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1917年の西部戦線では、アラス戦、第3次イープル戦、カンブレー戦など、激しい戦闘による甚大な死傷者の発生が継続しました。フランス軍は反乱発生の結果、無駄な攻勢は行わないとする重大なカイゼンが行われました。またカンブレー戦では、イギリス・ドイツ両軍とも、戦車あるいは浸透前進という新兵器・新戦法を導入するカイゼンが見られました。しかし、戦線の膠着の打破には至りませんでした。 しかし、1917年の東部戦線やイタリア・中東戦線、あるいは海上の戦いでは、西部戦線と異なり、大きな変化がいろいろ生じました。まずは、東部戦線およびその他の戦線での陸上の戦いの状況についてです。
東部戦線では、ロシア革命によりロシアが崩壊この年、東部戦線では大きな状況変化が生じました。ロシア革命が発生し、ロシア帝国が崩壊したのです。以下は、リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。 ドイツは、レーニンのロシアと、1917年12月に休戦ロシア、まず部分的に、ついで全面的に崩壊。その損失はアメリカの参戦をもってしても数ヶ月は補いのつかないほどのもの。かろうじて平衡を取り戻すまで、西側連合国は敗北の瀬戸際をさまよう破目となった。 3月革命、ツァーリは退位、穏健な臨時政府。5月、ケレンスキー内閣。ブルシーロフが参謀総長に昇格。7月1日、ロシア陸軍はオーストリア軍を相手に、主としてスタニスラフ Stanislau 地域〔現ウクライナ国内〕で多少の成功をするも、ドイツ軍の反撃をくらってもろくも崩壊。8月初めまでにはロシア軍はガリシアとブコビナ地方から追い出された。ドイツ軍、戦略と政策を巧みに組み合わせ、ロシアの麻痺状態を確実なものとし、ドイツ軍兵力を西部に投入できるように解放。9月にドイツ軍はリガ占領。11月、レーニンの指導するボルシェヴィキ革命、ドイツに対して休戦を求め、12月に休戦が実現。 ロシアは、3月革命で帝政が崩壊したからといって、即座に停戦となったわけではなく、交戦を継続、ただしさらに負け続け、11月革命でレーニンのボルシェヴィキが権力を掌握すると、ついに休戦となった、という状況です。 ドイツは、ファルケンハインによって1914年11月に、「西部戦線は停滞、東部戦線でロシアを脱落させる」という方針に転換して以後、丸3年かかって、ようやくロシアを脱落させました。ドイツ軍は明らかにロシア軍より戦力優位にあったものの、ロシアの国土の広さがあり、またドイツには東部・西部両戦線で同時に戦わなければならないという兵力制約があったため、短期間でロシアを脱落させることはできなかった、と理解するのが妥当でしょうか。 昭和前期の日本軍は、中国軍に対し明らかに戦力優位にあり、短期決着をもくろんで日中戦争を開始したものの、長期化・泥沼化し、さらには太平洋戦争まで始めて戦線を一挙に拡大し、結局大敗戦を喫しました。やはり、第一次世界大戦でのドイツ軍の東部戦線でのせっかくの経験から、適切に学習していなかった、と言わざるを得ないように思いますがいかがでしょうか。
ロシアの崩壊は、軍組織の不効率が原因なお、ロシア革命の原因は、軍や政府組織の機能不全にあったことについて、ベルクハーン 『第一次世界大戦 1914-1918』からの要約を補足しておきます。 ロシア軍、組織化は不十分、上官は無能ロシア、戦争を乗り切っていくのに必要な工業原料や農業基盤を原理的には保持。結局は大きな危機を引き起こした原因は、軍が、大規模な戦争を前線においても銃後においても組織化できなかったこと。基本的な軍装備すら当時のロシア軍には不足。後になると物資補給がさらに悪化。上官の無能さ、硬直性、誤り。農民兵士は、戦争捕虜として今よりもいい待遇で扱われることを期待して早々と降伏。士官と兵士との間の社会的隔たり。 改革努力は超保守主義者に拒否されて進まず帝国は、国家機構の再編を必要としていた。自由主義的貴族が必死に改革を行おうと尽力しても、彼らはツァーリやその超保守的側近たちの拒絶に遭遇した。 食料が実際に不足することはなかった。帝国政府は、配分をはじめからうまくやれなかったが、ますます酷くなっていった。1915年12月までに物価は78%も上昇。前線での農民兵士の反乱と大都市での工業労働者の反乱によって、ツァーリの帝国は崩壊。 実は資源不足ではなかったのに革命が起こってしまった、ということですから、この当時のロシアの病根の根深さがわかります。
イタリア戦線では、イタリア軍が大退却イタリアでも連合国側はさらに劣勢となり、ドイツはその優勢を強めました。また、リデル・ハートの著書からの要約です。 オーストリアの崩壊を防ぐためのイタリア攻撃秋になると決まってドイツ軍は、連合諸国のうちの弱い一国を平らげて士気をくじく。1915年にはセルビア、1916年にはルーマニア。こんどはイタリアの番。ルーデンドルフは、オーストリアの崩壊を防ぐために、イタリア攻撃を決断。このためロシアに対するとどめの一撃として考えていた攻勢のための準備を思いとどまらざるを得なかった。 10月、カポレットの戦いトルミノ=カポレット Tolmino-Caporetto 戦区、10月24日攻撃開始、10月28日ウジネに進撃、10月31日にはタリアメント川に到達。イタリア軍は中央部を突破されたために、ヴェネチアを守るピアベ川 Piave の布陣までまっしぐらに退却。25万名の捕虜。英国軍とフランス軍は、各1個軍団の援軍をイタリアに急派。 カポレットの戦いでのドイツ軍大勝利の要因として、リデル・ハートは、ドイツ軍の攻勢準備に対しイタリア軍の空からの偵察が不十分だったこと、ドイツ軍の攻勢開始時に戦場が霧に包まれていて奇襲となったこと、この年の春のフランス軍と同様イタリア軍兵士も精神的に疲労していて、機関銃に対し戦意をすっかり消耗していたこと、などを挙げています。 一方、「カポレットの戦いはイタリアに深刻な打撃を与えたが、それはまた軍再編成の役割も果たした」として、イタリア軍もこの戦闘から前向きな反省とカイゼンを得たことを指摘しています。 なお、「カブラの冬」は銃後だけの事態ではなく、ドイツ軍自体もすでにこの時点で糧食不足に陥っていたようであり、食料豊かなイタリアの地に入ったドイツ軍は、「食欲が追撃の意欲を殺いでしまった」と記しています。
成功しなかったオーストリアの戦線離脱への努力ドイツがイタリア戦線で「オーストリアの崩壊を防ぐために」カポレットの戦いを仕掛けた、という背景を理解するためには、当時のオーストリアの状況を知っておく必要があるようです。AJP テイラー 『第一次世界大戦』からの要約により、この点を補足しておきます。 オーストリアからの単独講和の提案に、連合国は乗らず1916年11月に、老フランツ・ヨーゼフ1世の後を継いだオーストリアの若き皇帝カールが、自分自身とその帝国を破滅から救おうと、1917年3月、単独講和という漠然とした提案をもってイギリスとフランスの政府の意向を打診。この打診はものにならなかった。イタリアは現実にオーストリア=ハンガリーと戦っている唯一の連合国、イタリアの政治家たちは自国の世論の不賛成を恐れた。オーストリアの和平提案は手遅れ。 食糧危機は、ロシア革命がおこったロシア、「カブラの冬」のドイツだけのことではなく、オーストリアもまた深刻な状況にあったようです。
中東戦線では、「アラビアのロレンス」の活躍などトルコ軍を相手にイギリス軍が戦っていた中東戦線の状況です。またリデル・ハートの著書からの要約です。 3月、イギリス軍、メソポタミアではバグダッドに入城メソポタミア遠征軍司令官モード Maude は、メソポタミアの兵力と補給路を徹底的に再編成。1916年12月12日、クートKutの上流と下流のチグリス川西岸で、拡大を開始、進路が開かれ、17年3月11日、メソポタミアの首都バグダッドに入城。 アラビアのロレンスとアラブ同盟軍の活躍英国のアラブ系同盟軍がトルコ支配に対する反乱、貴重な騒乱状態をつくりだし、英国は一群の技術顧問を派遣するだけで事足りた。その軍事行動の原動力となったのが、若い考古学者で短期間軍籍にあったかのT. E. ロレンスLawrence大尉。ロレンスの縦横無尽の用兵がトルコ軍を翻弄。1917年5月、≪アカバAqaba急襲≫を敢行、占拠。 12月、イギリス軍はエルサレムを占領イギリスのパレスチナ遠征軍の司令官は、17年4月アレンビーAllenbyに交代。10月31日、ベールシェバBeershebaの奥地要塞を奪取。11月6日、フィリスティアPhilistia平原まで侵入。14日、ヤッファJaffa港を占領。12月9日、イェルサレムJerusalemを手中に。心理的な成功という意味では価値、戦略的にみれば本来の目的には遠回り。 中近東方面では、イギリス軍がトルコ軍相手にそこそこに成功していたようですが、それが東部・西部両戦線に良い影響を与えた、ということはなかったようです。
1917年の陸上の戦いの総括この年の陸上の戦いを総括してみると、下記のようになるかと思います。
1917年末の時点までは、ドイツ軍は上手く戦ってきた、と言えるようです。すなわち、ドイツ軍は依然として優勢であり、西部戦線では防衛線を維持、他の戦線では年初よりもむしろその優位性を拡大していました。とりわけ年末までにロシアが戦線から離脱した結果、東部戦線の兵力の西部戦線への転用が可能になっていました。ただし、経済封鎖による「カブラの冬」の影響が、前線の兵士にも現れ始めていました。 他方、連合国側も、戦車の投入に成功をおさめ、さらにアメリカの参戦を得て、1918年には戦力がドイツ以上に大きく増加できることが分っていましたから、ドイツ軍の優勢が失われるのは時間の問題で、今後は連合国側が大逆転できる条件が1917年末までには整っていた、と言えるように思います。
1917年の個々の戦闘の詳細以上、1917年の陸上での戦闘の経過を確認して来ました。この年に起こった戦闘のうち、詳細で読みやすい記述があるものについて、下記に整理しておきます。 リデル・ハート 『第一次世界大戦』
次は、1917年の海上の戦いとアメリカの参戦についてです。
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