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大隈内閣は、ドイツの持つ山東利権の獲得を目的に開戦を決定、日本は1914(大正3)年8月15日にドイツに最後通牒を送り、23日に宣戦しました。ここでは、この青島攻略戦が具体的にどのように戦われたのかを確認したいと思います。
日本軍は、久留米第18師団を基幹とする独立師団の編制この戦争では、日本軍はイギリス軍と共同して作戦を実行しました。まずは、日本軍の兵力編制ついて、斎藤聖二 『日独青島戦争』からの要約です。 8月10日 日本の兵力編制案、16日 動員令参謀本部は、8月10日に、久留米第18師団を基幹とする独立師団の編制案を完成。動員令発令は最後通牒発布の翌16日。「作戦要領」も21日に下令。1日も早い決戦が開戦目的を達成するのに必要だと考えられていた。海軍も第2艦隊は出征準備を10日に完了。 大本営は設置せず陸軍は、1要塞の攻略に大本営の設置は大仰すぎると考え、参謀本部・軍令部の「各主任者毎日参謀本部ニ於テ合議スル」方式で戦争を遂行していくことにまとまった。 独立師団の編制内容動員令の内容:久留米第18師団、山砲中隊、野戦重砲兵連隊、同輜重隊、独立攻城重砲兵大隊、攻城廠、築城用工兵大隊、電信隊、無線電信隊、航空隊、電燈隊、架橋縦列、兵站部隊など。後日の追加動員も合わせ、総員 5万1700人。兵站部隊と鉄道警備部隊を除いた前線戦闘員は2万8943人、最前線の歩工兵数は約1万4400人。 日本軍の編制は、青島ドイツ軍の兵備・兵力を考慮一般的に、攻囲線の突破には攻囲メートル数の3倍の歩工兵数、要塞攻撃には守備側兵数の2、3倍の兵員数、攻城砲門数は守備側の1倍半が目安。日本軍は前線歩工兵数で攻囲線メートル数(6キロ内外)の2.5倍、攻城総員数は守備側兵力(4000~5000名、多ければ7000~8000名の見積)の少なくとも3.6倍となり、まずまずの規模。 投入砲門数、重砲96門・軽砲42門あわせて138門、青島側2倍強と計算。しかしドイツ側の実数、重砲70門・軽砲52門と大差がないことがのちに判明、多少慌てる。しかし日本軍は新式も投入、ドイツ軍が義和団事件や普仏戦争の戦利品を中心にしていたのにくらべると、はるかに日本軍の砲勢の方が有利。 日本軍は最新兵器を多数投入砲種に関しては、新式加砲を実地に試用。他に試作段階の高射角野砲、重・軽迫撃砲、擲弾銃も投入。銃器でも三八式歩兵銃が実戦使用されたのは青島戦が最初。三年式機関銃もここで試されたのちに12月に制定。他の新兵器としては、飛行機と無線電信。 師団長神尾光臣中将は中国通で実戦経験豊富、参謀長はドイツ通第18師団長神尾中将は、陸軍将官中三本の指に入る中国通、しかも日清・日露両戦争で実戦経験も豊富。第18師団の参謀長には、ドイツ留学経験者の山梨半造少将、参謀本部総務部長を兼務のまま。これにより、陸軍きっての中国通とドイツ通による一系統編制を実現。さらに、このときの参謀本部の次長および部長全員がドイツ留学経験者。 青島攻略は、攻城戦にふさわしく火力とその運搬力を重視した編制が行われたこと、最新兵器が意欲的に実験投入されたこと、指揮官の人選にも配慮があったこと、が確認できました。昭和前期の日本軍とは大いに異なり、健全な正攻法がとられたことが良く分かります。
イギリス軍の編制一方、日本と共同作戦を実施することになったイギリス軍は、どのような編制であったのでしょうか。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』からの要約です。 イギリス軍は、大隊1個半の規模イギリス軍事省は、18日に北中国守備軍部隊に対し、1旅団4大隊編制で出兵を命令。しかし、その後、単に日本と共同作戦をしたことを示せればいい程度に規模を削減。最終的に派遣部隊は北中国守備軍第2大隊872名とインド兵半個大隊463名という編制。 なお、仏露軍については、「余り多数の者が発言権を有することは好ましからず」と加藤外相がイギリスに主張して、不参加が決定したとのことです。
日英両軍の山東半島への上陸山東半島への上陸と、青島への進軍はどのようになされたのか、再び斎藤聖二『日独青島戦争』からの要約です。 日本軍の龍口への上陸開始は、9月1日、豪雨の中第2艦隊の護衛のもとに先発した1混成旅団が龍口に到着するのは9月1日。この夏は記録的な猛暑、秋口に入って台風がいくつか襲来。上陸命令が下った2日払暁も、台風の影響による豪雨の中、上陸作業と前進は思うにまかせず。 輜重輸送の人夫確保にも苦労参謀本部は、上陸作業と輜重輸送の人夫の大半を現地雇用でまかなうつもり。しかし、中国当局の非協力方針もあり、兵站部はその確保にひどく苦労。大連の業者に依頼し、人夫・馬車等を送り込み。結局上陸結了予定日は9月15日までずれ込み。混成旅団の先頭の即墨入りは19日、予定より4日遅れ。後続の1混成旅団は6日に龍口に上陸、2つの混成旅団が即墨に揃って師団としての陣営を整えるのはようやく24日になってから。 第2期輸送部隊は、9月18日、労山湾に上陸第2期輸送部隊の上陸、歩兵連隊は18日に労山湾(最寄りの村落は王哥庄)に到着、19日までに仮設駐屯施設を設営、重砲・工兵・鉄道各隊は翌日から本格的な上陸を開始。24日に労山湾上陸の歩兵部隊の前進準備も整う。労山湾でも大連の人夫が送り込まれている。 通信の完備と敵方陣地の全情報の掌握9月7日より13日にかけて、龍口・大連間に海底電線を敷設、20日ごろに労山湾と龍口からの電線が即墨南方でつながり、前線間の連絡が完全に。15日にイギリス陸軍省より正確な青島防備配置図が軍令部に。青島のドイツ官憲の機密書類を差し押さえたものの写し。 イギリス軍も、9月22日、労山湾に上陸開始イギリス軍は、9月22日労山湾に到着、翌朝から揚陸作業を開始、日本軍の援助のもとで24日までに完了。揚陸後は8キロ北方の浦里へ。26日には即墨へ出発。 日本軍の上陸には、天候不良と人夫不足という2つの悪条件があったようです。
青島への進軍即墨および王哥庄に集結した日本軍は、9月26日から、青島に向かって前進を開始します。再び、斎藤聖二『日独青島戦争』からの要約です。 9月26日 日本軍の青島への進軍、28日 弧山‐浮山ラインまで9月26日に、即墨の日本軍は前進を開始。師団主力は流亭付近一帯から白沙河を渡河、内陸側から李村に進む左縦隊と、海岸側のドイツ軍第一前進陣地に当たる右縦隊。ドイツ兵は深夜に自主撤退。王哥庄からも一隊が南西方面に山間地を進撃するという、3支隊進撃。28日午前中の戦闘で、弧山・浮山ラインの丘陵上までを一挙に占領。 火力の活躍浮山では、第2艦隊がイギリス艦とともにドイツ軍の右翼要塞を砲撃し、側面支援。弧山方面は、青島方面からのドイツ側要塞砲ならびに湾内の敵艦の砲撃に苦戦するも、28日に15センチ榴弾砲を備えた野重砲連隊が到着したことで様相は一変、28日だけで157発を発射、日本陸軍の望んでいた重砲砲撃戦の開始。海岸沿いは砲撃戦、山間部は銃撃戦。白沙河を渡って前進を開始したのは予定より7日遅れ、しかし第一防御線の占領までわずか2日、参謀本部策定の当初計画の予定日にほぼ見合う期日に、このラインを占領。 航空隊の活躍陸軍の飛行機3機が27日にはじめて湾内のドイツ軍艦に空爆、ただし命中弾は一つもなし。飛行隊は20日に即墨にでき上がった滑走路へ進出、以後はそこから偵察飛行、敵陣配置の情報をもたらしてその能力を発揮。陸地への空爆は、海軍の飛行隊が9月5日に青島市街上空を飛行して無線電信信号所と兵営に対しておこなったものが最初。
イギリス軍の進軍イギリス軍も、27日に流亭へ前進、28日に李村手前へ進み、日本軍総司令部と合流。 ドイツ軍の作戦参謀本部は、弧山・浮山ラインには堅固な前進陣地が構築されているものと予測。ところがドイツ軍は早々とこのラインを撤収。ドイツ軍は本要塞の堅牢さに自信、被害を最小限にとどめて籠城戦に持ち込む道を選んでいた。もともと勝利のない戦いである以上、少しでも人的被害を抑え、長く持ちこたえることで何らかの発展材料を見いだす以外に方策はなかった。上陸以来ここまでの日本軍の死傷者は270名。これ以後は1659名が死傷。 日本軍・イギリス軍の上陸後、弧山‐浮山ラインへの進出までは、大した抵抗もなく順調に進軍した、と言えるようです。
山東鉄道の占領9月28日には弧山‐浮山ラインまで進出した日本軍は、その後の本格攻撃の準備期間中に山東鉄道を占領します。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』からの要約です。 陸軍は山東鉄道全線占領を提案、外務省も同意して、閣議決定陸軍軍務局長は、9月8日、山東鉄道を軍事占領して戦後に買収すべきという内容の「山東鉄道押収ノ理由」を外務省政務局長に手交。外務・陸軍両省間の協議で、軍事占領実施で閣議提案の方針に。山東省不割譲、専管居留地域設置、山東鉄道買収の3件は、「還付ノ条件トシテ最モ必要ナルモノ」で、確実な既成事実化が必要という認識。22日の定例閣議で、濰県以西の軍事占領実施提案が決定。日置公使から、中国の反感を招き目下進行中の懸案も概ね頓挫は必然との強い懸念の上申があったものの、9月30日、軍事占領を10月3日を期して強行すると最終決定、中国当局には10月2日にそれを通告。 10月上旬、日本軍は山東鉄道占領を強行占領部隊は、120余名が2日から3日に、濰県から西に出発、済南には6日から10日に到着。済南を占領した7日に沿線の炭鉱も占領。 山東鉄道の占領は、山東利権を確保するという目的に対しては、整合性のとれた作戦であったと思います。しかし、当時の日本の最重要課題であった「満州利権の継続」に対しては支障になる、と日置公使が懸念を表明した通りに、実際に中国側が強く反発する事態となったわけです。山東鉄道の占領は、戦略観を欠いた不適切な判断であった、と言わざるを得ないように思います。 ただし、鉄道の占領作戦の実施が閣議の決定によって行われた点は、この当時は、昭和前期とは異なり陸軍が独断専行しておらず、国家組織の運営がはるかに健全であったことを示しているように思います。
青島本攻撃のための準備青島への本格攻撃のために、日本軍は約1ヵ月かけて準備を行います。再び、斎藤聖二 『日独青島戦争』からの要約です。 本攻撃の準備に、10月1ヵ月間をかけた日本軍9月28日までに弧山・浮山線までの占領を果たした日本軍は、以後の1ヵ月間を攻城重砲の設置とその掩護ならびに前進準備のための散兵壕・交通壕の構築に費やす。10月31日に総攻撃の開始、そこから8日間は前進塹壕を作りつつ敵堡塁に接近する。そして11月7日に最後の白兵銃剣突撃によって青島ドイツ軍を降伏させるにいたる。 日本軍が時間をかけた理由第一に、欧州はマルヌ会戦後で、1日も早く青島を落とさねばならないという政治的緊急性が消えていた。第二に、来援の望みなき孤軍であるから、強襲して歩兵の死傷者をいたずらに増やす方法をとる必要はない。第三に、日本側はここを新型諸砲の実戦実験場として絶好の機会であると位置づけ。 重砲の輸送には軽便鉄道を建設労山湾から前線への銃砲の輸送は、主に軽便鉄道で平地づたい。攻城廠の置かれた東李村まで46.7キロ、そこから3線の陣地線が延べ18.4キロ。9月20日から建設開始、10月14日に陣地線までのすべてを完成。その深夜からの豪雨が河川沿いに敷設した部分を破壊、20日になんとか復旧して輸送再開、28センチ砲は28日に王哥庄から移送開始。それが終わると軽便鉄道のすべてを糧秣輸送に専従させることができるようになった。
部隊配置と攻撃準備3支隊編制は、10月10日に、右翼隊、第一中央隊、第二中央隊、左翼隊へと改編。第一中央隊はイギリス軍。各部隊は、10月末の総攻撃予定日までの約1ヵ月間を散兵壕・交通壕の構築ならびに攻城重砲の設置に費やす。 ドイツ軍からの砲撃にてこずるドイツ軍はこの間に飛行機、気球、偵察員の情報にもとづいて盛んに日本軍に砲撃。その量は1日平均1500発。偵察機への空中戦など、日本軍の偵察封じの努力により、有効着弾数を比較的少なく抑えることに成功。それでも、野戦築城中の死傷者数は414名、総攻撃開始後の死傷者数の3分の1に相当。ドイツからの砲撃には相当てこずった。 攻城戦であるから重砲が必要、その運搬には軽便鉄道の敷設も必要、歩兵は塹壕掘りと、しっかり準備を行ったことが良くわかります。膨大な死傷者を出した日露戦争の旅順要塞攻略への前向きな反省があり、カイゼンの成果が発揮されている、と言えるように思います。
青島要塞への本攻撃10月末から、いよいよ青島への本格的な攻撃に移ります。再び、斎藤聖二 『日独青島戦』からの要約です。 10月31日、総攻撃の開始総攻撃は10月31日、天皇誕生日(天長節)の朝6時10分開始。日独両軍、海泊河から浮山所までの幅広い低地を挟んだ両側の高台に、相互の砲列が向かい合う形。 ドイツ軍の防禦線、堡塁と鉄条網壕ライン海岸、台東鎮東、中央、小湛山北、小湛山のドイツの5堡塁は、何れも中心に2メートル厚コンクリート製巨大トーチカ、周囲の三角形断面外壕の壕底には6~10メートル幅の鉄条網。計40挺の機関銃が各堡塁に配備、数多い中間堡塁にも軽火器。膠州湾岸から黄海海浜まで、堡塁の前面を、総延長6キロにおよぶ鉄条網壕ライン。堡塁周辺には約450個の地雷、付近は完全に切り開かれてよい見通し。 日本軍の作戦、中央~左翼に重点、重砲の砲撃、歩兵は塹壕開掘膠州湾からの敵艦による艦砲射撃と河口付近の防護の堅固さを見て、第二中央隊と左翼隊に主力部隊を配置、重砲の攻撃も、台東鎮-ビスマルク山以南の左翼地域を主とする作戦。 11月3日までに、日本軍の歩兵は塹壕開掘で大きく前進歩兵は、散兵壕をベースに、10月31日から全隊で前進開掘。11月2日払暁までに敵の堡塁まで500~1000メートル。2日間で約1万8000発の重砲弾をドイツ陣へ撃ち込み。前進の方法、ジグザグな前進壕を掘り進める。夜間に壕を掘り、昼間は補修や土嚢運搬。底幅2メートル標準の塹壕は、雨や湧水で泥濘状態。同時期のヨーロッパの戦場での典型的な塹壕戦と同様の展開。2日、3日は暴風雨、しかし塹壕は3日夜までにさらに300~400メートル前進。この2日間の死傷者数は142名。ドイツ軍はキャノン巨砲では難しい近距離になってきたので、イルチス山腹に9センチ砲を配置して砲撃。これより先は前進のスピードはかなり落ちた。堡塁に向かってわずかな登りになり、これまで以上に機関銃掃射の標的になりやすくなったから。
日本軍の砲撃は、堡塁が標的日本軍の砲撃は、初期総砲撃2日間、中期(作業の進展を待つ)自制砲撃3日間、終期総砲撃2日間。砲撃対象は、初日は敵の砲台、2日目は砲台プラス堡塁、その夜からは主に堡塁中心。軽砲・機関銃のある前線堡塁とその背後の小砲台向け、全重砲弾の76%。巨砲据え付けの要塞向けは、わずか16%。ドイツ軍の要塞巨砲は、日本軍の重砲を狙っても大した損害を与えられず、歩兵塹壕は近すぎて撃てない、あまり意味のないもの。 11月6日夜までに、歩兵はさらに前進して突撃陣地を構築11月6日夜までに残存距離が、海岸堡塁まで140メートル、台東鎮東堡塁まで250メートル、中央堡塁まで130メートルの地点。散兵の最前塹壕はそれよりさらに先、ほとんど鉄条網堀に近接する所。小湛山堡塁では、鉄条網堀に200メートル。4日から6日までの死傷者数は、646名という多数。銃撃戦の距離内に入ったため。5日に右翼隊で130余名の死傷者、ドイツ軍海岸堡塁に10挺の機関銃が配備されていたため。
11月7日、ドイツ軍全面降伏ドイツ側の各堡塁はすでに相当の砲弾を受け戦闘能力はひどく減退。ドイツ砲台は5日正午頃までにほぼ所有砲弾を撃ち尽くし、最終段階に来たと判断、5日午後に全弾発射ののちに砲を爆破するよう命令。ドイツ軍の銃火器は、こののち機関銃が主。日本軍は、7日いっぱい砲撃をして、8日に突撃の予定。 そのとき第二中央隊から、中央堡塁が何の抵抗もしなくなったので、本夜奇襲をかけたいとの上申。総司令部はそれを認めて、第二中央隊は7日午前1時に突撃を敢行、ドイツ守備兵はあっけなく降伏。台東鎮東堡塁は5時10分に、小湛山北堡塁もほぼ同じ時刻に降伏。海岸堡塁と小湛山堡塁は抵抗、重砲による集中砲撃で午前7時前後に白旗を掲げる。 堡塁占領後は、イルチスならびにビスマルク山の砲台へ直進、午前6時にはイルチス山、7時前にビスマルク山を占領。7時半ごろ、ドイツ軍は気象台に白旗を掲げて全面降伏。この7日朝の日本軍の死傷者数は363名。 日本軍は、8月23日の宣戦布告から2カ月半後に、青島のドイツ軍を降伏させたことになります。なお、作戦に参加していたイギリス軍ですが、「ドイツ軍はイギリス軍に強い敵意を抱いてとりわけ攻撃を集中」、塹壕掘りではとりわけ激しい湧水、占領目標地手前のドイツ側堡塁の陥落待機の必要などから、「陣地から動かぬまま青島戦争最終段階の白兵戦闘は終了」したとのことです。
名誉を立てたら無用な死傷者を出さぬよう降伏、のドイツ軍斎藤聖二の前掲書で、青島で戦ったドイツ軍の「総督は日本の総攻撃開始の時点で開城を決心していたとのちにドイツ軍将校は語っている。名誉の立つところまで抵抗し、無用な死傷者の出ない段階で降伏するということは、開戦当初からの予定であったようである」と書いています。 これに対し昭和前期の日本軍は、捕虜とされることを禁忌とし、将校だけでなく兵にも「玉砕」を強制して、膨大な戦死傷者を発生させました。ドイツ軍に多数の留学生を送り込みながら、ドイツ軍から学ばなかった点の一つが、ここにもあった、と言えるようです。
斎藤聖二著書の青島攻略戦の総括
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