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ここまで、第一次世界大戦について、大戦が開戦に至った経緯、欧州大戦の経過、欧州大戦の総括、そして日本が戦った第一次世界大戦、という順序で、確認を行ってきました。その結果、第一次世界大戦での経験から、さまざまな重要な教訓が読み取れることも確認してきました。 しかし、これまでに確認してきた第一次世界大戦の教訓と、その後昭和前期になって日本に実際に起こったことを比べてみると、昭和前期の日本は、第一次世界大戦の教訓を活かさなかったどころか、第一次世界大戦の教訓に反する行動を繰り返して失敗してしまった、と言わざるをえないようにように思われます。
「日本が学ばなかった大戦の教訓」の構成第一次世界大戦が終了したのは1918(大正7)年の11月、それから大正が終わり昭和が始まった1926年までは8年間、1931(昭和6)年の満州事変までなら13年間、という期間がありましたから、日本は、その間に第一次世界大戦の教訓を取り込んで、日本のカイゼンに活かすことは十分に可能だったはずでした。 そうならずに昭和前期の日本の大失策に向かう原因が生じたのは、この大正後期から昭和初期の期間中であったように思われます。 ここでは、第一次世界大戦での経験から学べたはずであったのにかかわらず、大正後期から昭和初期の日本が学ぼうとしなかった教訓のうち、とくに重要な下記の5項目について、当時の日本ではなぜその教訓がカイゼンに活かされなかったのか、その経緯を確認したいと思います。
国家としての成長にも、総力戦を戦うにも − 非戦争で工業化第一次世界大戦では、敗戦すると帝国がつぶれてしまう、他方、戦勝国であっても得られるものは払った犠牲に全く引き合わない、という現実が明らかとなりました。 むしろ自国は戦争には参加せず、膨大な資源を浪費している参戦国への物資供給者となるのが、最も経済的利益が大きく、国際的な地位の向上にもつながることが、日本自身の経験にもなりました。ところが、昭和前期の日本は、日清戦争以来の、「戦争ビジネスモデル」が成り立つという誤解を持ち続けて大失敗しました。 あるいは、日本が欧米列国と戦争できる国を目指すなら、当面は軍備支出を削減して、工業化の促進を優先する政策が妥当であったのに、またそうした主張が現に行われたのに、そういう政策は実行さず、工業力が低いままに戦争準備をする方向に進んでしまいました。 帝国主義的発展は限界化 − 植民地の保有はリスク第一次世界大戦では、敗戦国であったドイツ・オーストリア・ロシア・トルコの4帝国はいずれも崩壊し、その旧領の一部は、戦勝国によって再分割され植民地として継続しましたが、その旧領地域から、民族自決主義により多くの独立国も生まれました。 それどころか戦勝国側でも、宗主国イギリスと戦って独立を勝ち取ったアイルランドやエジプトのような国が生まれました。さらに、日本がらみでは、朝鮮で三・一運動、中国で五・四運動が発生しました。第一次世界大戦の結果、植民地の継続保有は、植民地側からの強い抵抗を受けてリスク化する傾向が表面化した、と言えそうです。 第一次世界大戦後の日本は、このリスクを適切に評価・認識せず、相変わらず植民地・勢力圏の拡大を目指して、満州事変から日中戦争に進んでいき、当然の抵抗を受けて、結局は全てを失うことになりました。 強い陸軍の維持 − 兵員数より最新兵器第一次世界大戦では、兵力数以上に銃砲数・銃砲弾数が圧倒的に重要で、歩兵の突撃精神はいくら強固でも機関銃には絶対に勝てないことが明らかになりました。また、軍事力の優位性の維持には、火力には塹壕、塹壕には戦車、など兵器のカイゼン・技術革新を進めることの重要性も明らかになりました。そして、軍事力の優位性の基盤として、なによりも工業化の進展度が重要であり、その前提条件が成立していない総力戦では敗北することも明らかになりました。 この教訓を生かそうと、第一次世界大戦後の日本陸軍は、兵力数削減で予算を浮かせ、それを兵器のカイゼンに活かそうという取り組みを開始したものの、そのせっかくの努力は途中で挫折させられ、昭和前期の日本の大失敗につながってしまいました。 低費用で機能する海軍 − 艦隊決戦より海上封鎖第一次世界大戦では、大艦巨砲の活躍の場はなく、むしろ潜水艦と駆逐艦が大活躍しました。実際、第一次世界大戦での海軍の最大の機能は、海上封鎖、すなわち輸送船への攻撃による海上物流遮断と、その対策としての輸送船防衛にあり、艦隊決戦はたいした意味を持ちませんでした。 しかし、第一次世界大戦後の日本海軍では、大艦巨砲を強化する方針が継続され、その出費は日本の財政を継続的に圧迫して、結果的に日本の工業化促進への制約条件になってしまいました。 軍事的な敗北の絶対回避 − 孤立より国際協調第一次世界大戦では、ドイツは終始軍事的な優位性を保ったのにかかわらず、経済封鎖された影響が表面化して、最終的に敗北してしまいました。すなわち、軍事的な勝利のためには、経済封鎖を避けることが最重要対策であり、その手段として、とくに大きな経済力を有する国との国際協調の維持の重要さが明らかになりました。 ところが昭和前期の日本は、英米との協調を行わずむしろ好んで対立し、地理的に経済封鎖対策には役立たない、独伊との同盟に踏み切って、敗北の条件をつくってしまいました。 → 孤立せず国際協調
上記以外にも論点はあろうと思います。例えば、近代日本の国家体制整備にあたってモデルとされ、大日本帝国憲法の範にもしたドイツが、敗戦して帝政が崩壊してしまったわけですから、常識的には、そのドイツの轍を踏まないようにするための防止策、あるいは日本の国家体制のカイゼン・見直しが議論されてしかるべきであったように思われるのに、それがなされなかった、というポイントもあります。しかし、この点については筆者もまだ研究不足であり、ここでは取り上げないことに致します。 まずは、「戦争するより非戦争で工業化」という、国家としての成長モデルについてです。
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