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前ページでは、シベリア出兵に至る経緯を確認してきました。ここからは、出兵以後、いったんはシベリア全体を勢力下においた反革命コルチャーク政権が成立するものの、やがて革命派によるパルチザン戦に敗れてその政権が倒れ、英米が撤兵して日本だけが出兵を継続するまでの、1918年8月から1920年はじめまでの経緯を確認してまいります。
1918年8月、出兵まずは8月の出兵について、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。 列国のウラジオストクへの出兵英軍の浦潮上陸は8月3日。9日にはフランス軍約1200が上陸。アメリカ政府は8月3日に出兵宣言、8月16日から上陸、約9000。カナダ軍、約5000、浦潮到着10月27日。イタリア、1400、10月下旬、一部は浦潮に、主力はウラル方面。中国、8月下旬、さらに10月下旬増派、合計約2000。 列国の欧州側北ロシアへの出兵ウラジオストクへの共同出兵とほぼ時を同じくして、8月2日、連合国軍が北ロシアでも本格的軍事干渉開始。ムルマンスク地区で英(含カナダ)軍6330、仏軍590、伊軍1520、セルビア軍1070、アルハンゲリスク地区で英(含カナダ)軍4400、米軍3950、仏軍220。 日本の出兵は、浦潮・ザバイカル両方面に陸軍中央部は、浦潮・ザバイカル両方面にいずれも戦時編制1師団の兵力派遣の方針。8月2日、出兵宣言の発表。沿海州方面に小倉第12師団。その第1梯団は8月11日以後逐次浦潮に上陸、その兵力は計1万4040としてアメリカ側に通告。ザバイカル州方面には、まずは満州里へ満州駐箚旭川第7師団を派遣、「武装せる独墺俘虜」による「支那領土に対する脅威」に対処するため。それに対しイギリスおよびチェコ軍団から、ザバイカル州方面への派兵請願。政府は20日の閣議で第二梯団の浦潮派遣、23日には名古屋第3師団のザバイカル州派遣を決定。 出兵宣言から3ヵ月たった11月4日の陸軍省調査、この時点における出征部隊の人員総計は、戦闘員4万4700人、非戦闘員2万7700人、計7万2400人。7万3400人という数字もある。 出兵が行われたのは、西部戦線での「ドイツ陸軍暗黒の日」の前後、連合国側が軍事的劣勢を一挙にくつがえしたものの、第一次世界大戦があと3ヵ月で終わるなどとは、まだ誰も考えていない時期でした。 日本のシベリア出兵は連合国共同行動の一環であったこと、英仏米などはシベリアだけでなくヨーロッパの北ロシアにも出兵したことがわかります。ただし、総計7万人を上回る日本の派兵は、イギリスから積極的関与の要請があったとはいえ、陸軍自身の積極方針に基づくものであった、すなわち、日本の出兵の目的はあくまで極東における緩衝国形成にあった、と理解できます。
陸軍少将も認める、日本の出兵の目的は「緩衝地帯の設立」菅原佐賀衛 『西伯利出兵史要』は、陸軍少将の著者が1925(大正14)年に出版したものです。参謀本部第4部長の渡辺錠太郎による「序」も付されて、偕行社から発行されているので、「準公刊戦記」に近いものではなかろうかと推測します。 その本書には、日本のシベリアへの出兵の目的について、下記の記述があります。(句読点・濁点半濁点を追加、現代字やかな書きに変更、送り仮名を追加、あまり知られていない漢字書き地名をカタカナ書き地名に変更、などを適宜行っています。) 日本の出兵の「底意」は「緩衝地帯の設立」我軍の出兵目的もまた「チ」軍〔=チェコスロバキア軍団〕援助であった。無論、「チ」軍援助もその一面であろうが、なお当事者の胸中には独・墺俘虜ならびに過激派軍を撃破し、少なくもこれをバイカル湖以西に駆逐し、ザバイカル、沿海、アムール、サハリンの4州を含む極東露領を一団となし、これに非共産制の政府を擁立し過激派ロシアとの間に緩衝地帯を設立せんとする底意があったものと想像せらるるのである。 当時あった出兵への反対論かくてシベリア出兵は行われたのであるが、その当時我国内にも種々の反対論があった。思想の伝播は兵力をもって防遏し得べきものでないという議論もあった。名義正しからざる出兵は、外は諸外国の感情を害し、内は衆心を一致する事が出来ないという議論もあった。また軍国的施設は労多くして効少ない、むしろ内を整え鋭を養いもって情況の変化に応ずる方が賢明であるという議論などあって、出兵反対の声もなかなか有力であったのである。 出兵反対論を読み返してみると、結果を的確に予想した見方が少なくなかったことが良く分かります。
出征 → 米価高騰で、日本国内では「米騒動」1918年8月に始まったシベリア出兵に対し、日本の一般民衆は冷淡であったようです。再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。 「米騒動」、軍隊の治安出動で、人々は出征兵士にも冷淡に米価は前年(1917年)からこの年(1918年)の夏にかけて暴騰、7月中旬に政府の出兵方針でこの趨勢は決定的。7月下旬富山県魚津町の漁民の主婦たちが決起。8月2日の出兵宣言とともに米価はさらに奔騰。10日、京都と名古屋で大規模な街頭行動、群衆は大挙して米屋や巡査派出所を襲撃、この日から騒動は一挙に全国化。 都市の騒動が16日ごろまでに終息ののちも、地方の町村ではその余波。山口県や福岡県をはじめとする炭坑地帯では9月中旬まで坑夫の争議と暴動。全国的規模で未曾有の治安出動、当然の結果として軍隊にたいする民衆の反感と違和感。出征兵士の見送り、人々は今や冷淡。兵士の士気にも影響。不人気な寺内内閣は、民衆運動の昂揚によって決定的に揺らいだ。 軍事方針の策定が国内経済に悪影響を及ぼし、そのために軍への支持や兵士の士気が下がることがある、という実例になっています。
派兵された日本軍の状況派兵された日本軍の状況はどうであったのか、再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。 日本軍の派兵先日本軍は幹線鉄道の沿線ばかりでなく、ニコラエフスク(尼港)、スーチャン、ポシェート地区にまで部隊を派遣。尼港への派兵は、アムール下流域と北サハリンにおける利権の獲得、スーチャンの場合アメリカによる鉱山利権独占に対する牽制。ポシェート地区、朝鮮独立運動に対する抑圧。これらの地点への派兵そのものが「チェコスロヴァキア軍団の救援」目的と大きく食い違い。 戦闘では日本軍が革命派を圧倒、革命派はパルチザン闘争に転換クラエフスキー付近での8月23‐24日の戦闘は一方的。日本軍との交戦はソビエト軍の士気を著しく沮喪。ハバロフスクでの極東ソビエト大会、8月25‐28日、戦線構築型の闘争を中止して赤衛隊は解散、新しい有利な条件を待ってパルチザン闘争を開始する、という決議。 日本軍の目的不明瞭、軍紀の弛緩この戦争において日本軍の掲げる目的はまったく不明瞭、当然、士気の低調と軍紀の弛緩。「官費満州旅行位の心得にて出征しあるもの大部を占むる」「予想以上の不軍紀」(現地を視察した衆議院議員慰問団)。出征中の匿名の従軍兵士の投書、動員計画の粗漏、輸送計画の杜撰、軍紀頽廃の実例、最高幹部の非常識、軍紀壊滅頽の原因、など。 11月の出征規模縮小は、軍紀の弛緩も一因極東ロシアの軍事情勢が一段落を告げると、政府および軍首脳部は派遣兵力の一部を削減して内地帰還措置。厳しい対日批判をかわす、議会対策、「危険思想」の好餌となる心配。1919年1-2月に約2万3300人の人員が内地に帰還。帰還兵士の声は、潜在的な反抗の空気が軍紀弛緩と密接な関係にあることを示唆。 前ページで見ました通り、「緩衝国形成」と「出兵策」では、目的と手段との整合性が取れていません。しかし、日本は出兵しました。軍事的に日本軍はロシア革命派より圧倒的に強力であった、という事実があった一方で、不整合の結果として、軍紀の弛緩も生じたようです。 シベリア出兵時の日本軍の軍紀の弛緩の状況については、藤村道生 「シベリア出兵と日本軍の軍紀」が、日本軍憲兵隊の記録に基づいて、具体的に明らかにしています。シベリア出兵で問題となったのは、「掠奪だけではなかった」、「脱営・逃走・上官侮辱・抗命などが多数発生し、絶対服従を基本とする日本軍の規律が根本的に危機にさらされた」、「軍紀の頽廃は将校団においていっそうはげしかった」と指摘されています。面白い論文なのですが、ここではその詳細内容は割愛します。 この状況で日本が出兵規模の縮小を行った、というのは、間違いなく一つのカイゼン策でした。ただし、最も適切なカイゼン策であったとは言えず、本来の「緩衝国形成」の目的に集中できるよう、全体の政策をさらに見直して調整する必要があったように思います。 他方、ロシア革命派側は、正面からの軍事衝突は行わず、パルチザン戦に切り替える、という決定を、最初の戦敗から数日内に決定しました。状況変化に対応するためのカイゼン策の選択が適切であっただけでなく、その決断もきわめて迅速であった、と言えるように思います。
1918年11月、大戦停戦と同時期に、反革命「全ロシア政府」の成立連合国が出兵に踏み切った時期は、反革命側の勢力範囲が最大に達していた時であり、良いタイミングであったとは言えるようです。再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。 本格干渉開始時は、反革命側優勢連合国の本格的な軍事干渉がはじまったとき、ヴォルガ流域から太平洋沿岸の広い地域は、ほとんどがチェコ軍団とローカルな反革命政権(多くは中道派政権)の掌握下。 反革命側諸勢力間の妥協・統合が成立ヴォルガ河畔のサマーラ、ほぼ全員がエスエルの「サマーラの憲制委」が権力掌握、チェコ軍団に助けられ8月初頭までにヴォルガ中流域はほぼ完全にサマーラ政権の管掌下。 西シベリア、オムスク、6月30日に臨時シベリア政府発足、首相兼外相ヴォロゴツキー。この政府を動かしていたのは右派、その背後に商工業界、王党派将校、保守的カザーク層、中道派と対立し、「サマーラの憲制委」とも対立。チェコ軍団は反革命勢力の不統一、不協和に強い不満、両者を共同のテーブルにつかせることに。9月10日ごろから「国家会議」、戦況が悪化したサマーラ側がより多く妥協、ヴォロゴツキー入れた執政府成立。 ヴォロゴツキーは9月20日ウラジオストクに到着、自治シベリア政府〔ヂェルベル・グループ〕は何ら抵抗せず、23日までに一切の事務をオムスク政府に引き継いで消滅、ホルヴァート政府とは合同の話合いがまとまり、30日に協定書に調印。 11月にオムスクに反革命のヴォロゴツキー「全ロシア政府」ヴォルガ戦線、赤軍にじりじりと押され、兵士と将校が離反。10月7日サマーラは陥落、執政府もオムスクに移転、ヴォロゴツキーを首班として全ロシア政府大臣会議を発足、シベリア政府は解消。11月3日、シベリア政府は全権力を全ロシア政府に移譲。大臣14名のうち、コルチャーク陸海相と外相を除く10名はシベリア政府メンバー。 オムスクのクーデタでコルチャーク政権成立このときオムスクの政財界が推進していたのは、執政府排除、個人独裁樹立の陰謀。11月18日、大臣会議から指名をうけたコルチャークは「最高統裁官」に就任、「全ロシア軍最高総司令官」も兼務。このクーデタが現地イギリス軍の暗黙の了解のもとに実施されたことは周知の事実。エスエル、メンシェヴィキ幹部・活動家の逮捕。12月22日にオムスクで武装蜂起、鎮圧、ボリシェヴィキ地下組織の活動家100名を含む900名が犠牲、多くの政治囚惨殺。 コルチャーク政権は、ホルヴァートを「極東最高代官」にコルチャークは、ホルヴァートには沿海・アムール・サハリン・カムチャツカの4州と中東鉄道付属地を管理下に置く「極東最高代官」ポストを再確認。しかし、シベリア政府に忠誠を誓い、その代償として第5独立プリアムール軍団長というポストを得ていたセミョーノフは解任。 日本も極東緩衝地帯化政策を転換日本軍はもともと極東に西シベリアの政権の威令が及ぶことに警戒的。しかし、バイカル湖以東に固執する日本の姿勢は、他の連合国との不協和。軍団長を解任されたセミョーノフはオムスクと極東との通信輸送を妨害して応酬。事態を重く見た日本政府は12月2日の閣議でセミョーノフ抑制の方針を決定。参謀本部の方針は1918年初冬、従来の極東緩衝地帯化を狙った地方反革命政権擁立路線からボリシェヴィキ打倒を目標とする全ロシア的反革命政権支援路線へとシフト。 シベリア出兵の開始後3ヵ月、1918年11月には反革命勢力を統合した「全ロシア政府」が発足、さらにクーデタでコルチャーク政権が誕生したわけです。ドイツに対し11月11日に停戦が成立して第一次世界大戦が終了したのとほとんど同時期に、ロシアでも広大な地域を支配下に置く反革命政権が成立したわけですから、連合国側はこのとき、自らの戦略に対する自信の絶頂にあった、と言えるかもしれません。日本は、極東緩衝地帯化政策の転換を迫られましたが、反革命国家を作って革命政府と国境を接しない、という目的はこの時点では成功していた、と言えるようです。上述の日本軍の出兵規模縮小には、この情勢も反映されていたでしょう。 ところで、右派による中道派排除のクーデタを支援する、というイギリスの判断が適切であったかどうかですが、政権運営の意思決定を行いやすくするというメリットは明らかであるものの、支持者を減らし敵対者を増やすデメリットが確実に付きまとうことも間違いなく、実態として、そのデメリットが後日表面化した、と言えそうです。
コルチャーク政権に生じた情勢の変化
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