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1914年の西部戦線では、ドイツ軍がシュリーフェン計画による機動戦を開始、パリに50キロほどの地点まで進出したものの、兵站の限界に行きつき、パリ占領の目標は達成できず、エーヌ川の線で膠着状態に陥って塹壕戦が始まりました。 ここでは、同じ1914年に、もう一方の東部戦線ではどういう経過をたどっていたのか、を確認したいと思います。
開戦時の独・墺・露各軍の戦略 - 「選択と集中」をめざすまずは、8月開戦時の、ドイツ・オーストリアとロシアの各軍の戦略から見ていきたいと思います。リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。 開戦時のドイツ軍の東部戦線戦略 - 東部は最小限の兵力ドイツ軍がまずフランスを撃破し、次いで西部戦線の軍を東部戦線へ移送するに要する6週間のあいだ、ロシア軍を何とか食い止めておく必要があるという点では、ドイツ・オーストリアともに一致。問題はその具体的方法。フランスに対する決着を望んでいたドイツは、東部に残す兵力を最小限にとどめたいと念願。 オーストリア軍の戦略 - オーストリアがロシアを直接攻撃参謀総長コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ Franz Conrad von Hötzendorf は、直接攻撃によってロシア軍機構を混乱に陥れたいとの考え。フランスとの会戦中ロシアを手一杯にさせておきたいモルトケもこの作戦に同意。オーストリア軍は3個の集団、28個師団がロシア戦線に展開、8個師団がセルビア戦線に、12個師団は状況に応じて使用。オーストリア軍の作戦は図面上では、他の軍隊より柔軟性に富んでいたが、不幸にして実力がともなわなかった。 ロシア軍には、フランスからドイツ軍攻撃の要請ロシア軍総司令部は、まずまだドイツ軍の支援を受けていないオーストリア軍だけに対して集結し、ドイツは相手にせずにそっとしておいて、その間に全兵力の動員を完了したいと望んだ。しかしフランスは、オーストリア軍に対すると同時にドイツ軍も攻撃してくれるようロシア軍をせき立てた。ためにロシア軍は、員数の点でも編成の点でも未整備のまま、実力不相応の攻勢をかけることに同意させられた。 開戦時に、当事者の各国はどこも、現代のビジネス用語でいえば「選択と集中」を目指したようです。ドイツ軍は出来るだけ西部戦線に集中するため、東部戦線は最小限の配置にして主にオーストリア軍に対応させる戦略。オーストリア軍は、主にロシア戦線に向かいセルビア戦線への兵力は小さいものとする、ロシア軍は基本的にオーストリア軍を相手にして、ドイツ軍は避ける。ここまでは、各国どこも健全な判断であったように思います。
どの国も、自他の能力の客観的な比較評価が出来ていなかった最大の課題は、ドイツ軍を含め、自軍と敵軍の能力を客観的に比較評価できていなかったことにあった、と言えるように思います。孫子の根本原則、「敵を知り己を知る」が不十分であったのです。 オーストリア軍は、弱すぎました。同盟国ドイツから見ても、実力は期待を大きく下回ったのではないかと思います。オーストリアは、そもそも開戦前に、自軍の弱さを認識して、事態をあくまでオーストリア・セルビア間の局地紛争にとどめ、ロシアと戦争になる事態を回避する努力を、積極的に行うべきであったろうと思われます。 ロシア軍は、オーストリア軍との戦いでは期待通りの戦力を発揮しましたが、ドイツ軍とは実力差がありすぎました。その点で、「ドイツは相手にせずそっとしておいて」というのは、認識でも戦略としても正しかったのですが、だとすれば、そもそも開戦前に部分動員にとどめなかった判断がやはり誤っていた、と言わざるを得ないように思います。ロシアは、同盟国であるフランスからの依頼に引きずられたため、自国自身の願望通りには進まなかった、という状況は理解できますが、同盟国への義理立ても、国力の冷静な評価に基づて行われるべきであったように思われます。 ドイツ軍だけは少し状況が異なっていて、ドイツ軍は、フランス・ロシア両軍に対する自軍の強さは、かなりの精度で把握していたのではないか、という気がします。それでも戦略通りに進まず課題が生じたのは、実戦での兵站能力の検証が不足していたことにあるかと思います。自軍は十分に強いものの、兵站の実地では大きな課題がある、と適切に認識していたなら、そもそも西部戦線は国境線の防衛にとどめ、攻勢は東部戦線だけに集中する、という戦略がより妥当な選択となっていたように思われるのですが。 リデル・ハートは、この点で含蓄のある論評をしています。「軍司令官の机上作戦というものは、いったん戦場で試されると、すべてあえなく瓦解してしまうものである」、平時の訓練は、いざ現実の戦争になるとその通りにはゆかないものなので、「戦争前の準備段階で、現実への適用の必要性を予見し、調整する力を養っておかなければならない」、18世紀の多くの偉大な指揮官にはその能力があったのに、「1914年当時の指揮官には、これがほとんどできていなかった」、と書いています。残念ながら、この論評は、昭和の日本陸軍の指揮官たちにも生かされませんでした。
1914年8月、ドイツ軍はタンネンベルクで大戦果ここから、東部戦線ではどのように戦闘が進んで行ったのか、その経過を確認していきたいと思います。まずは、東部戦線での独露の開戦とタンネンベルクの戦い the Battle of Tannenberg です。 下の地図は、現代の地図上に当時の地名を表示したものです。当時はポーランドという国が存在しておらず、現在のポーランド北部および西部は、当時はプロイセン、ポーゼン、シュレジェンとして、すべてドイツ領でした。ポーランドの南部はオーストリア領で、残りはロシア領でした。現在の国境線と当時の国境線があまりにも異なっており、当時の国境線を現在の地図上に示すことはなかなか困難なため、この点は手を抜いていますこと、ご容赦ください。 タンネンベルクの戦いは、東プロイセンで行われたロシア対ドイツの戦いです。再び、リデル・ハートの著書からの要約です。 ロシア軍の東プロイセン侵攻ロシア軍の総司令官ニコライ皇子が、盟友フランス軍に対するドイツ軍の圧迫を軽減すべく、自国の第1、第2軍に対して、まだそれらが集結を完了するのも待たずに、東プロシアEast Prussia侵攻を命じた。ロシア軍は2倍以上の兵力を擁していたから、連繋攻撃をかけさえすれば、ドイツ軍を撃砕する可能性は十二分にあった。 8月17日、レンネンカムプ Paul Rennenkampf のロシア第1軍は東プロシアの国境を越え、19日から20日にはプリットヴィッツ Max von Prittwitz 麾下ドイツ第8軍を撃退。その日、サムソーノフ Alexander Samsonov 麾下のロシア第2軍も東プロシアの南部国境越え。 ドイツ軍には、ヒンデンブルク、ルーデンドルフ、ホフマンのトリオモルトケは、退却を口走ったプリットヴィッツを罷免、代わりに退役大将ヒンデンブルクPaul von Hindenburg を起用、その参謀長としてリエージュ攻撃の英雄ルーデンドルフを任命。ルーデンドルフは第8軍参謀ホフマン大佐 Max Hoffmann によって立案された計画をさらに発展させて、26~27日にまずサムソーノフ軍を集中攻撃。この会戦は、のちにタンネンベルクの戦いと名付けられた。次にヒンデンブルクは、レンネンカムプ軍を東プロシアから追い出した。 タンネンベルク戦でのロシア軍の大損失激戦の末、ロシア軍は25万の兵員を失い、多量の軍需物資を消耗した。しかしロシア軍の東プロシア侵攻は、ドイツ側に西部戦線から2個軍団を急派するのを余儀なくさせ、マルヌ川沿いのフランス軍の立直りを可能にする一助となった。皮肉なことに、移送された軍団は到着が遅れ、タンネンベルクでは何の役にも立たなかった。 タンネンベルクは、ドイツ軍とロシア軍との実力差が見事に表れた戦いであったようです。これだけを見れば、東部戦線はすぐにも決着しそうなのですが、そうはいきません。ロシア軍よりさらに弱いオーストリア軍がいたためです。
1914年8~9月、オーストリア国境地域でのレンベルク会戦では、
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