西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の参考図書・資料

シベリア出兵

航行中の英艦隊
英軍の戦車
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(『欧州大戦写真帳』より)
 
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カイゼン視点から見る日清戦争


第一次世界大戦末期からのシベリア出兵

日本が戦った第一次世界大戦についての参考図書・資料のうち、大戦末期からのシベリア出兵に関するものについてです。


原 暉之 『シベリア出兵 ― 革命と干渉 1917-1922』 筑摩書房 1989

600ページ近い大著です。シベリア出兵の全貌が、総合的かつ詳細に記述されています。

本書は、シベリア出兵以前のシベリアでの日本人在留者数とその職業や当時のシベリア各州の人口、といった基礎データから記述が始まり、日露戦争後の日露関係〜ロシア二月革命とシベリアへの東漸〜十月革命とその東漸、日本政府内での干渉政策討議とイギリス政府からの共同出兵申入れ、というところまで、すなわち、各国による具体的な行動が実際に開始される以前の状況だけで、全21章中の7章を費やして、詳しく記述されています。

次には、日本を含む各国の浦潮への軍艦・派遣、日本陸軍による反革命支援検討と武市事件、各国陸戦隊の浦潮上陸といった列国による行動開始の記述に続いて、セミューノフ軍、ハルビンのホルヴァート、ヂェルベルなどの反革命派の状況の記述があり、日本陸軍の参謀本部による干渉構想と日本政府内の討議状況、武装独墺俘虜とチェコスロヴァキア軍団の説明、連合国での協議状況と、出兵直前の状況が記述されます。ここまでで16章、全21章中の4分の3に達しました。

アメリカの出兵決定により日本も出兵を決定、実際に出兵を開始後、ロシア反革命派政権内のクーデターによるコルチャーク政権の成立、革命派によるパルチザン戦の開始とコルチャーク政権の滅亡、各国の撤兵との日本のみの残留、日本軍の過激派との雑居、尼港事件、革命派による緩衝国創設、日本の撤兵決定〜浦潮の白衛派政権の陥落〜日本の撤兵、戦費と死傷者までで、記述が終わります。

シベリア出兵の全貌を記述した類書が存在していないだけでなく、著者はロシア史の専門家であるだけに、本書ではロシア(ソビエト)側の史料も豊富に使われており、その結果、日本側の記録や、英米などの英語による記録からだけでは明らかにはしえない事項についても記述が非常に豊かです。シベリア出兵と言えばまず本書、という価値の高さだと思います。また、本書はボリュームはものすごいですが、読みやすい文体です。

ただし、シベリア出兵という軍事行動にとって、いわばサイドラインにあたる、間島出兵や北サハリン占領の詳細までは触れられていません。これだけの大著でも、そこまでは手を広げられなかった、ということかと思います。

本ウェブサイトでは、「日本が戦った第一次世界大戦 G シベリア出兵 (1)」「同 H シベリア出兵 (2)」、および「同 I シベリア出兵 (3)」の各ページで、本書からの要約引用を行っています。


細谷千博 『シベリア出兵の史的研究』 有斐閣 1955
(復刻版 新泉社 1976)

細谷千博 シベリア出兵の史的研究 函

本書は、内容からすれば、「シベリア出兵の決定過程に関する研究」という方が、より適切な表現であろうと思います。

本書は、革命の発生から出兵の開始まで、すなわち1917年11月から1918年8月という期間を対象に、日本および英米の史料に拠って、日本を含む連合国のシベリア出兵がどのように決定されたのかを記述しています。

本書を読むとすぐに気づかされることは、シベリア共同出兵を主唱したイギリスやフランスにとっては、出兵の開始時点での一義的な目的は、第一次世界大戦での連合国のドイツに対する勝利のための「東部戦線の再建」にあったのであって、革命への干渉は主目的ではなかった、という事実です。

このことは、イギリスやフランスによる出兵の提案〜日米政府による同意の日付と、その時点での西部戦線での戦況を比べると、よく分かります。

アメリカが出兵方針を決定したのは1918年7月6日でした。西部戦線では、連合国軍がその年の春以来のドイツ軍の攻勢から立ち直って、これから反攻を開始しようとしている時期であり、その後ドイツ軍が急激に押し込まれてわずか4か月先に休戦になる、などとは誰も考えていない時期であったわけです。

確かに、大戦の休戦後は出兵の性格が変わってしまいましたが、出兵は、出発点では対ドイツ戦勝のための連合国の軍事作戦の一つとして、第一次世界大戦の一部であったこと、他方で、当初から出兵の目的をシベリアへの勢力拡張に置いていた日本は、イギリスやフランスの本来の目的とは最初からズレがあったこと、が本書を読んで明解に理解できました。

もちろん、本書の内容はこれだけにとどまっておらず、アメリカや日本、それぞれの国内での意見の相違・対立と最終的な決定への過程の詳細が記述されています。とくに日本国内での自主的出兵論対協調的出兵論、全面出兵論対限定出兵論などの意見の対立が、アメリカの意思決定にも影響されつつ、日本の最終方針の決定に至る過程の記述は、非常に面白いところです。

こうした点で、本書には大きな価値がある、と言えるように思います。本ウェブサイトでは、「日本が戦った第一次世界大戦 G シベリア出兵 (1)」のページで、本書からの要約引用を行っています。


菅原佐賀衛 『西伯利出兵要史』 偕行社 1925

著者は陸軍少将、本書は、公刊戦史ではありませんが、公刊戦史と同じく偕行社から、当時参謀本部第4部長であった渡辺錠太郎による「序」も付されて、出版されていますので、陸軍として許容した出版物であったように思われます。本書は、国立国会図書館デジタルコレクションで、インターネット公開されています。

巻頭の「例言」で、「本書は、シベリア出兵の顛末を簡明に叙述し、主として一般青少年の読本となすの目的をもって編述したり。…本書は主としてその材料を参謀本部編纂『西伯利出兵史』(秘密取扱)に取り、なお歴戦者の経験、感想等を聴取参酌せり」とされています。

出兵の原因および経緯、出兵および極東露領の平定、守備、尼港事件およびサハリン出兵、出兵目的の変更ならびに守備地域の縮小、わが軍のシベリア大陸撤兵、という順で、シベリア出兵の開始から撤兵までの経緯が記述され、最後に「所感」として、シベリア出兵の評価が論じられています。「所感」の内容は、このウェブサイトの本文で要約引用を行いましたが、陸軍の出兵範囲および撤兵時期を批判しています。

こうした本が偕行社から出版されていたことは、当時の陸軍ではそれなりに自由闊達に意見の表明が出来ていたことを示していて、大正期の陸軍は昭和前期の陸軍とは大違いであったことの証明であったように思われます。

「一般青少年の読本」が意識されただけあって読みやすく、非常に面白い本であると思います。

本ウェブサイトでは、「日本が戦った第一次世界大戦 H シベリア出兵 (2)」、および「同 I シベリア出兵 (3)」の各ページで、本書からの要約引用を行っています。


土井全二郎 『西伯利亜出兵物語
−大正期、日本軍海外派兵の苦い記憶』 潮書房光人社 2014

本書は、シベリア出兵に「なんらかのかたちで参画した(あるいは接触したとでもいうべきか)人たち」に焦点を当てることで、シベリア出兵史をたどろうとするものです。

取上げられているのは、下記の人々です。

  • シベリアお菊 <出上キク−日本軍の諜報活動への協力者>
  • 島田元太郎 <尼港在住の実業家で日本軍への協力者>
  • 石井真清 <諜報に従事した陸軍将校>
  • 田中義一 <当時参謀本部次長として出兵推進の中心人物>
  • セミヨノフ <日本軍が支援したコサック軍の頭目>
  • 長山直厚 <反戦活動を行った社会主義中尉>
  • 佐藤三千夫 <パルチザンに加わった日本人>
  • 新保清 <赤軍に協力させられ、のち粛清された日本人>
  • 石田虎松 <尼港事件のときの尼港副領事>

資料的には当時の新聞記事などを多用しており、研究書ではなく、「読み物」と言えます。しかし、各人物については、研究書には取上げられない生い立ちやエピソードが詳しく述べられている、また、著者はジャーナリスト出身だけにそれが読みやすく記述されている、などの点で、なかなかの価値があると言えるように思います。

本ウェブサイトでは、「日本が戦った第一次世界大戦 I シベリア出兵 (3)」のページで、本書からの要約引用を行っています。

藤村道生 「シベリア出兵と日本軍の軍紀」
(日本歴史学会 『日本歴史』 第251号 1969)

日露戦争までは、「従軍した新聞記者や外国武官のあいだで日本軍の規律は評判が良い」、しかし、昭和前期になると、例えば「松井石根は日中戦争の際の南京攻略の経験から、師団長クラスにおいてすら、日露戦争における師団長と当時のそれとが武人のモラルにおいて雲泥の差を生じていると証言している」、日露戦争以後の日本軍の腐敗という「問題解決の第一歩として、シベリア出兵を中心に軍がいかに現象面での腐敗を露呈してゆくかをみたい」というのが、この論文の主題です。

論文名には「シベリア出兵」とありますが、実際には、第一次世界大戦期の青島攻略戦とシベリア出兵の両方での日本軍の軍紀状況が、『日独戦役憲兵史』および『西伯利出兵憲兵史』という軍の内部史料に拠って明らかにされています。

憲兵の記録に拠っていますので、軍紀違反についてだけでなく、ロシア過激派からの思想宣伝についても、具体的な状況が記述されています。

なかなか面白い内容であり、読む価値があると思います。本ウェブサイトでは、「日本が戦った第一次世界大戦 C 青島攻略戦の戦闘の経過」、および「同 H シベリア出兵 (2)」の各ページで、本論文からの要約引用を行っています。


井竿富雄 『初期シベリア出兵の研究
− 「新しき救世軍」構想の登場と展開』 九州大学出版会 2003

著者は、まず研究史を整理し、これまでは、結果としてシベリア出兵が「どのようなものであったか」が問題とされてきており、それは原暉之氏の著書で尽くされている、としています。そして本書では、視角を変えて、「シベリア出兵」が「同時代的にはどのような戦争として発動されていったか、ということを明らかにしていくこと」が目的、としています。

具体的には、「政策の構想−変容−決定−執行という一連の過程に沿って明らかにしていく」として、著者は、出兵決定時に後藤新平外相が主導した「臨時西伯利亜経済援助委員会」に注目し、「当初、居留民保護や中国政策進展を正面に掲げようとした出兵は、遂には、『日米共同』による『チェコ軍救援』の出兵となり、最後にはロシア国民の救援にも従事する『新シキ救世軍』として表現・実行されたのである」と述べています。

他方、陸軍側の出兵の細目に関しては、寺内首相の望んだ「シベリア独立」の方針が貫徹されたものの、当初は単に美称としてさほど重要視されていなかった、シベリアにおけるロシア人住民救済事業が重要性を持つことが明らかになった、としています。

そして著者は、「シベリア出兵は、政策決定の段階で大きな変容を被」り、「『ロシアの救援』は実質化したものにならねばならなかった」が、「ロシアを救援するためにロシア人と戦うという矛盾した戦争は、この後困難な道へこの戦争を追い込んでいった」と結論しています。

本書の最大の問題点は、「政策の構想−変容−決定」というプロセスで著者が論じているものは表面的なタテマエに過ぎない、という点にあるように思います。著者自身、出兵の主体である軍の方針は「シベリア独立」でほぼ一貫していたことを認めておられるので、タテマエは変容したと言っても、ホンネは何も変容がなかった、と認識するのが適切ではないでしょうか。

現に出兵が「新しき救世軍」ではなかったことは、日本軍が出兵のその月から、戦闘行為を開始したことに示されている、と言えるように思います。「救世軍」としての出兵なら、名前は「軍」でも、困っている人を助けることが目的であり、そもそも戦闘行為自体を行おうとはしなかったはずなので。

ホンネは何も変わらなかったことから出発すれば、本質的かつ一貫したホンネの目的である「シベリア独立」について、その目的達成に向けて何を行うのが最も適切であったのか、当時の軍や政府でその点に関する討議は行われたのか、討議が行われなかったとしたら何故なのか、大規模な派兵はシベリア独立のために適切な手段であったのか、「西伯利亜経済援助委員会」で検討された程度の事業でシベリア独立の支援に十分であったのか、などの論点が浮かんでくるように思われます。

本質的には「シベリア独立」を目的として「シベリア出兵」が発動されたこと自体が、目的と手段のすり合わせの不十分さを示していて、不適切な手段が選ばれたために失敗に終わった、ということを明らかにしていただけると良かった、と思います。それによって、後藤新平の「新しき救世軍」論の意義と限界がより明確になるのではないか、という気がします。

なお、このウェブサイト本文中では、本書からの引用等は行っていません。


中野正剛の発言 帝国議会「議事速記録」所収
緒方竹虎 『人間中野正剛』 潮書房 1956 (再刊 中公文庫 1988)
中野泰雄 『父・中野正剛 ― その時代と思想』 恒文社 1994

シベリア出兵と尼港事件について、中野正剛が当時の帝国議会で陸軍批判を行っていることは、松本清張 『昭和史発掘』中の「陸軍機密費問題」を読み直していて、知りました。

実際にどういう発言をしているのかは、帝国議会の「議事速記録」から確認できます。その議事速記録は、国立国会図書館の「帝国議会会議録 検索システム」から検索して、官報として出版されたものを読むことができます。

このウェブサイト中の「日本が戦った第一次世界大戦 I シベリア出兵 (3)」のページで要約引用を行った中野正剛の発言は、ここから検索したものです。

中野正剛がどういう人物であったのかについては、まずは緒方竹虎 『人間中野正剛』があります。緒方竹虎は、中野正剛の2歳下、「小学校時代からの友達」で、朝日新聞の記者→政治家、という中野正剛が進んだのと同じコースを少し遅れてたどった人物だけに、正剛の思想・行動を良く知っており、本書は、中野正剛の重要事績について、賞賛すべきことは賞賛し、批判すべきことは批判する、良い評伝となっていると言えるように思います。ただし、本書は新書版、紙数の制約がある中で中野正剛の著作の文章をそのまま紹介している分量も少なくなく、評伝的事実の紹介が豊富とは言えません。

評伝的事実を多く求めるのであれば、まずは、中野泰雄 『父・中野正剛伝』(新光閤書店 1958)があります。本書の著者は中野正剛の4男であり、正剛が自殺した時、正剛と共に暮らしていました。本書では、正剛自殺の直前直後について著者の記憶をつづった序章のあと、本文は正剛の出生から朝日新聞社の京城特派員時代までだけを扱っていて、評伝としては不完全なものでした。

この著者が『政治家中野正剛』(上下2巻 新光閤書店 1971)を出版した際に、この『父・中野正剛伝』の内容は丸々取り込まれました。すなわち、『政治家中野正剛』は中野正剛の評伝としては最も詳細なもので、上巻は出生(1886-明治19年)から妻の死(1934-昭和9年)まで、下巻は以後自殺まで(1943-昭和18年)を扱っています。ただし、上下巻それぞれ800ページ以上、しかも細かい活字で2段組みという大著です。読みやすいものとはとても言えません。

なお、下巻の巻末には、中野正剛の「著書・演説目録」と「年譜」が付されていて、便利です。また、中野正剛の演説と詩吟が録音されたソノシートまで付録としてついています。昔ならどの家にもレコードプレーヤーがあり簡単に再生できて良いサービスだったと思いますが、今や時代と技術が進み過ぎ、せっかくのサービスが活用困難になってしまった、というべきかもしれません。

『政治家中野正剛』と比べると、見出しに揚げた中野泰雄 『父・中野正剛』(前掲の『父・中野正剛伝』と非常に紛らわしい書名ですが)は、270ページの中で中野正剛の一生を扱っていて、読みやすい評伝と思います。ただし、妻の死まで242ページ、残りはわずか28ページですから、前半生の記述に片寄っている著作と言わざるを得ないところがあります。

なお、このウェブサイトでは、緒方竹虎や中野泰雄の著作からは、引用等は行っておりません。



次は、第一次世界大戦後の日本の陸海軍が、第一次世界大戦からどこまで教訓を学んでいたのかを確認する上で参考となる、日本の陸海軍史についてです。


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