題であったと言えるように思います。


当時の欧米列国は、一人当たりでは日本の2倍〜7倍の金持ち

この当時の日本の経済水準を、欧米列国と比較してみたいと思います。このウェブサイトの「第一次世界大戦の総括@ 主要国の戦費」のところで使った、ブロードベリ―&ハリソン論文、およびフィスク 『連合国間の負債』にあるデータを使って、グラフにしました。

ブロードベリ―&ハリソン論文ではGDPが、フィスク上掲書では国民所得が使われています。両者の元数字に差がありすぎるので、それぞれ、欧米主要国の数字は日本の数字の何倍であるのか、倍数をグラフにしました。両者間の順位の相違はドイツとフランスの1ヵ所だけ、倍率に差があるものの、全体としての傾向は類似していると言えるように思います。

グラフ 1913年の主要各国の一人当たり所得

倍率の低い青い棒の数字で見てみると、日本の一人当たりGDPは、ロシアとはほぼ肩を並べていたが、それ以外の列国にはまだ及ばず、ドイツ・フランスは少なくとも日本の2倍以上、アメリカ・イギリスになると日本の4倍近い豊かさであった、ということですし、赤い棒で見れば、オーストリアの国民所得は日本の3倍、イタリアは4倍近くで、イギリスやアメリカとなると8倍から10倍以上の豊かさであった、ということになります。

明治になって近代化に成功し、産業革命も成し遂げて、アジアで初めて中進国レベルに到達したものの、先進工業国に仲間入りするにはまだもう少し時間と努力が必要な状況でした。1896年から1910年までの日本の経済成長の実績である「一人当たり国民総生産は25年で57%増」というペースでは、オーストリア(青い棒で1.4倍)やイタリア(同1.8倍)に追いつき追い越すまで、概略もう15〜30年かかる(相手が全く成長をしないでいてくれて)という状況ですから、経済成長率をさらに高めることが重要な課題であったと思います。


第一次世界大戦直前期の日本の不況と財政難

日本は産業革命を行って、中進国レベルまでは到達していたとはいえ、まだ欧米列国との経済力格差は小さからぬものがあり、一層の経済成長を達成して欧米列国に追いつき追い越すことが必要でした。

ところが、その状況で、上述の通り、日本は1910(明治43)年から不況に陥り、それから5年間、実質国民総生産の伸びはほぼ停滞を続けます。この不況について、以下は今井清一 『日本の歴史23 大正デモクラシー』からの要約です。

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軍事費に圧迫された日本政府の財政難

日露戦争後のブームもつかのま、日本は慢性的な不況に。政府は、日露戦争以来の公債負担と軍事費の増加による財政難。とりわけ、明治36(1903)年に1億円そこそこだった外債は、44(1911)年末には16億円をこえ、45年度の外債元利支払は7300万円、それに海軍省の海外経費2000万円が見こまれていた。しかも貿易は輸入超過がつづいた。政府・日本銀行の手持正貨は、紙幣発行準備の2億2千万円をあわせても3億7千万円で、兌換停止の危機さえ噂されていた。

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外債の元利支払いが大きな負担となっている状況では、経済刺激策の実施で景気を良くして税収増を図るか、歳出全般の削減を図るかどちらかをしないと、元利払いのために新たに借金を増加する悪循環に陥ってしまいます。

軍事費が聖域化して削減が不可能であったりさらに増加するようでは、経済刺激策のための支出を削減せざるを得なくなって、経済には悪影響を与えることになります。当時の日本の経済規模からすればあまりにも過大な軍事費負担が、財政の足枷となっていた、と言えます。


当時の日本は「貧国強兵」、巨額の軍事費で経済成長に歪み

上記の「軍事費の増加」の具体的なデータとして、この当時の日本の財政に占める軍事支出の大きさについて、次のグラフは、山田朗 『軍備拡張の近代史』から筆者が作成したものです。

グラフ 日本の軍事費推移 1887-1926

日清・日露両戦争期間中の臨時軍事費の支出はやむを得ないとして、問題は戦後の支出レベルにありました。日清・日露両戦争とも、それぞれの戦後の軍事費支出は戦前を上回るか、少なくとも下回ることがないレベルで推移し、財政支出の30%を下回ることがなかったようです。

日露戦後の軍事費が「歳出の30%台前半」という数字は、欧州列国と比較すれば、高い数字でなかったことは間違いありません。フィスク上掲書によれば、主要国の開戦前3年間の平均軍事費が歳出に占める割合は、イギリスが45.7%、フランスが37.2%、イタリアが36.1%といずれも日本を上回っていました。(ドイツは64.5%、アメリカは61.9%と、日本よりはるかに高い数字でしたが、ドイツは領邦、アメリカは各州の規模権限が大きく、帝国政府・連邦政府の役割範囲が小さかったため、単純比較ができません。)しかし、日露戦争で日本に敗れたロシアは25.5%で、日本よりも小さい数字でした。


第一次世界大戦前の日本の状況に、最も妥当であったのは、
軍事費削減による借款返済と工業化促進

日本は、日露戦争でロシアを打ち破った結果として、少なくとも当面直ちに極東で大規模な武力衝突をする可能性のある国がなくなりました。他方で、日露戦争の戦費を巨額の借款で賄っていたため、まずは借款返済の必要がありました。この状況で、日本の政策として最も合理的であったのは、少なくとも当面は軍事費を削減し、それを借款返済に充てることであったと思います。

さらには、一層の軍事費削減で、浮いた資金を工業化支援の政策に回し、経済成長率を高めるとか、入手した植民地への投資に回して現地状況を安定化させるとか、経済力での対外進出を容易にするための財政支援を行うなどの政策も、検討される価値があったと思います。

しかし、残念ながらそうした政策はどれも選択されず、上のグラフが示すような高い軍事費支出を継続し、それが1910年からの経済停滞の理由の一つになったようです。


第一次世界大戦時の日本の経済のまとめ

これまで確認してきた、第一次世界大戦時の日本経済の状況を整理してみますと、下記のようになるかと思います。

  • 日本の産業革命期と言われる1896〜1907年の全期間を通じ、さらに1909年までの長期にわたり継続してきた日本経済の成長は、1910年になると止まり、第一次世界大戦勃発の1914年までの5年間、経済停滞が続いていた。

  • 当時の日本は、産業革命を成し遂げたとはいっても、繊維工業などの軽工業が中心であった。官営八幡製鉄所の稼働は開始していても、銑鉄の国内供給量は必要量の5〜6割にとどまっていた。

  • 貿易面では、輸出品は繊維製品と鉱業品、輸入は機械類や化学品が中心の、「生糸貿易基軸体系」にあった。

  • 一人当たり国民所得は、欧米列国のうち下位のロシアあたりにはかなり近づいていたものの、アメリカやイギリスと比べれば8分の1から10分の1といったレベルで、ようやく中進国レベルに達したところであった。

  • 日露戦争以来の借款負担と軍事費の増加によって、国家は財政難に瀕し、経済成長にも歪みを生じていた。


第一次世界大戦直前の日本の経済状況についてはこれぐらいとして、次は政治状況についてです。


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