西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
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下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の参考図書・資料

第一次世界大戦後の
日本の陸海軍 C 水野広徳 1

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
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カイゼン視点から見る日清戦争


第一次世界大戦後の日本の陸海軍 C 水野広徳 1

第一次世界大戦の参考図書・資料の最後として、水野広徳(ひろのり)についてです。

ここで水野広徳を取り上げる理由は、彼が日本軍人中、第一次世界大戦の教訓を最も的確に学びとった一人であったこと、また他の軍人とは異なり、その教訓から言えることを、海軍を辞したのち、書籍の出版や雑誌や新聞での評論によって、当時の日本の中で表明し続けたことです。

このページでは、水野広徳の評伝を取り上げ、次のページで水野広徳自身の著作を取り上げます。

水野広徳の業績

海軍大佐であった水野広徳は、日露戦争での実戦も経験して、軍事・国防の専門家として十分な知識と経験を持っていたのに加え、優れた現実主義者として、日本軍人の中で第一次世界大戦の教訓を最も的確に学び取った一人となり、日米不戦を主張しました。

水野広徳は、一般的には「平和主義者」や「反戦の軍人」として知られています。確かに「平和主義者」の一人ではありましたが、軍や戦争を頭から否定する観念的な「平和主義者」では全くありませんでした。

彼は、現実に立脚し、国防の必要性も戦争のもたらす災禍も、ともに強く認識した上で、当面の策としては、戦争すれば日本が敗けることが確実なるがゆえに「軍縮・避戦・非戦」を主張し、将来の最終的な理想として軍備撤廃を唱道した、そういう現実的な「平和主義者」であった、と評するのが最も適切と思われます。

その最大の業績を評すれば、「日本の軍人の中で第一次世界大戦の教訓を最も的確に学び、その軍事的知見により、日米戦えば日本は東京大空襲で必ず敗戦となることを予測し、ゆえに強い愛国心から日本の破滅を避けようと、日米非戦論を主張し続け、また日中戦争の泥沼化も予測した人物」であった、とするのが適切のように思います。

また、その本質を論じるのであれば、「メンツにとらわれない、優れた現実主義者でカイゼン主義者」であり、「常に、世界の中の日本という視点から、日本を客観的に見ようとした国際主義者」であった、と言えるように思います。

このウェブサイトで確認してきました通り、第一次世界大戦後の日本、とりわけ陸海軍は、第一次世界大戦の研究はそれなりに行ったのにかかわらず、その教訓を活用せず、その結果として昭和前期の大きな不幸を自ら招いてしまっただけに、それとはまさしく対照的な水野広徳は、もっと注目され、高く評価されて良いように思います。

水野広徳の評伝

水野広徳の評伝には、自伝も含め、下記があります。

  • 松下芳男 『海軍大佐の反戦・水野広徳』
  • 大内信也 『帝国主義日本にNOと言った軍人・水野広徳』
  • 水野広徳 『反骨の軍人・水野広徳』
  • 木村久邇典 『帝国軍人の反戦 水野広徳と桜井忠温』
  • 家永三郎 「反戦平和を説く海軍大佐 水野広徳」

なお、河田宏 『第一次世界大戦と水野広徳』(三一書房 1996)、という本もあります。本書は、書名が与えるイメージとは異なってフィクションの部分があり、読者に与える印象の強さではフィクション部分のウェートがかなり大きいため、全体としてはノンフィクション風小説、と評するのが妥当かと思います。しかし、本書にフィクション部分があることは「あとがき」でしか明らかにされておらず、フィクション部分の量も過少申告であるように思われますので、フェアとは言えず、読者をミスリードする可能性があります。


松下芳男 (前坂俊之 編) 『海軍大佐の反戦 水野広徳』
雄山閣 1993
(初刊 松下芳男 『水野広徳』 四州社 1949)

松下芳男 海軍大佐の反戦 水野広徳 表紙 写真

水野広徳の評伝です。個人生活よりも、その思想・考え方を語ることに重点が置かれています。水野広徳について何か読むのであれば、本書を真っ先に読むのがよい、と思います。

本書の著者の松下芳男は、『日本軍閥興亡史』の著者でもあります。著者と水野広徳は、陸軍と海軍の相違はあっても、元将校で平和主義という共通点があり、個人的にも深い親交があったことが、著者が本書を執筆した理由でした。

本書は、水野広徳の生涯のうち、彼が海軍を辞めて軍事評論家になってからの時期に焦点があてられています。すなわち、後に挙げる『自伝』が対象とした時期とはほとんど重なっていません。したがって、水野広徳の全生涯を知るには、『自伝』と本書の両方を読む必要があります。

上述の通り、本書は水野広徳の思想・考え方を語ることに重点が置かれていますので、水野の著作や評論のうち、とくに重要なものからの長い引用が多く、また水野から著者あての書信も多く紹介されています。『水野広徳著作集』は出版されているものの、所蔵している図書館は少ないのが実情ですので、水野の重要著作の内容が本書で引用・紹介されていることには、非常に高い価値がある、といえるように思います。

著者の松下芳男も、水野広徳を「平和主義者」と評していますが、本書を読んで気づくことは、水野広徳は、一般的な「平和主義者」、すなわち、正邪論から戦争は悪と説く観念的な絶対平和主義論者、では全くなかったということです。

水野広徳は、海軍兵学校出身で、日露戦争では水雷艇の艇長として戦闘経験があります。そして、第一次世界大戦中および停戦直後のヨーロッパに行き、大戦とその結果の実態を見聞して、教訓を的確に学びとりました。その結果、日本は米国と戦争をすれば必ず負けるから戦争をしてはいけない、という結論に達し、さらに突き詰めて、理想としての軍備撤廃論にまで行き着いた、という人物であることが、本書から良く分かります。

著者は、1945(昭和20)年10月に水野が亡くなると、その1年半後の1947年5月には本書を書き上げたものの、敗戦直後の状況下、後援者を得て出版できたのは1949年でした。その後40年以上を経て、『水野広徳著作集』の刊行にともない、本書も同じく雄山閣から再刊されて、ようやく世間に広く読まれるようになりました。

なお、この雄山閣からの再刊版ですが、本のカバーには、書名が『海軍大佐の反戦 水野広徳』とあり、著者名はなく編者名だけが表示されています。「松下芳男著の『水野広徳』」を探していた筆者が本書を手に取ったとき、一瞬これは違う本かと思い、棚に戻そうとしてしまいました。編者名より原著者名を大きく明示していただきたいものです。

本書に「編者」とあるのは、原著を現代語訳し、若干の注記を入れ、また原著者が行った水野広徳の著作からの引用について、適宜短縮または要旨に書き換えを行ったことを指しているようですが、仮名遣いと漢字を現代表記化する程度にとどめ、あとはオリジナルのままで出版される方が良かったのではないか、注記は入れるとしても巻末に一括表示の方が良かったのではないか、と思います。

なお、本書編者の前坂俊之は、『水野広徳著作集』 の編集委員の一人でもありますが、水野広徳のヨーロッパ視察旅行による「思想の大転換」について、『著作集』 第8巻の「解説」中で、「第一回目の視察旅行では、 … 貧乏国日本は戦争すれば敗れる、という愛国主義者、国家主義者からの戦争否定でしかなかった。… 第二回目の視察で水野は180度転換し、人道主義的立場からも戦争の絶対否定、軍国主義、侵略への否定に向かった」と記しています。これは適切な評価とは思われません。

次ページの水野広徳の著作で確認しますが、第一回目の視察旅行後の水野は、まだ貧国強兵の軍備増強論者として「我が軍国主義論」を発表しています。第二回目の視察後に、貧乏国日本は戦争すれば負けるという愛国主義からの戦争否定に転換、戦争回避の方策として侵略への否定にも向かったのであって、一貫して「戦争の絶対否定」はしなかった、と評価するのが妥当であると思います。また、日本を破滅させてはならないと考える愛国者による現実論であったからこそ、評論家としての水野広徳は、『東京日日』や『中央公論』などの新聞・雑誌に発表の機会を得て、それなりの支持を得たのであろうと思います。

なお、本ウェブサイトの本文中では、本書からの引用等は行っていません。


大内信也 『帝国主義日本にNOと言った軍人 水野広徳』
雄山閣 1997

大内信也 帝国主義日本にNOと言った軍人 水野広徳 表紙 写真

本書も、水野広徳の評伝です。本書の著者も『水野広徳著作集』の編集委員の一人であり、本書もやはり雄山閣から出版されています。

本書と、上掲の松下芳男による評伝との相違点ですが、本書の方は、軍事評論家時代の水野広徳の思想・考え方の紹介にとどまらず、水野広徳の全生涯にわたり、他の資料から補足できる点は補足し、またその時々の社会情勢なども記述することで、水野広徳の人物と業績をできるだけ総合的に記述しようとしています。

ただし、松下上掲書と同じようなページ数の中で、これを行っていますので、松下上掲書よりも情報量過多気味、という印象を免れません。水野広徳を何も読んだことがない人には、まずはすっきり頭に入りやすい松下上掲書をお勧めします。

本書は、水野の著作は、小さな評論も含め、出来るだけ多くを紹介している点に、大きな価値があると思います。水野広徳をより深く研究したい人にとっては必携書であって、とりわけ『水野広徳著作集』を読む人へのレファレンス本として非常に役に立つように思います。水野広徳を論じている他の参考文献リストも付されています。

また、本書巻末の「水野広徳年譜」は、『水野広徳著作集』 第8巻の「年譜」とほぼ同一の内容で、次に挙げる『自伝』に付された年表よりも詳細であり、これも役立ちます。

書名については、水野広徳が中国への武断的膨張に反対したことは事実ですので、「帝国主義日本にNOと言った」という表現は不適切ではありませんが、彼は本質的に軍事評論家として、何よりも敗戦必至の日米戦はすべきでないと主張したのであって、中国への武断的膨張も、それが日米戦と、その結果としての日本の敗戦を招来する高いリスクとなることから反対した、と理解する方が適切という気もするのですが、いかがでしょうか。

なお、本ウェブサイトでは、本書からの引用等は行っていません。


水野広徳 『反骨の軍人・水野広徳』 経済往来社 1978

水野広徳 自伝 反骨の軍人・水野広徳 函 写真

水野広徳の自伝です。遺稿が、死後30年以上を経て出版されました。

「前篇 剣を吊るまで」は、出生(1875−明治8年)から、江田島の海軍兵学校に合格する(1895−明治28年)までの、20年間を書いています。

1歳で母が、5歳で父が亡くなり、兄弟姉妹は親戚にばらばらに引き取られて育てられる、という不幸な生い立ちです。学業は良くできたのに、乱暴で悪戯もよくする悪童であったようです。

この「前篇」は、著者が物心ついた明治10年代後半から日清戦争期までの、すなわち近代化の道を歩み出して産業革命期に入りかけた頃までの、現在の愛媛県松山市についての、児童生徒の目から見た生活史料としても、貴重で優れたものであるように思います。本書には当時の松山の地図も付されています。

「後篇 剣を解くまで」は、海軍兵学校入学(1896−明治29年)から予備役編入となって海軍を辞する(1921−大正10年)までの25年間を書いています。兵学校時代から実務練習生時代にはある程度の紙数が割かれていますが、任官後の実際の海軍生活についての記述はあまり多くはありません。

かわりに第一次世界大戦中および休戦直後の2度のヨーロッパ見学旅行での見聞記に多くの紙数が与えられていて、後篇のページ数の約3分の2を占めています。とくに、休戦直後の第2回ヨーロッパ見学旅行では、フランスのランスやベルダン(ヴェルダン)の激戦地を訪れ、また敗戦後のドイツにも入って、ベルリンでの物資欠乏と激しいインフレ状況も体験していますが、その記述は当時の記録としても貴重なものであるように思います。

水野広徳は、2回目のヨーロッパ見学旅行の結果として、「思想の大転換」に至ります。それ以前は、軍備は戦争抑止力として必要不可欠と考えていたのに対し、現に軍備が抑止力として機能しなかった事態を実見し、軍備および仮想敵国の存在は逆に戦争発生のリスクにもなっているだけでなく、現代の戦争は「残忍悲惨なる禍害」をもたらすものであり、戦争が起これば、戦場は「惨景」となり、敗戦国は「惨苦」を受け、戦勝国も「国家として殆んど利するところなき」結果となる、というのが新しい認識です。

したがって、戦争の防止が必要で、その手段は各国民による「軍備の撤廃」が理想だが、少なくとも「日本の如き貧乏国にして、しかも世界の孤立国は、如何にして戦争に勝つべきかと言うことよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが、より多く緊要である」と結論します。理想は理想として、決して観念論に陥らず、あくまで事実に立脚して現実的な対応を考えるところが、水野広徳の優れた特性であるように思われます。

この自伝からは、水野広徳が非常に文章力の高い人で、論説力に優れているだけでなく、身の回りの出来事や情景の描写力もかなりのものであることが分かります。まだ日本人にバナナというものがほとんど知られていなかった当時、練習生時代にハワイから帰国したとき、皆がお土産にバナナを買って帰った話など、捧腹絶倒ものです。読み物としても楽しめます。

本書には、水野広徳が1923(大正12)年の『中央公論』6月号に発表した論文、「新国防方針の解剖」の全文が、付録として収録されています。(本書中には、「1926年4月」とされていますが、「1923年6月号」が正しいようです。)彼の日米非戦論の主張内容が良く分かる論文です。

この自伝は、『水野広徳著作集』の第8巻にも収められています。また、「新国防方針の解剖」は、『著作集』の第4巻にも収められています。

本ウェブサイト中の「第一次世界大戦の経過 1918年 B ドイツの敗因」のページでは、本書の『自伝』部分から、「日本が学ばなかった大戦の教訓 C 孤立せずに国際協調」では、本書付録の「新国防方針の解剖」から、要約引用を行いました。


木村久邇典 『帝国軍人の反戦 水野広徳と桜井忠温』
朝日新聞社(朝日文庫) 1993
(初刊 『錨と星の賦 − 水野広徳と桜井忠温』 新評社 1980)

朝日文庫版は、新評社の初刊本に、シーメンス事件の告発を行った海軍大佐・太田三次郎に関する章を増補し、書名も変えたものです。

本書は、どちらも愛媛県松山の生まれ、同じ松山中学出身で4歳違い、海軍と陸軍とに岐れたものの、どちらも日露戦争での戦闘経験を出版したことで世に名を知られ、その後は大佐で海軍を辞し評論活動に入って平和主義の主張を行った水野広徳と、文芸活動を行いながら陸軍のキャリアを継続し少将で退役した桜井忠温の二人を、対比したものです。

水野広徳と桜井忠温の二人について記述しながら、新しい書名を、水野広徳にしか当てはまらない『帝国軍人の反戦』としているのは、本書が、水野広徳を主に、桜井忠温を副にして書かれているため、と思われます。

本書での水野広徳の業績への評価については、反骨・平和主義といった観点が出すぎていて、水野の軍事知識の高さや、第一次世界大戦の教訓に対する理解の適切さ、といった点にはほとんど言及がない、という点は、少しだけ残念なところです。また、本書の執筆は、『水野広徳著作集』の出版以前であるため、上掲の松下芳男による評伝に加えられた新事実等はあまりありません。

しかし、本書はジャーナリスト出身の著者によるものだけに、読みやすさという点では他の評伝を上回っており、その点から、水野広徳の入門書として価値があると思います。なお、本ウェブサイトでは、本書からの引用等は行っていません。


家永三郎 「反戦平和を説く海軍大佐 水野広徳」
(家永三郎 責任編集
『日本平和論体系 7 水野広徳 松下芳男 美濃部達吉』
日本図書センター 1993 所収)

家永三郎 「反戦平和を説く海軍大佐 水野広徳」は、『日本平和論体系 7』の巻末の「解説」です。家永の論文「水野広徳の反戦平和思想」 (『思想』 1967年9月号、『家永三郎集 第4巻 近代思想史論』 岩波書店 1998 にも収録)も、この解説中に再録されています。

家永は、自身の中学時代に、池崎忠孝の『米国怖るゝに足らず』と、それに対する水野による「書評」(『日本平和論体系 7』にも所収)の、双方を読んだ思い出があることを記しています。当時、水野広徳の影響力がそれなりにあったことが分かります。

家永は、「今日から考えて水野の予見力のすばらしさを示すのは、つとに十五年戦争の経過と結果とをほとんどそのまま予見していた点に求められるであろう。これが水野の最高の業績である」と評しています。的確な評価であると思います。

本書での水野広徳の著作については、元は日米戦争の結果を予見した『興亡の此一戦』を収録する予定であったが、著作権所有者から認められなかった、と本書の解説で明らかにされています。水野広徳の業績への認知を世間により広げるためには、本書にも『興亡の此一戦』が収録されている方が良かったのではないか、という気がしますので、誠に残念です。

なお、本ウェブサイトでは、本論文からの引用等は行っていません。


次は、本ウェブサイトの最後になりますが、水野広徳の著作についてです。


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