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「日本が戦った第一次世界大戦」の最後に、シベリア出兵を確認したいと思います。 シベリア出兵は、第一次世界大戦の最末期、休戦3ヵ月前の1918年8月に開始され、日本軍が撤退したのは、シベリアからは出兵開始から約4年後の1922年10月、北サハリンからの撤退はさらにそれから2年半が経過した1925年5月でした。すなわち、第一次世界大戦とは重なっていない期間の方が圧倒的に長かったのが実情です。 しかし、出兵が開始された時点では、第一次世界大戦の終結の見込みなど全く立っておらず、この大戦の作戦行動の一部として開始された軍事行動であったことは間違いありませんので、ここで取り上げます。 シベリア出兵は、その期間が4年を越える長期に及んだこと、また、カイゼン視点から見てみると重要な課題がいくつか見えてくることから、①出兵に至った経緯(1918年7月まで)、②出兵から英米軍の撤退まで(1918年8月~1920年1月)、③英米軍の撤退以後日本軍の撤退まで(1920年1月~1922年10月)の3つの期間に分けて、確認していきたいと思います。
出兵以前のシベリアの状況ここからは、シベリア出兵の開始前の状況から、出兵、そして撤退に至るまでの全貌を扱った研究書である、原暉之『シベリア出兵』に従って、その経過を確認していきたいと思います。なお、同書ではしばしば、当時の日本での表記に従って、ウラジオストクは「浦潮」と書かれています。 まずは、出兵直前の時期のシベリアの人口について、同書からの要約です。 出兵直前のシベリアの人口1917年1月1日の人口、西シベリア(トポリスク県・トムスク県・アルタイ県)613万人、東シベリア(エニセイスク県・イルクーツク県・ヤクーツク州・ザバイカル州)312万人、極東(アムール州・沿海州・カムチャッカ州・サハリン州)97万人。 出兵直前のロシアの日本人在留者数1917年6月末現在の公式統計、ロシアの日本人在留者数5891人のうち、圧倒的大部分はバイカル湖以東(浦潮3283人、ハバロフスク573人、ニコラエフスク499人、ブラゴヴェシチェンスク338人、ニコリスク295人、チタ217人など)。実勢はさらに多く、浦潮では1917年当時、届出ざる在留者約2000人。日本人在留者の職業、男は職人、女は醜業婦、女中、子守が多数。 第一次世界大戦直前期のロシアの総人口1億7000万人ほどのうち、ほとんどはヨーロッパ側に住み、広大なシベリアにはわずか1000万人程度、しかもその大部分は、シベリアの中でもヨーロッパに近い方に住んでいたようです。 一方、当時ロシアに在留の日本人は、公式統計で6000人弱、届け出なしが浦潮だけで2000人、合わせると8000人ほど。日本の総人口がまだ5400万人程であったこの当時、日本人にとってのシベリア(とくに沿海州)は、現代の日本人にとってのシベリアよりも、はるかに親近感の高い存在であったろうと想像されます。日露戦争では敵対して交戦したものの、結果として共通の利害を認識して協調できるようになり、人の交流も進んだ、ということだったのでしょう。日露戦争後ロシア革命に至るまでの期間は、日露二国間の歴史上で、人的交流が最も拡大した時代であった、と言えるように思います。
出兵論の契機 - ロシア革命日本でシベリアへの出兵が論議される契機となった事件がロシア革命であったこと、は間違いありません。再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。 ロシアの2月革命に、日本は危惧と狼狽日露戦争後、東アジアにおける共通の利害を通じてツァーリ政府と密接な関係をとり結び、そうした関係を自らの大陸政策の不可欠の柱とみなしていた日本。1917年2月革命による帝政ロシアの終焉は、日露協商が崩壊に帰することへの危惧と狼狽。 10月革命が勃発すると、参謀本部はすぐに出兵計画を策定1917年11月7日〔当時のロシア暦では10月〕、首都十月革命。11月中旬、参謀本部では「居留民保護の為極東露領に対する派兵計画」を策定。沿海州に臨時編成の混成約一旅団を派遣、主力を浦潮に、一部をハバロフスクその他の要地に配置、北満洲にもほぼ同数の兵力を派遣、主力をハルビンに、一部をチチハルその他の要地に。この計画は、翌年1月以後さらに練り直されてゆく一連の派兵計画の、出発点となる。 前ページで確認しました通り、第一次世界大戦中の日本は、ロシアからの支払いが止まっても武器援助を継続したほどで、帝政ロシアとの協調関係を重く見ていました。日本には、2月革命で帝政が倒れたことがショックであったろうことは、間違いありません。 一方、10月革命が起こったとたん、とにかく日本軍の出兵計画を策定する、という発想が適切であったかどうか。とりわけ、2方面に各1旅団を派兵する、という内容であったことからすれば、「居留民保護」の目的には派兵規模が大きすぎるように思われます。したがって、派兵の目的は革命への干渉などにあったように推測されますが、そうであれば、例えばロシア国内の反革命勢力からの派兵要請が先に来る必要があり、それなしに日本が勝手に干渉軍を送っても、上手くいく可能性は低かったように思われます。
1917年末、革命は急速にシベリアにも進展上記の参謀本部のよる最初のシベリア出兵計画は、シベリアでの革命の進展速度と比べると、むしろそれに先駆けて策定されたようです。再び、原暉之『シベリア出兵』からの要約です。 10月革命後、翌年2月までに、シベリアは急速に「ソビエト」化クラスノヤルスクでは、11月11日ソビエトは権力掌握を宣言。オムスク・ソビエトが権力掌握を宣言したのは12月13日。トムスク・ソビエトの権力完全掌握は翌年2月8日。イルクーツク、革命派対反革命派の市街戦、反革命派による反乱は1月3日までに鎮圧。浦潮の労兵ソビエトが権力掌握を宣言するのは12月12日、しかしソビエトとゼムストヴォ代表が権力を分有、干渉を招かぬように。 地主的土地所有を欠くがゆえに、全体として有産自由主義勢力が弱く、他方では様々な党派の政治流刑囚が共存しつつ政治的影響力を競い合っているという、シベリアの政治生活の特殊性。さらに、前線兵士の抑えがたい帰郷心。臨時政府の打倒・休戦の実現で、彼らはほとんど自然発生的脱走に近い形で郷里へ。革命の展開が遅れていた地方に急進的な機運。彼らの帰還に伴い、「西伯利亜においては漸次過激派の勢力に加わるは已むを得ざるものの如し」。 当時のシベリアでは、帝政あるいは反革命に対する支持が非常に弱かったようです。
英仏の革命干渉論、米の慎重論他方、十月革命によるボリシェヴィキの政権掌握は、英仏にとっても不都合な状況を生みだしました。ロシアが東部戦線から離脱する、するとドイツ軍は兵力を西部戦線に転用可能となる、またロシアに出来た政権そのものが資本主義否定の好ましからざる政権である、という点です。ここから、英仏では干渉論が強まり、一方米はそれに慎重でした。以下は、細谷千博 『シベリア出兵の史的研究』からの要約です。 イギリスの干渉策、もともとは、「東部戦線」の再建が目的東部戦線再建の3方式、①ボリシェヴィキ反対派の勢力を強化して反独抗戦力の中心に、②ボリシェヴィキ自身の内部に再び戦争意欲、③余剰兵力を保持する日本・アメリカの軍事力をロシアに投入して新しい東部戦線を形成。革命直後の段階においては、少なくともロイド・ジョージ、バルフォアといった指導的政治家の主観的意見においては、対ソ武力干渉の問題は主として《東部戦線》再建の意義で把握、対独戦争への勝利という目的こそ全ての政策の基礎。 1917年12月末、イギリスから日米への最初の出兵要請12月末、イギリスは日米に、ウラディヴォストークに堆積の軍需品の防遏のための共同出兵の申入れ、最初のシベリア出兵の提案。日本、出兵意思なし、軍需品の保護にはロシアの健全分子を活用、武力行動の必要ある場合には日本単独で、と回答。アメリカも「ロシア領土の占領を予想させる何らかの行動は直ちにロシアに敵対的なものと解され…」と不同意の回答。 アメリカの考え方ボリシェヴィキ革命勃発に、アメリカの保守的支配層は本能的な嫌悪。しかし、当然に失敗との楽観的な観測から、形勢の《観望政策》。ボリシェヴィキ政権には援助物資を禁止、南部ロシアのカレーディン政権には財政的援助。国務長官ランシングが12月中に確立。他方で、ボリシェヴィキ政権に経済的援助の手を差し伸べることで、ロシア市場への投資可能性を開拓せんとする見解には、大統領最高顧問ハウスの支持。シベリア出兵問題に関するかぎりは、2つのグループのいずれも、消極的態度で一致。国務省グループもボリシェヴィキ政権の自己崩壊を想定・日本の支配力伸張を懸念。加えて陸軍省、西部戦線への力の集中を阻害の懸念。 「出兵」という行動は同じでも、その目的を大戦のヨーロッパでの勝利に置く英仏と、極東の情勢を最優先で考える日本とでは、根本的に差があったと言えるようです。英仏にとっては、反ボリシェヴィキ派への支援も、その一義的な目的は革命への干渉ではなく、東部戦線再建のためであった、という点は、非常に重要な指摘であると思います。 一方、アメリカには、出兵不同意の理由としてであれ、ロシア人のナショナリズムを徒に刺激することの悪影響への懸念があったことが分ります。実際に起ったことからしますと、このアメリカの懸念は適切なものであったと言えるように思います。革命政権は自ずから崩壊するであろうと見た予測は、外れましたが。
出兵以前のロシアへの介入 - 日本海軍は戦艦と陸戦隊を派遣シベリア出兵の開始は1918年8月でしたが、その半年以上前の1月に、日本は海軍の戦艦と陸戦隊を浦潮に派遣します。再び、原暉之『シベリア出兵』からの要約です。 1918年1月、日本海軍の戦艦の浦潮派遣1月1日、イギリス政府は日英米共同シベリア出兵を日本政府に申し入れ。寺内首相は英国に先んじて日本の軍艦を浦潮に進入せしめることが急務、と主張。急遽呉の戦艦石見と横須賀の戦艦朝日にそれぞれ陸戦隊1中隊を乗船させて浦潮へ。戦隊司令官には、「外交的手腕もあり海軍部内きっての露西亜通」の加藤寛治少将。石見は12日、朝日は13日に浦潮に到着。菊池総領事は、日本艦入港の目的は居留民を保護するためであって内政には干渉しないと言明したが、住民の反撥をかわすことはできず。 1918年4月、浦潮に日本をはじめ各国陸戦隊の上陸浦潮労兵ソビエト、3月13日、ソビエトによる全権力掌握のボリシェヴィキ提案採択。3月下旬、郵便・電信の掌握に乗り出したソビエトと反対勢力の対立から緊張。領事団会議、いずれも自国政府に陸戦隊上陸につき請訓することに決す。アメリカ領事は「日本が居留民保護上単独行動を執ると雖も毫末も不都合の理由なし」との見解。3月末、英国領事館がソビエト執行委員会によって捜索を受け館内に匿われていた数名の白衛派軍人が逮捕される事件。4月4日、日本人居留民1名殺害1名重傷の事件、謀略の疑惑。同日午後、加藤と菊池は協議して陸戦隊上陸の段取りを決定。上陸は翌5日早朝と6日早朝、総勢約500。イギリスは5日午後、約50名上陸。 日本海軍の戦艦はイギリス艦に先んじて浦潮に到着したものの、その派遣自体は、イギリス政府からの共同シベリア出兵の申し入れに基づくものであったこと、陸戦隊の上陸にあたっては日本の謀略と思われる事件が発生しているものの、やはり各国陸戦隊の上陸と同時に行われたことなど、日本海軍の動きはあくまで国際的な共同行動の一環であったことが分ります。
出兵以前に、日本陸軍の独自の緩衝国形成の工作一方、日本陸軍は、海軍とは別に、独自の行動で介入を行います。再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。 日本陸軍は独自の傀儡政権工作、1918年1月に中島少将を派遣陸軍は陸軍で独自の準備。要地に諜報員を配置、参謀本部員坂部中佐、参謀本部第二部長中島正武少将を現地に派遣。出発にさいして中島は、上原勇作参謀総長より「極東において帝国支持の下に防堤」、寺内首相からは「露人にして極東に穏健なる自治体を作りもって勢力ある堰堤」。日本の息のかかった緩衝国、傀儡政権を組織せしめること、これが中島に課せられた任務。中島少将は1月23日に浦潮に、27日に武市(ブラゴヴェシチェンスク)に到着、2月7日浦潮に帰着。 1918年3月、陸軍主導の武市事件と海軍加藤司令官による批判1918年2月に入って武市の情勢は緊張。反革命派の市民自衛団・日本義勇軍と、革命派との対立。3月6日、反革命派側は革命派の襲撃を開始、革命派部隊は、アムール河海軍根拠地に退却したが、9日には反革命軍に予想外に手痛い反撃、12日戦闘を再開後、結局、革命派の勝利。海軍の加藤司令官、「事件突発の動機が悉く日本側の援助によりて始まり、かつその失敗がまた日本側の不準備によること、過激派にも温和派にもすでに悉知の事実となれり」、「畢竟、隠密裏に行う小策は、徒に帝国将来の行動を制肘する外、何等国策上に利する所なし」。 1918年2~3月、シベリアでの過激派勢力の一層の拡大参謀本部作成とみられる1918年2月20日現在のシベリア現勢図、解説には、「『ザバイカル』州以西は全然過激派の勢力下に立ち、以東は過激穏和両派互いに抗争中」、地図上の各地点の色分け、過激派:浦潮、ニコリスク、ハバロフスク、チタ、ヴェルフネウヂンスク、イルクーツク、クラスノヤルスク、オムスク、穏和派:ブラゴヴェシチェンスク(武市)、イマン、満州里、勢力相半ば:トムスク。この時点から1ヵ月とたたないうちに武市とイマンで反革命派が排除される。 ここに至って、当時の日本の首相および陸軍参謀本部の対ロシア政策の本質は、「緩衝国・傀儡政権づくり」にあったことが分ります。革命ロシアと日本との間に出来れば緩衝国がほしい、それが傀儡政権であれば日本にとって最も都合が良い、と考えたのは、心情的には理解できなくもありません。 「緩衝国・傀儡政権づくり」という目的に対して、出兵すなわち軍事的支援という手段は必要不可欠であるとは言えません。したがって、出兵以前から緩衝国づくりを試行していた、というのは、目的に対してむしろ整合性が取れています。 問題は、武市事件についてであり、陸軍は、せっかくの失敗からの反省が不十分であったように思われます。緩衝国づくりには、何よりも反革命派への支持が広がることが重要であり、それなくしては軍事的な優位性の保持は困難であることが、この件から分かります。すると、反革命派への効果的な支持拡大策は何かを検討して、それを積極的に実行することが、適切なカイゼン策になります。しかし、そうしたカイゼンは行われなかった、と言わざるをえません。
日本が応援しようとしたロシアの反革命勢力傀儡政権工作には、その政権の顔になる人物が必要です。陸軍は、ロシアの誰を担ごうとしたのかについて、再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。 日本は、ロシアの複数の反革命勢力を支援日本の傀儡政権擁立工作、第一にカザーク〔コザック〕反革命勢力、第二に在華旧ロシア勢力を対象、両者に比べて期待の度合いは低く、結びつきは弱いが、第三にピョートル・ヂェルベルに率いられた自治シベリア臨時政府と称するエスエル系グループ。 カザーク反革命のセミョーノフ2月革命後、セミョーノフは「異族人(モンゴル=ブリャート)」義勇兵部隊の編成を計画。首都十月蜂起の数日後、セミョーノフはボリシェヴィキとの武力対決の決意。満州里には12月31日に移り、根拠地に。アタマン〔頭目〕の称号。セミョーノフの部隊編成、日本はもとより、一時期英仏両国からも熱い視線。1918年1~2月と4~5月のザバイカル侵攻には失敗。日本は1918年2月、セミョーノフ軍支援を閣議決定。 在華旧ロシア勢力の中心人物、ホルヴァート北満州内の中東鉄道〔東清鉄道とも呼ばれる〕付属地は一個の独立国と化し、数知れぬ避難民と白衛派の軍人、政治家が大量流入したその首都ハルビンは、シベリア反革命の策源地の様相。日本参謀本部が傀儡工作の現地推進本部をここに置くことにしたのは1918年2、3月の交。中島少将はここに本拠を移す。これ以後の工作の対象、本命は中東鉄道長官ホルヴァート長官。反革命政権の樹立が不可欠だが、中国領土たるハルビンでは穏当を欠くし不可能、さりとて沿海州なりに乗り込んで政権を樹立するだけの実力は当面もちあわせない。与えられた合法的枠組の中で一種の仮想政府づくり。 なお、海軍の加藤司令官は、陸軍に対抗して、ピョートル・ヂェルベルに率いられた自治シベリア臨時政府と称するエスエル系グループ(1918年2月にトムスクでボリシェヴィキとの対立に敗れ、連合国工作のためにウラジオストクに拠点を移動)を支援したとのことです。 セミョーノフであれ、ホルヴァートであれ、ヂェルベルであれ、日本軍が支援しようとした勢力は、ボリシェヴィキのレーニンなどと異なり、大衆からの広範な支持を得られそうな人物ではなかった、すなわち、そもそも「玉が悪かった」ように思えるのですが、いかがでしょうか。
1918年1~3月の日本国内、
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