西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦が開戦に至った経緯

セルビアへの宣戦布告から
大戦の開戦まで

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
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第一次世界大戦が開戦に至った経緯について、前ページでは、オーストリアによるセルビアへの宣戦布告まで、すなわち、少なくともオーストリアとセルビアとの局地戦は不可避となる情勢に至ったところまで、見てきました。

ここでは、実際に第一次世界大戦が勃発するまで、局地戦が大戦に発展してしまう経緯を確認したいと思います。


1914年7月28日〜7月31日
オーストリアの対セルビア宣戦に対するロシアの対応

オーストリアのが行ったセルビアへの宣戦に対し、セルビアを支援するロシアはどう反応したのか、が次の段階です。リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。

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ロシアによる対抗処置 − 部分動員か総動員か

〔7月28日〕オーストリアが宣戦布告をしたという知らせが、ロシアにひとつの重大な変化。勢いに抗しかねて、サゾーノフ外相 Sergyei Dmitrievich Sazonov はオーストリア国境沿いの軍隊に限り、部分的動員を行いたいと申し出る。参謀本部は「専門的理由」で、これを実行不可能と称し、機構の狂いを避けるには総動員しかないと説き立てる。

ドイツの対抗策表明から、総動員に決定

ドイツ大使が〔7月29日〕午後6時ごろサゾーノフを訪れて、ベートマン=ホルヴェーク宰相 Theobald von Bethmann-Hollweg からのメッセージ「ロシアが動員措置を継続するならば、ドイツも動員を行う、動員とは戦争を意味する」を伝える。サゾーノフには脅迫と聞こえ、参謀本部の総動員に同意、ツァーリの是認もとりつける。

ツァーリの、総動員令撤回・部分動員令指示も通用せず、7月31日総動員令発布

ツァーリは午後10時ごろ、参謀総長ヤヌーシュケヴィッチ Nikolai Yanushkevich に電話を入れ、総動員令は撤回し部分動員令を出すよう指示する。翌日〔7月30日〕、参謀総長は、対独防衛と対仏協調から総動員の必要を外相に主張、外相がツァーリに説明、ツァーリが譲歩して、総動員の勅令が翌朝、7月31日に発布された。

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「部分動員か、総動員か」は、大きな選択だったように思われます。


ロシア参謀本部は、目的と手段を混同した判断を行った

ロシア側の対応について、カイゼン視点から気がつくことがあります。ロシアは、セルビアへの支援を明確にすることが目的であったはずです。この目的を達成するためには、オーストリアに圧力をかければ十分であり、その目的に対し、部分動員は十分に適切な手段であった、と言えるように思います。

しかし参謀本部は、最も効率的な動員を行うにはどうすべきかと考え、それなら総動員である、と判断してしまったようです。つまり、目的と手段が取り違えられています。その結果、本来の目的であるセルビア支援からは、大きくズレた判断となってしまいました。


ロシア参謀本部の「部分最適」が、局地紛争を大戦争に近づけた

あるいは、ロシア参謀本部は、セルビア支援のためのオーストリアへの軍事圧力が、ドイツの軍事介入を招くかもしれないというリスクを検討する際に、軍として先読みをし過ぎた、ということであったのかもしれません。

参謀本部として、もしもドイツとの戦争に発展してしまった時にロシア軍が戦いやすい体制を確保したい、という軍の「部分最適」だけを優先考慮してしまいました。そもそもドイツとの戦争に発展してしまう可能性をいかにして最小化するか、という「全体最適」の立場での根本的な課題の検討を行わなかったのです。その結果、その時まだ十分に残っていた大戦回避・紛争の局地化の可能性を縮小させてしまいました。

国土が巨大で、鉄道網の発達も相対的に不十分なロシアは、動員をかけても完了するまでに日数がかかる、という不利な条件はありました。ドイツとの戦争になってしまったときに戦える体制を1日でも早く確立するために、総動員令を1日でも早く出しておきたい、という参謀本部の「心情」は理解できなくはありません。ただし、それは「実務担当者としての心情」であり、軍が戦いやすい条件の確保という「部分最適」にすぎません。

そもそもドイツと本当に戦争になってしまったら勝てるのか、ドイツとの戦争は何としても回避すべきではないか、というはるかに重要な全体戦略の検討が必要でした。ロシア参謀本部は、ロシア軍とドイツ軍との装備・兵站力の実力差を分かっていなかったはずはないだろうと思います。ドイツ軍との戦争はできるだけ回避し、ロシア軍にとって勝てる相手であるオーストリア軍との戦争に限定する方向に導くのが、どう見ても合理的でした。

ロシア参謀本部は、部分最適思考を優先させたことによって、逆に全体の状況を悪化させ、さらにロシア外相も、結局参謀本部の主張を受け入れてしまったことによって、「国家としての判断」を誤ったと言えるように思います。

すでにオーストリアがセルビアに宣戦しており、ロシア国家として、何らかのセルビア支援策を行う必要がある状況だったことは間違いありません。この状況に対しては、軍事的には部分動員をかけ、それを背景に外交的にあらためてオーストリアに直接交渉を要求する、というのが最も妥当な方策だったのではないでしょうか。

部分動員にとどめていたなら、ロシアは、ドイツとは当面戦う意思がないことを示すことができました。すると、オーストリアはロシアとの協議に応じざるを得ない可能性が高まり、他方でドイツが即時の動員に踏み切る根拠はなくなります。イギリス主導の国際調停も機能が果たせるようになって、大戦は回避できていた可能性がかなりあったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


オーストリアとドイツの脅迫外交は、かえって相手を硬化させた

もう一つ言えることは、オーストリアとドイツの脅迫外交がここで破綻した、ということです。オーストリアはロシアとの戦争リスクを回避するためにドイツに期待したのですが、ロシアとの戦争の可能性が現実化する状況となりました。ドイツも、ロシアの動員はドイツの動員を招きそれは戦争になる、と脅迫を使ったことが逆効果となって、ロシアの態度を硬化させてしまいました。ドイツによるこの脅迫がなければ、ロシアは部分動員に留まっていた可能性がありました。本件は、脅迫がかえって相手を硬化させてしまった事例であり、外交上の脅迫は効果が確実な方策ではなく、安易な選択は危険であることを示しているように思います。

また、軍事的な実力差の存在は、相手が合理的な判断を行う場合には紛争の抑止力になりますが、このときのロシアのように、合理的な判断を行わない場合には抑止力として機能してくれない、ということも言えそうです。


ロシアは、フランスから、けしかけれられていた

以下は、リデル・ハートの著書には指摘のなかったことについて、ジェームズ・ジョル 『第一次世界大戦の起原』からの要約です。 

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ロシア同盟国のフランスは、開戦直後からのロシア軍による攻勢を期待

在ペテルブルグのフランス大使で露仏同盟の全面的な信奉者パレオローグが勝手に、フランスが同盟国としての諸義務を果たす決意にあるとサゾノフ〔外相〕に保証して、サゾノフの気分を一変させ、事態をいよいよ複雑化する原因に。参謀総長ジョッフル将軍と陸相メッシミーは7月27日、在ペテルブルグの陸軍武官を通して、開戦の暁にはロシア軍最高司令部がただちに東プロイセンで攻勢にでることを期待すると、要望。

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フランスも大戦争回避の努力を行わず、むしろすでに大戦争を不可避と見ていて、ロシアをけしかけていたようです。


1914年7月31日〜8月3日
ロシア総動員令に対するドイツの対応

オーストリアの対セルビア宣戦に対応して、ロシアでは総動員令が発令されましたが、それにドイツはどう対応したのか、というのが次の段階です。再びリデル・ハートの前掲書からです。

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ドイツは、7月31日、戦争緊急事態宣言 + ロシア・フランスへの最後通牒

〔7月31日〕ロシアの総動員令がベルリンに伝えられると、直ちに『戦争緊急事態』宣言、これには第一段階の動員が含まれていた。同時にロシアとフランスに、最後通牒。ロシアへの最後通牒のなかで、「オーストリアとわが国に対するあらゆる戦争措置を12時間以内に停止すること」を要求、サゾーノフ外相は、動員の停止は技術的に不可能だが、交渉が継続する限りロシアは攻撃を仕掛ける意図がないと述べ、ツァーリもカイザーに「交渉継続の意図あること私が保証」との電報。

さらにドイツは、8月1日ロシアに、8月3日フランスに、宣戦布告

しかしドイツ政府は、さきの最後通牒に対する回答を待たずに、正式な宣戦布告文をペテルブルグ駐在大使に送り、大使は通牒の時間切れを待って、8月1日の宵の口にこれを手交。ほとんど同時にドイツ軍の動員が始まった。カイザーは、こわいくせにやる気も半分、モルトケが、「この願ってもない状況は利用すべきである」と主張、「フランスの軍事情勢は混迷以外の何ものでもないし、ロシアはおよそ自信がない。そのうえ季節は好都合ときている」と指摘したため。

フランスへの最後通牒、ロシア対ドイツの戦争において、フランスは中立でも、ヴェルダンおよびツールの要塞を引き渡すべし、との内容。フランスの回答は、「国益の要求するままに行動する」。フランスの国境守備隊は平和的ジェスチュアとして、また国境の小ぜりあいが戦争の口実になる危険を防ぐため、フランス領土内10キロの線に後退。8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。

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総動員をかけたのに「ロシアは戦争を望んでも目論んでもいなかった」(AJP テイラー 『第一次世界大戦』)ことは、ロシアの言動に表れてはいたと言えるようですが、部分動員に止めず、総動員にしてしまったことが、このとき開戦をすでに決意していたドイツに利用されてしまうことになりました。


ドイツは、ドイツ自身の戦争に、目的をすり替えた

上の流れから見て、ロシアは非常に積極的とは言えないにしても開戦回避の努力は行っていたが、ドイツにはそうした努力が全くなく、この段階では完全に東西両戦線での大戦争の開戦を意図して行動していた、と言えるようです。

オーストリアがサラエヴォ事件を対セルビア圧力の口実にしたように、ドイツはオーストリア・セルビア間の紛争を対仏・露大戦争開始の口実にした、と言ってよいようです。

ただし、ドイツには、ロシアとの戦争を開始する時、フランスまで引き込む必要が本当にあったのか、という課題があったと思います。リデル・ハートは、ドイツがフランスに飲めるはずのない要求をつきつけた最後通牒を送ったことについて、「モルトケの計画は東西両面作戦に備えたものであり、もし敵がひとつしか現れない場合は彼のねらいは狂うことになるからである!これ以上の軍事的愚行は考えられないではないか」と評価しています。


オーストリアには、「集団的自衛権」が逆効果に

オーストリア皇太子暗殺事件から生じたオーストリア対セルビアの二国間紛争、という問題の根本に戻って、オーストリアの視点で見てみると、ここに至って、「対セルビア交渉でロシアとの戦争に発展する可能性を回避するためのドイツからの支援獲得」、というオーストリアの期待からは、大きなズレが生じてしまいました。それどころか、「ドイツが始める欧州大戦争に、オーストリアも参加せざるを得ない」情勢になりつつあったわけです。

オーストリアは、大戦争を避けたいというその主観的な願望とは、全く正反対の状況に陥ったわけです。第一次世界大戦の結果、オーストリアは解体されてしまっただけに、矢田俊隆 「オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊」(岩波講座『世界歴史 24』所収)は、「独墺同盟こそハプスブルク帝国の命取りになった」と記しています。

現代語に言い換えてみると、自国の安全保障を高めるための「集団的自衛権」という手段は、その主観的意図の通りに機能することもあれば、主観的意図とは正反対に、自国の安全保障への重大な脅威に発展することもある、すなわち安全保障にプラスにもマイナスにもなりうるものであり、第一次世界大戦の勃発は、マイナスの事態も発生することを示す、格好の実例の一つであった、と言えるように思います。


1914年8月2日〜8月4日
ドイツが大戦争を開始、ベルギーとイギリスも引きこまれる

いざ大戦争が始まると、ドイツの軍事行動の結果として、当事国の数がさらに増加してしまいました。また、リデル・ハート前掲書からです。

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ドイツの開戦、ベルギー領への侵入

ドイツの作戦計画では、自軍の部隊にベルギーを自由に通過させる必要があったが、これをベルギーに要求する最後通牒、8月2日。ベルギー政府は自国の中立侵害を断固拒否。8月4日朝、ドイツ軍第一線部隊は侵攻を開始。

英国の連合国側への参戦

ドイツ軍のベルギー侵攻の懸念の段階で、英国の見解はすでに決定的に硬化。ベルギーの中立を尊重すべしとする英国のドイツへの最後通牒。時間切れで、英国もついに参戦。

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かくして、ベルギーおよび英国の2国が、連合国側で参戦しました。ドイツにとっては、自国が東西両戦線で開戦する作戦を採用したことが原因で、敵国の数を増加させたことになります。


1914年8月6日〜10日 オーストリアの参戦

ドイツがロシア・フランス・イギリス・ベルギーに宣戦したからといって、オーストリアがそれらの国に即座に宣戦したわけではなく、数日から1週間ほどたってようやく宣戦したようです。以下は、他書からの要約です。

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オーストリアの参戦

オーストリア=ハンガリー、8月6日になってやっとロシアに宣戦布告。イギリスとフランスも、8月10日にオーストリア=ハンガリーに宣戦布告。オーストリアは8月11日にセルビアに侵入したが失敗。
(AJP テイラー『第一次世界大戦』)

ドイツとオーストリアの戦略の食い違い

独・露両国間に戦端が開かれようとしたとき、ドイツ側は、オーストリア軍がガリツィア戦線で一翼を担うことを熱望した。そしてもはや、オーストリアが対セルビア膺懲の遠征軍を派遣することには、とくに関心をもたなくなった。他年にわたって、この対セルビア作戦を主張してきたコンラート将軍としては、計画を完遂しようと望んだ。彼はドイツの動員によってロシア軍は、対墺作戦から別の方向へ転ずるだろうと期待していた。独・墺両国間に開戦前から明白にあった戦略目標の食い違いが、いま現実的として現れた。
(ジョル 『第一次世界大戦の起原』)

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オーストリアは非常に甘かった、コンラートは、それこそ希望的観測だけで判断を積み重ねてしまう人物であり、こうした人物を参謀総長にしていたのがオーストリアの不幸であった、と言えるように思います。


開戦の経緯の総括: 第一次世界大戦の開戦責任論

上記の経過で開戦に至った第一次世界大戦ですが、実際に開戦のイニシャティブを取ったのがドイツであること、しかもドイツこそが、意図をもって、東部・西部戦線の二つの戦線を持つ欧州大戦として開戦したこと、その結果、本来の原因であったセルビア・オーストリア2国間紛争からは、すっかりかけ離れた欧州大戦となってしまったこと、は間違いありません。

とはいえ、ドイツ単独の責任とみなしてよいのかどうかには、いろいろ議論があるようです。以下は、JMウィンター 『第一次世界大戦』からの要約です。 

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3つの責任論

バルカン諸国の紛争を世界大戦までエスカレートさせた責任は誰にあるか。基本的には3つの考え方。第1は<ドイツ責任論 primacy of German responsibility>、第2は<計算されたリスク論 calculated risk>、もうひとつは<共同責任論 collective guilt>。

ドイツ責任論

1960年代、フリッツ・フィッシャー Fritz Fischer。大戦の始まるずっと以前からドイツは、ロシア・フランスとの衝突を想定して準備を進めていった。軍事力を利用する絶好のチャンスをサラエヴォ事件が与えた。

計算されたリスク論

フィッシャー説への反論。セルビアと紛争中のオーストリア=ハンガリーに政治的援助を与えるかどうかが問題だった7月初めのドイツの政策と、バルカンの危機が世界戦争に転じた7月末から8月初めのドイツの政策とは区別する必要。戦争勃発前の最後の数日間に関しては、ドイツ軍部は強引に戦争を起こそうとしていた。しかし7月初めのドイツは、紛争をバルカン内にとどめておくつもりだった。ドイツの政治・軍事指導者たちは、危険な ― しかし計算された ― 勝負に出たのであり、それが手に負えなくなっただけ。あの戦争は長期戦略の結果ではなく、外交政策の途方もない失敗。

共同責任論

第三の方法、ジェイムズ・ジョル James Joll が先鞭、さまざまの誤算や失敗が次々と重なった結果、戦争の危機が高まり、ついには戦争の決断が下された。平和維持に失敗したのはヨーロッパ全体。ドイツの勢力拡大が、戦前の国際政治を本質的に不安定にしたことを認める。戦争勃発の責任をドイツにだけ帰する議論には限界がある。

JMウィンターの見解

フィッシャーは、ドイツ指導部が戦前に帝国主義的野心を抱いていたと主張する点では、疑問の余地なく正しい。<計算されたリスク>派が戦争危機の諸局面を識別しているのも正しい。<共同責任>説は、ドイツ以外の国の指導者たちにも罪があったことを示す有力な証拠を提出している。

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このJMウィンターの見解は、上記に見てきた経緯からも、妥当のように思われます。そもそも、オーストリアが対セルビア武力発動にはこだわらず、セルビアからの回答に妥協していたなら、オーストリアがロシアとの交戦リスク回避はドイツに任せればよいなどと簡単に考えていなかったなら、そして次に、ロシアが部分動員にとどめていたなら、その段階で大戦争の開戦リスクが回避されていた可能性が高かったのではないかと思われます。ただし、最終的には、ドイツが状況を活用して大戦争の開戦を意図し、さらには東西両戦線での作戦実施を決定したことで、第一次世界大戦が開戦されたので、一番責任があったのはドイツであった、と言えるように思います。


オーストリアとロシアの皇帝の判断の適切さ

上記の経緯を確認してみて、気づくことは、オーストリア、ロシア、ドイツ3帝国のうち、オーストリアとロシアの皇帝が持った判断の適切さです。オーストリアの皇帝ヨーゼフは、セルビアへの最後通牒がロシアとの全面戦争になる可能性を懸念しました。ロシアの皇帝ニコライ2世は、総動員令を撤回して部分動員令とするよう指示を出しました。

オーストリア、ロシアとも、皇帝が適切な思考を持ったのに、臣下の参謀総長や外務大臣が彼らの思考にこだわった結果、大戦争に発展してしまいました。オーストリアとロシアの皇帝の適切な思考の基礎には、彼らの長年の外交関与の経験があり、臣下がそれぞれの専門領域で「部分最適」判断を行ったのに対し、皇帝は大局的見地から「全体最適」思考を行った、と言えるように思います。その後すぐに大戦が勃発して、皇帝の思考の適切さが証明されてしまいました。

ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世だけは、やる気になってしまいました。皇帝が参謀本部の部分最適判断に迎合してしまいましたが、これにはヴィルヘルム2世という皇帝の個性の問題もあったようです。義井博 『カイザー』は、「カイザーがすばらしい記憶力や理解力を持つ有能な帝王としての一面をもっていたことはたしかであるが、その反面で、分別が足りないという致命的な欠陥の持ち主」であったと評しています。


教訓を学ばなかった日本

ここからの反省として、戦争になるような状況にかかわる判断では、参謀本部など専門分野での「部分最適」判断の優先は避けるべきであり、大所高所に立った「全体最適」判断を行う必要がある、という教訓が得られます。

残念ながら、昭和前期の日本は、第一次世界大戦でのオーストリアやロシアの貴重な過ちの経験から何も学ばなかったようです。昭和前期の日本も、昭和天皇が事変の拡大や開戦に否定的であったのにかかわらず、陸海軍がそれぞれの組織の部分最適を追及して、全く同じマチガイを繰り返してしまった、と言えるように思いますが、いかがでしょうか。


次は、具体的な戦闘の経過に入る前に、主要各国の軍の特質について、確認しておきたいと思います。


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