西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の経過

1918年 ①
ドイツ軍の大攻勢とその失敗

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
サイトトップ 主題と構成大戦が開戦に至った経緯

第一次大戦の経過
1914年① 西部戦線 1914年② 失敗の原因 1914年③ 東部戦線 1914年④ 海上の戦い
1915年① 西部戦線1915年 東部戦線ほか
1916年① 前半の戦線1916年② 後半の戦線1916年③ 海上の戦い1916年④ カブラの冬
1917年① 前半の西部戦線 1917年② 後半の西部戦線 1917年③ 東部戦線ほか 1917年④ 海上の戦い 1918年① 独軍の大攻勢1918年② 休戦 1918年③ ドイツの敗因
第一次大戦の総括日本が戦った第一次大戦日本が学ばなかった教訓参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争

開戦から5年目、第一次世界大戦の最終年、1918年の経過についてです。すでに見てきましたように、占領地の広さという点から見ればドイツ側が圧倒的に優勢でした。しかし、事態を客観的に見れば、イギリスを経済封鎖しようとするドイツの試みは失敗、一方ドイツは経済封鎖を打破できる見込みが立たず、ドイツは勝利できる条件をほぼ失っていました。

この1918年という年について、リデル・ハート 『第一次世界大戦』は「急展開 The Break」という言葉で状況を要約しています。またJMウィンター 『第一次世界大戦』は、1917-18年について、「革命と平和 Revolution and Peace」という言葉で、事態を表しています。すでに東部戦線ではロシアが戦線を離脱しており、いよいよ西部戦線での決着がつくことになりました。

ここでは、1918年の年初から9月の初めまで、ブレスト・リトフスク条約 Treaty of Brest-Litovsk の調印から、3月からのドイツ軍の大攻勢、その後8月8日のドイツ陸軍最悪の日ののち、ヒンデンブルク線に撤退するまでの動きを見ていきたいと思います。


ドイツとロシアのブレスト・リトフスク講和条約調印

ロシアとの講和により、ドイツは一時的に、ロシアから多くのものを得ます。その内容について、AJP テイラー 『第一次世界大戦』からの要約です。

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ロシア領土の占領で、ドイツは食糧事情も幾分か好転

ドイツとオーストリアは、占領したロシア領から小麦を手に入れたし、ボルシェヴィキと講和の調印をした後は、さらに多くのものを得た。両国では、パンの割当は1918年中は以前よりも増加。

ブレスト・リトフスク条約で、ドイツは東欧への支配権を獲得

3月3日にロシアはブレスト・リトフスクの一方的指令による講和条約に黙って調印。こうしてロシアは、過去200年にわたってツアーがものにした征服地のすべてを失った。バルト海諸国、ポーランド、ウクライナさえ、たてまえでは独立国となった。実際には、それらはドイツ帝国に付属した。ドイツの諸侯は空席と思われた王位をめぐって争った。ロシアは、ロシア人の住む領土をほとんど失わなかったし、連合国の方では、ドイツの敗北後、ウクライナを除いて、ブレスト・リトフスクで決められた国境を維持。ロシアは、ツアー時代の国境を恢復するには、スターリンと第二次世界大戦を待たねばならなかった。

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戦争に負ければ、戦勝国からの多大な要求を受け入れざるを得ず、悲惨な目に合う、という具体例です。革命を起こしたロシア国民は、それでも戦争の停止を選んだ、それほどまでに戦争に苦しめられていた、ということなのでしょう。


結局負けて、一時的なぬか喜びに終わったブレヒト・リトフスク条約

一方、多くを得たつもりのドイツも、その後わずか8ヵ月ほどで敗戦となり、ロシアから獲得したはずのものを、全て失うことになりました。

とはいえ、領土問題を含む条約は、当事国間で調印されても列国が承認しなければ国際的に通用しないことは、露土戦争後のサン・ステファノ条約、日清戦争後の下関講和条約などを見れば明らかなことで、それぞれ条約調印後に干渉が起こり、当事国間の合意が修正されました。

ブレスト・リトフスク条約は、大戦中の条約締結であったので、大戦終結後の国際合意に基づいて修正されることは確実でした。ドイツがこの条約で獲得したものを維持するためには、大戦そのものに勝利する必要があった、と言えます。

とにかく、敗ける戦争をしてはいけません。一か八かという賭博的な戦争も、してはいけません。勝てるつもりでも負けてしまう戦争もあります。一方、戦争を始める前に絶対に勝てる条件を全て揃えられるなら、相手は戦争をせずに妥協をしかけてくるでしょう。そうなれば、戦争をしなくても交渉で勝てます。つまり、実際に戦争になってしまってはいけない、というのが一般定理のように思われます。


ドイツ軍の大攻勢の準備

大戦そのものの戦況の推移に戻ります。ドイツ軍が春の大攻勢を開始するまでの期間について、リデル・ハート 『第一次世界大戦』によって見ていきたいと思います。

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ドイツ軍は、西部戦線に兵員を移動して、兵員数では優勢に

1917年11月の初めより、東部戦線から西部戦線へのドイツ軍の兵員輸送列車の流れは着実に増大。1917年3月、英・仏・ベルギー軍の178個師団に対し、ドイツ軍側の師団は129個。1918年1月末までにドイツ軍兵力は177個師団、3月にはさらに15個師増、連合軍兵力は173個師相当まで落ちていた。さらに連合軍の間の軋轢。

イギリスは、兵の大量損失を危惧し、増援に慎重

ロイド・ジョージとその内閣は、兵士の命の新たな浪費を奨励することを恐れ、増援には反対。これは明らかにドイツ軍の急襲に対するヘイグの最初の抵抗力を弱くした。しかしその抵抗力は1917年の後期の攻勢で出した40万の英国軍死傷者によって、質量ともにもっと弱体化していたと指摘することが正当。

ドイツは、アメリカ軍増援部隊の到着以前の勝利を試みた

ルーデンドルフ、事態はドイツによる攻撃の成果とアメリカ軍増援部隊の到来との間の競争となることを理解していた。何が間違っていたのか? 一般的な見方は、戦術偏重による戦力の浪費、ドイツ軍総司令部は戦略目標をかえりみずに戦術的成功ばかりを追ったために、失敗したというもの。真の誤りは、ルーデンドルフが机上で採用した、抵抗の一番弱い戦術的布陣を奪うという新原則を、実際には実行できなかったこと、彼は戦術的失敗を取り返そうとして、予備軍のあまりに多くの部分を浪費、せっかくの戦果を拡大させようとする決定をあまりに長いことためらっていた。

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ドイツ軍は、勝利の手段として残っていた唯一の可能性、すなわち、大攻勢によってアメリカ軍の到着以前に決着をつけてしまう、という可能性を追求する以外に手はなく、それを試みた、ということであったようです。


大攻勢のために行われたドイツ軍のカイゼン具体策

ドイツ軍が春季攻勢を実施するためにどのような準備を行ったかについては、飯倉章 『1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか』に詳しく記述されています。以下は、同書からの要約です。

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基本の大転換 - 浸透戦術の採用と、包囲・殲滅から戦略的突破への転換

ドイツ軍は塹壕戦深縦防御を採用して、英仏軍の攻勢をしのいできた。英仏軍もこの戦術を学び、守りを固めていた。英仏軍の塹壕線を突破するために採用されるのが、浸透戦術。さらに、西部戦線では包囲するための大規模な機動戦の余地がなくなっていた。そこで、浸透戦術で敵の塹壕線の一部を崩した後に、さらに十分な兵力を送り込んで戦線突破。

師団の差別化 - エリート師団に人員兵器を優先配分

ルーデンドルフは、ミヒャエル作戦に投入される師団を、3種類に区別。まずは44個の「機動師団」、定員を充足、軽機関銃、火炎放射器、迫撃砲を持ち、最上の状態の馬匹。次はおよそ30個の「攻撃師団」、機動師団とほぼ同等の装備、第一線の交替部隊。残りの100個以上が「塹壕師団」、装備でも待遇でも見劣り、比較的高齢の兵士。

戦術転換の具体策

『陣地線における攻撃』 - 1918年のドイツ軍の攻勢の基本文書。敵の前線を破り浸透するため、攻撃は敵の陣地深く。敵の壊滅は目指さず、代わりに、敵の部隊間を分断、通信不能化が肝要。砲撃でも、敵軍全滅は前提とせず、敵の砲兵陣地の無力化が目標、毒ガス弾の使用を強く推奨。攻撃維持のために、前進移動、歩兵と砲兵の協力。

歩兵部隊における攻撃装備の主従関係も変更、軽機関銃を主に、それまで主であったライフル銃兵〔=小銃兵〕の役割を従とした。防御戦術、戦車対策。砲兵には戦車を砲撃する訓練。歩兵部隊のためには、急遽、13.2ミリ対戦車銃の開発。

速く正確に敵を無力化する砲撃支援。ブルヒミューラー大佐、長い準備砲撃の代わりに、突如として正確な砲撃を集中して攻撃を支援する方法。さまざまなタイプの砲を、それぞれ特定した役割を担って、特定のタイムテーブルに沿って、厳格に運用。ルーデンドルフは、ブルヒミューラー砲術を西部戦線の部隊に広めることにした。

新戦術実施のための訓練

冬がドイツ軍の集中訓練期間。新兵、将校、前線部隊。とくに砲兵部隊、修正射撃を行うことなく第一弾から正確に目標に的中させる、カンブレーの戦いでイギリス軍が実施して成功した方法。そのため、ブルコウスキー大尉が新しい砲術を開発。

軍内の士気の衰えへの懸念。愛国訓練。兵士の不平・不満を吸い上げて、それに対応するよう訓練内容を改変。娯楽の重要性、芝居や映画。

敵からも学び、下士官の意見も採用したドイツ軍

大攻勢を前にして、これまでの成功を過信せず、新しく積極的な戦術を幾つも取り入れた。戦術面で示された最高司令部の柔軟性は、特筆に値する。彼らは敵からも学び、下士官級の献策も受け入れた。実際の戦場を想定し、自軍の実行能力を念頭に置きながら、新しい攻撃ドクトリンを採用した。またそれを徹底した訓練により攻撃師団に叩き込んだ。

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これまで見てきたように、ドイツ陸軍は、第一次世界大戦期間中、戦車の開発を除いては、各国陸軍間のカイゼン競争を一貫してリードしてきました。上記から、1918年にもそのカイゼン努力が継続していたことがよく分かります。

ただ、この1918年のカイゼンは、兵力のみならず、経済封鎖により武器弾薬の供給にも大きな制約を受けている条件でなされたものであり、そのため無理を承知で行われた部分も含んでいるように思われます。例えば、エリート師団への軽機関銃の装備は、実際には目標の半分であったこと、新戦術では先頭部隊は援軍なしに攻撃を続行しなければならず、そのため先頭部隊が激しい損害をこうむることになって、エリート部隊の急速な疲弊につながったこと、などが本書中に指摘されています。

結局は負けざるをえなかったとはいえ、ドイツ陸軍は、最後の最後まで工夫とカイゼンを重ねました。それと比べると、昭和前期、大東亜・太平洋戦争中の日本陸軍は、4年もの間、ほとんどカイゼンのない硬直した戦いを続けました。一方、同じ期間に、相手である米軍や中国軍はカイゼンを重ねました。当然の結果として、日本軍は大敗北を喫しました。それを指導した日本陸軍の幹部には、東条英機首相をはじめ、第一次世界大戦後のドイツに留学・駐在したエリート将校も少なからずいました。このエリート将校たちは、ドイツ軍から一体何を学んで帰って来たのか、謙虚に学ぶ気なしに、箔を付けに留学しただけではないかと疑いたくなります。


3~6月、ドイツ軍の大攻勢

どのようにドイツ軍の3月からの大攻勢が行われたのか、再び、リデル・ハートの著書からの要約です。

第一次世界大戦の地図 1918年 西部戦線 ドイツ軍の春季大攻勢

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ドイツ軍の3月攻勢〔ミヒャエル作戦〕は、連合軍側防衛線を大きく突破

アラスからラ・フェールLa Fèreへのびるルーデンドルフの選んだ戦区、イギリス軍の守備体制、そこがいちばん弱かった。3月21日、強襲開始。奇襲は早朝の霧に大いに助けられた。ルーデンドルフは、3個軍をパリに向けて南に旋回させ、残る軍を北に旋回させて英国軍を海岸に追い詰めて粉砕するつもりだった。途上で、ルーデンドルフは自分の新しい原則にそむき、守りの固いアラス要塞への攻撃に努めた。3月30日までに、ドイツ軍の流れはほとんどアミアンAmiensの外塁を包みこみ、捕虜8万と砲975門を獲得。そこで攻勢は停止状態に。ドイツ部隊の疲労と補給の困難、英国軍の空襲、フランス予備軍の投入などのため。この大攻勢は、これまでの西部のいかなる攻勢に比べても成果がずば抜けて大きかったが、それでも決定的な成果をあげるには有効でなかった。

大敗北により、連合軍は遅きに失した処置。3月26日、〔フランス軍参謀総長〕フォッシュが連合軍全体の作戦行動を調整する役目を負わされ、4月14日に『連合軍総司令官』の称号、指揮の実権は握っていなかった。

ドイツ軍、4月はイープル=レンス戦区で連合国防衛線を突破〔ゲオルゲッテ作戦〕

アミアン攻撃停止後、ルーデンドルフはイープル=レンス戦区に対する攻撃を決定。4月9日攻勢開始。4月12日には30マイルの幅で最大10マイルの浸透。ドイツ軍の試みは、ヘイグがその直前に自分の布陣をすばやく後退させたことと、フランス軍増援部隊が徐々に到着したことによって無駄に終わった。4月29日、ドイツ軍は攻勢を打ち切った。ルーデンドルフは予備軍の分配を惜しみ、手遅れになり、数も少なすぎるのが通例であった。

春の大攻勢でのドイツ軍の戦術的成果

ルーデンドルフは充分な戦略的成果を挙げなかったが、英国軍に30万名以上の死傷者という大きな戦術的成果。英国陸軍の回復には、数ヶ月。英国軍10個師団が一時的に解体の一方、ドイツ軍の戦力はいまや208師団、そのうちの80個師団が予備。けれども近いうち戦力バランスは回復の見込み、アメリカ軍12個師団がすでにフランスに到着。

ドイツ軍は5月も攻勢、マルヌ川に到達

ドイツにとっては、時間的余裕はもうなかった。これを痛感したルーデンドルフは、5月27日、ソアソンSoissonsとランスの間で攻撃を開始、エーヌ川を席巻し、5月30日にはマルヌ川に到達して、ここで攻撃は停止。フランス軍の塹壕準備による応戦、アメリカ軍の応援のほか、撤退するフランス軍が残していった補給物資の山がドイツ軍の進撃を停止させた。もともとルーデンドルフの基本構想は、フランダースの英国軍戦線こそ勝利の最後の舞台というもの、5月27日の攻撃は連合軍予備をフランダースからそらすための牽制策。しかしこの攻撃の成功のためにドイツ軍はかえって自軍予備をこの地区へ投入。

ドイツ軍、6月にはコンピエーニュ攻撃〔グナイゼナウ作戦〕

ドイツ軍は、6月9日、3月と5月の突進で得られた二つの突出部中間にあるコンピエーニュCompiègne付近で攻撃を開始。しかしさしたる戦果もなしに予備軍ばかり浪費、攻撃を中止。

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1917年の、イギリス海軍による対ドイツ潜水艦作戦勝利と、イギリス陸軍によるカンブレー戦での戦車大量投入の成功によって、第一次世界大戦は転換点に達したといっても、それは勝利の条件への到達、という観点からの評価によるものであり、西部戦線でのドイツ軍の優勢は1918年の春季攻勢まで継続、むしろ拡大していたことがわかります。

ドイツ陸軍は、軍事的に相変わらず強力であり、1918年の5月末までは、さらに占領地を拡大できました。しかし、経済封鎖の影響がドイツ軍の前線部隊にも及んでいて、豊かな食糧を発見するとそれを消費する方が優先となってしまい、進撃を停止して、戦略的成果は得られない事態が生じていました。経済封鎖の効果が、銃後だけではなく前線にまで及んでいたことがわかります。

結局、ドイツ軍はアメリカ軍が来るまでに、パリを攻撃しイギリス軍は海岸に追い詰める、という目的を果たすことが出来ませんでした。


7月、連合国軍が反転攻勢の開始

ドイツの攻勢はここまでで終わり、連合国軍の攻勢が始まります。また、リデル・ハートの著書からの要約です。

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1ヵ月の休止により連合国軍が回復

ルーデンドルフはいまや連合軍戦線内に、ふたつの大きな突出部と、ひとつの小さな突出部。1ヵ月の休止状態。休息と準備のために間を置く必要、その遅れが英仏軍に回復の時間を、アメリカ軍には兵力を集める時間を与えたために、致命的に。アメリカ軍が4月末以来、毎月30万名の割で到着しつつあった。

7月、マルヌ川で、またも転換点 〔マルヌシュッツ・ランス作戦〕

7月15日、ルーデンドルフは、ランスの東西で、新しい攻撃を開始。ランス東側では柔軟な守備陣によってくじかれ、西側ではマルヌ川を越えて浸透したことが、かえって破滅の淵へ深入りする結果に。7月18日にフォッシュがマルヌ突出部の反対の側面へ一撃。ここで作戦を指揮していたペタンは、準備砲撃なしの《カンブレー戦法》で大量の軽戦車を奇襲攻撃の先導として用いた。主導権は決定的に、また最終的に連合軍の手に移された。

8月8日、ドイツ陸軍最悪の日

フォッシュの第一の関心事は、敵に休息を与えず、戦闘の主導権を保持すること。8月8日、連合国軍はアミアンで456台の戦車によって攻撃実施。この一撃は最大級の奇襲効果を挙げ、ソンム川南ではオーストラリアとカナダの部隊が、たちまちドイツ軍前線師団を蹂躙し制圧。8月12日時点で、英国軍は2万名の死傷者と引き替えに、捕虜2万1000名をあげていた。ルーデンドルフ、「ドイツ陸軍最悪の日the black day of the German army in the history of war」。

彼はカイザーと政府の指導層に、事態は必ず悪化するから、そうなる前に和平の交渉を始めるべきと伝えた。ドイツ軍総司令部は勝利の希望はおろか、戦争で得たものを保持する希望さえなげうって、ただ降伏だけは避けたいと望んでいた。

9月第1週までにドイツ軍はヒンデンブルク線に撤退

英仏軍は、ドイツ軍前線をコツコツと叩き続けた。9月第1週までにドイツ軍は、最初の出陣の地である≪ヒンデンブルク・ライン≫の強固な守備陣地へ戻っていた。ドイツ軍の衰えを示す明らかな証拠と、ヘイグのドイツ防衛線打破の確約は、フォッシュに1919年まで大攻勢を延期せずに、その秋のうちに勝利を挙げようという気にさせた。

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結局ドイツ軍は、出発点に戻らされてしまいました。ドイツ軍の大攻勢を失敗させた要因として、経済封鎖によるドイツ軍の食糧不足と、戦車の大量投入という2つの要因が非常に効果を挙げていたことが良くわかります。


休戦に対するルーデンドルフの判断は、彼の能力の高さの現れ

ルーデンドルフが、「ドイツ陸軍最悪の日」を見た8月時点で、事態は必ず悪化するから、そうなる前に和平交渉を始めるべき、と表明したことは、彼が事態を冷静・客観的に見る能力を持っていたことを明確に示しているように思います。また、その能力があったがゆえに、ドイツ陸軍は多数のカイゼンを積み重ねることができた、とも言えます。

これに対し、昭和前期の日本軍の指導者たちは、サイパンが落ちて本土への空襲が必至の状況が明らかになっても、すなわち勝てる条件はとうに失われていただけでなく、完敗に進む速度が加速されることが明確化しても、なおも戦争の継続を主張し、その後も各地で膨大な死傷者の山を築き続け、和平の動きがあればそれを阻害しようとしました。

昭和前期の日本軍の指導者たちは、ルーデンドルフに比べ資質が余りにも劣っていた、と言わざるを得ないように思います。そうでないなら、個人や組織のメンツを国家全体の利益よりも優先する体質であったがゆえに、判断を大きく誤って国を激しく損傷した、と言わざるを得ないでしょう。愛国心ではなく、愛利己心から戦争をしていた、と言えます。

また、何よりも個人や組織のメンツを優先する体質であったがゆえに、昭和前期の日本軍は第一次世界大戦当時のドイツ軍に及ぶべくもなく、戦争遂行中にほとんどカイゼンを生みだすことが出来ず、敗けるべくして敗けた、と言えるように思います。


結局大攻勢は失敗し、犠牲を積み上げただけで元の場所に戻ったことになりました。ここから後は、休戦に向けて急展開していきます。次は、第一次世界大戦の終末期、休戦までです。


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